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東京日仏学院(以下IFJT)にてR.先生の講義。 2012年01月14日(土)より5回シリーズで行われる。 今学期はナタリー・サロートの戯曲『なにかにつけて』の購読。 講義で使用するテキストは Natalie Sarraute ; Edition d'Arnoaud Rykner『Pour un oui ou pour un non』folio / THEATRE 1999。 メモを残す前に。 しばらくR.先生の講義の記録を残していなかった。残そう残そうと思うとそれがプレッシャーになってしまうようだ。あまり考えずにとにかくメモをしておこうと思う。 自分の勘違いや仏語を理解する能力の低さから誤った情報を記してしまうかもしれない。 ご覧になってくださる方々へ。あまり参考にしない方が良いかもしれません。 ・ナタリー・サロートはロシア生まれ。・1900年生まれでヌーヴォー・ロマンが活性化する時代には既に高い年齢となっていた。・サロートは長寿であった。・現在のフランスの文芸界で活躍する長寿の人物ではモーリス・ナドーが知られている。100歳を超えても現役で仕事をしている。・サロート作品には省略が多く日本人には理解できないことが多いかもしれない。・サロートは著作すべてを仏語で著している。しかし私生活では露語を使用していた。・サロートは法曹界で仕事をしたことがあり当『なにかにつけて』にもその影響が見られる。・使用テキストの巻末に概要がある。最初にここを読むべき。・もしわからない状態になったとしてもそれはテキストそのものがわからなくなっただけのはず。・劇全体は簡単なものである。・登場人物:男1がもう一人の登場人物:男2のところを訪ねる。・場所や時間は特定されない。また上掲の男1と男2とが何者なのかも特定されない。・男1が能動的で男2が受動的。
2012.01.16
昨年(2011年)の終わりに内藤陳が亡くなったと聞いた。 この人について詳しいことは知らない。しかし新宿のゴールデン街で飲食店を営んでいることは知っていた。その店名は「深夜プラス1」である。 「深夜プラス1」はもともと小説のタイトルだ。冒険アクションの名作として知られている。 作中に酒類が何度か登場するためカクテルのレシピガイドなどで紹介されることも多い。 内藤陳の訃報を耳にして本棚からハヤカワ文庫の『深夜プラス1』を引っ張り出した。年始の休みに全体の半分くらいまで再読したがやはり面白かった。 興味深い一節がある。アルコール依存症のガンマン:ハーヴェイ・ロヴェルが語る部分である。 「パリでマーティニの本当の作り方を知っている店へ入っていくところを覚えている。ひる頃、人ごみにならないうちに行くとていねいに作ってくれる。相手も嬉しいのだ。うまく作ったのを本当に味わってくれる客が嬉しいのだ。だからその客の分はていねいにやる。慎重に時間をかけて作る。こちらも同じ気持で飲む。相手はそれがまた気に入る。何杯も注文してもらおいうとは考えていない。時たま、そんな客が来て自分たちの腕をふるうのが嬉しいのだ。それを喜んでもらえれば満足なんだ。哀れな存在だよ、バーテンというのは」 (ギャビン・ライアル 菊池光訳『深夜プラス1』ハヤカワ文庫 1976 p.178) まさにこの通りだと思う。 ただ哀れな存在なのかどうか。自分ではなかなかわからない。
2012.01.13
2008年10月10日(金)にある先輩のお話を拝聴した。 その時のメモ。◆これからの時代を生きるために ○情報感度を高める 「人に会え 本を読め 旅をしろ」 ○情報を生かして行動する 「大局着眼 小局着手」 ○行動の根底に徳目を 「武士道」「仁・義・礼・智・信」 ある先輩とは、故木暮剛平さんである。 昨日・12月14日がご命日だったようだ。
2011.12.15
