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それからも希美による過酷なレッスンは続いた。山田は必死で食らいついた。清潔感のある身だしなみ、規則正しい生活、さらには料理や掃除といった家事スキルまで。かつて「キモい」と一蹴された趣味も、独りよがりではない「教養」へと昇華させていった。何より、山田を突き動かしていたのは、もはや漠然とした結婚願望ではない。(希美さんに認められたい。この人と人生を歩みたい)山田は、自分を「破壊し再構築」してくれた希美に、狂おしいほどの恋をしていた。今の自分なら、その想いをまっすぐに言葉にできる自信があった。「山田さん、女性の目を見て話しなさい。逸らしたら負けよ」「……はい」希美の澄んだ瞳が、至近距離で山田を射抜く。かつての彼なら震えて逃げ出していただろう。だが今は違う。次の瞬間、山田は彼女を強く抱き寄せ、その唇を奪った。希美は抗うことなく、静かにそれを受け入れた。唇を離した山田は、まっすぐに彼女を見つめて告げた。「希美さん、僕と結婚してください」一瞬の沈黙が流れる。希美は切なげに目を伏せた。「……言ったはずよ。私はあなたのパートナーにはなれないと」「それでも、自分の気持ちに嘘はつけません。あなたが教えてくれた勇気が、僕にそうさせるんです」希美は小さくため息をつき、ゆっくりと背を向けた。「……見違えたわね。なら、最後のレッスンをしましょう。一人の女を心ゆくまで愛し、男としての完成を見せなさい。……私の身体を使って」その夜、二人はかつてないほど激しく交わった。山田は全霊をかけて彼女を愛した。彼女の肌に自分の存在を刻み込み、このまま離したくないという執着をすべてぶつけた。これまで常に山田を導く側だった希美の呼吸が次第に乱れ、最後には一人の素直な女として、山田の腕の中で甘い声を上げたのだった。翌朝、山田が目覚めると、隣に彼女の体温はなかった。枕元に残されていたのは、一通の手紙。『山田さん、お見事でした。今のあなたには、もう女を恐れる心も、臆病な言い訳もありません。最後に、あなたへ贈る本当の最終レッスン。それは「失恋」という痛みです。愛する人を失う絶望を知り、それを乗り越えた時、あなたは誰よりも強く、優しい男になれる。……これ以上あなたと一緒にいれば、私はプロであることを捨て、一人の女としてあなたと結婚したくなってしまう。それは私の矜持が許しません。あなたは間違いなく、最高に幸せな結婚ができます。さようなら。 結城希美』山田は手紙を握りしめ、声を上げて泣いた。その後、彼女の行方を必死に探したが、あの雑居ビルの部屋はすでにもぬけの殻だった。まるで、最初からすべてが不思議な一夜の夢だったかのように。エピローグ数年後。都内の洗練されたゲストハウスで、華やかな結婚披露宴が執り行われていた。新郎のタキシードを纏った山田正の姿は、かつての冴えないおじさんの面影など微塵も感じさせない。洗練された立ち姿、ゲストひとりひとりに向ける自然で温かい笑顔、そして隣に立つ聡明で美しい妻を気遣う優しさ。その立ち振る舞いは、誰もが憧れる最高に魅力的な紳士そのものだった。「新郎新婦、退場です!」温かい拍手とフラワーシャワーの中、ふたりは手を繋ぎ、ゲストに感謝を伝えながら歩みを進めていく。その歓声から少し離れた式場の壁際で、ひっそりと佇む一人の女性がいた。シックな紺のドレスに身を包んだ結城希美だ。「……合格よ、山田さん」希美はグラスを片手に、小さく呟いた。彼の隣で幸せそうに微笑む女性は、誠実で度胸があり、心から人を愛せる山田の魅力を見抜いた素晴らしい人だ。希美が徹底的に叩き込んだ「男としての磨き」は、今や彼自身の揺るぎない血肉となり、最愛のパートナーを引き寄せる力となっていたのだ。新郎の山田がふと、何かに導かれるように式場の入口付近へ視線を向けた。一瞬、ふたりの視線が交差する。山田の目が大きく開かれ、驚きと……そして深い感謝の色彩を帯びた。希美は静かに笑みを浮かべると、彼にだけわかるようにそっとグラスを掲げてみせた。(あなたはもう、私が教えることなんて何一つない、最高の男よ)山田が何かを言おうと一歩踏み出しかけた瞬間、希美はくるりと背を向け、人混みの中に紛れていく。追ってこようとする彼を制するように、最後にあの日見せたようないたずらっぽい笑みを残して。式場の外に出ると、心地よい風が希美の髪を揺らした。スマホを取り出し、画面を開く。そこには新しい依頼者からのメッセージが届いていた。『はじめまして。噂を聞いて連絡しました。僕みたいな冴えない男でも、本当に結婚できるのでしょうか……?』希美はふっと口元を緩め、ピンヒールを鳴らしながら歩き出した。「ふふ、また一人、手がかかりそうな男ね」彼女は一度も振り返ることなく、次の「臆病者」が待つ街へと消えていった。
2026.08.22
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「今日はバニーガールではないんですね」3日後。指定された場所に再び現れた希美は、前回の格好から打って変わって、清楚なセットアップに身を包んでいた。「がっかりした? あれはあなたの『女性への耐性』を見るためのテストよ。私も別に普段からあんな格好をしてる変態じゃないわ」山田は少し残念に思いつつも、どこか安怠した。「前回の刺激で、あなたの消極性は少し覚醒したわ。でもまだ不十分よ。爆発力だけでは、ただの危ない人だからね。次はそれを『常識の範囲内』でコントロールする訓練をするわ」そう言って希美が用意したのは、山田の好みとはほど遠い、色鮮やかで若作りな服だった。「……これ、おじさんが無理してるみたいで痛くないですか?」「あなたがそう思うなら、そうなんでしょうね。でも、今のあなたに必要なのは『余計な自意識をぶち壊すこと』よ」連れて行かれたのは、若者で溢れかえる有名なナンパスポットだった。「さあ、あそこの女性に声をかけてきなさい」「そんな無茶な!」「何のためにあの夜、覚悟を決めたのか思い出しなさい。……それとも、投げ捨てた真面目さを拾い集めて、また元の臆病者に戻るつもり?」希美の挑発に、山田の心に火がついた。自分のため、そして自分を容赦なく引きずり出そうとしてくれる彼女のために。「……やります!」山田は震える足で女性に近づき、希美から授けられた「あえて最悪に痛いセリフ」を口にした。「へい彼女! 僕とお茶しないか?」女性の顔が露骨に引き攣る。「……キモっ」一言で撃沈。周囲からのクスクスという失笑と冷ややかな視線。山田の顔は茹で上がったように赤くなったが、遠くから見守る希美の視線を感じて思いとどまった。「……あと3回よ」希美の冷徹な指示に、山田の中でついに何かが切れた。(もうどうにでもなれ……!)2回、3回と玉砕を繰り返すうちに、不思議と頭が冷えていった。どん底の恥をかき切ったことで、逆に「これ以上失うものなど何もない」という無敵の境地に達したのだ。「やりましたよ、希美さん」戻ってきた山田の目は、先ほどまでの怯えが嘘のように据わっていた。「立派だったわ。やればできるじゃない」「ええ、もう何だってできますよ。……例えば、こんなことも」吹っ切れた山田は、勢いに任せて周囲の目の前で希美を引き寄せ、その唇を奪った。自分をここまで追い込んだ彼女への、半ばヤケクソな誇示でもあった。希美は驚く素振りも見せず、山田が離れるまで静かにそれを受け入れた。通りすがりの若者から「おじさんやるな」と冷やかしの声が飛ぶ。「……ささやかな復讐のつもり?」