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NEONEUN NAE UNMYEONG aka YOU ARE MY SUNSHINEJin-pyo Park122min(韓国語)(桜坂劇場 ホールCにて)昨日書いた『シークレット・サンシャイン』がなかなか良くって、韓国映画にも主演のチョン・ドヨンにも良い印象を持ったので、関連作上演のこのもう1本のサンシャインを見に行きました。『シークレット・サンシャイン』は、カンヌの主演女優賞ということで見に行ったのだけれど、この2本のサンシャインのチラシの写真やネットでキャプチャ映像を見ると、女性としても演技者としても特に魅力は感じなかったのだけれど、映画で見ると、何か不思議に魅力のある人です。さてこの2本目のサンシャイン、原題は、ハングルは読めないしここでの表示も面倒なのでローマ字表記するとNEONEUN NAE UNMYEONG。これは「You are my destiny」という意味らしいです。音楽として有名「ユア・マイ・サンシャイン」を使って、この英語タイトルとなったのでしょう。中国語題は「称是我的運命」(称としましたが実際にはニンベンです)となっていて原題の直訳のようですが、「あなたは私の運命」の方が味わいがありますね。話の骨格はごく簡単。その構造をネタバレ的になるけれど書いてしまえば、男女の出会い、相思相愛成立、結婚と一時の幸せ、困難(試練)とその克服、ハッピーエンド、というどこにでもありそうな純愛物語です。こういう映画は、あとは実際にどういう設定が細部にあるかと、役者の演技が見物となる。加えるに細部の設定が含むテーマ性でしょうか。単純に見ていたら感動もしましたし、涙も誘われました。主演のチョン・ドヨンと、特に後半のファン・ジョンミンが良かったですね。今書いた物語の構造というのは分析でしかないわけで、監督のパク・チョンピョは実際にあった事件から着想を得たようです。自分がエイズだと知らずに多数の客を相手にしていた娼婦が逮捕されたという事件です。映画冒頭には「この物語は実話です」とテロップが出る。そして最後には「2人は今も幸せに暮らし、エイズは発症していない」と。良くも悪くも、口コミで広がって、韓国で300万人を動員して韓国映画史上・ラブストーリーNo.1を記録したのだから、映画としては成功でしょう。2002年の日韓ワールドカップが出てくるから、物語の設定はその前後ということになるわけだけれど、韓国に於けるエイズ認識、特にその偏見の実態はどんな状況だったのでしょうか?。ちょっと古臭い感じで、1980年代のフランス映画を見ているかのような状況です。ボクなどはこういう映画と、そのヒットといのを聞くと、それはもちろん日本でのことでもあるんですが、ちょっと疑問、あるいは欺瞞と言った方が良いかも知れないことを感じてしまいます。観客はこの物語の2人には感動して、涙も流すけれども、実生活でエイズ患者に偏見を持って接することに何ら変わりはなかったりします。テレビのホームドラマで言えば、嫁に意地悪な姑を見て「なんてイヤな女」って言っているオバサンが、実際には自分の息子の嫁に本質的に同じような人物だったりするわけです。ちょっと意味は違うけれど、ヒッチコックか誰かが言ってましたね。その人物が殺人者などの悪者であっても、その人物に危機が迫るようなサスペンスでは、観客はその人物に感情移入する、っていうようなことです。つまり実生活ではエイズ患者を白い目でみるような観客も、ここではエイズの主人公に感情移入するということです。この映画も決して短くはなく2時間を超えるものです。その割には内容はやや希薄です。シネという女に一目惚れした酪農をする36才のもてない男の描き方はややコミカルに過ぎるものの、そんな彼の純粋でひたむきな愛にシネが段々、少しずつ、ある意味自分を解放しながら惹かれていく様子は良かった。上にも書いたように写真などで見るとあまり魅力を感じないチョン・ドヨンなんですが、実際に映画の中で演じている彼女を見ていると妙に惹かれます。そんな彼女をたくさん見せるという意味では、前半の冗漫さも解るような気もします。それは『シークレット・サンシャイン』でも同じでした。演技によって浮かび上がらせる人物が良いわけで、演技上手ってことなのかも知れません。もちろん彼女のそうした魅力は映画全体を通じてのものです。話が飛んでしまったのだけれど、純愛ラブストーリーとして成功しているのだから、それだけで良いのかも知れないけれど、ちょっと上にヒッチコックだ何だって書いたことで言えば、エイズならエイズにもう少しスポットをあてて作ったら、もっと重厚な映画になっていたでしょうね。あるいはほんの一面描かれる主人公の過去。つまりシネの不幸、彼女がある男から逃げていること、生きていくためには手っ取り早く売春をしなければならないということ。そんな彼女の人間をもっと深く描いても面白かったと思いますが、結局のところうわべだけのような感じで、深みに欠ける感じがします。チョン・ドヨンは監督の出演依頼を最初断ったそうです。実話の男性の2枚の写真、1枚は事件前の健康的で爽やかな笑顔の写真、もう1枚は事件後に白髪の老人にようになってしまった写真。監督にその2枚を見せられて、何が、あるいはどんな愛が彼を短期間にそうさせたのか、それをチョン・ドヨンは知りたくて映画出演を承諾したということです。でも結果として出来た作品ではそういうことがそれほど深くは追求されていなかったように思います。もちろん彼に起こったことを時間系列に描いてはいるし、たぶん実際に映画後半の撮影ではかなり減量したファン・ジョンミンの演技は良かったけれど、それでもなお少し掘り下げが弱い感じです。結果として美しい、感動的なラブストーリーに仕上がっているけれど、人間ドラマという意味では物足りなかった。なので見どころは、この2人の役者の演技を見ることだけになってしまっています。それはそれで魅力的ではありますが・・・。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.10.09
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密陽(Milyang) aka SECRET SUNSHINELee Chang-Dong142min(1:2.35 韓国語)(桜坂劇場 ホールCにて)良い作品でした。自分にとっては韓国映画は初体験に近いです。それは別に韓国に対して偏見があるからではありません。むしろ相当むかしにヨーロッパに行くのに大韓航空に何度か乗って以来、韓国の人々にはある種の親しみを感じていました。映画を見ていてもそうだけれど、感情を生にむき出しにするのが良いです。ただ、ヨーロッパ映画(特にフランス、イタリア、スウェーデン映画)と日本映画(そしてある意味では古いアメリカ映画)が、自分の映画鑑賞のルーツなので、あまり手を広げることをしなかっただけです。たぶんテレビで、自分がテレビをまだ見ていた頃だから15年とか20年くらい前に1~2本見たことがあるだけでした。今回は主演のチョン・ドヨンがカンヌの主演女優賞というので見に行きました。いやぁ~、物凄く立派な作品でした。この映画は劇場ででもDVDででもみなさんに観ていただきたいオススメ作品なので、まずはあまりネタバレしない程度に書いてみます。