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2026.09.17
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落花生畑の三匹 朝の五時半、千葉の空は、まだ薄い水色をしていた。 
畑の向こうに見える林から、ひぐらしの声がひとつ、またひとつと響いている。
夜の名残を含んだ風が
落花生の葉を低く撫でていった。

葉の先には細かな露が残り、朝日が顔を出すたび、畑全体が銀色に瞬いた。
「行くぞ」 
縁側から声をかけると、三匹の犬が一斉に立ち上がった。 先頭に出たのは、茶色い毛のハナだった。
三匹のなかではいちばん年上で、耳の先が少し白い。畑の道を歩くときも、
主人の健一より二、三歩前を行き、何か変わったことがないか、いつも確かめている。 その後ろを、黒い毛のクロがのんびりついてくる。


 最後は白に茶ぶちのマル。
三匹のなかでいちばん若く、走ることが好きだった。
走る理由がなくても走る。
蝶が飛べば追いかけ、風でビニールが揺れれば吠え、ハナに叱られては、また走った。
 健一は麦わら帽子をかぶり、軍手を腰のポケットに入れた。軽トラックの荷台には、草刈り鎌と水の入ったポリタンク、それから犬たちのための古い青いバケツが積んである。
「今日は畑の端を見て、それから草を取る。マル、畝を踏むなよ」 名前を呼ばれたマルは、わかったような顔で健一を見上げた。しかし、その三秒後には、畑の端を飛び越えていた。
「おまえは、ほんとうに話を聞かないなあ」 健一が笑うと、ハナがマルの首もとをくわえて引き戻した。
マルは不満そうに鼻を鳴らしたが、ハナの横に座る。クロはその様子を見ながら、健一のズボンのポケットを鼻で押した。

 「おい、クロ。今日は何も入ってない」
 そう言われても、クロは信じない。
落花生の収穫時期ではなくても、健一のポケットには、ときどき畑で割れた豆や、朝食のパンのかけらが入っているからだ。 畑に入ると、土の匂いが濃くなった。 

まだ土のなかで育っている実は見えない。
それでも健一には、株の色や茎の張り具合から、
それぞれの調子がわかった。
「今年も、よく育ってるな」 
健一がしゃがんで葉を分けると、

もちろん犬に落花生の出来がわかるはずはない。
それでもハナは、健一が畑を見るときには、
いつも同じ方向を見た。

 クロは日陰を探して納屋の壁際へ行き、
マルは畝と畝のあいだを行ったり来たりしている。
ときどき、遠くで鳴くカラスに向かって吠えた。
「カラスは見張らなくていい。おまえは水でも飲んでこい」 
健一が青いバケツを置くと三匹は順番に水を飲んだ。
ハナが最初、クロが二番目、マルが最後だった。
マルは待ちきれず、クロの背中越しに顔を突っ込もうとして、またハナに叱られた。
午前八時を過ぎると、
太陽は畑の上で本気になった。
 健一は落花生の株の間に生えた草を、
1本ずつ抜いていく。
土は乾いているように見えて、指を入れると、下のほうにはまだ湿り気が残っていた。
抜いた草を畝の端に集めると、マルがそれをくわえて走り出す。
「それは遊び道具じゃないぞ」

 健一が追いかけると、マルは楽しそうに逃げた。
けれど、畑の端で待っていたハナに道をふさがれ、
くわえていた草を落とした。
クロはその草の匂いを嗅いだあと、
興味をなくしたようにあくびをした。
作業の途中、
近所の美代子さんが自転車で通りかかった。
「健ちゃん、朝からご苦労さん。犬たちも元気ねえ」
「元気すぎて困りますよ。特にこいつが」
 健一がマルを指さすと、
マルは自分のことではないふりをして空を見上げた。
「三匹いると、にぎやかでいいじゃない」
「にぎやかというか、監督が三人いる感じです」
美代子さんが笑うと、ハナは誇らしげに胸を張った。クロは美代子さんの自転車の前かごを見つめている。何か食べ物があるかもしれない、と
考えている顔だった。
「クロちゃんは、相変わらず食いしん坊ね」
「この前なんか、落花生の袋を破りましてね」

 「まあ。落花生農家の犬なのに」
「だからでしょう。うちの味を知ってるんですよ」
美代子さんが帰ったあと、健一は三匹と畑に残った。
風が少し強くなり、
葉の裏側が一斉に白くひるがえった。
遠くで海のほうから雲が流れてくる。
午後には夕立があるかもしれない。 
健一は空を見上げ、それから畑を見渡した。
 畑のなかには、犬たちの足跡がいくつも残っている。マルの大きな跳ねた跡、クロの丸い足跡、ハナのまっすぐな歩み。
三匹が毎日ここを歩くことで、
畑には畑の時間とは別の、小さな時間が積もっていた。 
昼前、健一は作業を切り上げた。
 納屋の軒下に座り、冷たい麦茶を飲む。
三匹はその足元で伸びていた。
 ハナは健一の靴にあごを乗せ、
クロは風の通る場所で腹を見せ、
マルは眠りながら足を動かしている。
夢のなかでも走っているらしい。

 「おまえら、午後は雨かもしれないぞ」 
 健一が言うと、ハナだけが目を開けた。
 その目を見ていると、健一はふと思った。
畑を守っているのは、落花生の株だけではない。
毎朝ここへ来て、葉を見て、土に触れて、
犬たちの水を替える。
そういう何でもない一日一日が、この場所を守っているのだ。
 やがて、空からぽつりと雨が落ちた。
 マルが飛び起き、クロがのそのそと立ち上がる。
ハナは健一の顔を見た。
「帰るか」 
三匹が声をそろえたように吠えた。
 健一は道具をまとめ、青いバケツを抱えた。
犬たちは先を争って軽トラックへ向かう。
けれど畑の入口で、ハナだけが一度振り返った。
 雨に濡れた落花生の葉が、静かに揺れている。
 健一も振り返り、帽子のつばを押さえた。
「また明日な」
 ハナは返事の代わりに、短く一度だけ吠えた。 
その声が、雨の向こうへ消えていく。
 夏の畑には、落花生の匂いと、
濡れた土の匂いと、三匹の犬が走ったあとの、
かすかな草の匂いが残っていた。
 そして明日の朝もきっと、
ハナが先頭に立ち、クロが何かを探し、
マルが理由もなく走る。健一はそれを知っていた。
知っているからこそ、
明日が来るのを楽しみにしていた。


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最終更新日  2026.09.17 07:07:57
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