メルNO・3
今回は肥田式強健術に関して書いてみたい。
肥田式強健術は実践不可能の鍛錬法である。
ではインチキなのか?
不可能だがインチキでは無い。
肥田式強健術は本物であった。
本物なんだが、実践できないだけだ。
肥田式強健術の中で一番有名なのが、正中心道腰腹練修法(下体)なのだが、みんな腰を痛めてリタイヤしてしまう。
私も30代から40代にかけて夢中で肥田式強健術を実践したが、腰を痛めてしまい、動けなくなった。
強くなりたくて真剣にやっていたのに、かえって弱くなった。
自分の健康を守るために、私は肥田式強健術は完全にインチキだと断定し、放棄した。
多くの人が肥田式強健術を始めるが大概の人は腰を痛めて止めてゆく。
止めてゆく人達が悪いのではない。
肥田式強健術に問題があるのである。
あの腰腹練修法(下体)は達人技であり誰にも真似ができない。
誰にもできない事を提示したとてエンターテイメントとしては成立するが、強健術としては成立しない。
その証拠に、みんな腰を痛めるだけ。
そんなものは、強健術として価値があるのか?
わたし海光和幸の丹田修行法はその中心が肥田式強健術であることは事実だが、徹底的に自分流に改良したものである。
改良しなかったなら、腰を壊して、廃人となっていたのである。
そうゆう意味で私はオリジナルの肥田式強健術は絶対にお勧めしない。
改良に改良を重ねた、言わば海光和幸式強健術をお勧めする。
海光式なら腰を痛めることはない。
安心して海光式丹田錬磨法を実践して頂きたい。
思えば肥田式強健術は不思議な存在である。
我が人生の最大の味方であるし、同時に最悪の敵でもあった。
最悪の敵であった時、インチキと断定して、放棄して正解であったのだ。
あのまま腰の痛みを抱えながら無理をして肥田式を続けていたら、歩くことさえできなくなり、行き倒れていただろう。
私が臍下丹田の秘密、いわゆる正中心を体得したのは、肥田式強健術によるのではない。
信じられないが、社交ダンスや職場での何気ない運動が臍下丹田の奧義を授けてくれた。
つまり私は正中心を体得した後でまた再び、肥田式強健術に還っただけである。
すべての修行は茶道の千利休のお言葉どおり、「守・破・離」である。
「守」とは先人の言葉を守ること。
「破」とは先人の言葉を放棄して、自分自身の悟りを開くこと。
「離」とは悟りを深め、自分流を確立すること。
貴方が本物に成るつもりなら、「守・破・離」であろう。
厳しい修行の道。
しかし厳しさの中に楽しさもある。
自分が進歩しているという実感があるなら厳しい修行も楽しいものである。
今が戦国時代なら、お互い生き抜くために、徹底的に力を求めねばならない。
しかし、令和であるので、力を第一に求める必要はないのである。
現代の丹田修行者は、第一に快感、つまりエクスタシーを希求すべきであろう。
それが一番正しい修行法である。
快感が臍下丹田から出てくれば、自然と力も出てくるからだ。
特に初心者の方は快感を求めなくてはならない。
初心者の方は自分の修行法が正しいのか間違っているのか、判断できない。
その判断の基準となるのが快感なのである。
快感ならベテランも初心者も同じように感じられる。
正しい丹田錬磨法なら、必ず快感が発生するから、それを基準とすればいい。
エクスタシーに包まれながら臍下丹田を鍛えてゆく。
こんな素晴らしい事はない。
我々、丹田修行者はまさしく、世界一の幸福者であろう。
< 原理主義者 >
真理への道は沢山ある。
原理主義に堕ちると成長できない。
宗教、哲学、科学、丹田修行、すべてにおいて、そうであろう。
そうゆう意味でオリジナルの肥田式強健術の実践はお勧めしないが、参考にはすべきなのである。
私が一旦、肥田式強健術を放棄して、再び還ったのも自然の流れだった。
肥田式強健術創始者、肥田春充先生。
超絶の天才であろう。
しかしながら、何人も肥田式強健術を実践できない。
特に下体は実行不可能。
参考にすべきだろう。
しかし、実践すべきではない。
これで第三回、配信は終わります。ありがとう。