日本人男性の平均寿命は80年弱だろうか。厚生労働省発表の資料をweb上でいくつか見てみる。そのようだ。 私は41歳である。自分が平均的な日本人男性だと仮定すれば折り返しを過ぎていることになりそうだ。 昨日の朝のこと。 自宅の書棚にある南木佳士著『信州に上医あり』岩波新書 1994年を手に取る。もともと好きな本だ。でも読み返すとやはり面白い。何度かこのブログでも言及しているが著者の南木佳士は私と同じG県A郡の出身である。そこにも相変わらず強い親しみを感じる。 昨日の昼間のこと。 外出する。職場で販売するチーズを仕入れに専門店へ寄る。いろいろな種類があって迷う。結局選んだのはコンテ。フランシュ=コンテ地域圏の名産品である。当地へ留学した人に何か名物があるの?と尋ねたらこのチーズのことを答えていた。なぜか明確な記憶が残っている。 さらに昨日の昼間のこと。 馴染みの書店を覗くと知人が店番をしており楽しく雑談する。さてそろそろ出勤しないと…とその場を辞そうとする時にサン=テグジュペリの『星の王子さま』のイラストをモチーフにしたピンバッヂが販売されているのに目が向く。購入する。 昨日の夜のこと。 仕事を終える。サン=テグジュペリ『人間の土地』が職場に置いてあるのに気付く。あッと思う。最初の数ページを読む。この本はときどき開きたくなる。高校時代敬愛していた国語の先生が推薦していた本だ。 折り返しを過ぎたか。
2011.12.14
画像は通勤途中の道端で咲いている花である。数日前に撮影した。 葉の形からヒイラギだろうと思い図鑑などを調べた。 やはりヒイラギであった。 これと同じヒイラギがクリスマスの装飾に使われるのだろうと思ったが違っていた。赤い実を付けるヒイラギはセイヨウヒイラギといって全く別の植物らしい。 今日のこと。 職場へ向かい自転車を走らせる。このヒイラギの木の下に散った花弁を箒で掃いている老女がいる。これは運がいい。ヒイラギを世話している人だ。 私は自転車を止める。 「すみません。これはヒイラギですよね?私いつもこの道を通っているんですよ。花がいい香りです。キンモクセイの仲間らしいですよ。だからなんですね。調べたんです。クリスマスの飾りにヒイラギを使いますけどあれは違うらしいです。それも調べたんですけど。いつも綺麗にしていらっしゃいますね。ここを通るのを楽しみにしています。」 一気に話す私に対して老女はただ笑顔で相槌を打つだけである。
2011.12.02
9月。知人に会うため山形県鶴岡市へ行った。 知人から「国宝を見に行きましょう」と提案があり羽黒山五重塔へ向かった。迫力ある木造建築であった。 私は肝心の五重塔の写真を撮っていなかった。東京へ帰ってきて少し後悔した。ただし塔の近くにあった一つの詩碑は撮影していた。西條八十である。 これについて調べようとしてもインターネットで検索をする程度では正確なことがなかなかわからない。唯一言及があったのは出羽三山に関するこのページだ。当該ページには碑の詩が文字として起こしてある。ありがたい。勝手ながら引用する。 五十路の夏にわけのぼる 羽黒の峯の梅雨雲や また見んことのあるやなしと ふり返りゆく山つつじ 他の場所でも西條の詩に遭遇した。 9月17日の日記と9月22日の日記に挙げたバー・Yの店内だ。 お手洗いに入ったところ壁に以下の詩が掲げられていたのである。 酒の唄 酒は唇よりきたり 恋は眼より入る。 われら老いかつ死ぬる前に 知るべき一切の真はこれのみ。 われ杯を唇にあて おんみを眺めかつ嘆息す アイルランドの文人・イエーツの詩を西條が訳出したらしい。 活字になっているものが欲しくなり本を探した。見つけた。加島祥造訳編『海外詩文庫9 イエーツ詩集』思潮社 1997年。「酒の唄」は62ページに掲載されている。 次はイエーツによる英語の詩が気になった。 A drinking song Wine comes in at the mouth And love comes in at the eye; That's all we shall know for truth Before we grow old and die. I lift the glass to my mouth, I look at you, and I sigh. YouTubeで見つけた動画。「Gavin Friday - William Butler Yeats - A Drinking Song - National Library Of Ireland」。
2011.10.23
出身地G県の代表として今年2011年夏の甲子園に出場した高校。KT高校である。ここで投手を務めていたKA選手は私と同じI中学校の出身らしい。誇らしいことだ。 ところでKT高校の校歌がユニークで話題になった。歌詞に英語が入っている。リズムやメロディもずいぶん現代的だ。 KT高校の他にも新しい感覚の校歌があるようだ。YouTubeで「高校野球 校歌」とキーワードを入れ検索するといくつかの高校の校歌が出てくる。そこから何曲か選んで聴いてみて驚いた。特にA県のS高校。これはポップスの域にまで到達しているではないか。 私の感覚が古いから驚いているだけか?? 確かにそうかもしれない。 卒業した高校の校歌は信時潔が作曲している。信時潔は「海行かば」の作曲者である。 その後進んだ学校には応援歌があり古関裕而が作曲している。古関裕而は「若鷲の歌」の作曲者である。 この2校の歌は心身に刻まれていると言っても過言ではない。歌詞の記憶は20年ほど経過した今では怪しくなりつつあるがメロディはどちらも完全に覚えている。気分の良い時には一人で歌ったりもする。 前時代のメロディに親しんでいる感覚。これは決して新しくはないだろう。 ふと思うにKA選手と私との共通項であるI中学校の校歌はどうか。 少なくとも私はI中学校校歌のメロディに自信がない。それゆえ気分が良い時にも歌えない。
2011.10.19
ノコギリを買った。 山形県鶴岡市のバー・Yへ行った際に見せていただいた物とほぼ同じである。 「氷に気が付きましたか。」 「はい。これは製氷機ではないですよね。それに飲み物に合わせて直方体にしていませんか。」 「大きい塊で氷屋さんから買ったのをノコギリで切ってさらに面取りしていますよ。」 「氷をノコギリで切ると刃の目が詰まって切れなくなりますよね?」 「氷用のノコギリがあります。これはマスターの物を当時からずっと使っています。」 バーの女主人はカウンターの奥から目の粗いノコギリを取り出した。 「バーテンダーは氷にこだわらないといけません。マスターがいつも言っていました。それでマスターが亡くなって私がこの店に一人で立つようになったとき常連さんたちは氷が変わるんじゃないかなんて話していたようです。」 ノコギリは柄の部分が少し損傷していた。使い込んだ感じがかなりあった。
2011.09.22
昨年の10月に山形県鶴岡市へ引っ越した知人がいる。何かと接点がある人なので仕事をしばらく休みにして会いに行った。 鶴岡市はかつて城下町だったそうだ。さびれた街の風景にどことなく重厚さが感じられた。 知人の運転する自動車に乗って市内を見回っているうちにあるバーへ行くことになった。私が読んだ小さな雑誌に紹介されていたのだった。 「Yってバーのことがちょっとだけ書いてあってね。」 「そこ聞いたことがありますよ。行ってみたいですねぇ。」 「じゃ夜に行こうか。でもこの自動車はどうするの?」 「代行頼みますよ。明るいうちに場所だけ見ておきませんか。」 Yの名前だけを頼りに携帯電話やナビゲーターを使いながらYを探した。なかなか見付からなかった。 「多分このあたりなんですけど…」 「それらしい界隈だね。スナックとかもあるし。」 「あ。あれじゃないですか。あの看板。」 小規模な飲食店向けの長屋に1軒だけ営業している様子のところがあった。それがYだった。他の物件は全部空いていた。 「おおこれか。それにしても入りづらいなぁこの感じ。」 夜になって再びYへ向かった。看板に照明が入り暗がりにポッカリ浮いていた。 「やっぱり緊張するな。」 知人とその同居人の方と私の3名だった。一番年かさの私がドアを開けるべきと判断しノブに手をかけた。 中に入る。10名も入れば満員になるくらいの空間だ。白髪の女性がカウンターで働いている。私の母と同年代あるいはそれより上かもしれない。 とても良いバーだった。同業者として学ぶところが多いと思った。 『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』が流れていた。その場に適した音楽とはまさにこれだ。東京へ帰ったらレコードを買おうと思った。
