曹操閣下の食卓

PR

×

Profile

曹操閣下の食卓

曹操閣下の食卓

2006.01.11
XML
カテゴリ: 芸術
変態教師告発運動をやっている隠れなき曹操閣下が、《エマニュエル夫人》を論ずると、「何だ、こいつ」と誤解する人間もあるだろう。

そりゃね、結婚して、夫婦間でスケベな話題を避けていたら少子化になるわけだ。
スケベ心は大いに結構だ。

ただし、「道ならぬスケベ」というのは犯罪になるわけ。
《エマニュエル夫人》を見たら、その芸術性がよくわかる。
昔は、マリリン・モンローの映画だって批判されたものなのだ。

まあ見たことがある人には、多くの説明は要しないだろう。
内容は「お昼のメロドラマ」風のベッド・シーンばかりで、どれも一分程度のものに過ぎない。

重要なのは、これらの人間(肉体)関係の間に交わされるフランス的な会話だ。

何が《フランス的》かというと、シモーヌ・ド・ボーヴォアールさんの『第二の性』の議論をかなり踏まえたものになっているから。

彼女は、家に閉じこもって家政婦のように働いている主婦たちより、高級娼婦のほうが「自由に男を選んでいる」ということで高く評価した。
ここまでは直ちに賛成することはできないが、「女性よ、自分自身を自分の束縛から解放しなさい」という彼女の気持ちはよくわかる。

で、そうした「女性の自立」の理論を代弁する人間として、マリオという老紳士が終わりに登場する。
こうしたソクラテス的な人間を、トロに対するワサビのように持ってくるのが、またまたフランス的なのだ。
『料理人ヴァテール』でも同じような老紳士が出てくる。
伊丹十三も、こういう「解説役キャラクター」を必ず登場させた。あの人もコクトー映画が好きだったから。

しかしまあ、そのマリオの所説というのが、私にはどうもいただけない。

「恋愛の技巧の極致をきわめるためには羞恥心の壁を越えなくてはならない」なんていうのは、実は自分の信念でもあるのだが(笑。
それはね、女性との肉体関係のありさまを赤裸々に漢詩《狂雲集》に賛美したり、「神も仏もヒョイヒョイと生む」と女性自身を戯れ歌にうたった一休宗純(いわゆる「一休さん」)の悟りの境地と同じなんだ。
平安京が灰燼に帰した応仁の乱の戦乱の中に、真の人間愛を求めたんでね。


また映画の《エマニュエル夫人》に出てくる女性たちの性的なテクニックというのも、実に稚拙だ。
最近の映画の「濡れ場」シーンのほうが、もっと過激だ。
それだけ「女性についての性医科学」が発達したのだといえるだろう。

もう一つは、この映画が舞台として、タイのバンコクをえらび、この国の少女売春の盛行を、単にエキゾチックな慣習として無批判に賞賛していることだ。
そうした人身売買同然の東南アジアの雰囲気にのまれて、若いエマニュエルが「性の自由」に目覚めていくというストーリー仕立てが面白くない。


話がバンコクだから、まあ中立だが、これがフランス旧植民地のサイゴンやらプノンペンが舞台だったら、フランス外交官たちの「御乱行」やら少女買春は帝国主義の残滓以外の何ものでもない。
不愉快きわまりない。

それにマリオはマリファナまでエマニュエルに吸わせて、「精神の解放」を解説しようとする。
これもマリファナが解禁されている現在のヨーロッパでは賛成する人は多いだろうが、日本人の私は絶対に賛成も承服もできない。

麻薬が人間の精神を解放するなどということはありえない。
アルコールもそうだ。

真の恋愛の甘美は、アルコールや麻薬よりも人間を陶酔させるものだと知っているから。

恋愛のテクニックが稚拙で、下手だから、薬物や道具に頼るなんて、みじめだと思わないのかね。
これが私の確信であり、信念である。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2006.01.11 19:12:18


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: