2024年05月30日
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昨日バタバタと潅水用のセットをベランダに設置していたら、


あれぇ・・・って思ったけど、早く起きなきゃいけないことを勘案して、
ここは、ふくらはぎの自己主張を聞こうを観念し、
布団から出て、左右のふくらはぎに、一対の湿布を貼った。

そして寝た。
朝は、予定通り早く起きて、水分だけ摂って、蔵の潅水装置に水を補給しに行き、
せっせと減った分の水を足して、更に潅水もして、それから家に戻って予定時間まで待機・・・

・・・してたら、例によって、突然のJR神戸線の運行停止・遅延情報が確認され、

ってなって、
大慌てで、元夫君に予定より早いけどって加古川駅までの車での送りを依頼した。

4月の時は、癌の手術の直後だった。
だから、「もし、加古川駅で不通とかなってても、姫路にはよう送りません」と言われていたが、
今日は、事情が違って、元夫君の方から、
「加古川駅に行っていたら、10分は時間のロスが出るから、最初から姫路まで送る」と・・・

前に一度、それで姫路まで送ってもらったけど、大昔だ。

でも、そう言ってくれるなら、ラッキーだ!って感じで姫路まで送ってもらった。

まぁ、本当に手術後の経過が良いのだろう。
或いは、体調に不安を感じて気が弱くなっているのか・・・

なんにしろ、姫路まで送ってもらえたので、後は新幹線を待つばかりとなった。


でも、まあ、幸い自由席でも、予想通りすかすかで、座れて、のんびりと新下関へ向かった。
さくら号が姫路にも新下関にも停車するのは、奇跡のような1本なのだ。
乗り継ぎ無しの新幹線て、本当にありがたい。。。(3日の戻りはしっかり小倉と岡山とで乗り継ぎ。)
で、新下関では、妹が待っててくれて、実家へ直行25分で、今日は、楽勝!だった・・・はずが。

昼食後ちょっとしてから眠くなって、無理もない睡眠不足って思って横になったら、

え~~~~なんで~~~やばい~~~って思って、探したら最後の2包が携帯用の薬袋から出てきて、
左の外側も痙攣が始まったところで、なんとか効き始めて、収まった。


こわ~~~い。
なんで~~~~???って思って、考えてみると、
昨日から、やたら、立ったりしゃがんだりが多かった。
しかも、片手に5キロの水入りの容器を持って、プランターを跨いだり、配線を跨いだりして、
台所とベランダとをすごい回数往復している。

5キロ入りの容器だけで7つくらいあるし、
2キロのペットボトルを3本買ってきた時、さすがに重いって思ったけど、
5キロだと平気だったりする?
自分ではわからないけど、ふくらはぎは無理って、言ってるわけだ。

その上、何十回も、立ったりしゃがんだりを繰り返している。
やってる時は、夢中だし、何も感じないんだけど、65歳の運動不足の私には、荷重が・・・

今朝出る前に、一応湿布薬のさらの袋を1つ、ポケットにねじ込んだのは、天啓だったかも。

寝る前に貼った湿布は、24時間のものだけど、どうせ貼り直さなきゃいけないし、
昨夜は1枚ずつだったけど、今夜は、3枚くらいずつ貼って寝よう。

なんたって、芍薬甘草湯はもう1服も残っていないし、湿布に頼るしかない。

何ともない、平気だよ~~~~って思っていたのに、
繰り返ししゃがむいう動作は、なんともきつい動作だったようだ。

ちょっとへこむ。
へこむけど、まあ、今回は、緊急時用の備えがあったから良かった。



今日の昼ご飯の用意をしながら、
母は、去年の不調時は大変だったが、今はもう大丈夫だと、しっかりと言った。。。

量は少ないながらも、食べるに関しては、頑張っていると思えた。

とり寄せた魚をIHクッカーのグリルで、時間を計りながら焼いている。

味見で食べたからと言っていたが、かぼちゃは私だけが2切れ食べた。
ま、明日も食べるし、残れば、私が食べるだろう。

帰省の重要な任務である「残飯を食べる」は、しっかりと遂行できている気がする。

口調も良かったし、態度もしっかりしている。
金曜日は眼科。土曜日はデイケア。日曜日は美容院だとの仰せである。御意。


毎日新聞の記事で四方田犬彦という人の大きな記事を、私に示して、
早稲田大学での内ゲバについて、知らんかったと、のたまふ。
いや、個々の大学は兎も角、東京の大学であれば、内ゲバあったろう。
「やめてけれゲバゲバ」って歌があったじゃんとか、思っていたけど、
母の記憶には、多分そんな学生紛争の内ゲバとかって、あんまり残らないくらい、
生きることに必死だった、そんな頃だったかもしれない。


母方の実家の製材工場が、稼働していない夜中に火災で焼失して、
私と年の離れていない母のいとこたちが二人、
夜逃げで、私の住んでいた父の大学の官舎に逃げてきていた。
着の身着のままの2人だったんだと、後でわかったけど、当時の私は、理解していなかった。
我が家からも、出せるだけのお金を出して、母の実家の家屋敷だけは、守ったと記憶している。

もう55年以上昔だなぁ。

その頃に、東京で起きていたことなんか思い出せないくらい、母も必死で働いていただろう。
当時官舎には電話があった。
宝塚に住んでいたおばあちゃんから、電話があって、今、テレビでテロップ出てるって。
多分、母にとっては、気が遠くなるような事件だと思う。
工場全喪失の大火災だったから。
創業者(母の祖父)の死から10年以内くらいのはずだ。
私は、母の祖父という人の葬儀を記憶している。

家族経営の工場だったから、現金を出せる、外で働いている家族は、母だけだった。
叔母の嫁ぎ先は、裕福な家だったから、多分支援してくれているだろう。

死者やケガ人が出なくて済んで良かった。

勿論、その出せるお金を全部出すって言う点では、父の同意もあったわけで、
父は、当然と思っていたと思う。
父の実家は貧しい一族だったから、樺太引揚者として兄弟いとこみんなで支え合って生きていたから。

母の祖父は、まだ学生だった父を気に入って、養子に迎えたいと言っていたくらいだ。
さすがにそれは断ったんだけども。

私が4歳くらいまでは、その工場の中の休憩室みたいな2階の小部屋に家族4人で住んでいた。

まだ父が大学院に通っていた頃だ。

母の妹に縁談があるから、「姉妹で後先が逆なのはあかん」と言われて急いで結婚したけど、
当時はまだまだ父も大学院修士課程のころだと思う。

まあ、なんとも、思い返せば、そんな時代だったのだ。。。

遠い東京での大学生の内ゲバは、母の記憶に切片すらも残っていない。

住んでいた大学の官舎、と言えば、学内には、あの独特の文字での立て看板とか有ったなぁ。。。

子供時代のことって、1年がものすごく高密度で、すごく長かった。
いつも思うんだけど、年を重ねるごとに1年が希薄になっていく。
子供の頃、「光陰矢の如し」とかってうそぉって思っていたけど
今は「月日の経つのも夢のうち」って感じだなぁ。
次の25年もすぐなんだろうか、
朝目が覚めたら今の母の90歳って言う年齢に。。。

それは、ちょっと、待って。
もうちょっと噛みしめて、じたばたしながら、生きたいなぁ。。。





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最終更新日  2024年05月30日 21時31分59秒
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