まずはタイトルなんですが、シークレット・サンシャイン。秘密の陽光でしょうか。舞台となるのは韓国に実在する地方都市・密陽(ミリャン Milyang)。この都市名が韓国語の原題なのだけれど、その都市名・密陽を英訳すると Secret Sunshine になるんですね。夫を事故で失ったシングルマザーの主人公シネが、息子のジュンを連れて死んだ夫の故郷であるこの密陽に移り住んでくる。車でやって来るんですが、密陽に着く手前で車が故障する。それで密陽で自動車修理工場を経営するジョンチャン(ソン・ガンホ)がレッカーでやってきて2人は出会う。レッカー車に乗って密陽に向う途中、「密陽って秘密の陽光」だってシネのセリフがあるんですが、陽光、あるいは秘密ないし密かな陽光というのが、映画全編に関係する1つのテーマ、ないしアイテムなんですね。物語の内容としても田舎の都市・密陽の雰囲気や方言(自分にはもちろんわかりません)も合っていて、そういう意味で巧みにこの都市名を利用しています。シネは何故この密陽にやってきたのか。彼女のセリフにどちらもあるのだけれど、1つには夫が住みたいと言っていた地であり、もう1つは自分のことを人々が知らない土地に住みたかった。彼女はピアニストを目指してピアノを勉強していたが、若くしての夫との結婚のためにピアニストの道は諦めた。なのにその夫は死んでしまった。しかも生前には浮気もしていたらしい。彼女が招かれた家でリストを弾く場面があるのだけれど、長らくピアノをちゃんと弾いていないので上手く弾けない。彼女は夫の死で壊れてしまった人生、その夫との関係がまだ整理できていない。空を見上げて彼女が亡き夫に話しかけるシーンもあった。彼女は恐らく自己のアイデンティティーに自信を喪失しているのかも知れない。だからこそ夫との子供であるジュンの存在意味は大きかっただろう。ところがその息子ジュンも誘拐されて殺されてしまう。この映画を見て連想したのがポーランドのキェシロフスキ監督。結果的に夫と子供を失う女性、その夫は生前浮気をしていた、彼女は自分が知られていない土地に住みたい、自分は関心はないと思っている男性が彼女を想い、見守っている、といった設定は、物語は全然違うけれど、『トリコロール 青の愛』のジュリエット・ビノシュに酷似です。天にいる夫を見上げる視線、光の使い方や光に持たせた意味は『ふたりのベロニカ』に通じるし、キリスト教の神を疑うという面は『デカローグ 1』だ。この類似が実際にキェシロフスキの影響かどうかは解らないけれど、もしそうならば、やはりかなり深い人間考察をイ・チャンドン監督が目指しているということですね。でもイ・チャンドン監督がこれらキェシロフスキの作品を観ていることは確かだと思います。良い作品、好きな作品、カンヌ主演女優賞のチョン・ドヨン以下の役者も素晴らしい。でもやはりやや長過ぎますね。最近そんなことばっかり言っている自分ではあるけれど、そしてチョン・ドヨンの各場面の演技を残したいとか、どうしてもある種の持続感を持たせる必要性も感じるけれど、115分ぐらいにしたらもっと良かった気がします。フェリーニやリヴェットの映画はなるほど長いけれど、長い作品が偉いわけではありませんね。この映画の良いところは、韓国映画をほとんど見ていない自分言うのも変だけれど、なんとなく想像する韓国映画特有の情緒的しつこさがないところでしょうか。名演のチョン・ドヨンの喜怒哀楽は確かに強いけれど、でも静かな視点・描写の作品です。(以下ややネタバレ)シネはお金を持っていて、投資目的で土地を買うの買わないのというのがあって、それで身代金目当ての誘拐に遇うわけだけれど、実は彼女の預金は870万ウォンだった。韓国ウォンは日本円の約1/10だからそこそこ90万円程度、土地など買える額ではない。じゃあ何でそんな嘘をついたかと言えば、自分を金持ちに見せたいという虚栄ではなく、金はあるから同情しないでね、という周囲からの干渉に対する防衛線だったのでしょう。身代金の870万ウォンは大部の札束だけれど、韓国の最高紙幣は今のところまだ1万ウォン札だから、100枚の札束が9つ近くになるんですね。誘拐犯から脅迫電話があったとき、シネの足はジョンチャンのところに向っていた。ガラス張りのドアの店鋪兼住居の中に見えるジョンチャンは独りカラオケを熱唱している。もちろん誘拐犯に誰にも話すなと脅迫されていたのもあるのか、結局彼女はジョンチャンに会わずに引返すけれど、彼女の足が彼のところに向っていたというのは、心理的にも頼れる相手はジョンチャンだということですね。彼女はそれに勘付いてないか、認めたくないから、この後も彼の色々な申し出を拒否する態度を取るけれど、それでも結果頼ってもいる。この見守るジョンチャンというのが、1つのシークレット・サンシャインなんですね。そういう意味でのラストは美しい映像でした。シネは密陽に越してきてピアノ教室を開いた御近所の用品店に挨拶に行って、唐突に「インテリアを明るくすると良くなる」なんてアドバイスする。店の女店主は偉そうに余計なお節介だと思うんですが、映画の最後の方では実際にインテリアを明るくして店もお客さんが増える。でそのことを女店主はシネに感謝するのだけれど、これはよそ者のシネが町に受け入れられたということでもあるけれど、結局「今接している人々」と相互関係を持たなければ人の生に意味はないし、幸せもないということでしょう。シネのピアノ教室兼住居の向いは薬局で、経営する夫婦は共に敬虔なキリスト教信者だった。このキリスト教がどういう宗派なのかはよくわかりませんでした。統一教会ではなさそうだけれど、カトリックなのかプロテスタントなのか。「天にまします我らの父よ、願わくは・・・」という親しみのある主祷文が称えられていた。薬局夫妻の布教に最初はまったく無関心だったシネだけれど、子供を失って信じ始め、教会に通うようになり、心の平安を得る。すべては神の思し召しと息子の死をも受け入れられるようになる。そしてそんな彼女は息子の殺害者である誘拐犯に面会に行って赦しを与えようとする。しかし面会した犯人は明るく元気な様子。自分も改宗し、神に懺悔をしたら赦されたと明るく語る。それに接してシネの心理は一挙に神に対する不信感と変わる。不安定な精神の彼女は、リンゴをナイフで剥きながら、そのナイフで手首を切っていた。これがリンゴだというのも禁断の果実リンゴだから象徴的。ただここでのキリスト教は、もともと信仰や価値観として存在したヨーロッパとは違うので、ベルイマンの神の沈黙とか、ズラウスキやキェシロフスキの描く神ほどの意味はないかも知れない。子供を失った悲しみと怒りからの安らぎを一時宗教に求めただけで、彼女の中にはもともと疑うものとしての信仰は存在していなかったのだから。(以下ネタバレ)この映画のもう1人の重要人物は誘拐犯の娘だ。誘拐犯はシネが子供を通わせた塾の経営者・教師なのだけれど、その娘。事件が起こる前、最初に会ったとき彼女は中学3年だった。不良化している娘に父は冷たかった。その後3回ぐらいこの娘とのことが描かれる。シネの店を覗いてシネが冷たく怒るシーン。娘が男子の不良仲間に暴行されているのを、気になったものの見て見ぬふりをして去るシーン。そして自殺未遂をしたシネが(精神?)病院から退院して入った美容室で、シネの髪を切る美容師が少年院から出てそこで働いていたその娘だった。シネは耐えられずに途中で逃げ出してしまう。シネの整理し切れていない心理を表し、また中途半端に切られた髪のカットを自分で続け、それを静かに鏡を手に見守るジョンチャンというラストへの筋の展開に使っているのはわかる。しかしどうもこの美容室のシーンは、ボクとしては疑問を感じてしまった。この娘を主人公にした物語を見たくなってしまった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.10.08
