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いつも相反する課題に悩まねばならない。どうも正確ではない曖昧さの中で暮らしている。恐らく、 間違った情報を信じている。水道水は果たして飲料としてどうなのか。野菜・果物・肉・魚 等の食物はどうなのか。環境ホルモンはどうなのだろうか。あとで判る時には、結果が出た後だ。 後付けの説明がされるだろう。温暖化や環境汚染は、迫り来る危機だ。副作用のない薬はないが、それを 飲まないと極端な場合は命がないこともある。食物も安全とは言えないが食べなければ餓死することにな る。水俣病も、その他の公害病も事実は後で判明した。企業には倫理はなく、生き残ることしか考えな い・・・利益優先だ。体質は今も変わらない。どうすべきなのだろうか。取り巻く環境は、厳しくなるばかり だ。有毒物質を食しても死なないヒトだけが生きるのだろうか。
2015.01.31
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精神の目は、自ら開こうとしなければ盲目でもある。周囲に従属して意識のないものたちのように暮らしていこうとしてしまうだろう。日本の戦前のように。そして戦後70年になるが、また暗闇が増加しているのではないだろうか。照明のエネルギーとなる人たちが少なくなりつつある。 ・こころに燈火を持つ人たちが減っているのではないか。未来に絶望してはいないか。毒をまき散らしているのは誰なんだろうか。サイコロばかり転がしている。カジノがあちこちにできる社会になるのだろうか。仮想社会の住人たちが大人こどもを演じ始めた。 ・へ2・・・マチュピチュ遺跡は、もともとアクリャたちのためだけに作られた空中都市なのだろうか。時として滅びゆく民族はとんでもないことをしでかしてしまうだろう。どんな悪政も遣り始めると止めることができなるなってしまう。臆病な恐怖心が巣食ってしまうのだ。勇気はいつの世も試されるだろう。
2015.01.31
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<作品> 「鼻」、「芋粥」、「仙人」、「酒虫」、「猿」、「煙管」、「手巾」 ・「鼻」大正5年の作品。漱石の死んだ年。漱石は、「新しい文学」と激賞したが、前年書いた「羅生門」は読んでいない。 ・自尊心の高い男が下人に鼻を足で踏まれる。・・・利口な男が自分では気づいていない滑稽さを、芥川はよく知って書いている。 ・『今昔物語集』に想を採った近代作家は多い。中でも大正時代の芥川龍之介による『羅生門』と『鼻』は有名。 ・今昔物語集は、平安時代末期に成立したと見られる説話集。全31巻。ただし8巻・18巻・21巻は欠けている。編纂当時には存在したものが後に失われたのではなく、未編纂に終わり、当初から存在しなかったと考えられている。又、欠話・欠文も多く見られる。 ・芥川からみた「漱石と鴎外」の相違が大きい。 ・白樺派の主な同人には、作家では武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎など。 ・「実篤」は、「文壇の天窓を開け放った」と評された。芥川は、「野性のひと」評価。 ・鴎外「心の花」・・・「鼻」が繋がっている。 ・「仙人」と「羅生門」結末は違うが状況は似ている。 ・「酒虫」酒の飲めない男は・・・自分のことを書いている。 ・「猿」古典からの引用。 ・「煙管」前田斉広は、自尊心が高く自分のこと。煙管と同じ。 (金→銀→真鍮へ格下げしていく。) ・「人生は短く芸術は永い」。然し、芥川は「芸術至上主義」ではなかった。 ・「手巾」新渡戸稲造「武士道」のはなし。 ・新渡戸 稲造は、農学者、教育者。国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、名著と言われる。 ・同じものを書きながら、同じように見せないのが作家<芥川>の腕でもある。 ・作品には仕上げの良さがある。
2015.01.31
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強い意志を持つものがやがて自分たちの世界を実現できるだろう。生き残ってくるために犠牲にしたものはいくらもある。屈辱に耐え、あらゆる苦難もあるができることは必ずある。必ずしも優秀だからではないが、太陽が日の出と日没を繰り返し、心臓が脈を打つ限り私たちは営みを止めることはない。生活し正しいと信じることをするだろう。 ・暴力が繰り返され、理不尽なことも多い世の中である。狼たちが物陰から獲物を探している。背広を着たハイエナたちが、善良な心を蔑ろにして栄華を我が物にしているのだ。腐敗した精神はやがて葬られる時が来る。剣は正しくあるべきであり、法はそのためになければならない。 ・へ2・・・1月最後の日は、到頭ウオーキングもろくにできなかった。しゃっくりばかりしていた。このまま止まらないと死んでしまうのではないかと妻子から言われた。まだ死ねない。私は不死鳥のように生まれ変わるだろう。リセットして2月を迎えたい。
2015.01.31
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熊本県菊水町の松坂古墳の石棺から女性の顔面が異様に大きくゆがんでいた。生まれてすぐに無理やり顔面を変形されたためだという。顔全体が扁平であった。卑弥呼も殆ど人前に姿を現さなかったという。巫女は自分の神秘性を守るために顔貌さえ変えたのではないだろうかといわれる。それは本人の意志ではない。そして頭部変形の風習は世界各地にあるといわれる。 ・祭政一致の政治が古墳時代以降もあり、ゆがんだ顔もそのために利用されたのだろうか。赤子のうちから顔さえ変形させられたというのは酷い話だが、それは顔だけではないだろう。貴族や、藩主に生まれた子供たちもある意味では、自由な環境に育ったわけではない。異質なものであったのは言うまでもない。措かれた環境で思想も変わってくるだろう。恐ろしいのはそのためにどのような人生になるかだ。 ・へ2・・・ゆがめられた頭部は、脳に障害を与え、視点も定まらず、咀嚼も正常にはできなかっただろうし、言語もうまく発音できなかっただろう。それは対面した相手を畏怖させたに違いない。まともな対人関係を得ることは身内のものでしかなかっただろう。寂しい一生を送らねばならなかったはずだ。世を恨んで死んでいっただろう。ゆがんだ社会がゆがんだ祭政一致を支えたのだろう。
2015.01.31
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医学、社会科学、人文科学も、人間を対象とした研究は、「人間とはなにか」という問いを重要なテ ーマとしている。自然科学も「世界とはなにか」という問いを中心に措きながら「人間とはなにか」にかかわっている。宗教も同じだ。それぞれ独自のコスモロジーで、人間を位置づけようとする。 私たちは、日常のなかで、「人間とは」を考え、そして、個人的な経験を通して、「人間は利 己的で、しかも、愚かだ」などという感想をもちながら生きている。文化人類学は、そこからスター トするようだ。少し限界が見えてきた感じだ。人間の暮らすところに出かけて、そこの人々と「長 時間」生活をともにして、日常生活やその他の知的営みから、他者にとっての「あたりまえ」の生 活に、身をもって参加し、見聞したものを記録する手法だ。どうも穏やかではいられない。 何故人間は、他人に干渉したがるのであろうか。支配したいからだろうか。大抵失敗する。そんな権利はないからだ。それこそ、本当の意味の人間のコスモロジーを理解していない学問が存在する のであろう。学問を手段にしようとするからだろう。三浦梅園は、凄い人間だと湯川秀樹が書いて いた。大分の田舎で生涯を過して独自のコスモロジーをもっていた。晩年、城主から、遠いので駕 籠で帰れと勧められるの固辞した。「ひとがひとにかつがれるものではない。」という信念からだと いう。
2015.01.31
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智慧火 歳をとってくると、自分のエリアのことばの世界を彷徨う。 月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ (浄土宗宗歌) 同じく「勤行式」のなかに、 「願我心如智慧火」というのがある。こころは「智慧火」の如し、という表現が、なにか相応しい言葉のように思えてくる。我は願うのでもある。そうあって欲しい。そうではないかもしれないが、私はそう思っているという謙譲がある。仏の(本願)というのもお仕着せではない。思うこと、願うことが、ひとの自主性を言っている。然し、反面そうしなければ、知らないよ。なのだろう。自由のように視えて自由ではありえないのだ。自分を社会の蔭に隠してしまえば、虎の威を借る狐にもなる。自分という存在は、それを活かしきることは難しい。 ・強かに生きていかなければならないのは国家だけではない。個人にもある。それがなにかだ。そしてそれは、その時々で変化もする。何時も同じではない。「月影・・・」だけが、自分の人生ではない。あらゆる現実がある。それを目をつぶっていては視えない。確りと目を開けていなければならない。自分の意識がどこにあるのか、だ。自分の智慧の火を、点し続けなければならないだろう。消えそうになったりもするからだ。
