2008年02月19日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
今日のまとめ

1.イスラエルには世界からユダヤ人の人材が集まった
2.在外ユダヤ人のネットワークがイスラエル企業の強みである
3.防衛産業から派生した企業が多く活躍している

■若くて歴史の複雑な国

 イスラエルの歴史を語ろうとする場合、その背景の複雑さからどうしても色々な見解の相違や対立が生じざるを得ません。ここでは皆さんが株式投資をするにあたって最低限知っておくべき予備知識としてのイスラエル史にのみ言及したいと考えています。

 イスラエルは1948年5月14日に独立が宣言された若い国家です。しかしパレスチナの土地にはそれよりずっと以前からユダヤ教、イスラム教、キリスト教などの宗教が織り成す歴史が脈々と流れており、それがこの土地の地政学に極めて複雑な影響をもたらしていると言えます。パレスチナの地にユダヤ人の国家を再興しようという、所謂、シオニズム運動が本格的に勢いを持ち始めたのは1791年にフランス国内でのユダヤ人の解放が失敗したことが始まりでしょう。さらに1894年のアルフレッド・ドレフュスの裁判を巡る経緯から、反ユダヤ感情が欧州の社会に根強く存在することが印象付けられたこともシオニズム運動の加速を促したといえます。

 1896年にハンガリー人のテオドール・ヘルツルがユダヤ人の国家を建設することを主張する『ユダヤ人国家』という本を出版しました。当初は国家建設を構想したと言うよりは、パレスチナの土地の中に自給自足の入植地を作り、ユダヤ文化の再興を期すというのがその意図するところだったとも言われています。ヘルツル自身は入植地の場所としてウガンダになっても仕方ないという考えを持っていましたが、東ヨーロッパのユダヤ人達はパレスチナでないと駄目だと主張しました。ロシアの社会運動家で東ヨーロッパにおけるユダヤ人弾圧を逃れた若者を中心にシオニズム運動を推進しようという機運が高まりました。ダビッド・ベングリオンはそんな中のひとりでしたが1906年にパレスチナに来ると、このグループのリーダーとなり抜群の指導力と強固な意志でシオニズム運動の組織化を指揮しました。

■イギリスの日和見主義



 しかしその後、1917年11月に英国はバルフォア宣言によって「パレスチナの土地にユダヤ人の祖国を作る」ことを認めるとともに「パレスチナに居住する非ユダヤ人の市民権と宗教の自由を擁護する」という態度を表明します。こうした英国の日和見主義ともとれる一連の約束が後々までパレスチナ問題に影を落とすわけです。

■国連の決議

 その後、第二次世界大戦の際のユダヤ人迫害に至るまでパレスチナへのユダヤ人の入植は着実なペースで進みました。第二次世界大戦の際のユダヤ人虐殺では600万人にのぼるユダヤ人が命を落としたとされます。これがパレスチナの入植地を国家として承認しようという動きを加速させたことは言うまでもありません。パレスチナへ移住したがるユダヤ人の数は増えましたが、当時パレスチナを管理していた英国はアラブ先住民とのバランスをとるためにユダヤ人の移民を制限しようとしました。

 こうした緊張の高まりから英国はもはや独自の判断だけではパレスチナの政策を決められないと考え、国連総会にパレスチナ問題の討議を預けます。国連はニューヨーク郊外のフラッシング・メドウズにおける会議で1947年11月29日にパレスチナの土地を複雑なユダヤ人居留地とアラブ人居留地に区分けすることを決定します。アラブ最高委員会はこの国連の決議を不服とし紛争が始まりました。

■建国と相次ぐ戦争

 1948年5月14日にはイスラエルの建国が宣言され、翌日、アラブの軍隊がイスラエルに侵攻(第一次中東戦争)しました。この戦争は多大な犠牲を伴いましたが、1949年の1月までにはイスラエルは戦争前の線引きよりもより拡大した土地を支配下におさめることに成功し、停戦ラインが折衝されました。この後の主な紛争としては1956年スエズ運河地方での衝突(第二次中東戦争)、1967年6月の第三次中東戦争(六日間戦争)でイスラエルがゴラン高原、シナイ半島、ガザ地区、東エルサレム、ヨルダン川西岸を獲得したこと、1973年の第四次中東戦争(ヨム・キプル戦争)などが挙げられます。このうち1973年の戦争は緒戦でイスラエルが劣勢だったのでそれまでの常勝神話が崩れ、与党である労働党の衰退の原因となりました。1977年のリクード党の躍進はそういう背景のもとに実現したのです。

 1979年には米国のジミー・カーター大統領の斡旋でエジプトとイスラエルがキャンプ・デービッドにて平和条約を締結しました。これはエジプトがアラブ国家としてはじめてイスラエルと和解したことを意味し、画期的な出来事でした。

■変質するイスラエル社会

 イスラエル国内のユダヤ人はスペインやポルトガルをルーツとするセファルディム、中欧や東欧をルーツとするアシュケナジム、そして北アフリカや中東からのオリエント系ユダヤ人などいくつくかのルーツに分かれており、経済的、社会的地位の面ではアシュケナジムが支配的です。これが緊張のひとつの原因となっています。さらに労働シオニズム運動の考え方ではイスラエルに入植したユダヤ人は皆平等にキブツなどで労働に従事することを主張していますが、最近ではアラブ人が単純労働を担うケースが多く、社会の階層化が見られ始めています。

■防衛負担はイスラエルの宿命



 インティファーダの運動家の中にはPLO(パレスチナ解放機構)やハマス(イスラム原理運動)のメンバーも一部含まれていると考えられます。インティファーダが始まって以来、イスラエルは様々な方法でヨルダン川西岸ならびにガザ地区のパレスチナ人の生活に制限を加えました。インティファーダを鎮圧するために1989年当時イスラエルが費やした費用はアメリカ政府の試算では月間で1.3億ドルとも言われ、観光収入の激減ともあいまってイスラエルの国庫負担を増加させました。

 この当時のイスラエルの経済的困難は新イスラエル・シッケルの13%の切り下げ、5.5億ドルに上る政府予算の削減、食糧、燃料などへの補助金の廃止、公的部門におけるレイオフの発表、ハイパー・インフレなどにつながりました。また最近では2006年にヒズボラ(急進的シーア派組織)がイスラエル兵2名を拉致したことをきっかけにイスラエルがヒズボラの活動拠点となっているレバノン南部に侵攻するという事件が起きています。

■イスラエル史のまとめ

 イスラエルはその建国の経緯から世界各地からいろいろなユダヤ人が集まってきて出来た国です。その分、いろいろな才能を持った人材のバラエティーに富んでいるという風にも考えられます。また世界に散らばったディアスポラと呼ばれる在外ユダヤ人のネットワークがあり、これがイスラエルの企業活動に国際色を与えています。ウォール街に対するコネが強いのもそのためです。

 イスラエルにとって防衛産業というのは重要な分野でした。このため防衛や情報に絡むビジネスではイスラエル企業は世界最先端のノウハウを持っているところが少なくありません。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2008年02月19日 20時51分36秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: