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車筆太

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2005年11月30日
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カテゴリ: マンガ
20世紀少年(16)
 『 サイコ 』から『 羊たちの沈黙 』を経て『 セブン 』に至るにあたって、サイコサスペンスものが濫造された時期があった。これらのエピゴーネンに対する作品批評はおくとして、このスリラー群から残酷性のみを取り出してみる。すると、残酷性といっても多種多様であり、その度合いを比べるのも容易ではないことが分かる。

単純に直截的な表現のあるなしが残酷性の度合いを決めるのだろうか?

 しかし、暗喩、隠喩その他の手法を用いることで、隠された残酷性を作り出すことも可能だろう。さらに、一昔前に、童話がその残酷性だけを抜き出して不当に話題にされたことがあったが、その賛否には触れないにしろ、童話においては残酷性が物語の潤滑油として、躍動感を生み出しているのは確かである。また、 ピーター・ジャクソン いばら美喜 といった人たちの作品を見てみると、「過剰すぎる残酷性」はコメディとして笑いを誘うということが分かる。『 ピエロの誕生 』によれば、18世紀のタンブル大通り(通称・犯罪通り。殺人事件などを題材にした大衆向けのメロドラマなどを上演していたために、この名がついた。)では、黒沢清の『 降霊 』の元となったような話(もちろん、元ネタは『』です)、殺しても殺しても死なない農夫(だったかな?)とのスラップ・スティック・コメディなどが上演されていた。大衆娯楽における残酷性の享受に関しては、枚挙にいとまがないので、これ以上は触れない。

となれば、残酷性は何らかの要因で変化すると見たほうがいい。

 では、その要因を思いつくままに挙げると、 現実・虚構を含む時代背景 作品内の必然性 (単なる興味本位も、自主規制も含む)、 文化状況 (昔、『世界残酷物語』なんてのがあったなぁ)というところだろうか。さらに、 残酷性は、その行為に対してリアリティを抱いていない限り、残酷と感じることはない。 これは、経験、すなわち人生の履歴により残酷と感じる基準が変化することを示している。

 また、政治的事例としては、戦争、人道に対する罪、ジェノサイド、主権の制限、死刑論などの諸問題を挙げる事ができる。現実に直面する問題として解決への道程がありえるということは、 社会的基準として残酷性の許容範囲を決定できる ということである。

 さて、この一連のスリラー群の流れの中に位置づけられるであろう『 モンスター 』は、上記の作品で言えば、レクター博士とクラリスの対話のみが面白かった『 羊たちの沈黙 セブン 』に近い。次々に起こる暗示的な殺人事件や基本構成が「 刑事もの 」といった類似点がみられる。だが、「 悪趣味(過剰すぎる残酷性) 」はほとんど感じられない。これは単純な残酷性にもいえる。経験からスリラーという物語形式に対して受け入れ態勢が整っているために、残酷性が希薄化しているのだ。
 これに対して、同じ著者による『 20世紀少年 』には残酷性を強く感じる。それは童話に見られる残酷性の如く、子供の純粋性が転化した結果の残酷性なのかもしれない。また、リアリティの問題も無視できない。現実社会(新興宗教団体や学校など)を素材に構成されていることもあるが、日常と陸続きの非日常性を描くことで、リアリティ(「~らしさ」といってもいい)をより強く感じる仕組みになっている。第3部に残酷性を感じないのはそのためかもしれない。

 以上は当然、私のカンジである。果たして、あなたにとって残酷性とは何だろうか。また、どちら作品により残酷性を感じるだろうか。そして、それは何故だろうか。もし、残酷性を感じないとしたら、それは何故だろうか。また、どの程度なら感じることができるだろうか。

MONSTER DVD-BOX Chapter 3






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最終更新日  2006年02月05日 01時01分03秒 コメントを書く
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