2015.01.31
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保湿力 無理をしないことが、長続きの常識でもある。そう心がけているつもりだが、ついむきになる性格がある。まだやれると無理をするのは年寄りの「冷や水」と云う。自分にも嘘をつくというのが長寿の秘訣と聞いたことがあった。適当にやることだ。「八割出来て、できたとする」。実は、80%としかできていないが、「今日は、よくできた」と自分に嘘をつくというのだ。腹八分目で満足した、OKとする。簡単に言うが、小人にはできないかも知れない。腹がでかい。 ・小さいことにこせこせしない。莫迦が利口のふりをしても、笑って遣る。おおらかに生きるということは、生真面目では出来ない。人は日々老いるのであり、同じようには遣れなくなる、それでも「よし」とする。人から馬鹿にされても、一々怒ったりはしない。自分に適応できるルールを自分のために創って遣っている。天に恥じないこととは、真理から逃げることではない。 ・へ2・・・無理に古典を現代に当て嵌めようとするから無茶な解釈もするのだ。自分の頭で翻訳する努力を惜しんではならない。と思う。ひとには保湿力がなければならない。それを自分で考えて補って遣らねばならない。解かる人には解かって貰える信じることも必要だ。それこそ自滅しないために何をすべきか、それが問題だ。 >和白干潟には、唐原川、和白川、五丁川の三川が流れ込んでいる。上の写真は五丁川の河口。干潮の時間で、ヘドロが露出している。高校生たちがヘドロの採集をしていたが、何かの環境検査のためらしい。
2015.01.31
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自分のショータイムを思う存分生きた人には後悔はないだろうが、大方の人は自分の宴のあとで悲哀を感じるのではなかろうか。そして私もその一人だろう。未だ人生は終わっていないが後悔はある。ただ後ろめたさだけではない。これも自分の一生の一部であり、或いは一番好い時ではないか。枯れ葉になる前の黄葉ではないかと思わないでもない。 ・二つの目の向く方向で、悲喜劇もある。その時々で感じるものは、脳が作りだした自分の社会システムの構図で変わりもする。自分の生きてきた環境がこれまで生きてきた種としてのヒトのひとりの個人の1クールでしかない。生きるために懸命であった人々の中で自分の存在を探しても儚い。悔いても仕方がないし、威張ってもそれだけの気炎でしかない。 ・へ2・・・4万kmを兎に角歩こうと思っている。そろそろ6年間ちかく掛かっている。ひとは何かに拘り続けているのだろう。そのひとつでもあるに過ぎない。ただ、これだけできるとは意外だ。自分の体の不思議を感じている。それは本当は不思議でもなんでもない。あるべくしてある因果関係でしかない。化学反応でしかないのは知っている。そして、生きるとは疲れることであり、快く疲れることが、更に新たなエネルギーを生み出し、生きるために必要だということだろう。
2015.01.31
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・或る意味で古い社会の中で、新しい生命が生まれているわけで、いつか衣を替えるように新しい生き方をしなければならないだろう。伝統として継承するものだけではこれからの、新たな事態に対応できなくなるときが必ず来るだろう。伝統ばかりにしがみ付いていたら生き残れないことにもなる。そこに自立した考えがないと、選択肢を誤ることにもなる。 ・私たちの時代が、全世界を敵に回して敗戦したという混乱期の中から出発しなければならなかったのであり、公正な世界観や、歴史観が正しく教育されたわけではなかったし、身につけるべき道徳についても日本人としての確立したものがないまま来たのも事実だろう。そのために「自由」と一緒に頼りなさと曖昧な思想を持っているものが多いのではないか。よき指導者が周囲にいないまま来てしまったのではないかという心の喪失感が確かにあるだろう。政治家や官僚、学者や芸術家が、確たるモラルもなしに仕事をしてきたのではないだろうか。そこに将来に対する危うさを感じてもいる。 ・しかし、少なくとも私たちは周囲にあるものから道具を探さねばならない。そうしかできないからでもある。それでも有難いことに、いまや多くの情報収集が手に入るようになった。道具はいくつもあるだろう。問題はその道具が使えるかどうかを確かめねばならない。意図的に流されるものがあるからだ。自立した信念を身につけて用心深くことをなすべきだ。 ・誰も障害のないものはいないだろう。ハードルは次々に出てくるものだ。それに耐えねばなるまい。おそらくある意味で直前の死に逝くものには苦悩や苦痛はないのだろう。あちこち故障があるから人間の証明だと思えば、少しは気が楽になってくる。
2015.01.31
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ライフスタイル・ウオーキングを何とか続けているが、これからもいつまで遣れるだろうか。明日から2月が始まるが、気合を入れてやっていこう。ペルーツアーもある。 ウオーキング歩数累計(2008.4.15~)年月 歩数日数2014.12.31まで50,590,7102,4512015.1月353,04831歩数累計50,943,7582,482
2015.01.31
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>LA ひとはさまざま。自分の人生をどのように考えるか?今朝起きて来ながら、自分のケースはどうだろうとふと思った。まだ終わってはいないのだから、そのバランスシートは出せないなあ。天網恢恢というから、いつか決着付く。損得ではなく、収益を出さねばならない経済とは違う。絶対評価もない。他人と比較しようもない。考え出すと難しい。打算と妥協と。生きるためにしてきたことがそれほどきれい事では済まない。真面目でも不真面目でもない。 ・寧ろ、自分の人生のバランスシートを出さないまま終わる人も多いのではないだろうか。あるがままの自分を避けて活きる人さえいる。背伸びをし過ぎてしまう。それが向上心だと勘違いもする。熊本の玉名にいて頃、西方浄土をするために死を覚悟して、直ぐにも沈んでしまいそうな小舟で、中国へ向かっていく仏教徒がいたらしい。目的は、天竺にいくためでもある。死への旅でもあった。死を覚悟した修行僧は、絶食を始めると聴いた。 ・へ2・・・母の介護をしていたとき、床ずれができて夜痛がって、薬を付けたりさすったりして、当時は30歳くらいで少しの体力はあったが1年近くになると心身共に疲れてもいた。最期に修羅場が来るだろうとばかり、思っていたら、母が内心どれだけの苦しみだったか息子にいわないまま、忽然と旅立っていった。何ともことばにできないような唐突さでスーッと母の魂は消えていった。ひとの最期を教えてくれたと思っている。ひとはその人に相応しい死に方をする。
2015.01.31
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>LA BEコムやDOコムという発想も、人の意識の変化の所以だろう。ただ生活するだけを考えてきた住居への思考が変化している。殊に高齢化社会を迎えて、自分の居住空間の関心が高まってきたのも時代の流れだろう。ステレオタイプに建てられきた住居が多様化する社会にマッチする筈はない。不満を持ちながら、憤懣どうすることもできなかったのではないだろうか。自分の意識を型に嵌まった居住空間に押し付けてきた。のびのびとした空間こそ、自分に相応しいにも拘わらず。 ・それがこれまで一部の贅沢な考えだと退けられてもきたのは、カネのかかる話でもあるからだろう。現在の新しいタイプの住居である、「DOコモン」も果して充分その目的を達成しているのだろうか。それは「団塊の世代」にどれだけ、浸透したコンセプトになっていると言えるだろうか。土台、家で知的空間としてワークステーションを獲得している人がどれだけいるか、疑問だ。 ・へ2・・・行政サービスと言い、地方では都会に比べて、ガクンと下がってしまう。空気の悪い散歩もろくにできない場所が、人間の老後の生活に相応しいエリアと言えるのか。本に囲まれて暮らしたいと思いながら、結局は、殆んど処分してきたし、いまでは図書館にいって借りてくるくらいしかできない不自由を味わっている。それは我慢できないことではないが、必ずしも充実した図書館でもない。それで我慢するしかない。「住まいと環境」は大いにこれからの課題でもある。
2015.01.31
