心の赴くままに

心の赴くままに

PR

Profile

kishiym

kishiym

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Comments

cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2025.07.05
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
 高台院は戦国時代の女性で、豊臣秀吉の正室です。
 ”高台院”(2024年2月 吉川弘文館刊 福田 千鶴著)を読みました。
 幼名はねねと言い、織田信長の家臣の豊臣秀吉を支え、のち戦国大名の妻として、さらに関白秀吉の妻として尽力した高台院の生涯を紹介しています。
 1549年生まれで、杉原定利の次女ですが、叔母の嫁ぎ先である尾張津島の浅野長勝に養女として入りました。
 生年については、天文十一(1542)年説、天文十七(1548)年説、天文十八(1549)年説があります。
 本書では、寛永諸家系図伝や高台院画像などから、天文十八年説を採っているといいます。
 幼名はねね(寧々)といい、いっとき吉子と称しました。
 1588年に従一位を授かった際の位記には、豊臣吉子の名があります。
 諱には諸説あり、一般的にはねねとされています。
 秀吉や高台院の署名などは、おね、祢(ね)、寧(ねい)表記もあります。
 近代に戸籍ができる前は、女性の名前は大名家に生まれた娘でも不明な場合が多いです。
 実際の生活の場では、名前を必要とする場面がほとんどなかったいためです。
 大名家の娘であれば、生まれてから死ぬまで姫と呼べばことが足りました。
 姫は若い娘に限らず、老齢の女性であろうと姫は死ぬまで姫でした。
 婚姻して妻になれば、夫や婚家の格式に応じて、御台所、御簾中、御前、奥方、御上などと呼ばれました。
 ねねの実家は杉原氏といい、尾張国春日井郡朝日村の武家です。
 尾張杉原氏は、桓武平氏だと称しています。
 南北朝時代に、備後国南部に桓武平氏の杉原(椙原)氏がいました。
 室町時代には幕府の奉公衆となるなど、この地の有力武士でした。
 1561年8月に、織田信長の家来の木下藤吉郎、のちの豊臣秀吉と結婚しました。
 福田千鶴さんは1961年福岡県生まれ、1985年に九州大学文学部史学科国史学専攻を卒業しました。
 博士(文学、九州大学)号を取得し、専攻は日本近世政治史です。
 1993年から、九州大学文学部国文学研究資料館・史料館助手となりました。
 その後、東京都立大学助教授、九州産業大学教授等を務めました。
 現在、九州大学基幹教育院教授を務めています。
 ねねは14歳の時、24歳だった秀吉と結婚しました。
 秀吉との結婚について、身分の差から反対されたといいます。
 秀吉の出自については諸説あり、定かではありません。
 一般的には、父はもと足軽の農民だったといわれます。
 ねねは結婚した当時、織田信長の家臣浅野長勝の養女となって浅野家から嫁いでいます。
 ねねは浅野家の養女でしたが、母方の姓が木下ということで入り婿の形をとりました。
 この後、秀吉は木下藤吉郎と名乗ることになりました。
 その後、秀吉は1573年に近江小谷城主となり、1581年に姫路城を築いて本拠としました。
 1582年に明智光秀が織田信長を本能寺に襲ったとき、ねねは近江長浜城にありました。
 ねねは難を避けて、浅井郡の山中にある大吉寺に逃れました。
 間もなく山崎の戦で秀吉が光秀を破ると、長浜に帰り秀吉と再会しました。
 その後は、秀吉とともに大坂城に移り住みました。
 1585年に秀吉が関白になると、ねねは北政所となり従三位に叙せられました。
 北政所と呼ばれた人物は数多く存在しましたが、ねね以降はねねと不可分となりました。
 女性の場合は、置かれた立場や相手との関係で呼び名が変化します。
 娘なのか、妻なのか、母なのか、隠居なのかによって、これらの呼称を用いれば事足りました。
 そのため、名前をわざわざ用いる必要がなく、記録に名前が残されることは少なかったのです。
 女性の名前が不明の場合、歴史研究では実家や婚家の氏名を用いる方法を採用します。