2011.09.17
ブリヂストン美術館で「青木繁展」を観覧した。 「わだつみのいろこの宮」の本物を見た。嬉しかった。これがあの絵か、と思った。 夏目漱石の『それから』に、この絵画に言及している部分がある。 出来得るならば、自分の頭だけでもいいから、緑のなかに漂わして安らかに眠りたい位である。いつかの展覧会に青木という人が海の底に立っている脊の高い女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれだけが好い気持に出来ていると思った。つまり、自分もああいう沈んだ落ち付いた情調におりたかったからである。 (『それから』岩波文庫 1989改版 p.63) 『それから』は、高等学校2年のときに使った国語・現代文の教科書に、掲載されていた。ただし、全文ではなかったはずだ。上掲の引用部分が、教科書にあったかどうかは、記憶がない。 現代文の担当は、TT先生だった。受験対策の模擬問題を生徒にやらせることなどなく、先生自身の解釈を綿々と話し続ける授業で、そこがとても面白いところだった。あのTT先生ならば、青木繁の絵について触れないわけがない。 とはいえ、20年以上も前のことで、記憶がはっきりしていない。私は、その授業よりも後に、自分で文庫本の『それから』を買い、何度か読んでいる。そうするうちに、「わだつみのいろこの宮」のことを刷り込んでいるのかもしれない。 いずれにせよ私にとって、本物を見てみたい絵のうちの一枚だった。 本物は、思っていたよりも大きかった。また、思っていたよりも青っぽかった。
2011.08.10
友人のお父様が、高級なブランデーを送ってくださった。自分でも好きな酒なので、大変嬉しかった。どれも独特の瓶で、職場の棚で見栄えが良いのも、特筆すべきところである。 その荷物の中に、オールド・ファッション・グラスが2個同梱されていた。梱包材を解いて見ると、岡本太郎がデザインしたグラスだった。底に顔がある、有名な物だ。 そのグラスには何を注ぐべきか?と考えた。こういう場合にPCでのweb検索は便利である。≪岡本太郎 グラス≫などの言葉を入力しながらあれこれ見てみると、キリンの「ロバートブラウン」の景品だったようだ。 ロバートブラウンを1本仕入れようか?と考えたが、もう一捻り欲しい…と思った。 同じキリンの商品の中で「軽井沢」というウィスキーがある。これはどうだろうか。HPには“「瓶詰モルトウイスキー」として日本で初めて商品化、発売された歴史を持つ「軽井沢」。”とある。なかなか興味深い品である。 とはいえ、岡本太郎と軽井沢との縁は?そこで、またweb検索だ。≪岡本太郎 軽井沢≫と入力してみる。Wikipediaの「岡本かの子」のところに、以下の記述があった。 “19歳の夏、父と共に信州沓掛(現長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢)へ避暑、追分の旅館油屋に滞在した。同宿の上野美術学校生を通じて岡本一平と知り合う。21歳の時、和田英作の媒酌によって結婚、京橋の岡本家に同居するが、家人に受け入れられず二人だけの居を構える。翌年、長男太郎を出産。赤坂区青山のアトリエ付き二階屋に転居する。” 面白そうじゃないか。 奮発して軽井沢17年でも買ってみようか…いや高いから12年で…いやいやせっかくだから…と迷っているうちに「軽井沢」という地名が気になりだした。 私と同じG県A郡出身で、南木佳士という作家がいる。この人のエッセイの中で、軽井沢に接した地元では「かるいざわ」ではなく「かるいさわ」と発音していた、と書いていたのを思い出したからだ。 私にも、「かるいさわ」と濁らずに発音するのが、自然な感じがする。 そこで、実家の父に電話をしてみる。「軽井沢は、≪かるいざわ≫なのか?それとも、≪かるいさわ≫なのか?」と尋ねると、父は「正確には≪かるいざわ≫だろう。でも俺は≪かるいさわ≫だ」と返答した。 この濁らない≪かるいさわ≫を私たちが発音するとき、抑揚が独特だと思う。 「軽い沢」という言葉を、音読してみてほしい。形容詞≪軽い≫と名詞≪沢≫。重い・軽いの≪軽い≫を読む要領で≪かるい≫。そこへ≪さわ≫を続ける。フラットなイントネーションで≪かるいさわ≫と発音すれば良い。しいて言えば、真ん中の≪い≫にアクセントが置かれる感じだ。 「草津」という温泉が、同じG県A郡にある。 私たちは、≪くさづ≫と発音する。最後を濁った音にする。イントネーションはやはりフラットで、しいて言えば真ん中の≪さ≫にアクセントが置かれる感じだ。 一般的には、≪くさつ≫で、濁らない。最初の≪く≫にかなりアクセントを置いているようだ。 どうも脱線していけない。このあたりで、やめておこう。
2011.07.14
明日で5月も終了だ。 永井荷風訳『珊瑚集―仏蘭西近代抒情詩選』岩波文庫 1991改版 を読んでいたら下記の詩に出くわした。 四月 ギユスタアヴ・カン あゝ花開くうつくしき四月よ。 されど若し我が恋人われより遠く、 北の国なる霧の中にあらば、 何かせん、四月の新しき歌、 四月の白きリラの花、野ばらの花も、 梢を縫ひて黄金と開く四月の日光も。 あゝ花開くうつくしき四月よ、 わが恋人にまた逢ふ事の嬉しきかな。 あゝ花開くうつくしき四月よ、 恋人来れり。 四月のリラの花、黄金なす四月の日光。 始めてわれを慰めん。われ四月に謝す。 あゝ花開くうつくしき四月よ。 (永井訳 上掲書 p.91~p.92) このニュアンスは「四月の思い出」の歌詞に近いと思う。 もうすぐ6月なのにこんなことを考えている。
2011.05.30
1.卒業した学校で大きな工事が行われている。私が通学していた頃にあったマッチ箱のような形をしたビルが解体された。少々高めでシンボル的な建物だった。2.上記1.のビルの傍らに大きな体育館があった。いや今もある。これは解体されていない。体育館の中にシャワー室があったのでシャンプー・石鹸・タオルを持参して勝手に使っていた。銭湯代を浮かすためだった。節約して捻出した小遣いは何に使ったのだろう。覚えていない。ところでシャワー室は今も機能しているのだろうか。3.過日「オープン・アーキテクチャー」というイベントの一環で旧内藤多仲自邸を見学した。とても面白かった。内藤は上記1.2.の構造設計を担当した人物である。また東京タワーの設計者でもある。4.上記3.の旧内藤自邸内に構造設計実績の建物を撮影した写真パネルが4枚展示されていた。上記1.2.もあった。あと2枚のうち1枚は非常に有名な物だった。残る1枚は何かわからなかった。5.上記3.の見学の際に解説をしてくださった方から上記4.の不明な建物の所在について教えていただいた。旧内藤自邸から遠くなく帰路の途上にあるので立ち寄って見ることにした。6.上記5.の現地に着いた。それほど規模の大きい建物ではない。簡素なようだが近くで良く見ると重厚な造りだ。内部もと感じたが知らぬところへ敢えて入る気は起きなかった。7.上記6.の状態で建物の近くにいると上記5.の解説の方と遭遇した。「中に入ってみますか」と声をかけていただいたのでお言葉に甘えた。どうやらその方の職場のようだ。8.上記7.の状況により屋内に入れていただいた。改めて内藤に関する話を拝聴した。村野藤吾の名前が出てきた。村野は上記1.の設計者である。9.村野の設計実績として日生劇場が知られている。これも内藤が構造設計を担当していたとのこと。「内藤と村野は縁が深かったんです。設計で村野が自由な意匠を追求できたのも内藤のしっかりした構造があってこそだったんですよ。」10.もともと有していた内藤に対する敬意が高まる次第。11.半年ほど前だっただろうか。都内の某所から上記1.のビルと東京スカイツリーがほぼ重なって見えた。もう消滅風景になってしまった。
2011.05.29
職場でジャガイモの料理を作ると概ね評判が良い。自分でもジャガイモが好きだからだろうか。 今朝帰宅してラジオ深夜便を聴いていると誕生日の花と花言葉が紹介される。ナス科のジャガイモ。花言葉は「情け深い」「恩恵」。きょうの一句は高木良多「北狐とぶじゃがいもの花の上」。 石川啄木。 馬鈴薯のうす紫の花に降る 雨を思へり 都の雨に (久保田正文編『新編啄木歌集』岩波文庫 1993 p.79) 数年前に売ってしまった本。マーナ・デイヴィス著/伊丹十三訳『ポテト・ブック』ブックマン社 1976。序文がカポーティ。表紙の絵が矢吹申彦。いつかどこかで見つけたら必ず買う。
2011.05.17
GYさんの墓へ行った。 GYさんの命日は4月9日だったが震災後の余震や職場の業務状況により延ばし延ばしにしてしまっていた。 小田急線で豪徳寺まで行った。駅の改札を出ると昨年通った道順を思い出せた。墓所へ向かう途中に古書店があった。一冊買った。壇一雄『美味放浪記』中公文庫 1976年。200円。 墓は乗泉寺世田谷別院にある。境内に巨大なクスノキがあり壮観だ。 GYさんの墓へ向かう。既に誰かが供えた花があった。墓石に水をかけ自分が持ってきた花を墓前に加えた。線香も供えた。GYさんがしばしば注文してくれたウィスキーを職場から瓶ごと持ってきていた。栓を抜いて少しだけ墓石の上に流した。すべて自己満足の行為だと思った。これで良い。3回忌の卒塔婆にある戒名をメモした。桜風院日泰信士。 駅へ戻る途上に団子や稲荷寿司を売る店があった。なぜか買ってみたくなった。団子2串稲荷寿司2個すあま2個。530円。 さらに駅に近づくと古臭い喫茶店があった。木造の建物の2階にあった。ナポリタンとコーヒーを注文した。730円。結構うまかった。理由はわからなかったが常に店内が揺れていたのが気になった。 自宅へ戻り買ってきた団子1串と稲荷寿司2個を食べた。普通の味だった。残りは冷蔵庫に入れた。 良い一日だった。
2011.05.11
7日(木)から8日(金)に日付が変わる少し前の時間。仕事中である。お客様の一人が「携帯に緊急地震速報が入った」と言う。吊り照明が少し揺れ出す。カウンターの上にあるウィスキーの瓶の中で液体が揺れる。灯していた蝋燭の火を吹き消す。「揺れている揺れている」とお客様が言う。棚に置いてある瓶がぶつかり合いカタカタと乾いた音を出す。入り口の扉を念のため開ける。揺れが治まる。テレビ放送を見る。東北地方を中心に広範囲で揺れた模様。宮城県では震度6強。東京でも震度3。津波注意報も出る。 仕事を終え少し職場で寝てしまう。帰宅する頃にはすっかり明るくなっている。ふと気付く。1年ほど続いていた微細な耳鳴りが完全に消えている。いつの間に止まってくれたのだろう。 3月11日(金)の巨大地震の前にあったことを思い出す。 7日(月)だっただろうか。胸のあたりに違和感を覚えた。肋間神経痛だろうか?疲労が蓄積したのかもしれないな…などと考えた。 胸のあたりの違和感は翌日8日(火)も続いた。脈をみてみると結滞していた。脈が止まる瞬間に胸の違和感があった。 9日(水)の昼頃に大きめの地震があった。この日も脈が結滞していた。小規模な津波が観測されたニュースの映像を見ながら頚動脈のところを触っていた記憶がある。 10日(木)になると脈は正常に戻ったようだった。胸の違和感もなくなった。(水)の定休日で良く体を休めたからだろうと思った。 11日(金)の午後。用事があり銀座へ行った。訪問先で打合せをしながらやたらと汗をかいて恥ずかしく感じた。多少厚着しているとはいえちょっと変だなと思った。14:00頃訪問先を出て遅めの昼食を食べそろそろ高円寺へ向かおうか…というところで巨大地震が来た。 巨大地震の何かが私の身体に影響を及ぼしていたのだろうか。この身体も自然界の一破片であることは確かだ。何かがあったとしても不思議ではない。 いや。単なる偶然だろうか。