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幼稚という言葉は決してほめ言葉ではない。寧ろ軽蔑の意味が込められている。子どもは自分を中心に世の中が廻っていると考えがちである。謂わば「天動説」のような考え方をする。成長過程でその期間を経由して、物事の判断ができるようにもなる。そうではない社会の仕組みを知ることになる。そうした自己中心的な思考が「幼稚」という根底にある。三島の「暁の寺」を読んで、三島を知る日本人には多少理解できるとしても、タイや世界からみた三島文学とは何だろうかと思うと、やはり、一方的過ぎる視点でしかない。そして主人公の「本多」は、元裁判官であり、それがタイの女性を壁の穴から覗くというのは、どうみても人格の問題だろう。寧ろタイ人には侮辱ではないだろうか。 ・「タイ事情」というガイドブックの中の文章を読んでみたが、それこそプライドの高い民族でもある。王室不敬罪まである。日本の文学はどうも内向き過ぎるのではないだろうか。「源氏物語」も世界の読者からどれだけ受け入れられるだろうか疑問だ。このまえ芥川賞を取った中国の女性の作品も中国では読まれていないようだ。それは中国の事情がそうさせている。日本の文学が世界に紹介され始めて、世界でも知られ注目を浴びるようにもなっているが問題は中身なのではないだろうか。品格のない文学がある。 ・へ2・・・世界から「幼稚」と見られるようでは、それは日本のマイナスイメージでしかない。世界レベルの常識をもっていないと、それこそ軽薄な民族として軽蔑されるのではないだろうか。人格を疑われるような人間では困る。サンガという存在はそのまま日本人には理解が難しいが、それも文化の違いからくるものだろう。戒律が生きている世界だ。性交、窃盗、殺生、悟りを得たと嘘をつくことの4戒は、絶対に犯してはならない僧の基本とされている。勿論サンガから追放される。幼稚さを自覚することは、外からの目を知ることでもあるのだ。
2015.01.31
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日本仏教についてどうも昔から疑問を持っていた。西方浄土も天竺はインドである。そのインドがヒンズー教であり、仏教は影が薄い。「暁の寺」が何故タイ仏教に触れていないのだろうか。そしてインドへ行かねばならないのだろうか。サンガという組織がある。何となくタイ仏教に対して違和感を持つが、何かあるかも知れない。・空振りに終わるかどうか。それは自分次第でもあるのだろう。何があるか分からないが、今見えるものがあるかだろう。これからもそれほどチャンスがあるとも限らない。葬式仏教になり下がった日本の仏教とどこが違うのだろうか。 ・へ2・・・一日を真剣であらねばならないのだろう。遊び呆けてばかりはいられない。自由からのエスケープばかり、考えてきたのかも知れない。自由であることは寧ろパワーがなければ得れば居られないのだ。「準拠枠」を越えなければ新しい自分のない。修行の道とはタイではどういうことを言うのだろうか、知りたいと思う。ことばだけではなく・・・。
2015.01.31
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それこそ、食べることに関心がないというのは、生きていることも何とも思っていないのだろう。自己否定してるようなものだが、それを自覚していないらしい。食べるものさえなかった祖先たちが私たちの体を創ってきた。それが、どうだ、周囲に食うものが溢れてきたら、生きる意味も忘れている。そして、自分が飢えなければ、他人のことはどうでもいいと同情のなさが蔓延っている。昔は、自分も餓えていたから、よく助け合った。ひもじい思いをしている子がいると、他人の子でも、自分の食い物を分けてやったものだ。ひもじさを知っていたからだろう。 ・ものが足りて、さらに欲望ばかりが増長してそして、人間が下品になった。学のある奴が自分のことしか考えなくなっている。学があるほど品がなくなってしまった。物を大切にしない心が、人間さえ大事にしなくなり、親や、子や、周囲の人たちにさえ心を向けなくなり、渇いている。それこそ、絶望へのスパイラルのスイッチが入った人たちであふれている。すべては食への関心が弱まったことから始まっているのではないだろうか。いつも冷蔵庫に仕舞い込んでいるという傲慢な習慣が、自分のこころを怠慢へ誘っている。何という奢りだろうか。 ・へ2・・・「奢れる平家・・・」を自分の心の中に蔵している。食べることの意味を忘れている。日本の食の自給率は先進国で最低である。そうしたのは何故だろうか。利益優先で日本人は今の豊かさのために未来を売ったのではないだろうか。日本人の未来に待つものは、絶望と悲惨ではないだろうか。今日の農業の衰退は、日本の未来を閉ざすことになるだろう。エゴイズムの台頭はそれを予感させる。
2015.01.31
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窓を開ければ世の中には素晴らしい人たちがいる。窓を開けないと視えないのかもしれない。それは自分の心の窓でもある。人ばかりではなく、生物たちや、地球上の環境や、宇宙全体でさえ、美しい世界が広がっている。その反面、美だけではないものもあるが、あらゆる存在が自分たちの世界だ。自分らしく生きているかと、問うて見る。自分を何ものかと問うべきではない。 ・地球温暖化、酸性雨、森林破壊、砂漠化、オゾン層破壊、そして生物多様性が、問題の所在である。それを自分の問題として、考えなければならない。自分の身を守り、地球も守らなければ、人間だけではなく、生物も生きてはいけない。赤とんぼがいなくなったのは、農薬ばかりではなく、田圃が、水田である期間が短くなり乾燥させてしまうことから、産卵や卵に必要な時期の水田が無くなってしまったからだそうだ。ダムの建設も生態系に影響を及ぼしている。人間たちの知らない処で、小さな生物たちを絶滅させている。そしてそれだけではないもっと小さない微生物たちもいる。 ・へ2・・・外来種の問題も、酸性雨も、身に迫る危機である。気付いた時には、それこそ、“ポイント・オブ・ノーリターン”もありだ。美しい花に目を奪われていると、ブルーギルやオオキンケイギクのようにもなる。在来種を守るということの重要性を改めて考えさせられた。油断すると知らないうちにとんでもない間違いもしてしまうだろう。浅墓な勘違いや欲望が、この社会溢れてもいる。自分の心の窓を開けて、自分たちの環境を観察したいと思う。社会の窓は、閉じられていることもある。こじ開けてみようとしなければ見られないこともある。仕組まれた罠もある。心の美しい人たちばかりの世の中ではない。冷たい空気かもしれないが時々社会の窓開け放して見る必要がある。どんなに犠牲が出たとしても。
2015.01.31
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新しい殺虫剤が医学衛生面で初めて使われたのは1943年。イタリアを占領した進駐軍がチフス撲滅をしている。その後マラリアカを駆除しようと残効性の強いDDTをおしみなく散布した。わずか1年経つか経たないうちに、不吉な兆候がでた。イエバエとイエカ属に蚊が抵抗しだした。1948年には、クロールデンがDDTの効果を高める為に使われたが1950年になると、抵抗性のある蝿が出てきて、すぐにイエバエ全部、イエカ属のすべてが、クロールデンに抵抗するようになった。次から次へと新薬が使われるにつれて、昆虫は抵抗しだした。 1945年から46年にかけての冬には、日本と韓国ではしらみがりにDDTが使われた。200万人近い日本人と、韓国人にしらみに取り付かれていた。1948年にはスペインのチフスが流行し、このときにもDDTが使われた失敗した。このときは昆虫学者は、しらみは抵抗しないものと思い込んでいた。(実験室馬鹿だ)1950年から51年の韓国で起こって出来事に度肝を奪われた。韓国人の兵隊にDDTの粉末をかけたら、しらみは逆に増えていたからだ。東京の浮浪者も同じだった。 「沈黙の春」は誰にでも判るように書かれている。いくら新しい殺虫剤を発明し、新しい使用方法を考えだしても、昆虫たちはいつも1ラウンド先を走っている。人間は、それこそホモ・サピエンスといえるだろうか?どうも怪しい。自分の知っているところだけを喋る学者のような半端なことでは、昆虫に対してさえ先を越されるだけだろう。
2015.01.31