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MEDUZOTLES MEDUSESEtgar Keret & Shira Geffen82min(1 : 1.85、ヘブライ語)(桜坂劇場 ホールAにて)これも前回の『迷子の警察音楽隊』と同じくイスラエル(フランスと合作)の作品。前作は2007年カンヌのある視点部門「一目惚れ」賞受賞だったが、こちらは新人監督賞「カメラ・ドール」を受賞している。まずはタイトル。上のポスターにあるようにヘブライ語で何だかぐちゃぐちゃ書かれている。そして日本のチラシには「原題:Meduzot(くらげ)」とある。中国語まではまだなんとかなるものの、こんなセム語になるともう外国語としてはお手上げ。それでもちょっと調べてみた。ヘブライ語はアラビア語等と同じように右から左への横書き。まずは逆(左から右)に書き直してみる。次に逆向きにした6文字を対照表にしたがって西洋アルファベットにしてみる。するとMDUZOTとなる。ヘブライ語では基本的に文字は子音だけで、母音は表記されないらしい。文字に付するニクダという補助記号もあるが、略されるという(つまりRAKUTENならRKTNとなる)。そこでこのMDUZOTのMに付されていた母音eを示すニクダが省略されていると考えれば、めでたくチラシにあったMEDUZOTに辿りつく。さて映画はイスラエル・フランス合作だから、正式であろうフランス語タイトルを見るとLES MEDUSES。ヘブライ語アルファベット表記に似ている。ではフランス語LES MEDUSESとは何かというと、クラゲのこと(複数形)。しかし語源はギリシア神話の、蛇の頭髪をした、見る者を石にしてしまう魔女メドゥーサ。つまりフランス語のタイトルが示しているのは「クラゲたち」であり、「メドゥーサたち」であり、MEDUSEはもともと魔女だから、名詞に性のあるフランス語ではもちろん女性名詞。だから恐ろしい魔女メドゥーサの意味はないにしても、「女クラゲたち」のようにも解することができる。それほどの意味がヘブライ語のMEDUZOTにあるかどうかまでは解らないが・・・。この映画にはふわふわとクラゲのように生きる3人の女性が出てくるわけだけれど、この3人の女性をタイトルが示していたことがわかる。なんでこんなことにこだわるかと言えば、たとえばクロード・ソーテの『エマニュエル・べアール 愛を弾く女』の原題は「冬の心」ぐらいの意味で、それが示しているのはべアール演じるカミーユではなくダニエル・オートゥイユ演じるステファンのことであり、主人公がステファンであることがわかる。しかし日本語タイトルからはカミーユが主人公に思えてしまう。ちなみに英語タイトルも本来はJELLYFISHではなくJELLYFISHESとしたいところだが、英語のFISHという語はあまり複数にしないらしい。そしてそれでも女性を示していることはわからない。ハネケの『ピアニスト』もそうで、フランス語原題はLE PIANISTEでもLES PIANISTESでもなくLA PIANISTEだから「1人の女ピアニスト」であることはわかるが、日本語題『ピアニスト』や英語題THE PIANO TEACHERでは、映画を見なければそのピアニストなりピアノ教師が女性であることはわからない。さて、タイトル考が長くなってしまったが、そういうわけでこの映画は、互いに少し交錯するもののほとんど無関係な3人の女性の数日間の物語。舞台はイスラエルの実質上の首都テルアビブ。作りは同時進行に編集した3編からなるオムニバスのようなもの。作りといい、長さといい、『迷子の・・・』に似ているとも言えるかも知れない。3人の女性とはパディア、ケレン、ジョイの3人なのだけれど、それぞれ1~2名の女性との関わりが描かれ、その意味では主人公の3人だけではなく女性たちを描いた映画であるかも知れない。パディアは結婚式場のウェートレスをしていたが、ずっと一緒に住んでいた恋人が出ていった。そんな彼女が海辺に座っていると、水着に浮き輪をした少女が海から上がってきた。周辺に親らしき人はいない。パディアは警察に連れていく。しかし託児所などの関連機関が週末で休みで、週末だけ預かってくれないかと警察に頼まれる。断ってひとり帰るパディアだったが、いつの間にか少女は彼女についてきていた。やむなくパディアは少女を預かることにする。少女は一言も言葉を発しなかった。ただ浮き輪を取ろうとすると大声で叫び拒否をした。パディアの両親は離婚していた。母は貧しい人々を助ける慈善団体を運営していたが、自分の主催する会合等があると電話をしてきて娘パディアに出席を求めたが、慈善活動には熱心だったが、娘パディアのことなど気にもかけていなかった。一方の父親は娘パディアにもっと愛を注がなければと口では言っていたが、若い愛人のことで精一杯。恋人にも捨てられ、家主には家賃の値上げを一方的に言い渡され、不器用で職場でのクビも危うい。今にも海に沈んでしまいそうな彼女の人生だ。浮き輪をしていれば何とか沈まずに海面にただよっていられる。そんな意味で謎の少女は実はパディアの分身なのだろう。一緒に乗ったタクシーの運転手の「娘さんかい?、妹さんかい?、目がそっくりだ」というセリフもあった。浮き輪をとられては沈んでしまう。同じ日に職場を解雇された式場カメラマンの女性と親しくなるパディアだけれど、そのカメラマンの子供時代の家族8mmフィルムを見せてもらい、そういうものが何もないパディアはその中のカメラマンの幼い少女だった頃の映像に自分に投影させて見る。やはり両親はいがみ合っていた。このカメラマンも一面ではパディアの分身でもあるわけだ。パディアの働く結婚式場でマイケルと幸せに披露宴をしたケレン。宴の途中でトイレに行くが、ドアの鍵が壊れて個室に閉じ込められてしまう。会場には大音量で音楽が流れ、人々は踊っているので、彼女が叫んでも声は外に届かない。思いあまってケレンはドアによじ登って上から外に出ようとするが、落ちて足を骨折してしまう。長旅は出来なくなり、カリブ海への新婚旅行は中止せざるをえない。やむなくテルアビブ市内の海岸のホテルに泊まることになる。ところが最初の部屋は悪臭がし、移った次の部屋は外の車の騒音がうるさかった。ケレンは骨折しているのでほとんど部屋に釘付けだ。そのホテルで出会った作家らしい謎の女性。彼女は最上階のスイートに独りで投宿していた。新婚の夫マイケルはときどきホテル内でその女性に出会い、そのことをケレンに話した。ケレンはその女性と夫との関係を怪しみ始めた。そんな思いでケレンは人生の悲哀を詩に書き、引出しに入れた。女性は親切にも部屋を代わってくれるという。ケレンは一層夫との関係を疑った。しかしある事態が発生して、前の部屋の引出しにケレンが忘れた詩が女性のものとして読まれる。もしかしたらここでもこの謎の女性はケレンの分身であるのかも知れない。