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< 主人 交代 >-----#011
と
帰 り、加賀屋と能登屋の金沢店を任される事となった
。これからが本腰を入れた商い の
始まりである。
こ れ までは龍一郎 の 計らい に 従って来た、ここからが四名の手腕の見せ所となる。
今では何故二年の住み替えが命ぜられたか を理解している が当初は解らなかった。
そのままの在所で商いをしていたならば必ずや旧知の者に会い「武士を捨ておって・・・」「恥を知れ・・」など罵倒中傷を浴びせられ、金子に窮した者たちからは借財の頼み、脅し、賂 ( マイナイ = 賄賂 ( ワイロ )) の求めがあったに違いなかった。
持ち場を入れ替えたが、それでも何度か悪態を耳にし、借財の頼みも有り、賂の要求もあった。
だが、それぞれの場所にいるよりは格段に少なかったと想像に難く無かった。
今更ながら龍一郎の思慮深さを思い知らされた皆であった。
無論、それぞれの難題に屈する事は無かった。悪態は商人には当たり前の事と商人に成りきる為の修練と思い耐え、借財の申し込みは質屋の株を持って居りませんので御貸し出来ませんと答え、賂の要求には「江戸家老様の証文をお持ち下さい」などと答え逃れた。
自分たちの後ろ盾は藩主の嫡男なのであるから言葉には自信が溢れていた。
そして、二度、三度と訪れた者は何日か後に何者かに夜道に襲われ武士を続けられぬ様になったと四人は知り、かの方の助成に感謝した。
無論、この仕儀は龍一郎の旧友たち、町人となった者たちの監視の眼の成果だった。
金沢では米の収集店、米屋、輪島塗り、加賀友禅の取扱所などからの抗議、嫌がらせや実質的な襲撃もあったが、何故か襲撃者が襲った途端に倒れたり、嫌がらせをした者の足の骨や腕の骨が折れたりと、まるで祟りのような事が続き、加賀屋、能登屋に手を出す者がいなくなっていた。二つの店の奉公人たちは幸運な事と神、仏に感謝していたが、主人たちは影護衛のあの方に感謝していた。
加賀屋、能登屋の米と加賀友禅、輪島塗りの占有権は藩主のお墨付きが三年であったが、藩への勘定方への返納がそれまでの数倍になり三年で止まる事は無く続けられ、勘定返納は年毎に増えていた。
その為、当初、藩主の独断とも言える加賀屋、能登屋の専売に反対していた藩の重鎮たちも、その声を引かざるをえなくなっていた。無論、何人かのくすねる金額も増えていたからである。
また、それぞれ、輪島塗り、加賀友禅、農家の生産者への還元金も桁違いに増えており、これまでに取次をしていた店への憎悪は凄まじいもので、その殆どが夜逃げしてしまった。
数年の内に、吉原、大奥で能登屋から加賀友禅を誂える ( あつらえる ) 事が己の位が上がった証として重宝され、
輪島塗りは旗本、大名の御進物として重宝される様になっていた。
また、加賀藩の米を扱う加賀屋は藩士の給金を扱う為、米屋と言うよりも札差としての商いであり、年を追う事に前借りも多くなり、米を店先で売る事が無くなり、米はもっぱら他の小売りの米屋へ卸す様になった。
また、借財に来る者も加賀藩の者に限らず他藩の勘定方も訪れる様になり、近隣の町人が両替に訪れる事も多くなり、両替商の商いもする様になって行った。気づけば江戸でも有数の札差商、両替商の頂点に位し、札差商、両替商、それぞれの集まり、協会、組合とも言うべき組織も文句も口出しも出来ない存在になっており、逆に二つの組織の総代の地位に着くように懇願され、総代となっていた。別に後ろ盾では無いが加賀藩と言う大大名の御用達の看板を掲げている店に太刀打ち出来るはずも無いのである。
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