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奇書にして良書。死刑囚と哲学者の往復書簡集。“善”く“生きる”とは。 この本自体が成立した事自体が奇跡に近いと思う。先ごろ若くして亡くなった哲学者池田晶子女史と、やっぱり刑が執行されて亡くなっているであろう死刑囚陸田真志氏との往復書簡集。 まず特記すべきは、この本は決して話題作りのキワモノ本ではないという事。 内容はまっとうな、いや極めて価値の高い“哲学”書となっています。両者の話もちゃんと噛み合っています。p53「ああ、ようやく、私と対等に語り合える相手が現れた。かなり不遜に聞こえるのを承知で言うのですが、率直に、そういう思いだったのです。」これ、死刑囚の方の言葉ではなく、哲学者池田晶子女史の言葉なのです。 しかも真の意味で“哲学”書となっています(凡百の本は大抵、「哲学の知識本」か「哲学史の本」。哲学書ちゃう)。 元々この死刑囚陸田氏が“哲学”的資質を持つ人物だったといっても、獄に入って初めて“思索”しモノを書いたというだけあって、難解な哲学用語は一切用いられていません。そしてそれが逆に本書にプラスに作用しています。 死刑囚。これ、“思索”的生活という点から見てもかなり特異な存在です。何しろ行動の自由は制限されています。自然、本を読み自省に励む生活となります。 一方、死が迫っている。限られた時間しか無い事がこれくらい明白な人もいない。 常人には及びも付かない“密度”の高い“思索”が必然的に成立する事になります。 両人ともに当に「後が無い」事を自覚して文通しています。 「善く生きる」。この事を巡って、これ以上はないという言葉の真剣なやり取りが両者の間に取り交わされます。 ここで事件の概要。 陸田真志氏は95年当時勤務していたSMクラブの経営者と店長を、同僚二人と共謀して手斧、ハンマー等により殺害、遺体を海中にコンクリート詰めにして遺棄しました。その為、氏は東京地方裁判所にて強盗殺人、死体遺棄当により98年に死刑判決を受けます(それ以前より米国等において職業的犯罪者として生活していたとの事)。 以下、興味を惹かれた箇所の抜粋(私が恣意的に抜書きしているので、キチンと理解するにはこの本の頭から読まないと駄目だという事は言うまでもありません。本書の“予告編”程度にお考えください)。 p32陸田「人間がその自己の真の目的に気付く潜在能力を有している。その事こそが万人に平等にある『人が人としてある』天賦の権利、『人権』であると思えるのです。その為のきっかけと時間を、罪を犯した者に与えてくれる死刑制度は、むしろ、非常に人道的であると思えるし、無理にその人間自身の罪悪を考えさせないようにする少年法や人権派の方が、むしろ、非常に人の道を外したものであり、その人間への『仁義』を見失っていると思うのです。」死刑囚の陸田氏自身の弁である事に注目。 p55池田「死刑になるかもしれない人が、死刑は人道的だ、なぜなら気付きの機会を与えてくれるからだと言い、また、少年法は非人道的だ、なぜなら気づきの機会を奪うからだと言う。この言葉の正しい重さの前には、死刑廃止論者の人道主義も、少年法廃止論者の反人道主義も、それこそ屁みたいな観念論と化します。」これは池田女史の言葉。 死刑判決について。 p176陸田「かく言う私も、自分の求刑が死刑とははっきり言えなかった頃、やはり何とか助かる方法はないかと考えた事もありました。しかし、考えれば考えるほど死刑判決は動かしがたく思え、又、それが自分のやった事からすれば、法的には当然とも思えました。それでも、その頃周りにいた人間(他の留置者)は、『きっと死刑にはならない。なってはダメだ』と私をはげます訳ですが、そうやって私が『そうだな』とはげまされる事は、本質では私の為にはならなかったと思うのです。そう(死刑に)ならない為には、事実と異なる事を言うしかなかったのですから。