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昔は、ミミズの研究などと軽蔑されたりした。科学が進歩して偏見もなくなっているが、何が価値があるのか、よく解らないところがある。猪瀬前知事の東京オリンピック招致のキャンペーンが成功して、これからだというときに、もともと政治の初歩さえ理解していない知識人であることが発覚した。これは、他の政治家にも言えるのではないだろうか。他人のサポートをあてにして自分のことにしているからだ。 ・大人は偉いと思っていたら、そうではないことがある。医者も弁護士も簡単にはなれないが、なれたから教養が高いとは限らない。本人の実力とは限らないのだ。見せかけだけの社会的ステータスがある。身分社会の長かった日本で、女性は虐げられていた。それを甘受することが美徳でもあったのは、仕組まれていたからだ。兵隊が上官の命令に服従するのは、反抗したら痛い目に遭うからであろう。立派な軍人もいたのだろうが、それが問題ではない。歪んだ身分社会でしかない軍国主義でしかない。 ・へ2・・・悧巧な学者は、エゴイストでもある。そして折角の才能を腐敗させもする。佳人薄命と言って好い人がひどい目にあった。美人に生まれて幸福になるわけではない。若いころから持て囃されて潰されてしまう。ミミズには目がないが、太陽の暖かさを感じるらしい。仲間が増えすぎると、他の場所に移動しようとする。道路の片隅に移動に失敗したミミズの死骸が転がっている。
2015.01.31
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アプリボワゼ60兆個の細胞と100兆個の腸内細菌たちと共生している人体を私たちはそれぞれが持って生きている。複雑系の生物は一つの宇宙船に喩えられる所以だ。生きるための生命活動は、私たちが簡単に理解できるものではない。そのビッグバン以来の歴史と、或いはその前にも時間が無かったとは言えない。人間にはいまだに想像できない世界やスペースがあるに違いない。人体と微生物の間の関係を「飼いならして生きている」と雑誌ニュートンの記事に書いてあったが、星の王子様の「アプリボワゼ」を思い出した。 ・日常を情報の氾濫の中で、他の人間や社会との共感も得られないまま生きているような気がしている。自分のからだが、無生物から始まる生命誕生の不思議から物理学者シュレーディンガー「生命とは何か」までのプロセスがあり、そこからスタートしている分子生物学の理解をしなければ分からないことがある。科学者の翻訳なしには、その世界を理解することはできないだろう。 ・へ2・・・アプリボワゼのない世界で生きてはいけないだろう。人は愚かで壊れ易い生命をもっている。然しその生命の存在のここまでに至る奇跡は、どんなものよりも貴重であることは間違いではなく、それは個々の人の生きる意味であり、価値でもある。独りで生きていながら、独りではない。それは比喩でも何でもない。普遍的な事実でもある。私が死ねば、60兆個の細胞が死に、100兆個の微生物も死ぬのだ。
2015.01.31
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レベルの低い争いをしていると漁夫の利を狙う国際社会がある。東西も南北も較差は改善されてはいない。日本の二重構造もそのままだ。先進諸国が、開発途上国の必ずしも良き師ではない。欲の皮の突っ張った人間が社会のリーダーに大勢いる。国境の問題や歴史認識の違いや、思想信条など国家間の諍いはつきものでもあるが、狡猾な狼たちがいることを忘れてはならない。してやられた歴史がアジアには嫌というほどあるではないか。 ・植民地が、あるいは原住民たちが、なぜ支配者にいつまでも従属していたのだろうか。それは仕組まれた罠にはまるからでもある。それは理由がある。飴と鞭が支配するからだ。逆らうものは排除されてしまう。言論の弾圧が常套手段でもある。 ・へ2・・・いつもそうだが、俯瞰的に物事を把握することは難しいことだが、できないことではない。初心者も努力してベテランにもなる。相手が何を言いたいのか、その本音がどこにあるのか。靖国参拝や、従軍慰安婦問題や、そして国境問題も障害にしているから障害でしかないのではなかろうか。もっと優先して取り組まなければならないアジアの問題は山積している。
2015.01.31
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「私の魂というものは存在しない」、と般若心経では説いている。2,000年前の人たちが考えたとしたら凄い宇宙観だ。ニュートンの大宇宙の特集を読んでいると、宇宙のスケールに圧倒されるが、それは無から旅立っている生命の存在を示している。からだもこころも、そして魂もない。あると思うからあるのだろう。それでもないものはない。「空」という概念の意味は深い。 ・私の魂は、生きていることで感じることができるが、それは私の脳神経がそう思わせている。視ているものも脳であり、考えているのも脳である。自律神経がからだを調節もする。ここ数日間の風邪による不快は危険信号でもあるだろう。気を付けないと、どんなことでも「起きるぞ」、というシグナル。 ・へ2・・・ババを引くことだってある。私の魂は、ないのだから、宇宙に還るだけだ。私の周囲で起きていた細波は消える。それだけのことでしかない。名もない人間はそうして消えるのみだ。小さく生きることは恥ずかしいことでも屈辱でもない。それは天が与えた使命だ。人としてあるべくして生きることでいい。自分の感じているものが自分の感じた世界だ。また新鮮な朝を感じることができた。それは、それだけいい。 挫けないことが遺伝子由来だ。
2015.01.31
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外に出て見たら雨だった。予報通りのようだ。降水確率80%だ。やっと2万歩をクリアできるようになったので、早朝ウオーキングをしたかった。こんなことは初めてだが、月初めの5日間ツアーで思うように歩けなかった。これまでなら、すぐにフオローで来た筈だが、今年はできないでいる。情けないが仕方がない。ツアーの写真も整理できていないし、ブログも余りのらない。 ・夢は破れるためにあるのではない。夢のない人生も面白くはない。低いところに流されてしまう。他人から顎で使われるような仕事はしたくなかったが、サラリーマンは、そういう訳には行かなったし、屈辱を味わいもした。そうしてここまで来たのも事実だ。遣ってきたことは平凡で、プライドも何もない。 ・へ2・・・オリンピックのメダルも取れず、どれだけのひとが泣いたのだろうか。勝利者の栄光だけがすべてではない。線香花火のようにあっという間もなく、祭りも終わる。
2015.01.31
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>マーサポイント 自分の身を何処におくかは重要だと思う。フットワークが悪い。いつも日本のことばかり考える人が、日本を見失うのではないだろうか。だから、10年も同じ事を遣っているとすれば、環境に潰されてもしまう。手足をもがれてしまうのだろう。 自分で壁を造ってしまっているひとが、取り込まれている姿は、哀れである。意外とそのことに気付いていないのは、この病の特徴でもある。自惚れシンドロームでもあるのだろう。 誰も注意しないから、偉いのではない。そうさせているのは自分の我執でしかない。保身でないことに気付くべきだろう。さて、ドイツ観光だけど、ローテンベルクは、ロマンテック街道と古城街道の交差点ですね。いいところみたいですよ。「中世の宝石」だものね。それでも、それを残そうとする人たちがいるのでしょうね。文化を大切にしている。 「街」そのものを残そうとする文化こそ本物ですよね。それこそ、壊してしまうばかりの日本とは大いに違うし、利権ばかり主張している社会では為しえないのではないか。 文化の質を高める必要があるのではないか。破壊しようとするのではなく、自然というスペースを残すためにどうすればいいかではないか。中世の町が残っても、そこに住むひとが21世紀の精神をもつひとであればいいのではないか。こころのフットワークが軽やかであれば、遣れることは色々あると思います。日本にも、よき時代の町があってもいいと思う。
2015.01.31
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その軽さを感じて生きているが、振り返ることのできない現実がある。こころの寒さを感じているだけでは、何もできはしない。苛立ちだけでは、一歩だって進みはしない。ひとびとの悲鳴が聞こえる。 苦しみを生みだしている悪臭はどこから来るのだろうか。我慢して食べている。日々の単調な旋律は脳細胞を狂わせてしまう。いつまでも繰り返している。ドアーを開くフレーズは、いつも同じ。 捩じれてしまったコンセプトで世界を語ること?世界で争い続けている人たちの中に入って行き、「もうやめろ!」と説得出来る力などどこにもない。腹を空に向けて足をバタバタしているだけだ。 日本人の感性は、どこに行ったのだろうか。底の浅いことばで、喜怒哀楽を表現することができはしない。まあ、そのうち腹を切り裂いて出てくる未来の子供たちがいる。それを私たちは見ることができるかは知らないが、いつかそう日が来るだろう。そう願う。
2015.01.31
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マタイによる福音書15-17 「・・・口に入るものはみな腹に入って厠におちるのがわからぬか。だが口から出るものは、心から出たもので、これが人を汚す。つまり、悪意、殺人、姦淫、淫行、窃盗、偽証、讒言などは心からでる。これらが人を汚すもので、手を洗わないで物を食べても、人は汚れない」。 ・ユダヤ教の律法を厳格に守るという視点だけでなく、倫理の根本がどこにあるかを問題にしているのだろう。巧妙なごまかしのように見えるが、人間のこころを強調したのだろう。イエスが貧しいものに近かったのは、言行一致があったからではないだろうか。人々は圧政に苦しんでいたからだ。 ・人の生き方は、生まれた国や出自や経済などの措かれた環境で決められるべきではない。人間の真摯な志こそ尊重されるべきだ。かたちだけにこだわっていると真実を見失うと、教えている。
2015.01.31
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神のことはいわない。唯、私たちは、遊ぶ為に生きているのではないことだけは知っている。そして、今までやってきたことと、いまを明日に繋げるロードを知らなければならない。 日本人だ、だからこそ、日本人にはみえないところがたくさんあるに違いないと思う。4千年の歴史をもつ中国の知恵も、西欧の侵略にいとも容易く蹂躙されてしまった。それは、何故だろうか。外の世界を見ようとしなかったからだろうか。 外からみれば、東洋は「古池」を守るだけの民でしかなかったからだ。近代戦を想定した準備さえしていなかった。「古池」蛙が、飛び込む遊び場でしかない。芭蕉は、いい俳句を詠んだものだ。もはや、「古池」では、生きていけなくなったことに、何故、ひとびとは気付かなかったのだろうか。それは、深い穴を掘ろうとしたからだろうか。 生きていく為には、新しい苗をつくり、場所を選んで、苗床を作り、田を作り、水を引いて、種を蒔き、燦々とふりそそぐ太陽の光を当ててやり、時間をかけて育てねばならない。これからの環境に適した新しい種は準備されているだろうか。それがなければ、子孫たちは飢えてしまうだろう。生きていけないだろう。 私たちは、遊ぶ為にここまで来たのではない筈だし、人間は、遺伝子の道具で終わるべきでもないだろう。血みどろの争いは償わねばならない。人類は理性を持ち、プライドを持つべきだし、自分たちが守るべきものを守らねばならぬ「使命」があるのだ。 この偉大な人に与えられた「使命」のために生きるべきだろう。
2015.01.31
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本当は幻影でしかない。すべてのことは脳が作り出しているイメージに過ぎない。自分という存在は幻想世界なのだ。その時々で演じているのは一つのショーでしかない。騙されて踊らされて、誘惑されて棄てられる。木の葉が散るように。枯草のように萎れてしまう。末梢神経への電気信号が遅れ始めている。からだが萎みはじめた。脚がのろくなった。からだのあちこちから臭気がする。 ・サインはシグナルになる。世界の全部が敵になる日がくる。木偶人形に戻るのだ。ミッションのない日々しかない。遺伝子のそれは終わった。ぼんやり山や海や、森を見ている。高い木の天辺でカラスがかあと鳴いていた。あれは俺かも知れないと思う。 ・へ2・・・それこそ無数に生きてきた命が終わる日が私にも来る。父と二人で、熊本のぽっくり寺にお参りしたことがある。なぜかよく解らないでついて行った。その父の当時の年齢になっている。まだ私にはそのようあ心境にはならない。
2015.01.31
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愛といっても、愛には無数の種類があり、質も量も違う。肉欲の愛からアガペまで、愛の世界は広大でもある。愛の反対が、憎しみではない。 ジムメルの言葉 「愛と憎しみとを正確な対立物とみることは完全な誤りである。愛の反対物は愛でないもの、つまり無関心である」 ゲーテ「ファウスト」のメフィストーフェレスは、 「わたしは常に物を否定する霊です。そしてそれが至当です。なぜというに、一切の生じるものは滅してもよいものです。して見れば、なんにも生ぜぬしくはない。・・・」 つまり「無関心」をすすめていけば「無」になるのではないか。有の世界では、無はほかならぬ破壊、否定になるというのでしょう。愛の最も困難な問題は、殆ど無数の質の愛があるからではない。愛が往々にして破壊や否定に結びつくという点であろう。サディズム、マゾヒズム、愛死など。しかしまた無償の、静かな、ものいわぬ愛もある。 しかしね、悪魔は年寄りだ。 歳をとったら悪魔の言うこともわかるでしょう。 メフィストの言葉だ。ファウスト博士に化けて学業を終えて意気揚々と学徒が引揚げたあとで、 「馬鹿者めが、いいから威張ってやっていけ・・・」 と独り言を言う。不思議なことに、それまではよくわかっていると信じている言葉も、その意味が、よく考え、じっくり眺めてみると、曖昧にもなっていく。その意味が明々白々と思い込んでもいるだけに興味を惹かないのか。メフィストのことばも、ただのせりふではない。ゲーテというひとは油断がならなぬ。大変なことを、時にさりげなくさらりといっている。 「悪魔」は、ただの悪魔の話ではない。
2015.01.31
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自分の吐く息で空気を汚しいる。私たちは酸素を吸い炭酸ガスを吐き出して生きている。綺麗な人だから綺麗な息をしているのではなく、皆一様に胃液で溶かした食べ物をエネルギーとし、肺で周囲の空気を吸って吐いている。私たは生物の一種であり、それ以外の何物でもない。喜怒哀楽を繰り返し、他人と係わりながらうまく順応できるかでしかない。ただ知恵あるものは周囲を取り入れ自分を変えていく。もはや封建社会でも、軍国主義の時代でもない。矛盾を抱えた社会の一員として為すべき使命がある。それを確り把握しているといえるだろうか。利益社会がややもすると人々を不幸へと誘いもする。 ・この社会が健全でも、公正でもない。そして、悲しいかなエゴイストたちが巷に溢れており、それを維持しようとする政府があり、格差社会を隠そうとし寧ろ是認する勢力が権力を掌握していることも事実だろう。正当に選挙された国家議員ばかりが国会にいるのでもない。この現実を直視し、変革していかねばならない。何故なら彼らも同じ人間だからである。ひとは喰わねばならず、そして出すものを出さないと生きてはいられないし、汚物も誰かが処理していかねばならない。皆でこの社会を形成していかねばならない。これからは、世界規模で人口は増加し、高齢化が進んでいけば、これまで以上に忍耐強い生き方がまっている。 ・へ2・・・これから段々選択肢が増えるだろう。しかし決断しなければならないものは難しいものになっていくことだろう。そういう時にものを慎重に考え判断できなければ、人類は破滅するかも知れない。原因と結果が繰り返される中で、「負のスパイラル」にもなることを考えておかねばならない。傍観者ではありえない現実がある。
2015.01.31
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人の感性も様々だ。寒いと感じるか感じないか、その人で違うし、同じ人間でもその時の気分で違う。広い視野と深い洞察力が人間としてあるべき方向性をも示している。それが思うほどできていない。つい自分の世界視野で世間を見ているし、洞察も必ずしも充分ではない。というより姑息なものでしかない。 ・類的存在としてのひとりの人間としての人生があるべき姿なのだろう。科学は急激なスピードで進化しているが追いつけない。モタモタ日常の柵に苛まれている。できることは個人としてどれだけでもあるだろうが、それが、なかなか。現代の社会という海面にまで届くことも難しい。足を引っ張られ、自分でも委縮している。価値のあることを成し遂げることはなお難しい。専門家になるには遅すぎるし、ゼネラリストとして生きるしかないと思う。 ・へ2・・・科学と暮らしの中で自分の生き方はあると思う。この今ある環境の中で、理想と現実の狭間で生きねばならない。気紛れな感情を止められない。幼児体験が自分の感情をコントロールしている。ヒト脳は、馬に乗った騎士である。こころとからだを操るのは脳の自由である。それをまた視ている自分がいる。
2015.01.31
