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土佐を脱藩した龍馬は、江戸に戻ることなく、京都の町に身を隠していた。
当然、京都でもお尋ね者となっているため、役人に見つかるわけにはいかない。新選組の巡回が続く四条の小路を、龍馬はいつものように足早に歩いていた。今日の宿は、伏見にある薩摩藩御用達の船宿、寺田屋。
そこには、性格は男勝りで近寄りがたいが、その瞳に強い意志を宿した美しい女中が働いていた。彼女の名は、お龍。
「なかなか面白いおなごじゃの。わしの名は坂本龍馬。同じ『龍』の名を持つとは、こりゃあ運命を感じるぜよ。しばらく厄介になるき、よろしゅうな!」
龍馬は一目見てお龍を気に入った。お龍もまた、龍馬の人懐っこい笑顔の裏にある、底知れない器の大きさに引き込まれていくのを感じていた。
龍馬が寺田屋に来て間もなくのこと。階下から激しい怒声が響いた。
「何じゃ? 喧嘩か?」
龍馬が二階から覗き込むと、そこには数人の無頼な浪人相手に一歩も引かず、凛と啖呵を切るお龍の姿があった。
「私がここで働いているのは、困窮した家族を養うため。色目で男を釣るような真似はいたしませぬ! とっととお帰りなさいませ!」
男たちは気圧され、顔を真っ赤にして引き下がっていく。その一部始終を見ていた龍馬は、たまらず豪快に笑い出した。
「はっはっは! こりゃたまげた! 面白うてたまらんわ。あんたのような女傑(じょけつ)は、この京の町にもそうはおらんき!」
お龍は呆れた顔をしたが、自分の誇りを笑わずに「面白い」と全肯定してくれた龍馬に、かつてない親しみを感じるようになった。
二人が言葉を交わすようになるのに、時間はかからなかった。龍馬は日本の未来を、お龍は亡き父のことや残された家族への想いを語った。動乱の世を孤独に生きる二人が、深い絆で結ばれるのは必然であった。
しかし、平穏は長くは続かない。
慶応二年一月二十三日深夜、伏見奉行所の捕吏(警察)が寺田屋を包囲した。
「坂本、神妙にいたせ! 今宵がお主の最期じゃ!」
入浴中だったお龍は、窓の外の槍の光にいち早く気づく。彼女は着物を羽織る間も惜しみ、裸同然の姿で濡れたまま階段を駆け上がり、二階の龍馬に危機を伝えた。
「龍馬様、お逃げなさい! 敵が来ております!」
「な、なんじゃと! お龍、かたじけない!」
龍馬は護身用の拳銃を手に取り、同行していた長州藩士・三吉慎蔵と共に応戦する。しかし敵は百人余りの大軍。多勢に無勢の中、龍馬は両手の親指を深く斬られる重傷を負い、血に染まりながら二階の屋根から逃走した。
龍馬と三吉は近くの材木小屋に逃げ込み、積み上げられた材木の隙間に身を潜める。
「もうわしは動けん……。三吉よ、おまんだけでも逃げろ。お龍に……お龍によろしく伝えておくれ」
「馬鹿を申すな! 貴様を死なせれば、わしはどの面下げてお龍殿に会えるか! ここで待っていろ!」
三吉は決死の覚悟で包囲網を突破し、薩摩藩邸へ助けを呼ぶことに成功した。
命を救われた龍馬は、お龍の勇敢さと献身に心から感謝し、周囲に彼女を「わしの妻」であると公言した。傷を癒やすために向かった薩摩への旅。それは、日本初の新婚旅行でもあった。
しかし、龍馬は指名手配中の脱藩浪士。
その後もお龍と戸籍上の正式な夫婦となることは叶わぬまま、激動の時代の中、近江屋での最期の日を迎えることになるのである。