2024年06月11日
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今日は、(って言っても、日付変わってるんだけど、)


ま、ひとえに、寝てて反応しない私が悪いんだけど、
要するに、こないだlineで繋がった卒業生のお母さんからと、彼女からと、
今夜の晩御飯へのお誘いだったのだわ・・・

急だから、いつも。
大抵当日の昼間、「今日、お料理作ったから来て」ってなるんだけど、
今日は、昼間じゃなくて、朝の内だったけど、私が、寝てたから、気づくのが遅かったわけで、

で、色々調整もあるから、6時半くらいにってお願いして、


色んな事を、卒業生の子のことで聞けたし、家族との初めての出会いからのことも振り返れたし。

頑張って予定を整理して出かけて良かったって思います。

でも、もう、お腹が、いっぱい過ぎて、苦しくて・・・


いつも、食べきれなかった分はパックにつめて持たせてくれるから、
さらに明日も、同じものを爆食することになりますね。。。

初めて出会ったときから、もう23年が経って、17歳の中学3年生だった子が、
41歳で、ママになる日を待っている。。。

夢のような、色々なことがあったけど、お父さん、お母さん、彼女も、
お兄ちゃん(この子の高校と大学進学の費用とを、私と父が支援した)も、
よく、心折れずに、頑張ってここまで来たなぁって感じです。


そうかぁ、学年は1つしか違わないけど、年齢は4歳違うのかぁ。

高校入学した時点で、18歳だったからなぁと、大変だった彼女の中国でと日本での中学時代を思った。
お母さんは、まさか、自分の夫はおばあちゃんの五男だったのに
日本に来る家族に選ばれるなんて思わなかったろう。
来てからも、肝心の夫が鬱病で苦しむなんて想像もしなかったろう。


あの時、まだ、おばあちゃんが使っていた部屋だった。
おばあちゃんと話したなぁ。

おばあちゃんは中国では日本語をしゃべらず、日本に帰ってからは中国語をしゃべらなかった。
だから、家族は、日本に来てから、全く知らない日本語を勉強した。
お父さんは、完全にメンタルやられてて、辛い時期だったけど、
お母さんやお兄ちゃんの頑張りで乗り切ってきたし、
おばあちゃんが、自分が生んだ子をみんな引き取りたいって言った時には、
卒業生の子が、あらゆる手続きをしてくれた。
最初のうちはまだ本当に介護福祉士として勤め始めたばかりだったし、大変だったと思う。
偉かった、よく頑張った。彼女の頑張りのお陰で、いとこたちもおばあちゃんと会えて、
おばあちゃんが亡くなる時には、もう、みんな日本で暮らし始めていた。

一番最初に、その懸け橋になったのが、実の娘ではない、お嫁さんだったのだから、偉いと思う。
おばあちゃんも熱心なクリスチャンだったけど、お母さんもそうだった。
だから、宗教的な熱意や愛が、一家にあったなぁと思う。

卒業生の子は、いとこたちがみんな大学に行きそれぞれに経済的にも豊かになる中、
自分だけが、専門学校卒だったけど、本当は高校卒業時点で、就職を強く勧められていた。
だから、お兄ちゃんと同様に、進学していいよって支援してあげることができて、
今の資格を持って、仕事を選べているところが、良かったと思える。

高校出ただけでは、一度仕事を辞めると、次に条件が下がるけど、彼女は、条件を下げずに選べる。
いざとなったら、っていうことが、資格をちゃんと取れたから言える。
そして、今があるよねぇ。

2度の流産があったらしい。それで、一旦仕事はやめて、取り敢えず、妊活ってなったと。
そうかぁ。それで、5ヶ月まで黙っていたんだなぁ。

最初の妊娠の時、すぐ流産したから、それで、2度目の時はそもそも言わなかったらしいし、
今回も、安定期を待って、やっと、母の日に、私に伝えたんだねぇ。

私は、嬉しいし、心配でもある。病院のことなども、詳しく聞いた。
できることなら、本当に、今すぐにでも入院して欲しいくらい心配している。

10月4日が予定日と言っていたけど、もう、夏の暑い時期を入院しててほしいわ。。。

お兄ちゃんのとこの上の子は、来年は中学生だし。。。

色んな事が、家族の上にある。
何が有っても、できる限りのことはしたいと思っている。

そうやって、どんなときにも、一家を支えられたらと思う。

無くなった私の父が、ずっとお兄ちゃんのことを気にしていた。
樺太からの引き揚げでも、台湾からの引き揚げでも、沢山の人が死んだ。
帰れなかった人も居る。
父にとって、この一家を支えることは、自分の人生を支えることだったと思う。
私も、だから、命ある限りは、支えになりたいし、
また、その存在を支えに、自分が生きていたいと思う。

父が、仕事で知り合った中国人の息子(彼は中国で日本語を学んでいた)を迎え入れ、
広島大学の大学院を終えるまで支援した。
仕事で知り合った時、中国の大連で、相手の中国人は、日本への留学体験があるインテリだったため、
文化大革命以降、長く下放されて苦しい時代を生きていたと聞いた。
実際、日本にもそのお父さんもやってきたことがあったが、流暢な日本語だった。
この二人の父親たちはもうこの世には居ない。

その息子の彼も、もう、60歳で定年を迎えた。二人の成人した息子がいて一人は働いている。
二度と、中国への出張はしないで欲しいと、心から思う。
何があるかわからな過ぎて、怖いから。

時間は流れて行く。
人の命にも限りがある。
次の世代、次の世代へとつながっていくことは、ありがたいことなのだと思う。

自分の命が有限でも、つながる命がそこにあるなら、記憶にも残るだろう。
語り継がれるうちは、少なくとも、誰かの記憶に生きている。

私は、父の生きて、誰かのためにそっと手を差し伸べ続けた事実を、
少しでも長く、覚えておいて欲しい。
それは、引き揚げ後、父の教育の為に苦労を重ね、
終戦直後、若くして亡くなった父方の祖母への鎮魂でもある。

父や妹は、中国語を話せるまでになってたけど、私は、全くダメなままでした・・・
遺伝ではなくて、個体差ね。





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最終更新日  2024年06月11日 02時07分22秒
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