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普遍性の確信の欠如日本人には「普遍性への確信」が欠如しているという或る評論家の話に、常日頃考えていた核心があるかも知れないと思った。確かに欧米人には「普遍性の確信」に近い差別意識がある。それが衣の下から垣間見られることが何度もあった。当たり障りのないことをいっているが、それは外交辞令でしかない。表と裏の使い分けが上手いのは、子供のころから宗教というスキルを受けているからでもある。 ・いざという時の、彼らの「普遍性」はどこにあるか、そしてその「確信」は長い年月によって凝り固まったものになっている。それは彼らの思考に張り付いた強固な潜在意識にもなっているのだ。それによって、原爆のスイッチも押すことができるだろうし、これからの核戦争のスイッチも押すだろう。この厄介な確信は、そう簡単には払拭できそうにないものだ。それは本当に「普遍性」なのだろうか。欧米人の、欧米人による、欧米人のための「普遍性への確信」でしかない。それが世界の「普遍性」ではないことは明らかだ。それをグロバール化しようとしているに過ぎない。インターナショナリゼーションではない。 ・へ2・・・日本人の「普遍性への確信」の無さが、混乱している。それは欠如であり、欠落に近い。日本人のナショナル・コンセンサスとは、アンシャン・レジュームへの回帰ではない筈だ。何によって「普遍性」を手に入れることができるだろうか。そう容易く手にいるものでもあるまい。「普遍性」も「確信」も日本人の最も苦手なエリアでもある。もう冬至より、20分日の出はやくなっているらしい。福岡の日の出は7時過ぎになっている。放射冷却で今朝は気温は1℃だ。
2015.01.31
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RHYTHMS OF LIFE で、ラッセル・G・フォスターは、時間の意味を説く「伝道の書」では、 捜すに時があり、失うに時がある。守るに時があり、棄てるに時がある。 裂くに時があり、縫うに時がある。眠るに時があり、語るに時がある。 愛するに時があり、憎むに時がある。戦うに時があり、和するに時がある。 体内時計があるお陰で、生物は、時間を瞬間として最適に利用できるのだ。 時間を知ることで、私たちの祖先も農耕を始めることができた。農耕には季 節を予期できる必要がある。鳥は生まれつき体内に備えた光周期信号によっ て季節を自動的に知ることができる。だから、ひとは鳥から学んだ。 鳥は時間について学習する必要がない。鳥は、聖アウグスティヌスのように「過去が過ぎ去ったものであり、未来はまだ到来しないものであるならば、 存在するのものは現在だけである。では現在とはどの程度持続するのか?」という問いに頭を悩ませることはない。 現在の私たちは、寸暇を惜しんで過ごしているが、己の内を深く見つめて、 時間に対して愚かにならず、賢くなる方向に進んでいるかを見極めなければ ならないだろう、と指摘している。
2015.01.31
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心に響く言葉を探して声をかければ応えてくれる人はいるだろうが、今は、自分のエリアで拘束のない自由を味わいたい。慰めてくれることもないし、他人を憐れむつもりもない。人にはそれぞれの人生があるだろう。自分と比較する必要もないし、されたくもない。この社会の貧困と無知は、時として悲惨のベクトルに向かいがちだ。自分だけの世界ではない。温もりに浸っておれない。軽い笑いなどすべきではないのだろう。嗤いたい人が笑えばいい。 ・誰の心に響くかと言えば自分でしかない。その人に為ってみなければその心の奥底は分からない。人の持つ寂しさは、自分の中にある脳細胞の世界から飛びだせないことでもあるのだろう。ボイジャー1号が、まだ飛んでいる。太陽系の最果ての暗黒のを恒星間空間に向かおうとしている。2020年には原子力電池も切れるらしい。電波はいつまで地球に届くのだろうか。 ・へ2・・・人は自分に相応しく死ぬだろう。そしてこの種としてのヒトの未来に夢をはせながら消えていくのだ。これまで厭というほどこの社会にスポイルされてきたのだから、自分の時間を大切にしてもいいだろう。他人と比較しようもない自分がいる。他人をとやかく言うだけの余裕はない。独りで活き、独りで死んで逝くのだから。前を向いて歩いていればいいだけではないだろうか。自分の前に何があるか、それさえ把握できればいい。新しい感動があるだろうか。その瞬間を見逃さないでいたい。
2015.01.31
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異文化から学ぶ 恐らく違う社会で育った留学生の方が、日本で長く暮らしている日本人よりもこの社会の歪さも解かるのではないだろうか。どこも完ぺきな国はないが、他国の弱点は視え易いのではないだろうか。解かるところと判らないことの区別が付け易いからでもある。どうも居心地の悪さで、解かることもある。風俗習慣とは、熟れから来るが、それが慣れ過ぎて陳腐さが理解できなくなる傾向がある。何故そうしなければならないのか解からないでしていることは多い。 ・留学して学ぶことのメリットは少なからずあるだろう。自国であれば使い慣れた言語で大抵済ます事が出来る。外国語となるとそうはいかない。先ず言葉を一つ一つ考えながら覚えなければならない。自立はそこから始まってもいる。不自由を耐えて暮らす事が独立心にも役立つのだろう。親から甘やかされた人間ほど、弱い人間に為る。寒い風に当たって外で歩いたり、部屋を暖房せず乾燥しない方が風邪には罹り難い。免疫力を高め、感染経路を減らす事である。 ・へ2・・・楽をするから弱くなるのであり、足りないからそれを補う力も出る。何かを得るためには、努力しなければならない。他力本願では、いつか自滅もする。泳ぐ極意は水の中で息を吐き、吐くから顔を上げた時呼吸も楽にできるのだ。留学生は、慣れない社会で苦労も多いだろうが、得るものも多いに違いない。暮らしをシンプルにできるものがリッチで恵まれたものよりも豊かに生きることが出来る。
2015.01.31
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口で言うほど何もできない政府だろう。誰のことを言っているか。ちゃんと世界のことが分かって外遊しているのだろうか。KYというのだろう。いつまでも米国が独り勝ちの巨大国だというはあり得ないことだ。無能な集団でしかないひとたちから輝かしい未来もあり得ない。国民は政府には期待していないのだ。信頼度が低いらしい。 ・四馬の譬えではないが、ツウレイトばかりある。そのうち他のアジア諸国から日本は追い越されてしまうだろう。多くの若者や老人たちは貧困で希望を失いつつある。明日のために投資をしていないのは驚くほどある。 ・へ2・・・それこそ自分でどれだけ勉強しているのだろうか。他人の言うことを自分の考えのように言うだけではないだろうか。そういう人間をこれまでどれだけ見てきただろうか。物事をうのみにしているからでもある。中身がない人間ばかりいる。そんな人たちが国家のリーダーだとしたら、国民はどうなのだろうか。
2015.01.31
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自分次第 息をすることが下手かどうかも寿命と関わりがある。つまり呼吸は人間には欠くことのできない生命活動でもあるからだ。食うことも運動することもある。人間として活動するための基本的な行動には皆関連がある。何も知らなかった原始の時でさえ、自分の体の調子を解っていたのだ。現代では、健康も商品になる。新しい価値を見つけようとするあまりあらゆるものを商品にしてきた。未だ隠された商品があるに違いない。それに気付いていないものがあるだろう。発見者がものすることができるだろうか。その資格があるかだろう。それを誰が決めるだろうか。それは解らない。 ・リスクのない活動はないのだから、一概にウォーキングが身体やメンタルに良くても、社会的な価値があるとは限らないし、個人の状況によっても違いもする。私には好くても他人に善いとは限らない。毒にも薬にもなる。仕事もしないで要られるかどうか、それを社会的に認知されるかでもあるだろう。 ・へ2・・・それにしてもウオーキングは、別に資産を抱えて歩いているのではない。自分の身体があるだけである。遣り過ぎれば痛くなるし、転べば怪我もする。轢かれれば只では済まない。雨も降れば雪も降る。時間を決めているようで天候次第でもある。同じ場所を歩いて何が面白いのだろうか?それは、生きていることに相似してもいる。歩きながら、想像することはできる。自分がその気になれば、ゆったりと時間が流れてもいる。 ISの日本人人質に日本政府やメディアは動揺しているが、何も分かっていないのではないだろうか。中東の歴史さえろくに勉強していないのだろう。
2015.01.31
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蒙古軍の脅威は、その戦略の狡猾さでもあったという。その伝統が中央アジアを征服したルーツに在るのかもしれない。敵を皆殺しにすることを厭わず、ただ役立つものは殺さなかった。歯向かうものは殺すが降伏するものは殺さない、捕虜にして次の戦いの先頭で戦わせるのだ。蒙古軍の強さは、当時世界最強の軍隊でもあったという。勇猛果敢な欧州軍さえ打ち破った。戦略は巧妙だったからだ。敵をだますことを恥なかったからだ。 ・敵を信じないというのが彼らの根本に在る。敵も自分をだまそうとしていることを知っている。人間の行動というものがよく観察されているのは、多くの戦いを経験して来たからでもあった。敵に背中も見せるなでもある。味方には甘く、敵には冷酷でもある。蛇や狐のように狡猾だった。それこそ彼らの褒め言葉になる。 ・へ2・・・中央アジアの伝統は、遊牧の民の大いなる野望の中からきている。トルコの現地ガイドは、大卒のひとだったが、トルコは、その中央アジアの子孫であり、遊牧の民を誇りにしていると言っていた。べドウィンの民の形質が彼らのルーツでもあるのだ。寛容と冷酷さが混在した戦いが繰り広げられている。単純な人間は生きていけない国家が中東でもあるのだろう。