希美は指先で唇を軽く拭うと、いたずらっぽく微笑んだ。「でも、その度胸は大成功ね。あんな酷い振られ方に比べれば、日常のコミュニケーションなんて何でもなくなるでしょう?」「確かに。レジの店員さんに挨拶するくらい、何てことない気がします」「そう、あなたの羞恥心のハードルを書き換えたのよ。……でもね」希美は山田の鼻先を指でちょんと弾いた。「調子に乗ってやりすぎるのは禁物。次は、その度胸を本物の『魅力と誠実さ』に変えるトレーニングよ」山田は自分の暴走を急に恥ずかしく思いながらも、彼女との距離がほんの少しだけ縮まったような気がしていた。
2026.08.18
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「ここが噂に聞いた結婚相談所か…。」男は雑居ビルの奥にある、表札の無い扉の前に立っていた。ここの相談所に世話になると、確実に結婚出来るという噂を聞いたからだ。決意を固めて扉を開くと、予想に反して中は煌びやかなミラーボールが照らす空間であり、1人の女性がバニーガールの姿で待っていた。「すみません。間違えました。」男は一礼すると引き返そうとする。すると女は笑いながら言った。「うふふ…結婚が望みなんでしょ?間違いではないわ。私はこの結婚相談所の所長の結城希美(ゆうき のぞみ)よ。」「どうみても違うでしょ。何の冗談ですか?」確かに部屋の雰囲気は、お酒を飲むお店のようにしか見えない。男が怪しむのも仕方なかった。しかし希美と名乗る女は、堂々と言い放つ。「そんな事だから結婚出来ないのよ、あなたは。」男は心をえぐられるような感覚を覚えた。彼の悩みの本質を突いた言葉だったからだ。「どういう事ですか?」男は聞かずにはいられなかった。「率直に言えば、あなたには余裕がないわ。入ってきてすぐにあなたは視線を逸らして逃げようとした。女に対して臆病でもあるわね。余裕ある男なら喜んじゃう場面よ。」「うぐっ…!しかし、ダンディな男だってモテるでしょう。そんな人は喜びませんよ。」「あなた、自分がダンディだとでも?とんだ勘違いでしかないわ。」男は何も言い返せなくなった。確かに自分がダンディな紳士を装っているだけの、ただの臆病者である自覚があったからだ。「では、相談に乗って頂けますか? ここなら100%結婚出来ると聞いたのです。」男は本題に戻って話を切り出した。「もちろん成功率は100%よ。ただし、私に認められない限りは相談を受け付けないわ。」「では、やはり無理だと…?」がっかりする男を見定めるように、笑みを浮かべながら立ち上がる希美。「それは私が決める事。……では、服を脱いで全裸になりなさい。」「はぁっ!?」男はまさかの要求に唖然とする。困惑する男を面白がるように、希美は続けた。「あなたのスペックデータを取るためよ。さっさと脱ぎなさい。」男は迷った。しかし、彼女に言われた「臆病」という言葉が、頭の中で何度もリフレインする。(臆病ではダメなんだ…!)意を決して、男は全裸になった。もし何かの罠だったとしたら、確実に恥をかかされるだろうと思いながら。希美は真剣な眼差しで、男の肉体データを観察し、計測していく。「次はこの書類に記載をしなさい。あなたの情報を完全に把握するためよ。」渡されたバインダーを手に取り、男は腹をくくった。今更引き返す訳にはいかない。言われるままに書類の質問に答えていった。その書類を目にして、希美がつぶやく。「名前は山田正、年齢38才……何とかなりそうね。引き受けましょう。」「本当ですか! 僕は結婚出来るんですね!」山田は喜んだ。自分はおそらくダメだと諦めかけていたからだ。「本当に危なかったわね。あなたのスペックでは、本来なら35才が最低ライン。それを超えた年齢になればほぼ無理よ。でも私なら、40才までなら結婚させられるわ。」