 1588年4月14日に後陽成天皇の聚楽第行幸があり、還御の翌19日付をもって従一位に叙されました。
 1598年3月15日に醍醐の三宝院で秀吉の最後の花見の宴が催され、北政所も行をともにしました。
 同年8月18日に秀吉が没すると、大坂城西ノ丸にあった北政所は落飾して高台院と称しました。
 翌年、徳川家康に西ノ丸を明け渡して京都三本木の邸に隠棲しました。
 1606年に秀吉の冥福を祈るため、徳川家康にはかって京都東山に高台寺を建立しました。
 ここを終焉の地として禅床三昧の日々を送り、1624年9月6日に76歳で没しました。
 ねねは、秀吉との間に子どもはいなかったものの、仲睦まじい夫婦だったと言われています。
 高台院の76年におよぶ生涯を振り返り、人物像を一言で表現するならば、「努力の人」であったといいます。
 もともと、高台院自身も尾張庶民出身の娘でした。
 秀吉と夫婦になったことで、人臣として最高位の従一位を得て、日本女性を代表するトップレディとなりました。
 当時、女の人生は男に左右されましたので、そうした女の性を生きた代表格といもいえます。
 その地位上昇の過程において、それ相応の振舞いをするための努力を惜しみませんでした。
 そこには、想像を超える努力があったに違いないのです。
 その姿は、従来は糟糠の妻として語られることが多かったです。
 夫に献身的であったという点については、そうかもしれないといいます。
 ただし、それは当時一般の女性に求められた良き妻の資質でした。
 しかし、高台院の前半生は、秀吉の身近にいて支える姿からは程遠いものでした。
 夫は戦場の日々で、1577年からは播磨姫路に単身赴任となりました。
 たまに長浜城に戻ってきても、ゆっくり過ごす時間は多くありませんでした。
 子にも恵まれず、長浜城で寂しく秀吉の帰りを待つ身でした。
 しかし、時間を無駄にすることなく、自分磨きに努力していたのです。
 大名の妻として恥ずかしくない教養を持ち、身なりを整えることに余念がありませんでした。
 秀吉が戦陣に明け暮れるなかで、夫婦関係は冷めかけもしましたが、離縁をせずに乗り越えました。
 高台院の地位を不動にしたのは、自身を支える人々の存在も大きかったです。
 実母朝日、養母七曲は、豊臣家の親族として高台院の家政を助けてくれていました。
 兄の木下家定は、常に高台院のよき理解者でした。
 姉の長慶院は、同じく子を持たない者同士で精神的な支柱でした。
 また、高台院は「慈悲の人」でもありました。
 破天荒な秀吉と連れ添うことができたのは、慈悲の心があったゆえです。
 何度、家康から裏切られ、ひどい仕打ちを受けても、家康を許し礼節を欠くことはありませんでした。
 高台院が一芸に秀でたとすれば、裁縫が得意だったようです。
 趣味では、花を愛でていたことが、贈答のありようから窺えます。
 高台院にも文才があったかもしれませんが、和歌は嗜んだものの辞世は残されていません。
 高台院は現代に至るまで、天下人豊臣秀吉の妻「北政所」として名を歴史に大きく刻んでいます。
はしがき/第1 誕生から結婚まで(高台院の本名/誕生をめぐる三説/実家杉原氏とその家族/木下秀吉との婚姻と養家浅野氏)/第2 近江長浜時代(織田信長の教訓状/近江長浜での生活/本能寺の変/山崎城から大坂城へ)/第3 北政所の時代(関白豊臣秀吉の妻/聚楽城と大坂城/小田原の陣/豊臣家の後継者/秀次事件と秀吉の死/寺社の再興)/第4 高台院と豊臣家の存亡(京都新城への移徒/関ヶ原合戦/出家の道/豊臣秀頼との交流/大坂冬の陣・夏の陣)/第5 晩年とその死(豊国社の解体/高台院の経済力/木下家定と浅野長政の死/木下家の人々との交流/古き友との再会と別れ/高台院の最期)/おわりに/杉原家・浅野家・木下家略系図/豊臣家略系図/略年譜/参考文献

 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]



高台院 (人物叢書 323) [ 福田 千鶴 ]






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2025.07.05 07:37:25
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: