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夏の甲子園。
幾多の球児たちが夢見た晴れ舞台で、泥にまみれながら白球を追いかけている。
眩しい太陽の下で繰り広げられるドラマは、誰もが胸を打たれる青春の軌跡そのものだった。
だが、その裏で熱戦のモニターを見つめる大人たちにとっては、単なる金と欲望の対象に過ぎない。
「何やってんだよ、このヘタクソがぁ! そんなの小学生でも捕れるだろ!」
怒号を飛ばした男の名は、凶田厳介(きょうだ げんすけ)。
情状の余地もない、正真正銘のクズである。
その隣で、煙草の煙を燻らせていた女が甲高く笑った。
「あっはっは! あんたの運も尽きたようね。賭け金100万円、きっちり払ってもらうよ」
「けっ! まだ試合は終わってねーだろが! 最後に笑うのは俺だぜ!」
薄暗い室内で繰り広げられるのは、違法な野球賭博。
当然、法律では完全にアウトだ。しかし、彼らがそんな道徳やリスクを気にするはずもない。
それぞれ別のチームに金を賭けて応援してはいるものの、そこに球児たちへのリスペクトなど微塵もなかった。ただ、己の賭けたチームが勝ち、金が懐に入るかどうか——頭の中にあるのはそれだけだ。
凶田は画面に向かって唾を吐き捨てた。
「まったくヌルい野球しやがって。俺の現役時代はこんなんじゃなかったぜ!」
「へぇ、意外だね。あんたも甲子園目指して野球やってたのかい?」
「甲子園? そんなの興味ねーよ。 俺にとって高校野球なんて、
凶田は目を細め、歪んだ悦楽に満ちた己の高校時代を回想し始めた。
「ククク……こいつがエースか。これでも食らえ!」
マウンドに立った凶田が投じた渾身の速球は、相手バッターの右腕へと鋭く巻きついた。鈍い音が響き、打者はその場に崩れ落ちて悶絶する。
(ちっ……顔面を狙ったんだがな。まあいい、これで奴も投げられねえだろう)
審判が駆け寄り、警告を発する。スタンドが騒然とする中、相手のエースピッチャーは苦悶の表情のままベンチへと下がっていった。
そして回が進み、打席に立った凶田。
放った打球は詰まった内野ゴロだった。際どいタイミングで一塁へ駆け込む際、凶田は一塁手の足をスパイクで思いきり踏みつけた。
「ぐあああっ!」
絶叫する一塁手。彼は相手チームの主砲だった。
判定はアウトだったが、足の骨を痛めた一塁手もまた、立ち上がれず無念の交代を余儀なくされる。
球場全体から激しい非難と罵声が飛び交う中、凶田はどこ吹く風でベンチへと戻った。そして陰に入った瞬間、顔を歪めて醜悪な笑みを浮かべる。
凶田は狡猾だった。
審判に故意だと見破られないよう、露骨な危険プレーを連発することはしない。あくまで「不運な事故」を装いながら、的確に相手の主力を潰していくのだ。
さらに、彼の卑怯さはグラウンド内に留まらない。
スタンドには手下を複数人配置し、相手捕手のサインを盗んでベンチへ伝達させていた。それどころか、裏でつながる不良仲間を使い、大会前日に相手チームの主力選手を脅迫。事故を装って怪我をさせ、出場不能に追い込むことまでやっていたのだ。
こうして凶田のチームは、悪魔的な謀略によって“奇跡の快進撃”を続け、ついに甲子園出場を決めてしまった。
「よっしゃー! おい南、約束通り一晩付き合えや!」
凶田が野球をやっていた本当の目的。それは、甲子園出場を条件に、容姿端麗な女子マネージャーと肉体関係を結ぶ約束を取りつけることだった。男の執念はそれだけのために注がれていたのだ。
欲望を達成した凶田は、甲子園開幕を前にあっさりと部を失踪し、過密日程の大会期間中、仲間たちと狂騒の夏をエンジョイした。
凶田という「劇薬」を失ったチームは、甲子園の1回戦で無惨な大敗を喫することとなったが、彼には知ったことではなかった。
「ククク……最高の青春だったぜ」
「……本当に最低な奴ね」
女は心底呆れ果てた目で凶田を見つめた。
「ふん、そんな昔のことより、今はこの試合だ! さっさと逆転しろや、ボケ!」
荒々しく罵声を飛ばす凶田だったが、その表情にはなぜか底知れない余裕が漂っていた。
そして最終回。
絶望的な点差で後がないはずの凶田の賭けたチームが、突如として相手投手を捕らえ始める。
「来た、来た、来たぁー! 甲子園の魔物ぉー!」
怒涛の連続ヒット。点差はみるみるうちに縮まり、ついに一打逆転、満塁という土壇場の場面を迎えた。テレビ画面の向こうから、地鳴りのような歓声と球場の熱気が伝わってくる。
「さあて……逆転して勝ったら、約束は果たしてもらうぜ?」
凶田がニヤリと笑いながら呟いた一言に、女の顔からサッと血の気が引いた。
確かに試合開始前は、100万円を賭けるだけの勝負だったはずだ。しかし、途中で自分の賭けたチームが大量リードしたことに気を良くした女は、凶田からの怪しい持ちかけに乗って追加の賭けに応じさせられてしまっていた。
女が勝てば凶田を舎弟として顎で使い、負ければ女が凶田の物になる——。
圧倒的有利な状況だったため、勝利を確信していた。凶田の暴走に過ぎないと思っていたのだ。
だが、現在の土壇場で見せる凶田の不気味な笑みを見て、女の胸に冷たい疑念が走る。
「あんた……まさか卑怯な事を?」
「何の事だ? 俺がいつ卑怯な事をしたんだよ?」
凶田は白々しく肩をすくめてニヤつく。
「そういえば……さっき、卑怯な手を使いまくって甲子園出場を決めたとか言ってたわよね。それに、このチームを応援する理由が『後輩が監督をやってるから』だって……」
凶田はモニターから目を逸らさぬまま、静かに答えた。
「確かに昔と違ってよ……今のテクノロジーを利用すりゃ、もっとスマートで卑怯な事が出来るわなぁ」
「……っ!」
凶田はゆっくりと首を巡らせ、女の方を振り返ると、あの悪魔のような笑みを深めた。
「で? 証拠は?」
次の瞬間——ハッと息を呑む女の耳に、甲高い金属音が届いた。
快音とともに、観衆の地鳴りのような大歓声がテレビから溢れ出す。
凶田の応援していたチームが、土壇場で見事な逆転サヨナラ勝ちを収めた瞬間だった。
だが、それは本当に奇跡のドラマだったのか?
それとも、仕組まれた悪意の結末だったのか?
その答えが明かされることはないまま、女は暗闇の中へと引きずり込まれていった。