2020年08月12日
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 母は、屏東の軍人官舎に暮らしていた。この度のお盆の帰省で、終戦の4日前に亡くなった祖父(母の父親)のことを詳しく知りたいと思い、母に幼い頃の記憶を呼び覚ましてもらっていた。母の国民学校の通知表に小学校の1年生の3学期の3月だけ、屏東の国民学校の担任の記述と印鑑があり、屏東国民学校のゴム印が押されていた。わずか7歳の記憶であるが、それから更に2年間、戦局の悪化がそれほどでもない頃、母と母の妹とが、内地に引き上げるまでのあいだ、母は、この宿舎群の一角に暮らしたのだろうか。写真でしか見たことのない、私の母方の祖父は、在職中に勲六等に叙せられていて、専門性の高い土木施工技術を評価される軍属だったようだ。最期は、大阪で、陸軍病院で亡くなっている。それは、75年前の昨日、8月11日のことで、母は、通夜も葬儀も済ませて、養母や異母弟たちと別れて、亡母の実家に戻る途中、敗戦の玉音放送を聞いたと話していた。
 普段、お盆休みの直前でもあり、見たこともない母方の祖父の祥月命日を思うことはこれまでなかった。50回忌も済ませてからは、母が、お供えを父親の実家に送るくらいだったはずだ。昨日たまたま妹も来ていて、今日は祥月命日だよと言ったら、一瞬だけ、手を合わせた。「南無阿弥陀仏」浄土真宗なので。
 父が亡くなる少し前から、父は生まれ故郷の樺太の街をひどく恋しがっていた。私や妹は、父が暮らしたあたりの地図や写真をネットで入手しては、父に渡していた。生まれ故郷兵庫県竜野市がそこにある母と違って、二度と戻ることのできない生まれ故郷樺太での日々は、父にとってどれほど恋しかったことだろう。無くなる直前、父の従妹と、年下の叔母さんとが、わざわざ青森と栃木から一緒になって、山口県の西端の僻村まで父を訪ねてきてくれた。
 母の入院中とあって、父は施設に入っていたが、その施設で、懐かしい昔の樺太の思い出話に花を咲かせたらしい。父の母方の一族が挙げて樺太に入植して、そこで製紙工場の職工をしていたという父方の祖父が、私のかつて同居していた唯一の実祖父母で、同居していた祖母は、亡くなった祖母の後添えとして、祖父に嫁いできた人だった。私と妹は、それを長く知らなくて、実のおばあちゃんと思って接してきていた。中学2年生で同居するにあたって、初めて正式に、祖父の後添えで、血縁でないことを知った。
 父と祖母が養子縁組をしたのも、祖母が96歳で亡くなるほんの数年前だった。縁組しておかないと、赤の他人のままでは、色々な介護や入院の手続きができないややこしさがあるので、私が話して、縁組してもらったのだった。実の祖父母は青森生まれの樺太入植者。義理の祖母は、熊本の製紙工場に引き上げてきた祖父が赴任後にもらった後添えで、九州の人だった。言葉に訛りがあった。
 不思議なもので、私には、血縁の無い祖母がもう一人居た。それが、台湾で母たちを育てていた岐阜出身の人だ。敗戦後も大阪で母の異母弟二人を女手一つで育て上げ、苦労して、ボケて死んだ。母の異母弟たちは、もう存命ではない。
 これも魔訶不思議なことに、二人とも独身で、同居していた家から出て死んだ。亡母の介護を一手にしていた弟の方は仕事に行っていた病院で倒れてそのまま入院して日を置かずに亡くなり、母親の死後に実家に舞い戻った風来坊の兄の方は、なぜか自転車で外出して、路上で意識を失って倒れて、見知らぬ人に救急車を手配されて救急搬送先で亡くなった。住居は、更地にして、借地権毎、隣の家の人に買いとってもらえた。これで、兄の方の葬儀費用と、永代供養費用が捻出できた次第だ。母方の祖父は優秀な技師だったので、弟二人も、おそらくは優秀だったのだろうが、軍人恩給が受給できず、文官としての恩給と、祖母の働きだけで、極貧であったため、中学を出てからそれぞれ働いている。兄はボイラーマンとして、弟は電気工事の技師として。
 屏東の軍人官舎に居た頃、この兄の方は、もう生まれていて、母と10歳違いの弟の方は、どうだったのか、私は知らない。母の実母は、若い頃から結核で蒲柳の質だったが、美しい人で、いわゆる家付き娘のお嬢さん、家の裏手にある本家の次男坊を婿養子として迎えて二女を設けたが、産後の肥立ちも悪いまま、岐阜で亡くなっている。
 親戚のおばちゃんから聞いた話では、私の祖父という人は、最初に結婚した幼馴染の美しいお嬢さんのことは殊に愛していたようだが、幼い娘二人、特に二人目はまだ本当に幼くて、当時らしく、仕方なくすぐに後添えを得て、子育てを託していたようだ。大切にされていなくて、気の毒やったと、その豊中に住んでいたおばちゃんは語ってくれた。母は、自分の母親の没後日を置かずに、父親が後添えを迎えていることに今も違和感を感じているようだが、結核で寝たきりの妻と、幼い二人の娘を抱えて、苦労していただろうし、人の勧めるままに再婚したのは、致し方ないと言えよう。母はあくまでも恨みがましい・・・
 屏東の国民学校の最初の1か月、1年生の3月だけの担任の先生の姓は、奇しくも、母の実家の父母の姓と同じであった。今日、母の通知表を見ながら、その奇遇を思った。
 屏東の軍人宿舎に行く前に、一族が母の実家で記念写真を撮っている。同じ頃に母の亡父の一人の写真もあって、軍服姿である。軍人とは言え、技官であったと思うが、尉官クラスだったようで、帯刀を許されている。母の口元には、その亡父の面影がある。 残念ながら母は、鄙には稀な美人だったという自分の母親にはあまり似ていない。私と妹も、遺伝子の恩恵に与れていない。
 ただ、父が樺太で生まれ育ち、祖父がソ連軍の敗戦後の侵攻による抑留経験をしていることや、母が、台湾で2年ほどの国民学校を経験していること、祖父が軍人であったことなどは、私と妹との、直接の体験ではないものの、大切な、貴重な事実なのだ。樺太も、台湾も、日本だったことを、私たちは、実感している。両親の子供時代の思い出が、そこにあるから。
 父は、亡くなる直前に、ライフワークにしていたラテン語の翻訳書籍の刊行を終えていたし、親族とも樺太時代の思い出話を心から楽しむことができた。おそらく、老いと病の体には、遠の昔に寿命は尽きていたのだが、深い拘りがあって、魂魄が肉体を生かしていたのだろうと思う。亡くなる前の日の晩、父の毎晩9時にかかってくる電話が無かった。私は心配して妹に連絡して、施設にも確認してもらった。すやすやと眠っているとのことだった。魂魄は樺太の山野を駆け巡り、くたびれていたのかもしれない。翌日、家族に見守られて、安らかに息を引き取った。
 今頃は、短い樺太の夏の野山を飛びめぐっているかもしれない。今日、母と、墓参りに行ってきたが、まだ、山口県には居ないだろうと思っている。父の亡母も同じ墓に居るが、多分、まだ樺太上空か・・・
 母は米寿を迎え、私も還暦を超えた。この世に残る命と既に光の中にいる命とでは、どんどん、後者の方が多くなるわけで、知り合いが待っているからと、父が言っていたことを思い出す日々だ。





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最終更新日  2020年08月12日 16時59分07秒
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