全13件 (13件中 1-13件目)
1
これから二泊三日で草津に行ってきます。最近、この三時間の運転に疲れを感じるようになってきた。そりゃそうだ。78だもの。ほとんど準備も無しで、五線紙と楽譜だけ。食料はコンビニで。今回は新しい楽譜を持参、ゆっくりアナリーゼしてみますか。イタリアのピツェッティやマリピエロの時代は憧れの時代、僕にとっては。そんな時代の作曲家が僕のまわりにいたのには改めて刺激でもあります。数日前、楽譜のコピーが出てきたんです。黄色く楽譜も消えかけている。48年前の話しでしょうか。1926年にサレジオ会の9人の宣教師が日本に初めて来た。その代表がチマッチ神父、一緒に来たのがリヴィアベッラ神父。この神父さんの兄だっかた弟だったか忘れたが作曲家で、その楽譜をコピーしていただいた。そのコピーが出てきたんです。リヴィアベッラ神父さんには大変お世話になった。原曲は声楽曲でピアノ伴奏。それをリコーダーとギター伴奏にして何度か演奏したことがある。じっくり楽譜を読み返してみたい。
2026.07.29
コメント(0)
朝の8時頃、テレビを付けた。NHKの朝ドラ「風薫る」とかの主題歌が始まった。軽い朝に相応しい音楽が流れるが、若い世代の音楽で80近いジイサンには理解できない。ただこの主題歌にも強い違和感を感じた。考えさせられる。そういう時代なんだから詮無いこと、沈黙していればよろしいと・・・言葉も旋律も今風。その伴奏部との対比が奇妙にひかれた。言葉と旋律は若者の素直な表現で、昔でいう所のトルヴェールの吟遊詩人的。その伴奏はと言えば、これが驚き、伴奏部は音大で作曲を学んだ風な書法。この歌と伴奏のアンバランスが実に微妙にマッチしていると言うことだ。この傾向は、僕が音大を出る頃から始まった。1970年前後からか。
2026.07.28
コメント(0)
大相撲が終わった。安青錦が巴戦を制した。テレビドラマなら感動だが、現実の相撲の在り方は、お相撲さんには気の毒すぎる。まるでローマの剣闘士だ。終わって数か月後にはまた始まる。怪我をかかえてのガチンコ勝負。力士生命を短くするだけ。なんでこうまでして相撲興行をするのだろうか。「金もうけ」としか言いようがない。力士は使い捨て。どんどん新しい力士が生まれるのだから。こんなことをしてはいけないと思う。安青錦の優勝は、ウクライナに幸運をもたらす前触れ。ロシアの8月は、歴史的に「凶月」。ロシアの独裁者が独りよがりで始めた奇襲侵攻に陰りが濃厚。それにしても犠牲者が多すぎる。犠牲者の家族はロシアとロシア人を許さないだろう。安青錦の優勝は、ウクライナに春をもたらす前触れであって欲しい。
2026.07.27
コメント(0)
朝から暑いですね。朝からエアコンなしではいられない。朝からどの家も屋外機がうなりをたててる。電気が大丈夫なんだろうか。人ごとではない。室内の涼しさを得るのに屋外機がフル運転。暑さを外に排出している。地球が熱くなるのも不思議ではない。エアコンなんていらなかった国々まで暑さで死者ま出て、歴史的建造物に穴をあけて屋外機を取り付ける時代。アダムとエバの楽園。どんな生活だったか知らないが、人間は快適な生活を求めていきつくところまで来た。漫画映画の世界だった人工知能の実現。AIのお陰様で、仕事を取り上げられる人がほとんど。弁護士、医者も、大学の先生もいらない、通訳もいらない、AIがあるから。要領のイイ、ずる賢い人間の世界ですかね。それにしても暑い。
2026.07.25
コメント(0)
きのう23日午前中に墓参り。新車なのにクーラーが全然効かない。お寺さんは禅寺、三家族の墓がある。一人は奥さんの姉の命日で嫁ぎ先で22才、奥さん16才のとき、第二バチカンの翌年だから1966年かな。奥さんはレッスンがあるので僕一人で墓参り。帽子を忘れた汗が出るなんてもんじゃァ~なかった。判断力ゼロ。水も飲まずに草むしり。墓参り。これって大事なことですね我が宗派だと盆暮れがないので、いつでも墓参りする、だからツイツイ足が遠のく。おまけにお墓の考えが今は急変して「墓じまい」「合葬」の時代だから、お骨や先祖やお墓りの概念が急激に変わりつつある。炎天下で草むしり、死者を想う、お塔婆もいらない、墓参りもいらない・・・便利な世の中になったのか、考えさせられました
