PR
キーワードサーチ
カレンダー
その後、丘屋敷にも地下蔵を作ったことで熟練し、この時に甚八達、元伊賀の住民達も熟練の域に達していた。
龍一郎の依頼により吉宗から甚八が拝領した屋敷から千代田の城の吉宗の瞑想の御堂への地下道を龍一郎から依頼され富三郎が測量と設計を行い甚八達が地下道建設を行っていた。
甚八達は千代田での吉宗の警護と城全体の警護、山での修行、丘屋敷の警護と鍛錬、拝領屋敷の警護、吉宗と龍一郎から受けた地方や江戸市中の探索と非常に忙しい合間を縫って拝領屋敷から千代田の城への地下道の工事を行っていた。
以前は養老一帯の悪餓鬼集団の大将と副将だった巳之吉と朋吉は龍一郎の一睨みで改心し、龍一郎の命で富三郎の弟子になりレンガ作りとレンガを使った蔵作りを教わり熟練しており、この地下道作りに率先して参加し仲間の指導も行っていた。
千代田の城への地下道は御濠の下を通る為、深く深く作らなければならなかった。
その為もあり、当初、拝領屋敷の蔵から地下にレンガ作りの武器や非常用の食料貯蔵倉庫を作った。その後、その下から城への地下道を作り始めた。
材料のレンガは養老の里で作られ、一旦、丘屋敷に貯め置かれ、必要に応じて拝領屋敷に運ばれていた。
富三郎は最初に測量し城の御堂への道筋を図面に書き甚八に渡した。そして時々深さと向きの検証に訪れていた。
一度、富三郎が検証に訪れた時に道筋が外れており少し手前から向きを変えたことがあった。
逸れた穴は広めて倉庫に使うことにした。
穴を掘る時には籠に鳥を入れ穴の先頭に置くようにしていた。これは富三郎の助言によるので、
この時代には呼び名はないが身体に良くないガスや酸素が薄くなった時に鳥が弱り、知らせてくれるのである。幸運なことにこれまでのところ鳥は元気だった。
穴が堀の下に達した時に天井から、横から水が噴き出して来た。
富三郎は床、横壁、天井の全てをレンガで作らせレンガの繋ぎに漆喰を使わせた。そして床の両側を一段低くし屋敷に向けて傾斜するようにしていた。床は中央が少し高くなっており水はどちらかの壁に向かい、壁際の溝を伝い屋敷下の大穴に向かうようになっていた。
こうして穴を堀り一列づつレンガで穴を補強して堀り進んでいた。
流石に堀の下を掘っている時は進みが遅くなったが堀を過ぎると進みが戻り十月で目的の御堂の下に辿り着いた。目的地に近くなると富三郎の訪問頻度が増し何度も何度も測量と修正を繰り返した。
最後に富三郎は御堂の床下から穴を堀り長い鉄の棒を繋ぎ地下に打ち込み横穴に繋がると縦穴を大きくしていった。竪穴の壁もレンガで覆い梯子を着けた。
実は御堂の図面を書き、建築を主導したのは富三郎だったのである。
吉宗と御側御用取次の加納との計らいで作られ依頼が富三郎になったのである。
無論、龍一郎が門弟である加納に道場で依頼し吉宗に伝え、吉宗が側用人の加納に伝えた形を取り、加納が作事方に御堂の図面を巷で評判の棟梁・三代目・作衛門にせよ、と指示したのである。
三代目・作衛門は清吉の船宿と浜屋敷を建て巷で評判になっていた。
作衛門は浜屋敷を作りに当たり縁の出来た富三郎を図面作りに加えることを清吉に依頼された時に一も二もなく了承した。
千代田の城で吉宗の信頼厚い用人は絶大な権限を持ち序列では将軍に継ぐ老中でも無下には出来ない存在だった。
富三郎は図面書きだけでは無く、大工でもあり秘密の出入口の造作は富三郎自身が細工した。
そして、時に腐り具合や不具合を確かめるとの理由で富三郎が城に上がっていたのである。
こうして、千代田の城の粛清が終わり二月程経った頃に城から甚八の屋敷への地下道が完成した。
御堂から地下道への入口は仏像が置かれていて五か所を順番に移動させて初めて横に動くようになっていた。そして、降りる途中で棒を下に降ろすと重しにより仏像と台座が元に戻るように工夫されていた。
この地下道の建設目的は非常時における将軍・吉宗の逃げ道、これは名目上のことで、真の目的は吉宗を市中への散策へ誘う為のものであった。
勿論、最初にこの地下道を利用したのは龍一郎だった。
それは完成を祝した宴を龍一郎の指示の元、丘屋敷で行われた日のことだった。
加賀の若様 奮闘記 #345 <墨堤 散策> 2026.10.04
加賀の若様 奮闘記 #344 <町年寄り 奈良屋> 2026.04.09
加賀の若様 奮闘記 #243 <吉宗からの呼び… 2026.03.23