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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2025.01.18
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 アルジャイ=阿爾寨石窟は中国内モンゴル自治区オルドス市オトク旗にある石窟で、草原の敦煌とも言われます。
 ”アルジャイ石窟 モンゴル帝国期 草原の道の仏教寺院”(2024年10月 筑摩書房刊 楊 海英著)を読みました。
 内モンゴル草原の石窟寺院であるアルジャイ石窟にかかわる歴史と文化について、モンゴルとチベット仏教の関係から説き起こしています。
 石窟はもともと修行の為に選ばれた閑静な場所に造られ、辺鄙なところに開かれています。
 大同の雲岡石窟、洛陽の龍門石窟、敦煌石窟など、すべて都市や村落から離れた場所にあります。
 また、河や泉があって観像する佛像を彫刻できることも条件です。
 アルジャイ石窟は北方の草原地域では最大級の規模の石窟群で、石窟65カ所、浮彫石塔22基などが存在します。
 地域には、石窟建築、摩崖造像、石刻造像、壁画、彫像、彫刻を一体とした仏教芸術が残されています。
 このうちの壁画には、遊牧民族の移動式住居であるゲルや、騎射、狩猟、葬儀の風習などが描かれています。
 アルジャイ石窟は、モンゴル史と北アジア史の鍵を握る遺跡と言えます。
 本書はかかわる歴史を詳細に手繰って、出土したウイグル・モンゴル文書群について解説しています。
 楊 海英さんは1964年南モンゴルこと内モンゴル自治区オルドス生まれ、北京第二外国語学院大学アジア・アフリカ語学部日本語学科を卒業しました。
 当時は、内モンゴル自治区から北京大学の入学が認められない年でした。
 1989年に来日して別府大学の研究生となり、国立民族学博物館、総合研究大学院大学で文化人類学の研究を続けました。
 総合研究大学院大学博士課程修了後、中京女子大学人文学部助教授となり、1999年に静岡大学人文学部助教授となりました。
 2000年に日本へ帰化し、2006年に静岡大学人文学部教授となりました。
 2011年に著書”墓標なき草原”で、司馬遼太郎賞を受賞しました。
 帰化後の日本名は大野旭で、楊海英は中国名のペンネームです。
 中国政府が公刊した文化大革命に関する第一次史料を収集し、風響社からシリーズ14巻を公開しています。
 仏教はインド発祥で、チベット高原に伝わった後に独自の発展を遂げました。
 チペット語に翻訳された仏典は、多くのサンスクリットをそのまま残しています。
 チベット仏教の高僧たちは、モンゴルの政治力と軍事力を借りて中央ユーラシアの草原部に布教しました。
 モンゴル人は遊牧民の戦士でしたが、経典と学問をこよなく愛する民族に変身しました。
 仏教が誕生した直後ないしそれ以前から、インドでは石窟内での宗教的修行が重視されました。
 その後、ガンダーラ、カシミール高原、バーミヤン渓谷、天山山中など、沿路に多数の仏教の石窟寺院が栄えました。
 石窟は、東西文明が行き交った際の宗教的拠点だと理解されてきました。
 従来、ユーラシア大陸の東西だけを、開化した文明圏として謳歌してきました。
 中国、インド、ヨーロッパのみが文明の地で、草原は文化のない空白地帯で遊牧民は野蛮人だとされました。
 しかし多くの世界史研究家が示すように、草原文明に対する評価は変わりつつあります。
 ただし、チベット仏教は草原の道に存在する石窟造営と信仰の実践、学問の研讃についての研究は未開拓の領域です。
 本書は、そうした学問上の誤謬を訂正しようという狙いがあるといいます。
 アルジャイ石窟の造営は、遅くとも5世紀頃の北魏時代に始まります。
 また西夏王朝期にも大いに繁栄し、西夏がモンゴルに帰順してからも栄華は維持されました。