2015.01.31
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人間が死ぬ瞬間には、脳内にベータエンドルフィンが大量に分泌されて快感を得られるのだと いう。但し自殺者は違うらしい。私は、今の生活にストレスを感じているが、乗越えるだろう と思っている。拠って立つ自分の措かれている環境と、遺伝的要因が限界をも想像させる。 日本人は、叩かれ強いのか。。狭い国土で鎖国を経験し、世界の列強に伍して行く ためには、富国強兵で国民の権利を制限しなければならなかった。そして、現在資本主義経済の只中で、新たな選択を迫られている。個々人が個性を問われてもいる。「甘えの構造」? 周囲を頼る依存性も抜け切れてはいない。ナオトニー的な資質。それが何であろうと正面から取組んで克服しなければ、明日はない。 「青いバラ」は、ペチュニアで失敗して、パンジー由来の青色色素で、バイオテクノロジーの遺伝子組み換えによって成功した。 庭では、ペチュニアが可憐に咲いている。風に靡く花を観ると嬉しくなる。 「ジャスト・パンジー」それが、私たちの現在なのかも知れない、ふと思った。
2015.01.30
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「米国には、市井の人でも、正直で控えめないい人がたくさんいる。ほんとうに尊敬できる国民だ。」と政界を引退した宮沢喜一が日経の「私の履歴書」で書いている。私は、宮沢をはじめ政治家は嫌いだが、ことは好き嫌いではないことは分かっている。訊かなくても解るほどの者でもないので、 一応読むことにはしている。「一片氷心在玉壺」は、彼一流の衒いでありプライドなのだろう。 「市井の人でも・・・」という「・・・でも」は余計だが、世界にあって、尊敬される国家とは、 尊敬できる詰まるところ市井のひとが多いことではないだろうか。正直で、控えめでいい人が文化の高さを表象するのではないか。私欲に溺れることなく、正直に控えめに生きることができるのは、 寧ろ市井の人であろう。家庭を守り、こどもを育てて驕らない人たちだろう。 宮沢は「学」があるのをみせたくて、今更唐詩選でもあるまい。もう彼は過去の人であり、まだ、 彼を訪ねてる人が何を訊こうというのだろうか。と不思議におもう。 同じページの、「山笑う」という記事の方が面白かった。
2015.01.30
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マヤ文明後期の中央アメリカのジャングルを舞台に、妻子や仲間とともに平和に暮らしていた青年の過酷な運命を描くアドベンチャー・スリラー。監督は『パッション』で世界中に衝撃を与えたメル・ギブソン。映画経験のない若者たちをキャスティングし、全編マヤ語で前人未踏の映像世界を作り上げる。ジャングルの生活をワイルドに描いた前半から一転、敵から逃れようと、ひたすら走り続ける主人公の青年の、手に汗握る奮闘が注目された。 DVDを借りてきて観ていた。半分見て、一息入れた。あのメル・ギブソン監督の作品だ。興行的にはどうか知らないが、俳優の演技とは違う初々しさがあり新鮮な気がする。これが西欧人の描く映画とすれば彼らの理解のエリアも捨てたものではないだろう。フィション映画であることには変わりはないが、現実と虚構が入り混じっている。この映画については様々な意見があるようだ。どれだけ史実に基づいているかも議論の余地がある。生贄や奴隷にしても、どこまで現実に近いのか、遠いのかはよく分からない。ただ凡庸であるが走るという姿に人間のイメージを重ねていることには興味がある。 ・へ2・・・文明と隔絶した時代に人間は、他部族と生き残りをかけて死闘を繰り返した。そこには、野蛮とだけは言えない営みがあったのだろう。それをどういう視点でみるかでもあるのだろう。実際のマヤ文明に対して極めて理解不足であり、観客に誤った認識を植え付けるおそれがあるともいわれている。マヤ学界ではわずかな資料から様々な学説があるという。ただ西欧だけが世界ではなく、それを見直すことを誰が始めるのだろうか。
2015.01.30
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誰から聞いたのだろうか。達磨の話だろうか。(壁に向かって9年坐禅を続けたとされているが、これは彼の壁観を誤解してできた伝説である)。それは禅師の話だが、3年と言っても、私の楽天ブログの3年でしかない。来月3月中旬で丸3年になる。余り振り返って見ているわけではないが、どうも自分が、自分が、多過ぎる気がしている。別に私小説ではない。太宰の作品にも自分が、自分が、多い作品がよく出てくるのは自意識過剰なのだろう。まあブログというのは自分を中心に物事が回りがちなのかも知れない。自己満足だろう。 ・余り無責任になっても恥をかくばかりでもある。いいことはない。得る者は少ないが、失うものが多ければ、逆に得るものもあるかも知れない。威張るよりも反省する方が身のためだろうか。迷うことがあれば、迷えばいいのだろう。それは自覚があるからである。寧ろその自覚のない時の方が、泥沼にいるのかも知れない。消極的になれば、病気もするし、重くもなる。兎角この世は面白いでいい。そして、そうこうするうちに3年経過してしまった。あまり得たものはない。失ったものは多いかも知れない。それでも、続けられたというのは生きていたことでもある。ハワイから、いくつか外国にも行き、学ぶこともあったし、それなりに楽しむことができたと思っている。これも自己満足なのだろう。 ・へ2・・・これまでの3年があったが、未だこれからの時間がある。まだ走れると思っている。無駄かも知れないが、もう少し歩いてみてどこかの高見から未来が見たい。ふと、ミミズの移動を思い出した。眼の見えないがミミズが、太陽の光を感じて移動しているイメージだ。それでもいい。時間は優しい時を刻んでもいるだろう。
2015.01.30
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ニューロンの死 アポトーシスから老化死まで、1日あたり数万レベルのオーダーで死滅する。タテ社会日本の科学界では、まだ 権威主義が蔓延り続けている。この枠を突き破る者が出て来ぬ限り天才は窒息し続けるだろう。彼らは、ノロマ で身体の弱い人たちだから・・・。長生きできないかも知れない。偶然が重なり余程幸運が無い限り消えていくだ ろう。それこそ素人や弱い立場の少年たちが専門家を凌駕するかも知れない。一学者のたった数十年の知識な ど知れたものだ。 逆転の発想により生まれた新発見は数知れない。権威に溺れる者の醜悪な末路はアポトーシスに相応しい。 然し、ニューロンの死は無駄ではない。寧ろ新しいニューロンを生かす道だからだ。この世に価値の無いものな どない。全く無駄、無価値で害毒だと思われるものも、その時そう思われただけで実はそうではなかった例はいくつ もある。かって 酸素がそうであったように・・・。 そして下半身不随の脳性まひの喋れない天才がヒトの救世主になるかも知れないのだ。 厄介者扱いされている人たちの中から天才が生まれ、注目される可能性は高いのではないか。 むしろ、その人たちをサポートする装置がこの社会に整備されていない方が問題なのではないか。 どこからでも天才が出て、この社会を未来に導くことを肝に銘じねば為らない。 権威主義者には、少なくとも明日の光は射さない。 ひとりひとりが心の準備をして、新しい朝を迎えたい。
2015.01.30
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・江戸から明治への日本文学とは・・・(近代との関係)。 <江戸>・主として説話もの。イメージが把握し難い。「西鶴」が描いた世界。 特徴として、論語、寺子屋、説話・・教訓的で、暮らしに役立つ面白い説話が好まれた。 大岡・遠山裁き・・文章化ができなかったため。活字を読むことが庶民には制限されていた。 (江戸の価値とは? 明治に何を残したか?・何をベースとした教科書となったか?) <明治>・漸く西欧から「小説」が入ってきた。間違いだらけの翻訳がされた。そこで江戸の「説話」を面白くして、大人の読み物、またこどもの教科書にしようと努力した。・明治10年以降には説話が増えている。 身分による読むべき書籍の区分がされていた。知識の広がりができない。 ・漢籍・・・武士 ・往来物・・庶民 <孝行猿。出家>・廃仏棄釈(明4)仏教・儒教。明治の初めは開明的であったが、やがて復古調に代わる。・自由教育に圧力が加わりだす。教育の弾圧としての検定。反動化する。・教育と政治の結合が進められた。(富国強兵) 自分の史観も、その時々で違ってくる。雨が降り出したら、ウオーキングを止めることにしている。長く続けるためには、その方が好いと思うからだ。4月でやっと6年間になる。今月はツアーもあり、その後そのフオローもできていないが仕方がない。こんなことはこれまでなかったが、気力も体力も減退している。続けるためには、無理をしないことだと思うからだ。目先のことに拘っては長く続けることはできない。色々あるが、することよりもしないことが大事なことはある。