そして、それがもう自分では動かしがたいと思っても、今度は自分の家族が、はげまし始めるのです。彼も私の為を思っていたのでしょうが、やはり私の為にはなりませんでした。」 p121陸田「いつも『人権を』と叫んでいる方達が私には何も言ってきてはくれないのを見ると、彼らの言うところの人権とは、人類に普遍的にあるもんではなく、彼らの主観で決められるようなもの(略)」これは陸田氏の皮肉。しかし、死刑囚に皮肉を言われている“人権派”って何なんでしょうね。┓(´_`)┏ 死刑制度について。 p182陸田「(略)私は、全ての殺人はそれが国家によるものであれ、法律によるものであれ、理性的なものではない、倫理に反した行為だと言えると思うのです。(略)これだけではいわゆる死刑廃止論者の方の意見と同じですが、私がここで思うのは、ではその倫理に反した『死刑制度』という存在が、最も倫理的であらねばならないはずの『法』に在るのは何故か。それを在らしめている根本の原因は一体何かと考えれば、それはある国家や法を作成した人々でもなく、その『死刑制度』を必要と、『自ら然るべく』してきた死刑囚本人であると思えます。」(略。「死刑制度」は「報復」という心情からくるものであろうとし、私たち人類は{倫理的な}「道の途中」にあるのだろうとの文、続く)「では、『全てを許す』事で人類が歩を進められるのかと言えば、その答えは現在の少年法の下での少年犯罪や、多くの懲役囚の現状、そして『誰にも迷惑を掛けないから』と自己の快楽、自由、権利を叫ぶ多くの人間を見れば明らかでしょう。つまり、人はまだ『自律的な倫理性』を得ていないという事なのでしょう。その人類全てが『自律的に倫理的』であり得る社会、そこにおいて死刑制度は(法律や道徳と共に)有名無実なものとして存在すれど存在しえないものとなるのではないか。自然に消えていくのではないか。」(略) p184陸田「その意味において、その死刑制度を自ら在らしめている死刑囚達が死刑廃止を叫ぶのは、おのずと不自然な姿であろうと私には思えるのです。自分たちがそれを必要としておいて、失くせと言っているのと同じなのですから。同じように死刑廃止を叫ぶ一般の死刑廃止論者の方々も死刑制度というこの事自体を悪者扱いしないで(略)、その制度が生まれた原因、今もそれが存在している原因を、アムネスティなど他人によらず、自分で考えてみられてはと思うのです。それは決して、個々の死刑囚の生い立ちなんかといった、その犯行時、又は前の本人の感情や自制でどうにでもなるものでも、ある国ある時代の司法関係者の意向でもなく、どこまでいっても罪を犯した死刑囚全てにその原因と責任があろうかと思うのです。」(略)「ここで冤罪による死刑が起こりうるのも、やはり他の無実でない死刑囚や殺人者の為であると思えます」 上記に続く以下の文は良い文だと思う。 p184陸田「{人類全てが自律的倫理を得る}その時まで全ての人は、その矛盾を抱え、悩み、死刑囚はその全ての人の倫理にとって矛盾的な死を皆の為に受け入れ、戦争が起これば、人はその矛盾を抱えつつ、戦い殺し殺されていくのだと思うのです。」 善とは何処に“在る”か。 p66陸田「『悪を悪として認められるのは、それを対極としてとらえる為に絶対的に必要な善を、今自分が持っているからに他ならないではないか。今まで真に悪と認められなかったからこそ、やった行為を今、真に悪いと、つまり、やってはいけないと分かったではないか』そう私は思えてから、自分が自分の中で目をそらしていた善を発見できたように思えたのです。」 池田女史も。 p139池田「『なぜ人を殺してはいけないのか』と問う我々は、その限り、人を殺してはいけないと、問う以前から知っている。知っているからこそ、その理由を問うのである。しかし、理由はないのだった。ということは、問うこと自体が、その理由なのである。『なぜ人を殺してはいけないのか』と問うそのことが、人を殺してはいけないまさにその理由なのである。」 