「大碓が父上から掠め取った美濃の女共を、直ちに処刑しましょう」
あまりに唐突な言葉に、天皇は唖然とした。
「何か粗相でもあったと申すか?」
「あの女共は、すでに兄の種を宿しております。大逆を働いた者の血をこの世に残すなど、禍根の元。万死に値しましょう」
景行天皇の背筋は凍りついた。小碓のおぞましき本性に確信を得たからである。このままでは、姉妹は確実に殺される。そうなれば美濃一帯を治める豪族との間に、修復不能な亀裂が生じるのは明白であった。
「……この件はわしに任せよ。元々はわしが望んだ女たちだ。後始末はわしがする」
小碓は不服そうに唇を歪めたが、父の顔を立てて引き下がった。小碓の姿が消えるや否や、天皇は皇女・布多遅能伊理毘売(フタジノイリビメ)を密かに呼び寄せた。
「美濃の姉妹を連れて、密かに国へ逃がせ。小碓に気づかれてはならぬぞ」
父の怯えを察した彼女は、深く頷き、闇に紛れて手筈を整えに向かった。
その背中を見送りながら、景行天皇は確信した。
(……気に入らねば血を分けた兄も、未だ見ぬ命すらも容赦なく断つ怪物よ。いずれこの矛先は、わしに向く)
息子を恐れた天皇は、この「恐るべき子」を都から遠ざけるため、西方の熊襲征伐という名の死地へ送り出すことを決めた。軍勢すら与えぬ、実質的な追放であった。
小碓は西へ向かう途上、伊勢の斎宮である叔母・倭比売命(ヤマトヒメ)を訪ねた。
「父上は私に死ねと仰るのか。軍勢もなく、たった一人でどう戦えというのです」
「小碓よ、力だけが戦いではありません。心を殺し、姿を偽り、勝果を掴みなさい。この衣が、貴方の真の姿を隠してくれるでしょう」
授けられたのは、神気漂う女物の装束であった。それを見た小碓は、狂気を孕んだ含み笑いを漏らし、九州の地へと向かった。
熊襲建(くまそたける)の館は、新築祝いの宴の真っ最中であった。
小碓は月光の下で叔母から授かった衣を纏い、髪を結い上げた。もともと少年らしい瑞々しさを残していた彼の容貌は、見る者を惑わす絶世の美女へと変貌を遂げた。
小碓は女たちに紛れ、悠然と館の中心、熊襲建兄弟の座す席へと踏み込んだ。
「おお、なんと美しい娘だ。こちらへ来い」
酒に酔った兄建は、目の前の「美女」に魂を奪われ、自らの傍らに座らせた。小碓は身体を寄せ、甘い眼差しで酒を注ぐ。宴が最高潮に達し、兄建が小碓を抱き寄せたその瞬間――。
小碓命は懐から剣を抜き放ち、迷わず兄建の胸を刺し貫いた。
「な、貴様……!」
驚愕する弟建は逃げ出そうとしたが、小碓は素早くその後を追い、階(きざはし)のたもとで背中を斬り伏せると、容赦なくその尻を突き刺した。
死の淵で、弟建は喘ぎながら問うた。
「貴公……一体、何者だ……」
「私は景行天皇の皇子、小碓命だ」
弟建は血を吐きながら、感嘆の混じった笑みを浮かべた。
「我ら兄弟は西国最強と自負していたが……大和には、勝つためにこれほどの屈辱を平然と演じ、闇討ちを成す猛者がおったか。……我が名を差し上げよう。これからは、倭建命(ヤマトタケルノミコト)と名乗るがよい」
「倭建(ヤマトタケル)か。良い響きだ。貴様の死に際の手向けとして、その名、我が権威の糧としてやろう」
言い終えると同時に、弟建は絶命した。
父に疎まれ、孤独の中で獣の知恵を研ぎ澄ませた少年は、宿敵から奪った名――「ヤマトタケル」を背負い、返り血を浴びた女装のまま、さらなる戦火の中へと歩み出したのである。
熊襲を討伐し、父・景行天皇への勝利報告を胸に大和へと向かう倭建であったが、その途上で父からの新たなる詔(みことのり)が届いた。それは出雲を牛耳る強大な敵、出雲建(イズモタケル)を討伐せよという非情な命であった。
「父上は、私が大和の地を踏むことすら拒まれるか……。よかろう。出雲建とやらも、我が武名の贄(にえ)としてくれるわ」
出雲の国へ入った倭建は、出雲建の様子を密かに探った。出雲建は噂に違わぬ剛の者であり、正面から挑めば無傷では済まぬと悟った倭建は、再びその狡知を研ぎ澄ませた。
倭建は素性を隠し、一人の放浪の武者として出雲建に近づいた。
「貴公が出雲建殿か。その勇名は遠く大和にまで響いている。ぜひ杯を交わしたいものだ」
出雲建は当初、警戒を解かなかった。しかし倭建は、共に酒を酌み交わし、野山を駆け、あたかも真の友であるかのように振る舞い続けた。その面容は穏やかな笑みに満ちていたが、瞳の奥には闇夜のような殺意が潜んでいた。
倭建は密かに、赤樫の木を削って偽物の刀を作らせた。それを本物の鞘に収め、金銀で華やかに飾り立てると、一見すれば至宝の太刀に見えるよう細工を施した。
ある酷暑の日、倭建は出雲建を誘い、肥河(ひのかわ)での水浴びを提案した。
「これほど暑い日は、清流で身を清めるに限る。さあ、刀を置いて入りましょう」
二人は川岸に衣服と刀を脱ぎ捨て、水に飛び込んだ。水飛沫を上げ、無邪気に笑い合う二人。しかし、倭建は隙を見て先に川から上がると、あらかじめ仕組んでいた罠を動かした。彼は自分の刀ではなく、出雲建の真剣を素早く腰に差し替えたのである。
遅れて上がってきた出雲建は、残された「金銀に輝く豪華な刀」を見て、それを倭建のものだと思い込み、疑いもなく己の腰に差した。
倭建は、獲物を追い詰めた獣のような笑みを浮かべて言い放った。
「出雲建よ。友情の証に刀を交換した記念だ。今ここで、手合わせをしようではないか!」
豪華な名刀を手に入れたと思い込んだ出雲建は、意気揚々と応じた。
「望むところだ、大和の若武者よ!」
出雲建は自信満々に、腰の太刀を引き抜こうとした。しかし、どれほど力を込めても、鞘の中で木刀が噛み合い、一寸たりとも抜けない。
「なっ……! 抜けん、これは……!」
焦る出雲建の目の前で、倭建は氷のような悦虐に浸りながら、奪い取った本物の真剣を悠然と引き抜いた。
「どうした、出雲建。その見事な刀を抜いてみせよ」
「貴様、謀ったな……! 何という卑――」
叫びが終わらぬうちに、鋭い銀光が空を切り、無防備な胸元を深々と切り裂いた。
倭建はさらに、地に伏した出雲建の亡骸を、執拗なまでに斬り刻んだ。かつて兄を解体した時と同じ、冷徹なまでの作業であった。
返り血を浴びた倭建は、高笑いと共に歌を詠み上げた。
『やつめさす 出雲建が 帯(は)ける太刀 つづらさは巻き さ身(み)無しにあはれ』
(出雲建が腰に下げている立派な太刀よ。外見ばかり飾り立てているが、肝心の中身がないとは、なんと惨めで愚かなことか)
それは、死してなお辱められる出雲建への、残酷な嘲笑であった。
こうして出雲を平らげた倭建は、もはや誰も信じぬ冷ややかな心を抱えたまま、再び大和への帰路につくのであった。
出雲を平らげた倭建は、ついに大和へと凱旋を果たした。
二つの強敵を平定した倭建を、人々は大和の英雄として熱狂的に讃えた。しかし、景行天皇の心中は穏やかではなかった。死地へ送ったはずの息子が、さらなる脅威となって舞い戻ってきたのである。
「このままでは、恨みを抱いた倭建が我に牙を剥く。奴は今や天下の英雄……無下にはできぬが、野放しにもできぬ。搦め手(からめて)が必要だ」
景行天皇は、倭建の矜持を逆手に取り、同時に彼を神から見放させるための「褒美」を与えることにした。
それは、自らの娘である布多遅能伊理毘売(フタジノイリビメ)を正室として授けるというものであった。だが、これは毒に満ちた贈り物であった。彼女は倭建にとって、同じ母から生まれた「実の妹」だったのである。
異母兄妹の婚姻こそあれ、同母同士のそれは、神代より続く最大級の禁忌(タブー)であった。
「布多遅能伊理毘売を我が正室にだと……? あの妹をか」
倭建はしばし沈黙したが、やがてその口元に、歪んだ歓喜の笑みを浮かべた。
「最高ではないか! 大王の娘という最上級の血筋、しかも禁忌すら我がために踏み越えられたのだ。これこそ、我がこの国の法をも統べる特別な存在であるという証。我が覇道に、もはや阻むものなし!」
倭建は狂気すら孕んだ上機嫌さで、妹を妻に娶った。
「布多遅能伊理毘売よ。夫がこの兄となり、さぞや複雑な胸中であろう」
婚礼の夜、倭建の問いに、妹は静かに視線を落とした。
「……父上の選ばれた御方に嫁ぐのが、私の定め。それが兄上ならば、その運命に従うまででございます」
彼女は痛いほど理解していた。もう一人の兄・大碓を平然と惨殺した男の、逃げられぬ闇を。彼女はただ、ひたすら従順な「器」として振る舞うしかなかった。
「妻となった以上は遠慮はせぬ。妹であろうと、今この時からは我が欲望を満たす女として扱わせてもらうぞ」
「……役目は心得ております」
「では交わろうぞ。尊き血筋同士、我らは人の域を超え、神の領域へ至るのだ!」
倭建の瞳には、もはや地上を這う人間への関心はなかった。禁忌とされる交わりすら、彼は自らを神格化するための「聖なる合一」であると信じ込んでいる。
その異様な熱量に当てられ、布多遅能伊理毘売は身を震わせた。この兄は、もはや父が恐れた通り、人の皮を被った「荒ぶる神」に変貌してしまったのだと。
倭建は妹を荒々しく抱き寄せ、その唇を奪った。禁忌を犯す愉悦に酔いしれながら、彼は新たな命の種を、妹の胎内へと深く刻みつけた
布多遅能伊理毘売は、押し寄せる絶望と逆らえぬ運命を、音もなく静かに受け入れたのである。
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