2007年11月19日
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カテゴリ: アフリカ
今日のまとめ

1. ガーナの独立はアフリカの人々に希望を与えた
2. 独立後のアフリカ諸国はすぐに問題に直面した
3. 南アは独自の道を歩んだ


■ガーナの独立

 アフリカにおける独立運動の思想的な基礎を作ったひとりとしてアメリカのWEBデュボアの名前を挙げることができると思います。デュボアは作家、教育者、社会学者、活動家として有色人種の社会的地位向上のために尽力した人ですが、汎アフリカ会議の中心的メンバーとしても活躍しました。そのWEBデュボアらが中心となって企画された1945年の英国マンチェスターでの第5回汎アフリカ会議で書記を務めた若者がクワメ・エンクルマです。

 エンクルマはその後、祖国のゴールドコーストに帰り同国の独立運動を指導しました。ゴールドコーストという名称は植民地の支配者であるイギリスによってつけられた名前です。第二次世界大戦後のアフリカは商品市況の低迷、スラムの形成、戦争から帰還した兵士が新しいスキルや世界観を持ち込んだこと、また、外の世界を垣間見たことで独立への期待が高まるとともに現状への不満も募ったこと、などから大きな社会変革が起こりそうなムードでした。

 そんな折、ゴールドコーストではカカオの価格低迷で生活の困窮を訴える市民のデモが騒動に発展しました。これが同国の独立運動を加速させたのです。1951年に新憲法が制定され、総選挙の結果、騒動で投獄され獄中から立候補したエンクルマが勝利し、首相に就任します。こうしてゴールドコーストはイギリスから独立し、ガーナという国名を採用します。この時点でも英国は「ガーナは特別だから他のアフリカ諸国には独立運動の嵐は飛び火しない」という考えでした。それは当時からガーナは世界有数のカカオの産地で比較的豊かであったこと、また人種的にも国民の約半分がアカン族から構成されており社会の結束が強かったことなどによります。

 しかしアフリカの人々からするとサハラ砂漠以南で初めてアフリカ人がリーダーとなる政府が発足したことはとても刺激になりました。こうして他のアフリカ諸国にも独立の気運が高まったのです。


■アフリカの年

 第二次世界大戦前のアフリカを見ると独立国はエチオピア、リベリアの2国と白人支配の南アだけでした。しかし戦後エジプト、リビア、チュニジア、モロッコなどの北アフリカ各国が独立し、その後、先に見たようにガーナが57年に独立しました。そして「アフリカの年」と呼ばれた1960年には西アフリカ、赤道アフリカの各国が続々と独立を果たしました。こうして1961年までに29の新しい独立国が生まれたのです。


■コンゴ独立を巡るドラマ



 これに対して新しくコンゴの首相となるパトリス・ムルンバは公式プログラムに無いスピーチでベルギーのそれまでの圧政を徹底的に批判します。もともとコンゴはベルギーのレオポルド2世の私的資産として獲得されました。レオポルド2世はアフリカの持つ資産価値に気づくと、1878年に著名な探検家、ヘンリー・モートン・スタンレーを雇って現在のコンゴの位置する地域の400にものぼる原住民の酋長と次々に「条約」を結び、ベルギーの保護下へ入ることを説得します。こうして1885年にレオポルド2世はコンゴの土地を「コンゴ自由国」としてベルギーの植民地とすることを他の列強各国に認めさせたのです。
 レオポルド2世が主に狙ったのは象牙です。このときのベルギー人の容赦ない統治は作家ジョセフ・コンラッドの『闇の奥』に描かれています。さらにレオポルド2世は天然ゴムにも目をつけます。タイヤの発明と、それが自転車、そしてゆくゆくは自動車に使われたことで天然ゴムに対する需要は爆発しました。レオポルド2世は天然ゴムを収穫するために強制労働や拷問などの過酷な手段を使います。

 コンゴがベルギーにとって堪えられない美味しい植民地となった極めつけは1911年にコンゴ川上流のカタンガ州が豊富な地下資源に恵まれていることがわかった事です。「地質学上の真のスキャンダル」と呼ばれたこの発見でカタンガ州には銅、ダイヤモンド、ウラン、亜鉛、コバルト、マンガン、銀などが大量に眠っていることが確認されました。1959年の時点で世界の銅の10%、コバルトの70%、工業用ダイヤモンドの70%を産出していたのです。このカタンガ州からの税収でベルギーの国家財政の3分の1、コンゴの財政の60%が賄われていたと言われます。

 しかし1956年に銅の市況が急落するとコンゴの国民は生活の困窮に耐えられなくなり、独立運動がはじまります。コンゴ国民運動(MNC)が組織されたのはこの頃です。1959年1月には首都のレオポルドビルで大暴動がおき、またその10月にはスタンレービルで暴動がおき26人の現地人が死亡しました。こうした騒乱を経て、ベルギーはもはやコンゴの植民地支配は無理だという判断を下し、最初に述べた独立の容認へとつながってゆくのです。