陸田氏は当初死刑を受け入れ、控訴する気はなかったのですが池田女史は控訴するよう勧めます。 p84池田「{陸田、池田両氏の到達した「善く生きる」という真理を}あなたのとって、もっともわからない人、わかりそうにない人とは、誰ですか。言うまでもない、被害者の御遺族でしょう。あるいは自分の家族でしょう。本当に善く生きる気があるのであれば、誤解され、罵倒されながら、あなたがわかったことを、彼らにわからせる努力をするべきではないですか。『死ぬ』という、いかなる努力も要しない最も安楽な方法によって、そもそもわからない人が、どうしてわかるはずがありますか。」 池田女史のお叱り。 p109池田「ところが、{文通の}回を重ねるにつれ、少しずつレベルが落ちてくる。よく言えば『迷い』、悪く言えば『雑念』が、見え隠れするようになってきたのです。ほぼ間違いなく死刑になるだろう人に、今さら雑念でもあるまい。いったい、どうしたのだろう。」 p110「人にどう読まれるかが、気になり出したのです。」死刑囚ですら、自意識の束縛から自由になりはしないんですね。 この死刑囚の文通を読み進めていくうちに、実は、私はこの「死刑囚の反省」について違和感を感じ始めました。 無論、その辺の罪人なんぞより余程、その語の真の意味において「反省」しているのですが、曰く言い難い「他人事」感が感じられるのです。読者によっては立腹するかも知れない。 どうも池田女史も同じ事を感じた、もとい、考えたらしい。 p190池田「哲学的な資質を持つ死刑囚が、哲学的な模範解答を書いている、そんな感じがするのです。」その二に続く。
2007年08月20日
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意識下の“認識”構造そのものが違う。東洋と西洋の“世界観”の構造差を心理学的に検証。 「文化によって意識上の世界観は違っても、人間が世界を認識し、思考する構造は同じ。物事を知覚し、記憶し、推論する構造は同じ筈だ。つまり、同じ絵を見ているのなら、米国人も日本人もインド人も、脳裏には同じ“画像”が映じている筈だ。そして、『論理的に正しい文章』ならば、英語だろうと、日本語だろうと、ウルドゥー語だろうと正しい事に変わりはない。」 本当にそうなんでしょうか。 「世界を認識し思考する仕方は一つ、世界共通」なんでしょうか。 本書はこの認知科学の基礎的前提に、豊富な心理学的実験を基に異を唱えている本です。 正直、序文でコケましたけどね。「東洋と西洋、そりゃ考え方、違うやろう」という日本人にはジョーシキの発想、平均的西洋人には驚きらしいです。その「驚き」にオドロキ。どうも本当に西洋人は西洋文明しか知らず、優劣でなく「違う」文明があるという事を知らないらしい。『西洋にあまりなじみのない日本の読者は、東アジアになじみのないアメリカ人読者と同じように、本書から多くの驚きと発見を得ることができるだろう』の一文に大コケ。どこに「西洋にあまりなじみのない日本人」がいるというのか。江戸時代か(-_-)。 では、この本は日本人には読む価値のない本か、というと然に非ず。 流石に日本人は「“意識”できる“思考”“発想”が東洋と西洋では違う」という事は知っている。でも、本書は「“意識”下の、つまり“思考”“発想”の土台である“認知”レベルで違う」という事を主張しています。“無意識”のレベルで違うんですね。 さらに(これが俗流の東西文化比較本と違い、価値のある所)、それを心理学的な実験で学術的に証明しているんです。 正直、不正確、こじ付けだ、と思われる章があります。歴史関連、東洋思想関連、東洋と西洋の世界観の違いを古代ギリシャと古代中国(アリストテレスと孔子なんか)から比較対照した章なんかですね。(「この人、ジョゼフ・ニーダムの著書を読んだ事がないんか」と首傾げちゃう記述もあるし、関孝和等の江戸時代の高度な和算も知らない)でもこれ、しょうがない。