2026.07.24
コメント(2)
マダニが大発生しているようだ。悪くすると死や後遺症になる。「マダニに噛まれても、その人の運」しだいかな~~~アメリカの娘がマダニに食われて大騒ぎだとか。ライム病。知り合いに聞くと近くでも繁殖しているとか。今年は地球変動か?繁殖するのかも。我が家近くの公園で観察するとイタ・イタ・イターーー。じっとしていると靴にはい上がって来た。やば。早速帰宅して風呂に入った。熱いお湯がおすすめ。服はもちろん即洗濯。僕は田舎暮らしの経験があるので「マダニ」は人よりは知っている。野外勝の後は熱いお風呂につかること。シロウトの智恵:マダニは頭を皮膚に食い込ませ、スイカの種ほどの大きさに血を吸う。無理に引っこ抜くと頭だけ残る。これが良くないとか。ねじりながらマダニを抜き出す要領かな。コツがあるけど。素人療法だからやめた方がイイでしょうが。その昔は、そんなに大げさな話しではなく、ごく自然な話しだった。何度か病院に行ったが行くほどではない話しだった。それが、今ではオオゴトだ。
2026.07.22
コメント(0)
良くない出来事ばかりが続く。そういう年代なんでしょう。書いてる最中に大衆音楽の編曲を頼まれて四苦八苦。楽譜を見てるだけで目まいと言うか、頭がグルグル回り、あげくは吐き気がする。「芸術は爆発だ!」と真理を破壊した自由表現は自由過ぎる。それを編曲するとなると道理は通じない。まぁこの歳でこんなことを何故しないといけないのか。憂鬱になる。良くないことの連続に「厄払い」をしてもらわないと。そんな気分ですか。
2026.07.20
コメント(0)
ささやかな嬉しい話しドイツ初期バロックのシャイトの楽譜をそろそろ閉じようとしていた矢先に、奥さんから十年か二十年か前の曲の編曲を頼まれた。ドイツで勉強していた頃に、同じ音楽学生だったドイツ人らにつられてシャイトはよくアンサンブルした。学生仲間のコンサートや、演奏試験でもシャイトをとりあげた。その音楽仲間が、ウクライナへのロシア侵攻で家族を失い、その後遺症で楽友本人も召された。そんな複雑な中、シャイトを閉じたところに、奥さんからの頼みだった。おまけに一音下げる指定があった。「おいおい一音下げると曲全体が変わるよ!」と言いたかったが「言わ猿」で飲み込んだ。(僕も少しは大人になってきた)78だもんねーーー理屈の上でも声が出るわけないか音が高すぎるそれにしても、78でそこそこに、おもかげが残ってるのは奇跡と努力と精神力のたまものだ!頭がさがるシャイトをやっていた頃、奥さんもバロック唱法を学んでいた。今の発声法では、声が出なくても当たり前なのに、大きな会場で歌うことばかりに専念してきた日本の音楽界の結果ですね。まぁ~僕には関係ないですけど
2026.07.18
コメント(0)
孫が本土に戻ったようだ。まづは一安心。どうかな。心配がつづく。孫の同僚は中東に。中東も米国の下も「社会病質者」の胸三寸。
2026.07.17
コメント(0)
イイ話しはナシ・・・イイもワルイも共に分かち合える人はゼロに近い。これが世の中と、分かったふりをするのが人間かも。昨日は久しぶりの教会に行った。三百か四百席そこそこの教会。いまはガランとしてる(司祭の声からして外国人の発音らしいアジア人司祭か)。高齢者と現役世代がそろって座る光景がほとど。現役世代?おそらく高齢者の付き添いの家族だと分かる。そりゃそうだ。歩いては、電車や車を運転して来れないのだから。聖体拝領のとき、高齢者だけが拝領する姿は厳しい現実と言うか、信仰の歴史の現実的結果。付き添いの人は祝福も受けずに・・・高齢者の子供、その子供の子供。この三世代の家族構成は一体どうなってるのだろうか。我が家を見ても感じる。つまり、この高齢者とは、戦後生まれ前後の我々世代である。戦争に負けてアメリカイズムの教育が導入されて今にいたる。家族そろっての食事もなく、あっても食事をしながら携帯電話をいじってる。会話はないテレビを見ながらか携帯をいじりながらか。子から親への質問は不要、メンドクサイ、関わり合いになりたくない、質問はAIに聞けるから。こんな時代に誰がしたそう我々世代です。