小さな子供を故郷フィリピンに残してイスラエルに出稼ぎにきているジョイ。英語は話せるがヘブライ語はわからない。彼女はベビーシッターを希望して斡旋業者に出入りしていた。しかしそこで彼女が紹介されたのは斡旋業者の年老いた母親の世話だった。ところが今日から仕事という最初の日に彼女がその老女の家に行くと、老女は死んでいた。次の仕事は病院を退院する初老の母親マルカを娘に代わって迎えにゆき、家でマルカの世話をすることだった。娘は前衛劇団の女優で、今は近々上演するシェークスピアの芝居の稽古に忙しかったのだ。マルカは気難しく、そう、娘のあり方とか生き方、ひいてはつまり娘自体を認められないというか、そんな感じで母娘の関係はギクシャクしていた。言葉は通じていないのだけれど、病院にジョイがマルカを迎えに行くと、娘が来ないことの不満を洩らす。ジョイを警戒しているのか、荷物も自分で持ってジョイに預けようとはしない。でも段々にジョイの善意のある素直な様子にマルカも心を開いていく。娘の芝居の初日、もちろんマルカは観にいこうとなどしないが、ジョイに促されて2人で観にいく。でも会うとマルカは辛辣な批判をするだけ。娘も「もう会わないわ。」と言うしかない。それでも娘は通りから窓の中の母マルカとジョイの親密そうな様子を眺めている。我をはるだけで愛情の示し方を知らない母娘。親子という既成事実があると相手に対する甘えや過度の期待があり過ぎるんでしょうね。新婚のケレンの物語には親子のことは出てこないけれど、他の2人の物語は親子の問題が大きく描かれている。慈善事業で他人には夢中だけれど実の娘には愛情を示さない母親を持ったパディア。一方ではフィリピンとイスラエルに離れ離れで、たまに電話で話すだけだけれど互いに会いたがっているジョイとその子供。ジョイがその前を通るたびにショーウインドーの中に眺めていた大きな帆船の模型。言葉は通じないから何故かはマルカは聞かされてはいなかったが、お金が貯まったらそれを買って故郷の子供の誕生日か何かにジョイが送ろうとしていることをマルカは様子から理解したのだろう。子供に素直に愛情を示すジョイを、それの出来ないマルカはうらやましく感じたのかも知れない。周囲の誰かを特に非難するでもなく、しかし置かれた状況の下でどうにか沈まずに、浮き輪を着けて浮遊するかのごとく何とか日々を送っている、どこにでもありそうな3人の女性を中心に描いたほのぼのとした、決してハッピーな物語ではないかも知れないけれど、なにかとってもホッとする作品。ここにどこまでイスラエル社会の状況を読み取るべきかはよく解らないけれど、同時期の『迷子の警察音楽隊』との類似性からしても、人の心の繋がりを希求するものがあるのかも知れない。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.09.05
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BIKUR HA-TIZMORETLA VISITE DE LA FANFAREEran Kolirin87min(1 : 1.85、ヘブライ語・アラビア語・英語)(桜坂劇場 ホールAにて)期待が低かったので大感動。傑作になりそこねた名作。エジプトはアレクサンドリアの警察音楽隊。青い制服を着て楽器や荷物を持った一行8名が空港(テルアビブ?)に到着する。時は1990年頃か?。一行はイスラエルのペタハ・ティクバに創設されたアラブ文化センターの開幕式典で演奏するためにやってきた。ところが何の手違いか空港には迎えが来ていない。団長のトゥフィークは今までもそうしてきたように人に頼ることなく、自力で目的地に向かうことにする。バスを降りると、そこは砂漠の真ん中だ。大きな楽器を手に、またスーツケースのカートを引きながら一行は寂れた町の小さなレストランにやってきた。そこの女主人ディナに英語で事情を話すと、ここに文化センターなどはないという。どうやらここはペタハ・ティクバではなくベイト・ハティクバという忘れ去られたような辺鄙な町らしい。朝から何も食べていないとこぼす隊員たち。問題は一行がイスラエルの通貨をほとんど持っていないことだったが、ディナは心良く食事を出してくれた。食事が終わり正しいペタハ・ティクバに向かおうと決めた団長トゥフィークだったが、今日はもうバスはないとディナは言う。町にはホテルなどはない。ディナはは一行8名が3つに別れて、自分の部屋、店、常連の男性宅に泊まることを提案する。こうして隊員はそれぞれ宿泊先のイスラエル人と草の根的人間交流をすることになる。ディナの店の常連客男性の家にやってきた隊員3名。ちょうど妻の誕生日で、テーブルには御馳走が並び、親戚だか友人夫妻も来ている。テーブルを囲む3名+4名なのだけれど、文化は違い(イスラエルの4人はワインを飲んでいるが、エジプトの3人は基本禁酒のイスラームだからオレンジジュースだとか)、不得手な英語以外に共通の言語もない。互いに沈黙した気まずい場の雰囲気を解放したのは共通の音楽だった。「サマータイム」の合唱となる。別のシーンでディナが昔はテレビでエジプト映画をやったと語る。現在は米国のものがほとんどだというコリリン監督の残念な気持ちを反映したセリフらしい。そういう状況はあるのだろうけれど、ここでの「サマータイム」にしても、他に両文化の人々の共通の話題などとして出てくるのはマイケル・ジャクソンであり、「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」であり、全て米国製だ。この映画には政治的ことは何も出てこないけれど、パレスティナ問題の解決には結局アメリカが間に立つという皮肉を込めたメタファーなのかも知れない。隊長は空港で関係機関に電話をする。また砂漠の中のベイト・ハティクバに釘付けにされ、夜隊員の1人は大使館だか領事館だかに電話をする。しかしことは解決はしなかった。宿を提供し、人々の心の交流を実現したのは民間人だった。民族、宗教、政治の違いや対立を解決するのは、結局のところ民間の力だと言いたいのかも知れない。頑固で真面目、四角四面な隊長トゥフィークは、いちばん若い隊員カーレドのラフな素行を心良く思っていないというか、若さゆえの軽さとか反抗的なところが気になっていた。一行8人は2人、3人、3人に別れて別々の場所に泊めてもらうわけだけれど、カーレドは自分と一緒とトゥフィークは言って、2人はディナの家に泊めてもらう。話が前後するけれど映画の最後の方で、いつも「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」を甘い声で歌って女性に声をかけ口説くカーレドが、トゥフィークに促されてそれをそれをトランペットで吹く。「自分はチェット・ベイカーが好きでレコードは全部持っている」とトゥフィークは語り、なんとなくこの世代間の相互理解なんかが描かれる。ちょっと ヴィスコンティの『家族の肖像』の中の教授とヘルムート・バーガーのモーツァルトやりとりを思い出した。ディナはトゥフィークを強引にデートに誘い出す。小さな町の小さな食堂を切り盛りする姉御肌のディナだけれど、若い頃は生活に忙しく、そして今は夫とも別れて孤独だった。互いに寂しい人生を感じている2人の間にはほのかにロマンスの感情が。