著者が心理学者の先生だから(書かなきゃいいのにね)。1章、2章はすっ飛ばしてOK。 でもその分、専門の心理学的実験に関した章では説得力倍増です。 ばっと全体要約しちゃえば「東洋人は『包括的』思考、西洋人は『分析的』思考」という事です。東洋人の「包括的」思考とは、対象を見るに、「場」全体に注意を払い、他の「場」の要素との関係を重視する思考という事で、一方、西洋人の「分析的」思考とは、対象そのものの属性に注意を向け、カテゴリーに分類する事によって、対象を理解しようとする思考の事。 だから題名が『木を見る西洋人 森を見る東洋人』なんです(^o^)。 以下、オモロイと思った箇所のメモ書き。まぁ、参考ぐらいにはなるでしょう。 社会の構造、人間観は各社会の人々の認知プロセスと合致しているという事。 (p5)「アジア人社会は集団や周囲の他者との協調を重んじる傾向」があり、これは「アジア人が文脈を重視して広い視野で世界を眺める傾向」や「出来事は極めて複雑なもので、その生起には多くの要因が関係している」と信じている事と合致している。 一方西洋は「個人主義的で独立性を重んじる傾向」があり、「特定の事物を周囲の文脈から切り離して捉える」傾向を持ち「対象を支配する規則さえわかれば、その対象をコントロールできる」と信じている事と合致している。 文化人類学者エドワード・H・ホールの提起した、「自己」理解の仕方の違い。「低コンテクスト社会」「高コンテクスト社会」の概念。 (p64)西洋人--人は状況や人間関係に左右されない属性を持つと考える。自己とは周囲と切り離された不可侵の自由な主体であって、環境が変わっても著しく変化しない。 東洋人--人は他者と繋がっており、変わりやすく、状況依存的である。純粋に周囲から独立した行動を取る事は大抵の場合不可能だし、実際の所望まれてもいない。 デカルトの「cogito, ergo sum」の命題を知った時、皆さん妙な気がしませんでした?(最もデカルト自身はこんな事ラテン語では書いていないそうです)。「我思う、故に我あり」と訳がありましたよね。 「僕」でも「私」でも「俺」でもなく、「我」を選択した段階で外的世界との関係が既に入り込んでいる(極端な場合、「朕」といったらその人は天皇陛下だ(^o^)。 誰も問題にせんかったのは、あちらさんでは通常、主語は一つしかないからなんですね(p66参照)。 さて、どう捉えるか。こうした問題は西洋では“発生”しない、と捉えるべきか。不幸にも“気づけない”と捉えるべきか(「そういう言葉の違いは捨象(abstraction)しとるのだ」という答えはアカン。これ思考の本質だからね。言語を使わんと思考できんから。「直感だから」という答えもイカンです。「瞑想状態の悟り」の話(^o^)ではなく、言葉にしている(思考)、当にその点が問題なのだから)。 欧米人は“個性的”は迷信。 (p68)「アメリカ人やカナダ人の属性や好みについて調査すると、彼らは決まって、他者と自分との違いを過度に強調する。どんな質問に対しても、彼らは自分のことを実際以上に個性的だと答える。アジア人はこういう錯覚を起こしにくい。」 「私ってとっても個性的」というのは、ありゃ見得ですね(^o^)。 (p68)「アメリカ人が自分について好意的にコメントする傾向は日本人よりはるかに強い。アメリカ人とカナダ人に対して自己評価尺度を用いると(略)、こぞって自分が平均より上だと答える。」 (p69)「アジアの文化では、自分は特別だとか非凡な才能をもっているなどと無理に考えなくてもよいのだろう。」 当り(^O^)。でもこういう事って異文化の人に言われて初めて「あぁ、確かに日本って暮らしやすいよな」って気づくんですよね。 (p74)「アジア人はたしかに、西洋人に比べて他者の気持ちや態度に敏感である。たとえば、ジェフリー・サンチェス=バークスと共同研究者たちは、雇用主が従業員に対して行なった評価の結果を韓国人とアメリカ人に見てもらった。