2007年01月02日
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『六代目山口組・司体制誕生の衝撃~全国制覇へ!その時、山菱は動いた』から/猪野健治、宮崎学(対談)の一部抜粋(一九二-二〇〇頁)

<対権力の意識、潤沢な資金力……山口組の強さの原点は三代目田岡組長にある>

-しかし、そうした点からしても、やはり山口組というのはよくできた組織ですね。

宮崎 猪野さんは古くから取材されてるんで、お伺いしたかったんですけども、第一次頂上作戦が一九六五年から始まって「解散」ということを迫られ、それを拒否しますよね、三代目は。以降、第二次頂上作戦、第三次頂上作戦と、当然権力の取り締まりは山口組一点に集中していっただろうと思われるんですが、あの第一次頂上作戦直後に「解散」を迫られた時に、地道行雄 若頭なんかはそれに従おうとする意見もあったわけですね。

猪野 はい。それは田岡三代目自身が自伝の中に書いてますけどね、あの時、地道若頭としては親分を守りたいと。つまり、突っ張ったらろくなことにならんと。だから、ここで形だけでも一旦親分を安泰にしたいという、そういう発想から解散論を唱えるんです。ところが、舎弟の小西音松小西一家総長、彼が猛反対するんです。だめだ、絶対だめだと。

で、親分の真意を確認するわけですね。そうしたら絶対に解散せんと。その根拠は何かというと、一つにはよく警察の使う手なんですけども、警察のメンツというものがあると。だから、一回何でもいいから「解散」と一言言えと。そしたら、これ以上は厳しい取り締まりはやらんと。ところが田岡三代目がそれを拒否するわけです、取引には応じないと。

宮崎 その頃から、つまり三代目の権力への迎合の拒否から、いろんな紆余曲折はあるんですけれどもその後の山口組の権力に対する意識というものが確立されてきているように思うんです。つまり、取引・迎合というのは部分的にはあっても、本質的なところではできないんだという方向ですね。山口組の中で、対権力の意識というのものが、ノウハウとして蓄積されていくことになります。その後、九二年の暴対法も、はっきり言えばあれ山口組対策法ですから。だからそれらの経験を経て、言ってみれば、やくざとしての権力との関係の距離感というものを山口組は確立して行かざるを得ない立場にあったと思います。
それが山口組の知恵の源泉だと思うんですよ。

その一方山口組が、これはすごいところだなと思うのは・自分の組の中における内部対立を、逆に発展の材料にしてきたところがありますよね。「山一戦争」しかり、今回の六代目継承しかり。内部で対立があったとしても、全部吸収しちゃう。



猪野 山口組が突出してどうして大きくなるのか。山口組はなぜ三代目の時代にあれだけ全国に伸びたのかということで、一つはっきりしてることは、田岡三代目は最初に組長に就任したその時に、山口組を発展させるにはどういう方法がいちばん妥当かと考えるわけですけれども、それにはまず事業を確立することだと誓いを立てるんですね。

それまでのやくざの世界のシノギというのは賭博とか露天とか、あまりに古色蒼然たるものばかりなんですよ。そんなことやってたら、一〇年、二〇年先に通用しなくなると。ギャンブルはどんどん公営ギャンブル化していって、最初こそ、公営ギャンブルの警備料として地方自治体が地元のやくざに警備料を払っていたわけですけれども、しかし、そんなものは打ち切られることは見えていると。

そういうことを見越して、田岡三代目が何をしたかというと、山口組の初代、二代目がやってきた事業の近代化を図るんです。

初代は港湾荷役からスタートして、要するに人夫供給業ですよね。で、二代目の時代になって、浪曲を中心とした興行に入っていくんだけれども、そのやり方というのは、やっぱり近代経営とはとても言いがたいわけですよ。俗にやくざの社会でいわれる花興行というやつですね。親分の何回忌だとか、そういうようなことにかこつけて興行を打って、地元の商店街とか有力者にチケットを買ってもらう。もう一つは、自分のところの縄張り内で興行を打った場合には、ちゃんと守代をいただきますよと、そういう形の興行でしかなかった。彼はそれを近代的な事業として確立しなきゃいかんと、こう考えたわけですね。

ですから、彼は組の抗争とか、そういう旧態依然とした資金活動については、全部、端的な言い方をすれば、地道若頭に任せるんです。昭和二〇~三〇年の一〇年間、そんなところには一切口も出さず、ひたすら港湾事業と興行を徹底的に近代的な企業にするわけですよ。ちゃんと労災にも入ってたし、社員は健康保険にも加入している。僕はいまでもはっきり覚えてるんだけど、当時毎日新聞の記者の月給が一万五〇〇〇円程度だった。その頃に神戸芸能社の社員の月給は二万円を超えてた。これは立派なもんですよ。もちろん、その中には全然やくざなんかはいない。

そうした一方で、事業を通じて政財界ヘコネクションを深めていくわけです。その一つは横浜港の顔役、全国港湾荷役振興協議会会長の藤木幸太郎という人がいたわけですけど、この人を通じて田中清玄を紹介してもらって。