 北魏を建立した鮮卑拓践は、モンゴル系の言葉を操る遊牧民でした。
 大同雲尚石窟や洛陽の石窟も、北魏王朝の遺産です。
 チベット教は、モンゴルではラマ教と呼ばれます。
 仏教が伝わってから、遊牧民の草原に多数の寺院が建ちました。
 どの寺院にも学識と階層に基づいて組織された僧侶団体があって、広大な土地と多数の領民を管轄しました。
 19世紀末には、モンゴル高原全体におよそ1900の寺院がありました。
 そのうち、モンゴル高原南部の内モンゴルに1200、現在のモンゴル国には700ありました。
 モンゴル草原に伝わった仏教は、院のほとんどが学問寺で石窟寺院での実践が盛んでした。
 学問寺で訓練されたモンゴル人ラマにより、モンゴル語とチベット語の仏教文献が多いです。
 仏教を含む世界宗教は早い時代に東アジアに伝来しましたが、中国では例外なく弾圧を受けました。
 弾圧を受けた宗教はすべて中国を離れ、北のモンゴル高原の遊牧民社会に活路を見つけました。
 遊牧民は、宗教に寛容だからです。
 東部ユーラシア世界には豊富な宗教遺跡が残っており、本書の舞台のアルジヤイ石窟もその一例です。
 アルジャイと呼ばれる地域は、スゥメト・アルジャイ、イケ・アルジャイ、バガ・アルジャイの三つです。
 このうち、スゥメト・アルジャイが一番南、イケ・アルジャイはその北約2km、バガ・アルジャイはその東約1kmにあります。
 現在アルジャイ石窟というときは、だいたいスゥメト・アルジャイにある石窟群を指すとされています。
 しかし、実際にはバガ・アルジャイにも石窟と佛塔が存在します。
 また、イケ・アルジャイはまだ完全に確認できていませんが、近現代以前の遊牧民の残した遺跡が若干存在しています。
 著者は今後の研究を考えて、アルジャイ石窟という場合は三つのアルジャイをすべて含めるべきと考えているそうです。
 スゥメト・アルジャイは、高さ約40m、東西約300m、南北約50mの砂岩の山です。
 石窟は山の四方に分布し、確認されている石窟は66に達しています。
 特に南側の岩壁に石窟が最も集中し、上・中・下三層からなっています。
 東と北側には石窟が少なく、まったく窟を開造していない空間もあります。
 比較的保存状態が良い窟は43ありますが、残りは沙に埋もれたり倒壊した状態にあります。
 石窟群には、中心柱式のものもあれば平面方形や長方形のものもあります。
 窟内部は直壁平頂で、天井も平らな形式をとっています。
 壁には佛龕や須弥座、天井には網状の方格か蓮花状の藻井が開削されています。
 岩壁には合計26の塔が彫ってあり、ひとつは密檐式塔で他はすべて覆鉢式の塔です。
 約6mもの高さの塔もあれば、わずか10cmの小さい塔もあります。
 スゥメト・アルジャイのスゥメ=寺の跡は山頂にあり、合計6つの建物の跡があるそうです。
 その後、20世紀においてモンゴルの仏教寺院は、例外なく社会主義によって破壊されました。
 本書は中央アジアのシルクロード草原の道に位置する、チベット仏教の石窟寺院の興亡に焦点を当てています。
 遊牧民の石窟文化を記録し、その宗教哲学の世界を伝えるのが目的であるといいます。
プロローグ モンゴル草原の仏教信仰/第1章 モンゴルとチベット仏教との関係/第2章 北魏とチンギス・ハーンの石窟/第3章 伝説と記憶のアルジャイ石窟寺院/第4章 流転の石窟寺院/第5章 大元王朝のウイグル文字モンゴル語題辞/第6章 草原の僧侶が聴く英雄叙事詩/第7章 シルクロード草原の道に栄えた石窟寺院/エピローグ 廃墟となった菩提寺

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Last updated  2025.01.18 09:15:14 コメントを書く


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