その結果、韓国人はアメリカ人に比べて、雇用主が従業員に対してどんなことを感じているかをその評価から推測することに長けていた。アメリカ人は多くの場合、その評価をただ額面どおり受け取るだけだった。」 無論、東洋、西洋、二分割にくっきり分かれるという事ではない。 (p82)大学生を対象に行なった実験。2グループに分け、ある短文中から、片方は相互独立的な単語(「私」「私の」)を、もう一方は相互依存的な単語(「私たち」「私たちの」)をピックアップさせる。その後、あるストーリーを聞かせ、主人公が利己的であるかどうか判断させる。と、相互独立的なプライミングを受けていた学生は相互依存的なプライミングを受けていた学生に比べて、個人主義的な価値をより高く評価し、集団主義的な価値をより低く評価した。 日常的に東洋人は相互協調的な、西洋人は相互独立的なプライミングを受けている為それぞれの違いが生ずる。生得的なものでもなければ、二分割できるというものでもないという事。 本書の一番山場ともいうべき実験。 (p105以降)著者の研究室の日本人学生、増田貴彦氏による実験。彼はアメフト観戦時の観客の、他の観客への全く無配慮な態度(米国人は後ろの観客に全く無頓着に立って観戦する)から、ある仮説を思いつく。 「アジア人は世界を広角レンズで見ているが、アメリカ人はトンネルのような視野しかもっていない。」 彼は非常にシンプルな実験を行なった。水中の様子(大小の魚、蛙、貝、石、水草等。中に特に大きく明るい色のすばやく動く魚が一匹いる)を描いた8種類のカラー・アニメーションを京都大学とミシガン大学の学生に20秒間2回ずつ見せたのである。 次に、参加者に記憶を再生し、見たものを説明するよう求めた。 回答は内容にに応じて、目立つ中心の魚、その他の生物、背景や無生物といった具合に分類された。 結果。アメリカ人、日本人共に中心の魚についての回答数はほぼ同じ。しかし、水、石、泡、水草、動きの鈍い生き物といった背景的要素については日本人の回答数はアメリカ人より6割も多かった。加えて、日本人もアメリカ人も、活動的な生物と他のものとの関係についての回答数はほぼ同じだったのに対して、日本人は、背景の無生物と他のものとの関係についての回答がアメリカ人のおよそ2倍あった。 特に印象的な事。日本人参加者はその第一声で環境について述べる事が多かったのに対し(「池のような所です」)、アメリカ人は中心の魚から話を始めることの方が3倍も多かった(「大きな魚がいて、それが左に向かって泳いでいます」) さらに実験。この報告の後、参加者は魚やその他の生物、無生物が描かれた96枚の静止画を見て、前に見たことがあるかないかを答えさせられた(記憶の「再認」)。半分は既出、半分は初見。さらにアニメと同じ環境に描かれたものと、見たことのない環境のなかに描かれた物があった。 日本人の場合。それらが元の環境に描かれていた時の方が新しい環境に描かれていた時より、はるかに再認成績が良かった。魚も物も環境と結び付けられて、そのままの形で記憶された為と考えられる。一方アメリカ人の場合は元の環境であろうと新しい環境であろうと全く関係なかった。魚も物も、環境とは完全に切り離された形で知覚されていた為と考えられる。 もう一つの実験。(p109以降) 仮説「西洋人は東洋人に比べ、背景にある物の変化や、物同士の関係に気づきにくい。逆に、目立つ物の変化には早く気づく」 実験は以下の通り。増田氏と著者はコンピューターでカラーのショート・フィルムを2本作成し、日米の実験参加者に見せた。2つのフィルムは大体同じだが数箇所違う点があった。参加者の課題は何所が違うか答える事。 予想通り、日本人参加者は米国人より2つのショート・フィルムに間の、背景の違いや関係の違いに気づく事が多かった。米国人の方は前面にある中心的な物の違いを指摘する事が多かった。 当たり前だがどっちが優れているという話ではありません。 p113「棒・枠組み検査」における東洋人と米国人の対照検査(箱の奥に棒があり箱枠の傾きと無関係に棒の傾きを調節できるようになっている。被験者は棒が垂直になった時点を判断するという物)において、東洋人の方が箱枠の傾きに影響されずに棒の位置を判断する事により困難を感じた。 因みに性差は多くの場合文化差より小さいとの事(p116)。(その2)に続きます。