トゥフィークは心を開いて、自分の頑なさゆえに家族的に失敗した人生の苦い思いをディナに告白したりする。映画のチラシの解説にも書かれているように、雰囲気としてはカウリスマキやジャームッシュを思わせる。単純かつ純朴な人々の心理が、どこかあたたかく、また適度のコミカルさを交えて描かれる。カーレドは若いパピのデートに無理矢理ついていく。行き先はローラースケート・ディスコのようなところなのだけれど、パピは初心で女の子の扱いなんて知らない。紹介された相手の娘も内気だから、パピに放っておかれて泣き出してしまう。ここで女の子、パピ、カーレドが3人並んで座って、文字通りカーレドが手取り足取りでパピに何気にするべきことを指南して若い2人を結び合わせる。コミカルでもあり、カーレドの内なる優しい心が描かれていて、いいシーンだった。まあこんな映画で、2007年のカンヌの「ある視点」部門に出品されて審査員たちの「一目惚れ」賞を受賞したらしいけれど、この「一目惚れ賞」の原語は「Prix coup de coeur」で、「突然一発心を打たれる」なんて感じ。まさにそういう魅力の、そして後味が良い映画。トゥフィークを演じたサッソン・ガーベイもいいし、他の役者たちもいいし、そして特にディナを演じたロニ・エルカベッツが良かった。内容としては3層構造からなっているかも知れない。一つはアラブだユダヤだといった設定に無関係に人間の心の交流のドラマ。二番目はそこにエジプト人とイスラエル人という異文化の交流。そして表面的には全く描かれないけれども三番目としてイスラエルvsパレスティナという政治的前提。これらが上手く重ね合わされていた。最初に「傑作になりそこねた名作」と書いたことに関してだけれど、たしかにこういう作品に「傑作」という言葉は似合わないかも知れない。でも「この種の作品としての傑作」っていうのはあるはずだ。でも残念ながら、何か少し足りない感じもあったのだ。まずは最初の空港の部分での、冒頭の長回しや俯瞰のカメラとか、妙に(でも正直下手に)凝った映像。後半の町での夜の各隊員の物語が突然中断して別の隊員の物語にかわる編集の不味さ。そして物語としてはたった一夜の出来事として描くには、互いの人物の交流の成立があまりにもインスタントに過ぎる感じがした。ちょっと状況を変えて、何らかの理由で音楽隊がこの砂漠の中の町に2~3日足どめされた状況での物語としていたら、そしてそのために87分をもう15分くらいのばしてディナとトゥフィークの物語などをもう少し丹念に描いていたら、もっと素晴らしい作品になったのではないだろうか。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.09.01
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靖国 YASUKUNILi Ying123min(1:1.85、日本語)(桜坂劇場 ホールAにて)この映画について(1):ここのところ桜坂劇場に劇映画を見にいくことが多かったので、この映画の予告編は10回ぐらい見せられた。映画自体は大したことがなさそうな印象だったので迷ったが、この作品をめぐる周辺の社会現象があり、とりあえず自分も見ておくことにした。平日の昼下がりということもあったけれど、観客の8割ぐらいは60才を超える年輩者だった。内容はほとんど予告編で予想した範囲のもの。最後の部分で荘重な音楽をバックに、日本刀による中国人等の惨殺の記録写真映像がスライドショー的に映されていたのが、「ああ、こういう締めくくり方だったのね」と構成として予告編ではわからなかったことだ(これってラース・フォン・トリアーの『ドッグヴィル』や『マンダレイ』のエンドロールの真似?、って感じたり)。でも少なくとも「一見では」大した内容ではないし、作りも平板。ただそのことが含意することに関しては、最後の方に書きたいと思う。映画上映をめぐる賛否:この映画の上映阻止や上映推進にまつわる社会の騒動だけれど、これは実際の映画を見る前に始まった。ポイントはただただ「中国人」が「靖国神社」をテーマにしたドキュメンタリーを作ったということに尽きるのではなかったろうか。仮にほぼ同じ内容のドキュメンタリーを、日本人が、たとえばNHKが番組として制作して放送したとしたら、不快感を感じる者もいただろうし、右翼系の抗議電話や示威行動はあったかも知れないけれど、これほどの騒ぎにはならなかったのではないだろうか。靖国派にとってもその程度にほとんど「無害」な内容の映画に思えて仕方がない。その意味で、あまりに過敏に反応してしまった不快感派は、実は靖国派である自分たちの論理的根拠の脆弱性を自ら暴露してしまったと言えるのかも知れない。ボクは実はある意味彼らの論理性の欠如は必要なのかも知れないとも思ってはいるけれど・・。そして一方の上映推進派は、靖国派の論理性の欠如ゆえに、いつもいくら彼らと意見を衝突させても建設的な議論が成立しないジレンマのようなものを暴露してしまったとも言える。映画に関する観客レビュー:この映画を見にいったボクの動機は、どういう映画であるかを実際に確認するだけであった。そしてボクの関心は、映画そのものよりも、上の両者の行動や、実際に観た観客の反応など、そういう映画の周辺にこそ強い。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という諺があるけれど、ボクは映画評を読んでいて感じることに「坊主憎けりゃ袈裟をけなそう」というのがある。たとえば男性中心社会を批判した内容の映画があったとする。正直なところそれに不快感を感じた批評家は、そのテーマ以外の部分で映画を酷評する。やれ表現が常套的過ぎるだとか、役者の演技が平板でリアリティーがないとか・・等だ。「女なんてそんな高級なものではなくって、やっぱり男の方が偉いんだ」と言いたくても、そう言ってしまってはスキャンダルとなってしまう。そこでテーマに触れない部分で映画を酷評することで、読者に観に行かせないようにし、映画を葬ろうとするのだ。この手の批評は、海外の映画評ではよく見かける。それはもちろん意図的である場合だけではなく、テーマが気に食わないから映画そのものも駄作に見えるという無意識の場合もある。そしてそういう無意識的不快感を感じさせるレビューが、この映画の観客レビューにはけっこう多いのではないかと感じた。それともう一つは、少なからずあったレビューの論旨が「もっと客観的なドキュメンタリーを見せて欲しかった」というものだ。ドキュメンタリーでも、劇映画でも、「客観的」などというものはあり得ないということを知らない幼稚な発想を持った人々が多いことは、ある意味「危惧」するべきかも知れない。日本人の非論理性に関して:自分は決して「急進主義」でも「原理主義」でもない。社会的宥和の必要性だって理解しているつもりだ。しかしそれでもこの日本的社会で自分が馴染めないのは、「本質」の無理解や無視にある。例えば妊娠中絶。基本的には刑法の堕胎罪として禁止されている。ただし母体保護法により「身体的叉は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれ」がある場合は罰されることはない。日本の妊娠の約20%はこの規定の適用で堕胎されている。もちろんその多くはこの母体保護法の拡大解釈(?)による合法的中絶だ。