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車筆太

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2005年12月21日
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カテゴリ: 書籍
「健康」の日本史

 「 健康のためなら死んでもいい 」などという冗談が囁かれてから久しい。テレビでは 「健康」至上主義 をパロディ化した『 たけしの本当は怖い家庭の医学 』なんてのまで登場している。
 とはいえ、「健康」至上主義をいくら嘲笑したところで、やはり「 不健康 」なのよりは「 健康 」であるのに越したことはないという気はする。ここのところの体調不良も相俟って、ここで一度「 健康 」について考えてみることにする。


 よって、この語句が一般に定着するには、福沢諭吉の時代まで待たねばならなかった。ここで、福沢の「健康」観の変遷に注目してみると、「バランス」「調和」、または「気晴らし」という意味の「健康」から、運動により身体を鍛え社会の困難を克服することを意味するようになっていく。
 さらに、この考え方は一歩進み、「強壮」という個人の意志如何にかかわらず強制的に「体力」を高めるという方向に向かっていく。つまり、「すべて」の国民の自発性に失望して、「体力」以上に「気力」(「意欲」や「やる気」を重視し、「気力」を持つ人種を「士族」としてその血統をよく保存し、一般国民を外部から強く鍛え上げる方向に推移していったのである。
 もちろん、福沢の理想は個人が何の干渉も受けずに自ら一身独立して「健康」になることであった。また、運動の効果が生理学理論として、本人の意思の有無などの心理学的要因、身分や貧富などの経済的要因に左右されずに、優先して表れると考えていたようである。

 「健康」という語句の変遷を手繰っていくと、 主観的健康観 客観的健康観 、そして 健康観への政治性の介入 という一連の流れをおさえることができる。本書『 「健康」の日本史 』では戦中までで記述を終えているため、現在 我々の共有する健康観 には触れられていない。
 しかし、「 近代化 」に附随するかのような健康観の変遷の同一線上に現在の健康観があるとすれば、それなりに形作ることは可能かもしれない。以下思いつくままに書いてみる。


   最も原初的な意味での作用・反作用。
   外部からの干渉に対して「強く」なる。
 ・養生術、健康法、どちらでもない「健康法」
   「動き」以外の要素も重視される。
   健康と運動の分離。 

 ・「紅茶キノコ」などの「商品」の登場。
   クスリではない。
   現在の漢方かつての漢方と意味が違う。
 ・「健康法」の個人への回帰。
   自主性?

 こんなところか。まとめるのが面倒だな。寝よ。

 付記:12/25
 ・病気への気配りの過大
 ・ダイエットとの関係
   美と健康の相互関係       






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最終更新日  2005年12月25日 23時13分16秒 コメントを書く
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