2007年08月29日
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自分で自分の本を褒めるのはどうなんでしょう。『日本人とユダヤ人』。 図書館でルース・ベネディクトの『菊と刀』を読み直したくて探したのだが、(驚いたね)全集物に収録されている物しか簡単に読めないらしい(賞味期限切れか)。 で、1974年発行の日本教養全集(そういえばそもそも「全集物」って形式自体最近皆無)第18巻を読んだ。この巻には他に『日本人とユダヤ人』『サクラと沈黙』が収められている。 で、解説が山本七平。 おいおい( ̄□ ̄)。 『日本人とユダヤ人』の著者イザヤ・ベンダサン=山本七平というのは現在でははっきり判っている。またこの本の内容自体も本物の研究家によって論駁されている(浅見定雄著『にせユダヤ人と日本人』)。 この本で山本七平氏自身が自分で他人事のように自著を褒めている。 p421「いうまでもなくこの三著は(略)書いた者の国と書かれた者の国にともに読者をもち、いずれの側においても、活発な論議を呼ぶことはあってもともに高く評価され、いずれも、一方の側にはアッピールするが他の側には『腹が立つより呆然』とされまたは『抱腹絶倒』されるといったものではない。」普通のユダヤ人はこの本を知らないよ。さらに読んだユダヤ人は『腹が立つより呆然』または『抱腹絶倒』している。 p428「ベンダサンの駆使する史料と引用の豊富さとその的確さは今さら説明する必要はあるまい。ただ氏の場合は、ベネディクトやオフチンニコフと違って比較文化史的把握となっている。そしてその史料の徹底的ともいえる蒐集と読破は、やはり『本の民』の行き方そのものであろう。」よく言うよ。「比較文化史的把握」にするよりしょうがないじゃない。本物のユダヤ人だったら、ただ日本人および日本文化を分析すれば、自然とその仕方によって「ユダヤ人とは何か」が浮かび上がってくるけど、日本人が書いているのだからね。日本人はこうです、ユダヤ人はこうです、って書き方しか書きようがない。 で、その『日本人とユダヤ人』を当人が解説しているのだが、「イザヤ・ベンダサン氏は中東独特の体制『ミレット制』との関連性において『日本教は宗教』『日本人は日本教徒』と定義している」のだそうだ。当人が言っているのだから間違いないね。 「ミレット制」というのは「宗教、宗派による自治体とも言うべきもの」で、「宗団=民族=国家」という体制の事だって。「日本は日本教という単一ミレット」という事らしい。 わかりやすい種明かしだ。 p424「ベンダサンは、その国を理解しようと思うなら、まず、その国についてその国のものが書いたものを読むべきだという。」 図々しい( ゚,_ゝ゚)。 山本七平、かなり恥ずかしい存在。大江健三郎並みじゃないかな。 しかし、今でも日本人は「外国人様がこうおっしゃっている」に弱いね。偽(亜)外人や海外滞在自慢の馬鹿がうじゃうじゃいる。 ルース・ベネディクトは一度も日本に来た事は無い。来た事が無くて日本文化研究の金字塔を打ち立てたのだ。 “知性”とはそういうものだと思う。↑著者名に山本七平の名前のみあって、イザヤ・ベンダサンの名前はない。2004年の本ではそうなっているのだ。左右問わず、インチキ野郎やズルイ奴らは虫が好かんです。
2007年07月18日
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