「ちなみに、僕は何がいけなかったんでしょう? 真面目に生きてきたのに…。」それを聞いて希美は鼻で笑った。「真面目ねぇ。今のあなたでは何の武器にもならないわ。むしろ、つまらない男にしか見られないでしょうね。」「うっ…。」「さっきも言ったように、あなたは臆病者。勇気を出せない自分への言い訳を『真面目だから』『誠実だから』と置き換えて誤魔化してるだけなのよ。」言われてみれば確かにそうかもしれないと、山田は痛感させられた。「真面目さや優しさを武器にするなんて、むしろ真逆のチャラ男が得意な手法よ。普段チャラい男がちょっとそういう部分を見せるから、ギャップで効果がバツグンなの。」「では、僕はどうすれば…。」希美は山田を見つめると、一呼吸を置いて言った。「今のあなたを破壊して、再構築します。」「破壊!?」「その覚悟はあるかしら?」山田は真剣な眼差しで答えた。「もちろんです。」希美は不敵に笑った。「なら、その真面目さも一度全部捨てなさい。」「そう言われても…どうしろと?」「私にキスをしなさい。」「えぇっ!?」予想外の指令に山田は驚き、まじまじと希美を見た。バニーガール姿の希美は、改めて見れば息をのむほど魅力的な女性だった。「これまであなたは『私に変態だと思われるの』を恐れて、視線を逸らしていたんじゃない?」図星だった。山田は確かに、これまで女性がいるとあえて視線を逸らしてきたのだ。見たいという願望を必死に押し殺して。それを指摘された瞬間、山田の中で何かが吹っ切れた。希美の指示に従う決心がついた。(自分を破壊しなければ…!)山田は希美を力強く抱き寄せると、思いっきり唇を重ねた。長い時間あたたかな感触を確かめ合い、一度離れてから希美の顔を見つめ、再び激しくキスをした。希美は一切抵抗しなかった。それから、どれだけの時間が過ぎただろうか。ミラーボールに怪しく照らされながら、山田は希美と肌を重ねていた。人生で初めて知る女性のぬくもり。山田は欲望の赴くままに走り抜け、最後は抑えきれずに中で出してしまうのだった。「やってしまった…。」行為を終えた瞬間、山田は急激な罪悪感に包まれた。しかしそれと同時に、「もし妊娠したら、希美と結婚出来るのではないか」という身勝手な期待も湧き上がってしまう。「私とあなたが結婚する事は無いわよ。そこは勘違いしないでね。」山田の心を見透かしたように、それまで静かだった希美が言った。「でも、ここまではじけられたのだから褒めてあげるわ。」「……罵倒されるかと思いましたよ。」「私はプロの相談員。あなたは依頼者。ビジネスパートナーとして、これからよろしくね。」そう言うと、希美はにっこりと艶やかに微笑むのだった。
2026.08.15
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夏の甲子園。幾多の球児たちが夢見た晴れ舞台で、泥にまみれながら白球を追いかけている。眩しい太陽の下で繰り広げられるドラマは、誰もが胸を打たれる青春の軌跡そのものだった。だが、その裏で熱戦のモニターを見つめる大人たちにとっては、単なる金と欲望の対象に過ぎない。「何やってんだよ、このヘタクソがぁ! そんなの小学生でも捕れるだろ!」怒号を飛ばした男の名は、凶田厳介(きょうだ げんすけ)。情状の余地もない、正真正銘のクズである。その隣で、煙草の煙を燻らせていた女が甲高く笑った。「あっはっは! あんたの運も尽きたようね。賭け金100万円、きっちり払ってもらうよ」「けっ! まだ試合は終わってねーだろが! 最後に笑うのは俺だぜ!」薄暗い室内で繰り広げられるのは、違法な野球賭博。当然、法律では完全にアウトだ。しかし、彼らがそんな道徳やリスクを気にするはずもない。