2026.07.13
コメント(2)
我が教会は歴史が古い。古いだけに土地も広いし、幼稚園もあった。ある時、さいたま教区は、理由は知らないが一斉?に教会付属幼稚園が無くなった(親子三代四代つづく町の顔がなくなった)。教会も古いし信徒も少ないしで、建築積み立て費もありで小さな教会を作った。僕に言わせれば「ろくでもない構造建築」(住宅街の町内会館みたい)当時、献堂式にあたり、聖歌隊は後ろにすべき、もちろんオルガンもと僕が提案したが、却下された。それが、昨日のミサではオルガンだけが後ろに置かれていた。聖歌隊は依然としえ同じ、祭壇前のまん前にある。それが、きれいな声で歌うならイイが、素人のカラオケ程度。とてもハズカシクて恥ずかしくて、まるで裸の王様だね、恥ずかしいと言う言葉を知らない、どこからあんな神経が生まれるんだろうか。神への賛美。信徒の歌声を先導すべき聖歌隊は、本来なら、信徒の座る席の後ろから歌って初めて聖歌隊の意義がある。それを、私を見て、私の声を聞いて、とばかりに我が身をさらすのだから。たへくそなのに。いったい何人の人が歌っているの?四人だった。はぁ~それで聖歌隊と言えるのぉ~~~よくもまぁ~こっぱずかしくもなく・・・謙遜謙虚って言葉を知ってるのだろうか・・・
2026.07.08
コメント(0)
昨日の主日ミサは、我が教会に二人して行った。第一週目は日本が主体。他の週は外国語が主体?になるので。とは言え、日本語主体とは言っても、小さな教会なのに外国人が多い。(それに、日本人は半分にも満たない。おまけに日本の新しい信者さんが多くなった)一ヶ月に一度しか我が教会には行かないが、驚きがある。我が教会は、聖歌隊が祭壇前にいる。これが、いつの間にか後ろにオルガンだけが置かれていた。聖歌隊は今までどおり祭壇前いる。なんでそうなるの?考えられない現実に「なさけなく」なってしまう。オルガン伴奏のそばにいて歌うのが常識で当たり前なのに、あんなに離れていてどうするの?その理由はたった一つしかない。まづ第一に、今になってどうしてオルガンの場所を変えたのか。変えたのなら、聖歌隊も一緒なはず。それを、従来どおり祭壇の前に聖歌隊は鎮座している。その理由は「おらが存在」としか考えられない。おれが私が歌っているんだよ、と自己顕示欲が強すぎだね。神の前では、人の後ろから歌うのが聖歌隊のスタンスのはず。オルガンと聖歌隊が離れていて、意思疎通はとれないだろうに。何を考えてるのやら・・・「神ありき」ではなく「自分ありき」ということ。どうしてこんな風になったんだろうか第二バチカンが大転換期でしょうそんな話しが話題になる場所がなくなったのが残念です。
2026.07.06
コメント(1)
色々と考えさせられる時間が長くつづいている。つまり「ウツ」と言うことか。おまけに、どうしてもこの道を通らないといけない。奥さんのコーラスの編曲。けっこうあるから二ヶ月になるか。その間、そのメロディーが頭の中で駆け巡ることになる。これが一番危険な存在。これらのメロディーが我が頭を支配するのだが、これが非常にスムーズに受け入れるのだ。不思議なもんですね。「血」なんですね、日本人の血。西洋音楽は「仮の宿」。血の違いですか。日本人には到底受け入れられない西洋音楽なのかもしれません。(そうは言っても「讃美歌」は子供の頃から見聞きしているのでスムーズに理解できるのが日本人ですね)自分の行く道の音楽は無理に作られたものだから、いま編曲している音楽をやっていると自分の身になってしまう。ここんところが恐ろしいところです。そんな編曲の中に「一曲」我が身の救いの曲を発見。作曲者名を見て救われた。どこか他の曲とは違う。日本にあって西洋の異国のにおいがするから。不思議なもんですね。恩師の初めの頃のお弟子さんのお弟子さんとなる作曲家だ。つまり、先生の「外孫弟子」さん。建築で言うところの土台と壁がしっかりしてる気がする。今週で編曲とオサラバしないと。洗脳されてしまうのが一番怖い。我が頭は、その程度なのがよく分かる。
2026.07.02
コメント(0)
全13件 (13件中 1-13件目)
1


![]()