それがどういうことかというと、横浜港でもやっぱり、全港湾という共産党系の組合が強かったんですね。その問題を藤木幸太郎は田中清玄に相談するんですね。昔の共産党時代の人脈があるから。それで知り合った田中清玄を田岡三代目に紹介するんですよ。すると、今度は田中清玄が田岡三代目に頼み事がいろいろあるわけです。

それでいちばんよく知られているのが、丸善石油の株主総会で、丸善石油にちょっと間題があって総会がもめるというんで運営を頼むんです。で、彼が一発で抑えちゃって。

-田中清玄は石油ですからね。インドネシアの石油利権。

猪野 そういう関係から、深くなっていくんですよ。田中清玄は親交のある東京の財界人のところに田岡三代目を連れていって直に紹介した。それで山口組は総会屋的な分野に進出するんです、佐々木道雄・佐々木組組長とかね。織田譲治・織田組組長とか白神一朝・白神組組長などですね。

宮崎 僕は藤木幸太郎さんが田中清玄さんを田岡、・二代目につないだということは知らなかったんですけど、その頃の話でいえば、六〇年安保ブントの篠原浩一郎(社学同書記長)が、田岡三代目自身が社長をしていた甲陽運輸で一時経理をやってるんですよね。



で、その時田岡三代目は月に一回ぐらい篠原浩一郎を呼び出して、ちゃんと飲ましてくれるらしいですよ。頼むな、ということを言って。その篠原浩一郎がやっぱり望外な給料をもらっていたと言っていました。それと、さっき猪野さんがおっしゃられたように、事業をやるということで、こういうふうに言ったらしいですね。もうカスリごと、要するに縄張り代だとか用心棒代だとか、そんなの取っても仕方ないと思う。合法か違法かということはわしは知らん。しかしながら、やくざはみんな給料をもらえるようになれと、若い衆にアドバイスしたといわれています。月々決まった給料をもらえないとやくざとしては成り立たんというようなことで、結構若い衆を教育されていたようなところがあったようですね。

言ってみれば、経済やくざ的な側面をいちばん最初にあの人はわかってたんだろうと思うんです。

経済人脈でいえば、田中清玄がつないだ経済人は、つまり、それぞれの会社に労働組合があって、労働運動で相当困ってた経営者が多かった。そうした中で篠原が言うのは、日本精工社長の今里広記なんです。あそこの労働組合がまたものすごかった。だから、今里広記を田中清玄は田岡三代目に紹介した。で、田岡三代目は篠原浩一郎を今里広記に付けるわけです。そうして労働組合つぶしを篠原浩一郎にやらせるという、そういう形になった。

猪野 今里さんは後にNTTの民営化の時に、それの総司令官になりましたね。今里さんというのは財界の、会社という意味じゃなくて、財界の政治部長と言われたんですよ。

だから、経団連に加盟してる大きな会社に何か紛争が起こった場合に、今里さんが、さて、この紛争を解決できるのは田中清玄か児玉誉士夫かという、判断を下してたんですよ。



宮崎 そうですね。だから、いまかろうじて残ったというか、総会屋は絶滅危惧種的になってるんですけども、論壇同友会なんていうのは住吉会との関係を持つことで生き延びていくということになるんですよね。山口組三代目の場合、労働運動の間題があって、財界人なんかとの関係が相当あったと思うんですね。とくに今里広記なんかを通じては政界との関係も結構深まっていくということがあるんだけども。しかし、僕は三代目でその関係というのは一旦終わったと思うんです。そのあとにちょうど四代目になって、山一戦争が始まるわけですから。

当然、その後の日本経済の状況もあって労働運動が弱体化してくれば、財界は財界でもう山口組の力など借りないほうがスムーズに運営できるということになってきて、関係は疎遠になっていったはずなんですね。

一旦断絶するんだけども、それがやがて今度はバブル経済になると、また新たな経済人と山口組の新たな指導者たちとの関係が深まっていく。そのいちばんのものが許永中とかイトマン事件で見られる宅見若頭との関係ということになると思うんですね。一方では稲川会のほうが石井進二代目会長の時代にやっぱり東急株の買い占めをやっていくということになります。とくに東京佐川急便との関係なんかが大きく出てきてですね。

ですから、そういう点では、経済人との関係ということになるといまは第三期に入ってると思うんです。つまり、楽天の三木谷とかライブドアのホリエモンとかいうような人たちが出て来て、会社の買収とか株の買い占めみたいなことを始めていくんだけども、多分これも新しい六代目体制との関係は当然深めていくことにならざるを得ないだろうと思います。

『六代目山口組・司体制誕生の衝撃~全国制覇へ!その時、山菱は動いた』から 猪野健治、宮崎学(対談)の一部抜粋(192-200pp)

(引用終わり)





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最終更新日  2007年01月02日 18時19分51秒
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