それぞれ別のチームに金を賭けて応援してはいるものの、そこに球児たちへのリスペクトなど微塵もなかった。ただ、己の賭けたチームが勝ち、金が懐に入るかどうか——頭の中にあるのはそれだけだ。凶田は画面に向かって唾を吐き捨てた。「まったくヌルい野球しやがって。俺の現役時代はこんなんじゃなかったぜ!」「へぇ、意外だね。あんたも甲子園目指して野球やってたのかい?」「甲子園? そんなの興味ねーよ。俺にとって高校野球なんて、女にモテると思ってやってただけだぜ」凶田は目を細め、歪んだ悦楽に満ちた己の高校時代を回想し始めた。「ククク……こいつがエースか。これでも食らえ!」マウンドに立った凶田が投じた渾身の速球は、相手バッターの右腕へと鋭く巻きついた。鈍い音が響き、打者はその場に崩れ落ちて悶絶する。(ちっ……顔面を狙ったんだがな。まあいい、これで奴も投げられねえだろう)審判が駆け寄り、警告を発する。スタンドが騒然とする中、相手のエースピッチャーは苦悶の表情のままベンチへと下がっていった。そして回が進み、打席に立った凶田。放った打球は詰まった内野ゴロだった。際どいタイミングで一塁へ駆け込む際、凶田は一塁手の足をスパイクで思いきり踏みつけた。「ぐあああっ!」絶叫する一塁手。彼は相手チームの主砲だった。判定はアウトだったが、足の骨を痛めた一塁手もまた、立ち上がれず無念の交代を余儀なくされる。球場全体から激しい非難と罵声が飛び交う中、凶田はどこ吹く風でベンチへと戻った。そして陰に入った瞬間、顔を歪めて醜悪な笑みを浮かべる。凶田は狡猾だった。審判に故意だと見破られないよう、露骨な危険プレーを連発することはしない。あくまで「不運な事故」を装いながら、的確に相手の主力を潰していくのだ。さらに、彼の卑怯さはグラウンド内に留まらない。スタンドには手下を複数人配置し、相手捕手のサインを盗んでベンチへ伝達させていた。それどころか、裏でつながる不良仲間を使い、大会前日に相手チームの主力選手を脅迫。事故を装って怪我をさせ、出場不能に追い込むことまでやっていたのだ。こうして凶田のチームは、悪魔的な謀略によって“奇跡の快進撃”を続け、ついに甲子園出場を決めてしまった。「よっしゃー! おい南、約束通り一晩付き合えや!」凶田が野球をやっていた本当の目的。それは、甲子園出場を条件に、容姿端麗な女子マネージャーと肉体関係を結ぶ約束を取りつけることだった。男の執念はそれだけのために注がれていたのだ。欲望を達成した凶田は、甲子園開幕を前にあっさりと部を失踪し、過密日程の大会期間中、仲間たちと狂騒の夏をエンジョイした。凶田という「劇薬」を失ったチームは、甲子園の1回戦で無惨な大敗を喫することとなったが、彼には知ったことではなかった。「ククク……最高の青春だったぜ」「……本当に最低な奴ね」女は心底呆れ果てた目で凶田を見つめた。「ふん、そんな昔のことより、今はこの試合だ! さっさと逆転しろや、ボケ!」荒々しく罵声を飛ばす凶田だったが、その表情にはなぜか底知れない余裕が漂っていた。そして最終回。絶望的な点差で後がないはずの凶田の賭けたチームが、突如として相手投手を捕らえ始める。「来た、来た、来たぁー! 甲子園の魔物ぉー!」怒涛の連続ヒット。点差はみるみるうちに縮まり、ついに一打逆転、満塁という土壇場の場面を迎えた。テレビ画面の向こうから、地鳴りのような歓声と球場の熱気が伝わってくる。「さあて……逆転して勝ったら、約束は果たしてもらうぜ?」凶田がニヤリと笑いながら呟いた一言に、女の顔からサッと血の気が引いた。確かに試合開始前は、100万円を賭けるだけの勝負だったはずだ。しかし、途中で自分の賭けたチームが大量リードしたことに気を良くした女は、凶田からの怪しい持ちかけに乗って追加の賭けに応じさせられてしまっていた。