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《しかし人はどうしてもそうは考えたがらない。歴史を道徳的に考えたがる。そうなると、先にみた極左と極右の2つの考え方に行き着き、これではあまりに片寄っていて、不自然にみえてくるであろう。これではなんとも歴史のさまざまな屈折を説明できない。歴史はもっと複雑で、濃淡がある。
そう考えるわれわれは、歴史を全体として連続体としてみる見方ではなく、ある時点まで正しくある時点から道を間違えたという、先述の2区分法的なものの見方につい取りすがりたくなるのである。日清・日露までは日本はよかった、あれ以後だめになった、という言い方がとても便利なのはそのせいである。われわれの今の感情にフィットする。日本人のプライドも自己反省もともにこれで満足させられる》(西尾幹二編『国民の歴史』(産経新聞社)、 pp. 612f )
確かに、一般の日本人の多くが、この便法によって溜飲(りゅういん)を下げている。問題は、歴史学者である。このようなご都合主義に流されず、真理を追求するのが「学者」というものなのではないのか。
《また、勝った戦争と敗けた戦争の違いは「賢」と「愚」の違いであり「成功」と「失敗」の違いでもあるから、道徳感情は別にしても、今日ふうの合理的感情にもそれなりによく合致しているのである。外交評論家や国際政治学者は必ずしも善悪ではものを言わない。そういう人でも、合理性と非合理性、戦略的思考と非戦略的思考の区別立てはたいへん気にしている。日清・日露までは日本人に疑いもなく存在した戦略的思考が、1930年代以後の日本人からなぜ失われたかは、ある有名な外交評論家がたえず話題にしている、今日の日本人に魅力的なテーマである》(同、 p. 613 )
難しいのは、それが「歴史」だからである。歴史とは「解釈」であり、前提の置き方次第で中身は大きく変わる。「皇国史観」も「自虐史観」もそれなりに根拠はあり、これらに反発する「自由主義史観」もそれなりに筋は通っているから難儀なのだ。
《で、かくいう私も、そういう討議にときおり加わるし、そういう問題意識で日本の近現代史をとらえることもときにないわけではないのだが、私の心にはちょっと待て、これは少し安易すぎないか、歴史が一民族にとってあるときまで素晴らしく、あるときから汚辱に満ち、愚劣をきわめたという言い方は、現在日本人の欲求から出たたんなる願望の反映で、問題そのものより答えを先に求めている心の現れではないのか、そういう疑問が強く浮かんでくるのである。
つまり、便利すぎる歴史観なので胡散臭い》(同)
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