2015.01.30
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テーマは「スタインべックの世界」副題は短篇小説「殺人」における家庭内暴力の比較文化的考察。John Steinbeck(1902-1968)は地域文学、自然主義の小説家で「怒りの葡萄」など著名であるが、今回は、ジェンダー、結婚、暴力、夫婦間の人種・文化の相違が描かれている"The Murder"が選ばれた。まるで新聞記事のような短篇だが、もちろんフィクションであり、読み解くにはかなり精度の高い理解力が必要のようだ。日本語の翻訳が必ずしも真意を伝えない部分があるようだ。主人公の Jim Moore 30歳の牧場主で両親を亡くしている。Jelka Sepic はユーゴスラビア人で若い美人だ。これだけでもすぐピーント来る知識があるだろうか。場面設定や登場する豚や、雌鹿や、満月(ロマンスと狂気)蝿でさえ、比喩としてあるシンポルが内包している。 外国人講師でないと気付かないような箇所がいくつもあり、日本語訳がどこまで真意を伝えるかは難しいだろう。たとえば "awe and some admiration " 「びっくりしたような」にと翻訳されているが、宗教や、尊敬の意味が含まれている。 日本人は、限定された知識でスタインベックを読んでいるだろう。それは皮相的な理解でしかない。一語一語の語彙は歴史に裏付けられた背景があるだろう。私たちが大正時代の芥川を読んで感じるのは、ストーリーだけではない。一語一語のこめられたものを読もうとしている。それは、恐らく外国人には理解が難しいものが多いに違いない。それと同じことが外国の文学にもあるだろう。He's が、実は、She's となるべきだとか、蝿が、死や動物性を想像させるなど、アメリカ人がもつイメージは日本人が抱くものとは相当違うだろう。ジムはステレオタイプに陥っていたが、妻の不倫の現場に現実に向き合うことになる。人間は罪人であり、容易に罪を冒すものだという宗教的な考えがあり、欲望はまた生命の求めるところでもあることを言いたいのだろう。
2015.01.30
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つい怠けてしまう。脳がそうさせてもいる。なまけものの脳だ。娘から大学が入試忙しいので、春まで暇でしょうと言われてしまった。確かに。遊んでいる暇はない世界である。暇人は消えていくしかない。したいものだけがする。次元の低いものしか考えないものにはそれだけの運命でしかない。向上心のない人間はそれだけだ。あとがない才能など意味はない。 ・夢があるから、破れるのであり、夢もない人生は、価値もない。価値を見出してこそだ。三月までの越冬した渡り鳥たちがいなくなる。そしてまた秋にやってくるだろう。守らなければならない自然がある。 ・へ2・・・生きているだけで、何の役にも立たないが、心配していることはある。それらがどんな意味があるのか知らないが、片付くまでは終わらない。
2015.01.30
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私たちはリスと同じように日の出や日没を目にすることが少ない。陽が昇る前に仕事に出かけて暗くなって家路につく冬場はなおさらだ。それでもリス の生物時計は繁殖行動や冬眠を日長変化に合わせられる。人間は自分でつくった光環境に適応できずにいる。私たちは人工の照明で夜を延長して、生物時計を狂わせているし、現在、私たちが日中に浴びる光の量はリスよりも短い。ヒトの生活は自然の明暗サイクルからどんどん離れているが、体内の概日ペ ースメーカーは季節による日長変化を感じ取る能力を失っていないが、人工の照明環境に対する代償を払わねばならない。イギリスでは人口の約3%は、SAD(季節性感情障害)という病気に苦しんでいる。ノールウェー北部トロムセーでは冬季に気分の落ち込みを経験する人は人口の27%に達するという。SADになると炭水化物を大量に欲するようになり、体重が5~10キロ増加する。そして春になるとうつが軽快する。光環境が影響し ているといわれる。
2015.01.30
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自然に順応して人間は生き延びたのであって、人間が自然を克服したのではない。人間の驕りには果てしがない。自分のことを過信して尊大に振舞う人がいるが、あさましいというべきだろう。雑草でさえ、光をあてさえすれば宝石のように輝いて見えるものだ。まだその価値を知らないだけだろう。何かを支え健気でさえある。一人の人生もそうではないだろうか。自分が凡庸だとしても卑下することは何もない。 ・人としてあるべき生き方を謙虚に学び、他人とともに生きようとさえすれば、やがて道が開けると信じたい。紆余曲折が予想される。直線ではなく、スパイラルだろう。予断を許さぬ現実を忘れてはならないと思う。 ・へ2・・・軽佻浮薄が一般的な社会になっている。安易な判断が、人々を苦しめている。容易に落胆しない強い精神を鍛えねばならない。それを自然に学ぶことができるだろう。自然に親しむということが、そのことを必ず教えてくれるだろう。草花を愛することができれば、人間をもっと好きにもなるのではないだろうか。歪んだ価値観が、世界を覆っているのではないだろうか。
2015.01.30
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ストレスの多い社会で健康に過ごすことは言うほど簡単ではない。誰も自分の命を守ってはくれないことを自覚すべきだ。此処数年体質改善をしようと努力している。そのためには良質の睡眠が欠かせない。勿論それだけではないし、睡眠と言っても、長く寝ればよいというのでもないし、ストレッサーの多い環境もある。 ・出来るだけの努力をしている。自分のためでもある。一日2万歩6年近くになるが、現在はそれくらいが相応しい距離だと思っている。食事とかストレスを貯めないとか、適度の緊張とか、新しい情報とか、色々あるが、それほど時間がある訳でもない。70歳までに何ができるか、だと思っている。それから先は、他人に迷惑をかけない程度に自分らしく生きるつもりでいる。 ウオーキング歩数累計(2008.4.15~)年月 歩数日数2014.12.31まで50,590,7102,4512015.1月348,81530歩数累計50,939,5252,481
2015.01.30
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明治半ばの作家の状況を「表現苦時代」と呼び、「欧土のノベルを凌駕」せしめんと坪内逍遥は書いたが、女性にとっては、その創作以上に社会的な軋轢と闘わねばならなかった。平田由 美「女性表現の明治史」の副題は、一葉以前とある。その中で、「某老博士の女子教育論」を掲載している。 「文学は人の思想を高尚優美ならしめ其の品格を卓越ならしむるの効能ありと雖も、思想を高尚にし心情を優美ならしむるのみを以て女子教育の目的と見做すは大いなる誤謬な り。女子の本分は善良なる家庭の王となり聡明なる子女の母となるにあり、・・・要するに女子をして文学を学ばしめたる結果は、生意気となり・・・家政嫌ひとなり、甚だしき良人 嫌ひとなり結婚嫌ひとなり終には痩意地を張て独立の世渡りを為すが如きことあるに至る べきなり。(読売「婦人と文学」1891・6・9)これが、当時の女性小説家に対する批判者の一般的な認識である。女性が書く小説とい うものが、このような状況の中で樋口一葉が小説を書いたということであろう。勿論、社会 的環境は、改善されたことは言うまでも無いが、まだ、少なくとも meme としては、無意 識の底にはあるだろう。その亡霊がじめじめした夏の夜には、時として出てくる気がする。 日本人よりも幅広い高い見識で、文学書や評論を解釈する「外からの眼」をもつ人たちがいることだ。 外国人による日本の研究も侮れる時代ではなくなりつつあるだろう。それだけシビアでもあるだろう。内からだけでなく、外からもみられて、評価をさ れる時代だ。
2015.01.30
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