女が勝てば凶田を舎弟として顎で使い、負ければ女が凶田の物になる——。圧倒的有利な状況だったため、勝利を確信していた。凶田の暴走に過ぎないと思っていたのだ。だが、現在の土壇場で見せる凶田の不気味な笑みを見て、女の胸に冷たい疑念が走る。「あんた……まさか卑怯な事を?」「何の事だ? 俺がいつ卑怯な事をしたんだよ?」凶田は白々しく肩をすくめてニヤつく。「そういえば……さっき、卑怯な手を使いまくって甲子園出場を決めたとか言ってたわよね。それに、このチームを応援する理由が『後輩が監督をやってるから』だって……」凶田はモニターから目を逸らさぬまま、静かに答えた。「確かに昔と違ってよ……今のテクノロジーを利用すりゃ、もっとスマートで卑怯な事が出来るわなぁ」「……っ!」凶田はゆっくりと首を巡らせ、女の方を振り返ると、あの悪魔のような笑みを深めた。「で? 証拠は?」次の瞬間——ハッと息を呑む女の耳に、甲高い金属音が届いた。快音とともに、観衆の地鳴りのような大歓声がテレビから溢れ出す。凶田の応援していたチームが、土壇場で見事な逆転サヨナラ勝ちを収めた瞬間だった。だが、それは本当に奇跡のドラマだったのか?それとも、仕組まれた悪意の結末だったのか?その答えが明かされることはないまま、女は暗闇の中へと引きずり込まれていった
2026.08.05
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アンケセナーメンの祈りも虚しく、最愛の夫ツタンカーメンは帰らぬ人となった。立ち上がる気力さえ失い、死の静寂に沈む彼女の前に、宰相アイが姿を現す。その口元には、隠しきれない歓喜が醜く滲んでいた。「何の用です。今は誰にも会いたくありません」「クフフ……。そんな悠長なことを言っている余裕は、王妃様にはないと思われますが」「……分かっています。次の結婚相手のことでしょう。ですが、今はその気になれぬ」その時、アイが剥き出しにした邪悪な本性を、彼女は見逃さなかった。「王妃アンケセナーメンよ。お前を我が妻とする」その言葉に、彼女は耳を疑った。アイはすでに老境に達した男であり、王家の婿(むこ)としてはあり得ぬ存在だ。同時に、一つの戦慄すべき疑念が脳裏をかすめる。「あなた……王位を簒奪する気なの?」思えば、子を失った時から彼の態度は不遜さを増していた。「よもや、王が狩りで怪我を負ったのも……貴様が仕掛けた罠か!」アイは答えず、ただ下卑た笑みを浮かべるだけだった。その沈黙こそが肯定であった。「宰相といえど、許さぬぞ!」「やはり何も分かっておらぬな。お前にはもはや、何の力もないのだということを!」アイの合図とともに、控えていた警護兵たちが一斉に整列し、彼に忠誠を誓う。アンケセナーメンは、知らぬ間に実権のすべてがこの男の手に渡っていた事実に愕然とした。「日取りが決まり次第、婚儀を執り行う。それまで亡き夫との思い出に浸るが良い。ハッハッハ!」高笑いして去る背中を睨みつけ、彼女は誓った。あの男にだけは、絶対にこの身を許さないと。エジプトの王女が、宿敵ヒッタイトに縋る――。それは数千年の歴史の中で決して許されざる、最大の禁忌であった。彼女は震える手でパピルスを広げ、葦のペンを走らせた。宛先はヒッタイトの王、シュッピルリウマ1世。『私の夫は死にました。私には息子がいません。もしあなたの息子の一人を送ってくだされば、その方は私の夫となり、エジプトの王となるでしょう。私は、あの邪悪な男アイだけは夫に迎えたくありません……』これは王家を、そして自分自身の誇りを守るための最後の賭けであった。命を賭して信頼できる使者に託された密書は、遠くヒッタイトの地に届き、王は一人の王子をエジプトへと向かわせた。しかし、その捨て身の賭けさえも、アイの網に掛かっていた。