子供のいないお金持ちの夫婦の専業主婦が妊娠し、まだ子供は欲しくないからという気持ちで、妊娠の事実を子供を欲しがっている夫に知らせないまま、勝手に中絶することだっていともたやすく出来てしまう。つまりいくばくかのお金さえ用意すれば、自由に妊娠中絶が出来る国なのだ。実質的に自由だから、フランスのようにフェミニスト団体が女性の権利として「中絶の自由」を叫ぶことはない。母体保護法の主旨の「本質」は無視されており、また「本質」的に権利としての自由を求めることもしない。議論の不可能性に関して:この戦争や靖国神社の問題に関して、明確な論理的議論がなされることはない。そこにはもちろん、さっき「靖国派の非論理性はある意味必要」と書いたこととも関連するけれど、それはまた後で触れる。戦勝国による極東裁判という枠から離れて、一般論として、「戦争犯罪」とは何なのか。それに従えばあの戦争での戦犯とは誰が該当するのか。ジュネーブ条約では日本は何に賛成し、何を批准していたのか。御国のために戦う中で戦争犯罪を犯した者は国賊なのか。それとも御国のために戦ったという大義によりその犯罪は許されるのか。信教の自由が保証される憲法下で、国家の意志で戦死者を神社に祀ることの正当性は何処にあるのか。そういうことのすべての関係の論理的な判断が、それぞれ各派によって明示されることがない。しかしそれは、実はそう簡単に出来ないことでもある。この映画について(2):それは米国による戦後統治のあり方の結果でもある。来るべきソ連(中国)との対立の構図を睨んでの、日本の利用の仕方だったわけだ。サンフランシスコ講和条約による体制もそうなわけだけれど、この条約にはソ連と中国は加わっていない。戦後日本の4分割統治案もあった。ドイツと同じように英米仏ソの4国による分割統治だ。首府東京はベルリンのようにまた4分割されたのだろう。当然そうなっていれば、ソ連共産圏の北日本と、英米仏による西側・南日本の2国に分裂していただろう。米国は対ソ(対中)構造の中で主義思想的および軍事的に日本を味方(支配下)に置きたかったわけで、それに成功した。そのために歪められてしまったのが、良くも悪くも戦後60年の今の日本だ。論理的根幹に触れないでこそ成立している状態なのだと思う。そして根本を少しでも変えることはしないままに、その状態に安住してしまっている現在の日本がある。この映画の上映の賛否両派の対立というのは、その安住状態の表層での小競り合いだとも言える。平和憲法と自衛隊の問題も同じである。そしてかつては日米安保条約に対する反対もあったわけだけれど、結局論理や本質を見ようとしない現状維持第一の日本人だから、戦後40年、50年、60年という長い時間の中で、それに慣れ切ってしまった。しかし根底にある論理的矛盾は合わせ持っているから、その不自由さのゆえに、安易なナショナリズムや保守化の傾向も強くなっている。石原都知事のように論理ではなく怒りで、小泉首相のよに論理でゃなく居直りで、自らの立場・思想を表明することしか出来ないのだ。この映画は、実はそういう渾沌とした曖昧な状態に安住する日本を描いているのではないだろうか。実態が曖昧だから、それを描いたドキュメンタリーも曖昧なとりとめのないものとした。結局は何も語らない老刀匠へのインビューをあれほど延々と入れている意味もそこにある。だからこの映画に反対するにしても共感するにしても、見落として(誤解して)はならないのは、根本的にこの映画がテーマとしているのは「過去の日本の侵略や虐殺」ではなく、戦後60年間に作り上げてきた日本の現状なのだと思う。そしてそれは単なる日本批判ではなく、米ソ・米中関係で米国主導で進められた歴史の必然(日本が現在のようになってしまったという必然)を確認しているのではないだろうか。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.07.10
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HAFEZAbolfazl Jalili98min(桜坂劇場 ホールAにて)アボルファズル・ジャリリ監督ははじめてです。映画館で予告編を見て、行きたくなりました。麻生久美子の演技が面白そうだったからです。麻生久美子と言われても「それ誰?」って自分なのですが、でもどこかで見たことがあると思って調べてみたら黒沢清の『回路』に出ていた人でした。イラン人の父、チベット系の母の娘という設定で、いったい人種的に何人なのかは良くわからないけれど、監督の意図としては、今村昌平の『カンゾー先生』等で見て気に入り、彼女を使ってみたかったのと、それと役の設定自体がそうだけれど、イラン社会の中でやや違和感のある人物にしたかったのでしょう。そしてその麻生なのだけれど、当然人間としての彼女はイランの文化に親しみはなかっただろうから、彼女のイラン文化に対する好奇心と、役であるナバートがシャセセディン(メヒディ)に惹かれるという部分が妙に重なった感じなので、それに興味を感じました。映画というのは役者が演じるのを記録したドキュメンタリーであるという性格ですね。日本人女優を使ったことは「やはり言葉的に無理があった」というような批判をいくつか目にしましたが、いやあ、この違和感こそがこの映画の魅力でもあります。それにナバートはチベット育ちでペルシャ語やアラビア語が良く出来ないという設定で、麻生がセリフをしっかりペラペラと言い過ぎてNGになったそうです。さて麻生にとってだけではなく、ボクにとっても親しみの少ないイラン・ペルシャ文化。この映画を見るのこういう知識は不可欠ではないけれど、ハーフェズ(ハーフィズ)に関してだけちょっと一言。14世紀のイランにフワージャ・シャムスッディーン・ムハンマド・イブン・ムハンマド・ハーフェズ・シーラーズィーと言う詩人がいた。宮廷詩人。主に愛が作品のテーマで、その愛は世俗的愛とも神への愛とも解釈可能。ゲーテが高く評価している。名前の一部にある「ハーフェズ」とはコーラン(クルアーン)を全編暗唱する者に与えられる称号(以上ほぼWikipediaより)。映画は冒頭から何だか明確には解らないけれど、主人公の青年シャセセディンがハーフェズの称号を得るまでの過程。まあ兎に角めでたく彼はハーフェズの称号を与えられる。彼が学んできたのはタリーカ(神秘主義教団?)で、なのでその師匠とはクルーアンの解釈が違ってやや疎遠な正統派宗教家モフティ師というのがいる。その娘ナバートが毋方の故郷であるチベットから帰ってくる。かつてはイランとかってラクダの世界だったのかな?、それがバイクに変わっているのが面白かったけれど、そしてもちろん車も出てくるけれど、描かれる生活世界自体にはあまり(西洋的)現代文明は感じられない。でもここで空を飛ぶ旅客機が写される。だからジェット旅客機はちょっと違和感を感じる。映画全体の中でただここだけが。きっとここに監督の意図があるのではないだろうか。物語はまさしく21世紀の現代なんですよ、っていうことだと思う。と言うわけでナバートが帰ってきて、そのお披露目のようなのがあって、シャセセディンの属するタリーカに連絡に来るのはモフティ師の甥だか何だかの、師の一番弟子(若い中の)か何か。この弟子は後半で重要な役を担う。名前を忘れてしまったけれど、主人公が出会ったとき「同じ名前だ」って言ってたから、たぶんこちらも同じシャセセディンだと思う。そのお披露目に主人公の方のシャセセディンも列席するのだけれど、チベット育ちでコーランも良く知らない娘ナバートの家庭教師にハーフェズとなったシャセセディンを指名する。こうして、家族ではなく、結婚していない男女だから、顔を合わせることもなく、上の方に窓の穿たれた壁越しに、コーランの講読が始まる。ナバートはお披露目の日にシャセセディンの姿を目にしたのかしないのか、とにかく声だけの講議のやりとりで彼女は彼にときめきを感じ始める。そうなればもちろんシャセセディンはシャセセディンで、そんな彼女の声に心を乱されるようになる。彼女はシャセセディンの不在の部屋に忍び込んで彼のノートを見る。そしてそこに書かれていた「昨夜、あなたの髪のことを集まった人々が話し始めた/称賛の声はやむことがなく、夜が更けていく」と言う詩句を彼女は授業で暗唱する。訝しがったシャセセディンが「その詩をどちらで?」と尋ねると、「夢で聞いたの」と答えるナバート。つい二人は立ち上がって窓から見つめあってしまう。これって、純粋とか純情とか熱烈と言えばそうなのだけれど、ある意味「女の恋に対する一念」の恐ろしさも感じる自分です。もちろん見張り役のようなのもいるから、詩を交わし、見つめあったということで、これは大スキャンダル。シャセセディンは追放になり、ハーフェズの称号も剥奪されてしまう。街頭のスピーカーからは、そのことを伝える報告が放送されている。そしてナバートは例の弟子と無理矢理結婚させられてしまう。しかし彼女は式の直後に原因不明の病気になってしまう。祈祷師のようなも者が呼ばれて、なんとか回復するものの、夫である例の弟子は彼女に触れることはしなかった。聖職者としては追放された身だから、シャセセディンは肉体労働とかの仕事で生きていくしかない。泥まみれになって日干しレンガを作る労働なのだけれど、メソポタミアのシュメールとかバビロニアとかの古代遺跡の日干しレンガはこうして作られるんだな、とちょっと感動したり。ある日弟子で夫の男が訪ねてきて、師からだと額に入った鏡を置いていく(←この部分はたぶん)。それでシャセセディンは鏡の誓願の旅に出ることにする。これはイランの風習とかではなく映画のだけれど、7つの村の処女に鏡を磨いてもらうという恋の成就の祈願だ。でもシャセセディンは成就ではなく、恋を忘れるためにこの誓願をしようというのだ。映画はここからは、主人公が鏡を磨いてもらう旅で、一種のロードムービーになるわけだけれど、そこに弟子で夫の方の男の、主人公を追っての、あるいは自分と主人公とナバートのことを考える放浪の旅が交錯する。この夫と主人公が同じシャセセディンという名だというのは意図的ですね。もちろん2人別の人間ではあるんですが、ある意味分身でもあり、1人の内面の2つの面とも言えるのかも知れない。鏡は磨いてもらう物であり、そこに映して自分自身の像を見るというシーンはないけれど、鏡の中を眺めればそこに人はもう1人の自分を見るわけだし、あるいは自分自身を見るという反芻の行為でもある。鏡を磨いてもらう旅や夫の放浪で、それぞれエピソードとしてはドラマとして描けもすることだけれど、この映画はそれを事件とすることなく、淡々と描いている。そして普通の映画で我々が期待するのは、「結局シャセセディンとナバートはどうなるの?」というドラマ、筋なのだけれど、それは根底にはあるものの、その過程の心理の方が中心にされている。そして過程の心理と言っても何かが特に語られるわけではない。荒野を歩いて次の村を探し、鏡を磨いてもらい、お礼に相手の望むことを実行する。それは、パンを500枚欲しいと言われ、良くわからないけれど粉を得るために何かの実をまずとって、それを焼いてもらうためにお金がいるから、水源にビニール袋を持っていって水を入れた袋を村に運んで小銭を稼いだり・・・と、ナバートに対する思いとは無関係な行為、行為、行為、の連続なんですね。そういう中で主人公は何かを思っているわけで、その思いを観客も感じようとする。そしてそういう行為の日々の中から生まれる詩、「詩の誕生」ということでもある。最初の方に書いた14世紀の詩人ハーフェズはシャーへ・ナバートとという娘に恋をしたという逸話があり、彼女をうたった叙情詩も書いていて、映画の物語はこの14世紀の詩人と重ね合わされてもいる。物語の結末は書かないけれど、非常に簡単な一つの対話でそれは観客に知らされる。そして最後に映された鏡とその側に置かれた白いハンカチと、そのハンカチの小さな赤いシミ、それが物語の結末の結末を暗示しているのかも知れない。麻生の役について書けば、後半ではほとんど映像としては登場しないナバートであり、一種の違和感を持った特別のオーラのインパクトを観客が持ち続けることが重要なので、そういう意味で後半の見えない彼女の存在感を持続させるがための前半の見える彼女は、その目的を美しく果たしていた。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.06.26
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不散/BU SAN蔡明亮/Tsai Ming-liang82min先日見た『西瓜』が面白かったので同じ蔡明亮監督のこの『楽日』を見た。実はどちらも時間の都合で劇場に見に行けなかった作品だ。でもこの『楽日』は夜遅くに独りしみじみと家で見るのも良い感じだ。中国語の原題は『不散』。中国語で「不見不散」という言葉があって「見ずには散らない」→「会わないでは帰らない」で、「必ず会いましょう」ぐらいの意味らしい。なんでこんなややこしく中途半端なタイトルかというと、日本で『迷子』の名で公開された李康生(リー・カンション、蔡明亮の映画で主演をしてきた俳優)の初監督作品と45分ずつ2本オムニバスで『不見不散』にするのが当初の計画だったのが、独立した2本の長篇になってしまったということだ。で独立した2本の原題が『不見』と『不散』になった。もともとの前半『不見』の老人と孫が映画館から出てきて、三田村恭伸演じる旅の(?)日本人が映画館に入り、ここで前半『不見』が後半『不散』にバトンタッチする構成だったらしい。台北に実在する大きなスクリーンを持った映画館。建設当時は綺麗な映画館だったと想像されるが、今は寂びれ、薄汚れ、なんとなく怪し気な雰囲気もただよう。昨今は清潔で美しい、椅子なども立派な映画館が増えているが、日本でもかつてはこのような場末感のある、風紀のあまりよろしくないような映画館がたくさんあった。そんなたたずまいに懐かしさのようなものを感じる。この実在の映画館が閉鎖されることを知った蔡明亮監督がこの映画館を使い、映画館「福和大戯院」の閉鎖最終公演、つまり「楽日(ラクビ)」を描いた作品を撮った。この福和大戯院の最後の上映作品はキン・フー監督の『龍門客楼(血闘龍門の宿)』(1967)。この映画は1957年生まれの蔡明亮監督が11才のときに見て感動した映画。雨の降るひと気のない夜の街に佇む映画館。そこに日本人青年が入っていく。チケット係は窓口にいない。ほとんど筋らしい筋はない。セリフも皆無と言ってよいぐらいほとんどない。音は現実の足音などと、上映されている映画の音声だけだ。上映されている『龍門客楼』に出演した老俳優が見に来ている。日本人青年はタバコの火を求めて映画館の中をさまよう。よく分からないがホモ風の男性がいて、男たちは館内のどこかの狭い通路に佇み、あるいは歩いてすれ違う。そんな所で1人の男がライターで日本人青年に火を貸してくれ、しばらくの沈黙の後に「この映画館には幽霊が出るんだよ」と言って立ち去る。老人と子供が見に来ている。派手なファッションの女性客が1人いて何かを音をたてながら食べている。チケット係の女が掃除をする。上映が終わると映写技師はフィルムを巻き戻すとバイクで去っていく。隠れてそれを見送るチケット係の女。建物のシャッターが閉ざされる。壁には「臨時閉館」と書かれた紙がはられている。もともとセットになるはずであった『迷子』はまだ見ていないが、消えた孫を探しまわる祖母、それとは別に痴呆症の祖父を探す少年。どちらも人を求めて探す話らしい。この『楽日』の方も何か、そして人を探す、あるいは求めている。暗い客席でタバコを吸おうした日本人青年はライターを探してもない。火を求めているが隣に来たタバコを吸う男も火をつけてはくれない。トイレで用を足しながら忘れ物のライターとタバコを目にするが、忘れ主がやってきて敢え無く持ち去ってしまう。客席に客はほとんどいないが、何故か広い場内ですぐ近くや隣に座っている。そしてまた去って行く。人々は誰かを求めて人に近付くが、決して接点を持てずにまた離れ離れになっていく。孤独感というより空虚感を感じる。冒頭日本人青年が来たとき窓口にいなかったチケット売りの女。彼女は電気炊飯器か蒸し器のような機器からピンクに着色された大きな桃の形の中華まんじゅう(寿桃というのだろうか)を取り出す。ちぎって食べ始めるが、何か思いたって包丁でまん中から2つに切る。ちぎっていない綺麗な方の半分をビニールのレジ袋に入れるとそれを持って何処かに向かう。彼女は片足が不自由でびっこを引いているから歩くのもゆっくりだ。カメラは人影のない階段を固定カメラで写している。やがて足音が近付き、寿桃を入れた袋を持った女が画面に入ってくる。びっこをひきながら彼女は階段を登っていく。そして最後には画面から外に消える。延々何分もただそれだけが写されている。次のシークエンスは階段を登りつめた最上階で、やはり画面には誰もいない。やがてまた女が登場する。彼女は階段を登り切るとそのまま画面奥のドアを開けて中に入り、されにその先のドアを開く。たぶん映写室らしい。台に置かれた新しいカップ麺の上に寿桃の袋を置いて去る。映写技師は不在のようだ。どこか別世界にでもいるようだ。普通の世界で我々は日常の忙しい現実の中に生き気付いていないが、それを取り払ったときの人間世界の真の姿、孤独感と空漠感、虚無感が描かれていると言ったらよいだろうか。閉館しようとしている映画館の汚れはそこに生きた人々の歴史を刻んでもいて、正に人間の残した跡。家で1人DVDを見るのと映画館は違う。かつては映画館にたくさんの人が集まり、同じ映画を見ながら時間を共有していた。そこには人と人の活気のある交流の世界があった。しかし今人々は映画館に来なくなり、だからこの福和大戯院も閉館しなければならない。消えゆく映画(館)文化を懐かしみながら、同時に人々が離れ離れになってしまった今日を悲しむかのような映画だ。上にも書いたように固定カメラが多く、何事も起こらない。だから退屈する人はいるだろう。しかしここに写された歴史で汚れた映画館、これはセットではなく実際の、歴史に幕を閉じて閉鎖される実在の映画館だ。そこに心のバラバラになってしまった人々を配置することで、実に一種の感慨のようなものがしみじみと湧いてくる。ボクにとってはとても感動深い映画だった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.07.11
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天邊一朶雲The Wayward Cloud蔡明亮Tsai Ming-liang112min寸評:男性主人公がポルノ男優の役で、ポルノチックな画面も多いのだが、実に清々しく素朴、無垢な印象の映画。不思議な純愛映画。非常に言葉の少ない映画で女性主人公のシャンチーの発する言葉は「まだ腕時計を売ってるの?」という一言だったのではないだろうか。主演の2人李康生(リー・カンション)と陳湘*(チェン・シャンチー)が好演。[ *:主演女優チェン・シャンチーの漢字名「陳湘*」の最後の*は漢字で、偏が「王」旁が「其」、つまり「王其」を1字にした漢字。] 近くの映画館にかかったのに時間の都合で見にいけなくて残念と思う作品。台湾は記録的水不足。水道は給水制限され、水分補給源として西瓜が注目されているが、赤く甘い汁に人々は倦んでもいる。海外旅行から帰ってきたシャンチーはトランクが開かない。彼女は偶然路上でシャオカンに会う。かつて時計売りだった彼から腕時計を買ったことがあったのだ。映画はポルノ男優という現在の仕事を隠すシャオカンと、愛に飢えるシャンチーの純愛物語。開かないトランクがシャンチーの心の閉塞感を象徴し、それをシャオカンに開けてもらおうとするのは彼女が心の助けを彼に求める象徴でもあり、愛の期待の象徴でもあり、また彼がトランクを開けてやろうと努力するのはシャンチーの心の訴えに対する彼の救援、歩み寄り、また彼の彼女に対する愛の象徴だろう。また水の無いことは渇きを象徴もする。映画冒頭の人けのない地下道の長いショット、響き渡る2人の女性の足音だけが聞こえる。ただ2人の女性が別の方向からやってきて、すれ違って去っていく。映画全体の殺伐とし荒涼とした心理風景、雰囲気を冒頭から巧みに作り上げる。暑く水のない状況、あるいは精神活動の止まったようなけだるい時間感覚。そんな主人公の気分をよそにテレビからは西瓜種飛ばしコンテストの活動的な人々のレポートが虚しく流れる。それは何かにとりつかれたように何の疑問もなくポルノビデオを撮影するビデオ監督も同じだ。このけだるい雰囲気とコントラストをなすように挿入されるレビューないしミュージカルの場面。内容は間接的には主人公2人の心を説明し、浮き彫りにしているかも知れないが、主物語とは必ずしも関連はない。この異種なイメージの挿入が映画全体の不思議な雰囲気を作りだしていて面白い。面白いといえば料理しようとしたシャンハイガニか何かが逃げ出して台所でシャンチーが怯えるシーンとか(もちろん助けるのはシャオカン)。小物や料理の映像などの色々と象徴性があって、わざとらしいのに気にならない上手い使い方。西瓜はポルノビデオ撮影で女の股間に置かれ、男がそれを指でほじくったりして女を犯し、女は喘ぐ。冷蔵庫の西瓜に口づけをするシャンチー。西瓜はTシャツの下に入れられて想像妊娠のお腹にも変身する。川に浮かんで流れてくる西瓜、西瓜、西瓜。西瓜は不条理感を表しもし、またセックスなどをも象徴する。映画自体は台湾はもとより世界各国でその性描写が社会的に取り沙汰されたようだが、事実冒頭しかり、ラストしかり、一般映画としては過激な性描写だけれど、実に切ない切ない美しい純愛の物語で、丸い可愛い西瓜を抱き締めるようにギュッと抱き締めたくなるような愛らしい作品だった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.07.05
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