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《日本の教育組織が明治5年の学制公布以来、単線型であったからこういう帰結を招いたのだろうか。それとも、もともと日本人の相互同一化感情(コンフォーミティ)が強いために、単線型教育制度――武士の子も町人の子も一緒に教育し、士族のための特別学校を作らなかった単線型の持つ開放性が、日本の近代化推進に役立った、という別の面もある――が、欧州諸国と違って、19世紀後半にしごくあっさりと創られてしまったのだろうか》(西尾幹二「『競争』概念の再考」:『日本の教育 智恵と矛盾』(中央公論社)、p. 120)
日本の教育が画一的になったのは、欧米に植民地化されないように、いかにして富国強兵するかが唯一最大の課題だったからである。
《それは鶏が先か卵が先かの問題であって一概には言えない。が、いずれにしても、他人と同じ存在であろうとする日本人の競争心理(ないしは競争回避心理)は、平等が進めば進むほど、横に広がって価値の多様化をもたらすのではなく、同一路線に縦に並んで競い合う結果、「格差」をますます大きくするという傾向がある。戦後において高校や大学の数が殖えれば殖えるほど、学校間の「格差」が広がり競争が激化するという、経済の需要供給の関係では説明のつかない事態を招いたのも、この特殊な日本的競争の力学が作用している結果である》(同)
1980年代には、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれるまでの経済大国となり、「欧米に追い付け追い越せ」という目標は一旦達成された。次代の日本に求められるのは、世界を先導する形で、自ら課題を設定し、答えを出すことであろう。そのためには、これまでのような画一的教育では用を足さないのだ。
これからの世の中で何が大事なのか、何が必要なのかについて、確かなことは誰にも分からない。だから、様々な環境の変化に対応できるように、教育は多様化されるべきなのである。努力したが無駄だったということもあり得るだろう。が、そのような無駄を引き受ける覚悟が世界の先進国たる日本に必要なのではないか。
勿論、誰かを先に行かせて、結果を見て方向性を決めるということは可能である。問題は、そのようなやり方を世界はどう見るかということである。日本に、先進国としての矜持(きょうじ)があるのなら、たとえ無駄になろうとも、世界の指導者としての責務を果たすべきではないか。無駄なことはしないという後ろ向きな国を、果たして世界は指導者として認めるだろうか。
が、無駄のすべてが無駄なのではない。実際に社会の役に立たなくとも、その努力は決して無駄ではない。無駄な努力も、必ずどこかで生きてくるに違いないということだ。
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