エジプトへ向かったヒッタイトの王子は、国境を越える前に暗殺されたのである。アンケセナーメンの寝所へ、下衆な笑みを浮かべたアイが足音荒く踏み込んできた。「無礼な! 下がりなさい!」「お前の浅はかな策は潰えた。ヒッタイトの王子はもう来ぬわ!」その言葉を聞いた瞬間、アンケセナーメンの目の前は真っ暗になった。「終わった……何もかも……」「終わりではない、始まるのだ! 私の時代がな!」アイは強引に彼女の体を抱き寄せ、唇を奪った。吐き気を催すほどの感触に、アンケセナーメンの意識は急速に遠のいていく。抵抗する気力さえ枯れ果てた彼女は、泥濘(ぬかるみ)に沈むかのようになすがままとなった。「どうした? この私が憎いのではなかったのか?」アイの嘲笑さえ、闇に落ちていくアンケセナーメンには届かない。アイは醜悪な笑みを浮かべながら、彼女の衣服を容赦なく引き裂き、その肌を露わにした。「赤子だったお前が、この老いた身体に力を呼び戻してくれる女へと成長しおったわ。なんと感慨深いものよな。では、その礼をさせてもらおう」アイは逃げ場のない彼女の身体を容赦なく貫いた。野心のためにすべてを裏切ったおぞましき男――そして、血縁上は自らの祖父にあたる男から受けたその屈辱は、意識を失いかけていたアンケセナーメンの心に重く突き刺さる。それは残酷なる敗北の証として、彼女の精神を完全に崩壊させた。「あっ……ああぁーっ!」アンケセナーメンは痛切な悲鳴を上げ、それ以降は心なき人形と化す。アイはその様子を愉快そうに眺めて言った。「これはこれで面白い趣向よ。手に負えぬ高嶺の花よりも、こちらのほうが扱いやすいというもの。たっぷりと、その身を愛してやろうぞ!」そしてアイは、かつては王女として従った孫娘の身体を女として汚し尽くしていった……。その後、正式に結婚を果たしたアイは、廃人同然となった彼女を「世継ぎを産む道具」として扱い、執拗に交わりを重ねた。自身の王朝を盤石にするために。「あとは我が子を孕ませるだけだ。そうなれば我が血筋がファラオとして永遠に君臨する!」野望に狂うアイに、アンケセナーメンは魂の抜けた人形のように従い続けた。しかし、神はアイに微笑まなかった。アンケセナーメンが世継ぎを産み落とすことは二度となかったのである。彼女の胎内は、あまりの絶望ゆえに、新たな命を育むことすら拒絶したかのようであった。執念の野望を果たせぬまま、アイもまた数年と経たずに病に倒れ、孤独のうちに息を引き取った。それは、すべてを奪われたアンケセナーメンが、自らの身を犠牲にして成し遂げた、最後にして唯一の抵抗だったのかもしれない。黄金の仮面に守られた最愛の夫のもとへ、彼女が旅立ったのは、それから間もなくのことであった。こうして、エジプト第18王朝の血脈は完全に絶たれた。後にファラオの座に就いたのは、軍の最高司令官であったホルエムヘブである。彼は王国の秩序を取り戻すため、ある苛烈な決断を下す。アテン信仰という異端に与した王たちの存在そのものを、歴史から消し去ること――。奇しくも、アンケセナーメンの夫となった三人の男たち……父アクエンアテン、若きツタンカーメン、そして老奸なアイ。彼らの名は神殿の壁から削り取られ、王の列伝から抹消された。男たちの争いと野望に翻弄され続けた少女、アンケセナーメン。彼女の名もまた、男たちの名と共に闇の彼方へと葬り去られ、長い歴史の揺りかごの中で静かに姿を消したのである。……しかし、数千年の時を超え、黄金のマスクとともに彼女の存在が再び光を浴びたとき、人々は知ることとなった。過酷な運命に一人立ち向かい、誇りを胸に駆け抜けた、一人の美しくも悲しい王妃の物語を。
2026.08.02
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