■上手く行かなかった民族自治

 こうしてアフリカ諸国は念願の独立を相次いで獲得しますが、民族自治の試みは驚くほど早い段階から悪い方向へと堕ちてゆきます。先ずエンクルマのガーナは輸入代替工業化路線を打ち出し、数多くの公共事業、工業化プロジェクトをスタートしますがそれらの事業をきちんと経営できる人材が無く、経営が無茶苦茶だったこと、さらに市場経済の理解が不足しており、カカオの価格統制に政府が乗り出した例に代表されるように間違った政策が国庫を圧迫し国民を困窮化させたことも指摘できます。こうした失敗の中でエンクルマ政権はどんどん独裁色を強めてゆくのです。

 数々の非効率な国営企業や不正、腐敗の置き土産を残してエンクルマは1966年の無血クーデターで大統領の地位を追われます。その後のガーナはクーデターの連続でしかも経済の状況はその度ごとにますます悪くなるという事の繰り返しでした。

 一方、ルムンバのコンゴも惨憺たる状況でした。独立して間もなくコンゴの軍隊が叛乱を起こしました。この混乱の中でコンゴの地下資源の大部分が集中するカタンガ州は独立を宣言します。カタンガ州に駐屯していたコンゴの軍隊は武装解除後解散させられ、新しくカタンガ州独自の軍隊が編成されます。この指導にあたったのは他ならぬベルギーの軍隊です。ベルギーはあわよくばコンゴを取り戻そうという意図からカタンガ州の独立の試みを支援したわけです。

 こうして独立間もないコンゴは一瞬のうちに国内治安の乱れ、軍隊の崩壊、カタンガ州離反の動き、ベルギーの政治的ならびに軍事的な介入に見舞われたのです。窮したルムンバは国連に助けを求めます。国連はすぐに国連軍を派遣し公共サービスの再開だけは確保します。


■南アフリカの道のり

 19世紀終盤のアフリカ大陸の南端のケープ植民地はアフリカ大陸の中でも特に不毛の地であると考えられていました。航行できるような河川もなく、交通手段は牛の引くワゴンだけで、農業をする環境としても極めて条件の悪い土地でした。僅かにオランダ東インド会社の商船が喜望峰を迂回する際に物資を補給するためにケープ・タウンに立ち寄る程度でした。

 その南回りルートもスエズ運河の開通(1871 年)で近く用無しになる見込みでした。この土地にはオランダ移民が農民として入植していましたがナポレオン戦争の際に所有権がオランダから英国に移譲され、これらのオランダ人は英国の支配下に置かれました。彼らはボーア(農民)と呼ばれました。ボーアは屈強で開拓者精神に溢れた人々として知られており、彼らは英国の支配を嫌ってケープ植民地の北を流れるオレンジ川を渡り、対岸にオレンジ自由国を建設します。

 さらにその北のヴァール側の奥にトランスヴァール共和国を建国します。1867年の或る日、オレンジ川のほとりで遊んでいた少年がダイヤモンドを見つけたことからオレンジ自由国の運命は大きく変わります。ダイヤモンドを掘ってひと山当てようとする山師がどんどんキンバリーにあるデビアーズ鉱山につめかけました。



 一方のセシル・ローズは容赦ない商魂で恐れられていました。或る日セシル・ローズが仕事を終えて帰宅の途中、夜遅くなのに未だ明かりがついている事務所を見つけます。そこで好奇心を持ったローズはその事務所の扉を叩き中の若者に問いました。「いつもこんなに遅くまで仕事しているのかい?」そこでアルフレッド・ベイトは「ああ、毎日じゃないけどね。」と答えます。ローズは「ところでお前さんの商売は何なんだい?」と聞くとベイトは「ダイヤモンドさ。そのうちにこの土地のダイヤモンドを全部独占するのが僕の夢だ。」と答えます。それを聞いたローズは「そりゃ可笑しいな。実は俺もダイヤモンドを独占しようと企んでいたところさ。どうだい、俺たち組まないか?」と持ちかけました。これが後に世界のダイヤモンドを独占するデビアーズ・コンソリデーテッド社のはじまりです。

 イギリスはダイヤモンドの出たボーア人の住むオレンジ自由国をイギリスの直轄領に併合してしまいます。さらに1886年には今度はトランスヴァール共和国で金が発見されます。するとセシル・ローズはダイヤモンドで築いた財産を使って今度は金を獲得するためイギリス軍を仕立ててトランスヴァール共和国へ進入します。この1895年の侵略はボーア人によって撃退されてしまいますが、イギリスは1899年にボーア戦争とよばれる侵略戦争を再度企て、今度はボーア人を屈服させます。このように南アの政治は早くから鉱山コングロマリットの利害によって突き動かされていた点は注目に値します。


■アパルトヘイト(人種隔離)

 南アフリカでは1936年に有色人種が選挙に出馬するのを阻止する法律を作ったのを手始めに1948年にパス(通行証明書)法、1949年に混血禁止法、1950年に集団別居法などを制定し黒人の人権や生活、移動の自由を厳しく制限しました。これがアパルトヘイト(人種隔離)と呼ばれる政策です。つまりアフリカのその他の地域が民族自決で黒人による政治へとどんどん傾斜していたとき、南アだけは逆コースを歩んだわけです。





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最終更新日  2007年11月20日 10時00分38秒
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