2011.04.08
3月の出来事を簡単にメモしておきたい。・誕生日が来た。・1月の健康診断の結果に基づき胃カメラによる検査を勧められている。まだ受けていない。・11日(金)午後に大きな地震があった。その日は外出していた。電車が完全にストップし銀座から高田馬場まで歩いた。携帯電話がほとんど機能せず。職場では全く被害なく自分でも驚いた。自宅では内部が散らかった程度。12日(土)早朝には実家方面で大きい地震があったとのこと。心配だったが特に被害なしとのことでひと安心。しかし長野県内では家屋倒壊などもあった模様。それ以外にもあちこちで大きい地震あり。テレビでもラジオでもネットでも地震関連のニュースや情報が乱れ飛ぶ。自分の生活には大きな変化はないものの一部の食料品や生活用品が入手困難になるなどの影響はあり。・原発と停電のニュースを見るたびに気持ちが重くなる。地震さえ起きなかったならばと思う。しかし起きてしまったものは仕方がない。できることをするしかない。・15日(火)に確定申告と所得税納税。収入がずいぶん少ないのに納税しなくてはならないのは悔しいものだ。・募金やチャリティが当たり前のようになっている。協力したい気もするが余裕はほとんどない。・歯科医通いが続いている。29(火)右上の親しらずを抜歯。大人になってから歯を抜くのは初めて。
2011.03.30
ここ数日のメモを残しておきたい。 110222火曜日。 職場は休業とする。 昼過ぎに自宅発。新前橋駅まで電車。その後タクシー。群馬県庁へ向かう。 群馬県庁では農政部蚕糸園芸課訪問。昨年12月のぐんま食彩フェアのお礼も兼ねて。応対してくださった方が同じ高校を2年差で卒業した方。しかも同じ町内出身者。共通の知人がいることもあり話が弾む。楽しく時間が過ぎる。 県庁から徒歩で本町一丁目カフェへ向かう。かつての勤務先で一緒だったデザイナーOT君が手がけた古民家再生カフェ。カッコ良い店。OT君の奥様とその妹さんが切り盛りする。同業者として学ぶべきところとが多いと感じる。 徒歩で前橋駅。そこから再び電車に乗り実家方面へ。最寄の駅で姉が真新しい乗用車で迎えてくれる。実家に着き空を見上げる。星が目に飛び込んでくるようだ。「星が綺麗だ」と思わず声が出る。食卓で久々に家族で談笑。 110223水曜日。 8:00頃起床。良く眠ったと思いつつボンヤリしていると母がIHグリルに入れておいた魚を焼いて食べろと言う。続けて「今日はめまいがする」と言う。母にはときどきあることとはいえ立っていられないほどのようなので心配になる。「気持ち悪い」と言い便所に行く。嘔吐している様子。「起きていられないから寝ていよう」と階上の寝室へ行こうとする。「タオルを取ってきてくれ」と言うので「頭を冷やすのなら濡らして持って行く」と答えると「いや気持ち悪いから」とだけ返ってくる。 母は渡したタオルを持って階上へ行く。また嘔吐している様子が1階にいてもわかる。階上へ行き「母さん大丈夫か」と声をかける。口元に当てたタオルに黄色い液体が付着しているようだ。「父さんを呼んでくれ」と言われる。 父が救急車を呼ぶ。母は運ばれる。嘔吐が激しい。病院まで救急車に同乗する。 検査の結果脳などに重大な問題はないようだがめまいと嘔吐が激しいため入院となる。病院で合流した兄が母に当面付き添うことになる。父と一緒に引き上げる。 一旦帰宅し再び父と出る。墓参りである。父が古い先祖の墓地の方向に私を連れて行く。おや?と思うと新しい墓石がある。わが家の姓が刻んである。墓碑には祖母の名前だけがある。祖母の納骨に立ち会わなかったためこの新しい墓地を知らないのである。「新しく作ったんだ」と父に言うと「おばあちゃんがここにしてくれと言っていたから」と返事がある。「こっちにお先祖様の墓もあるぞ」との声に脇を見てみると昔から置いてあった墓石が綺麗に整理され並んでいる。快晴の空から太陽が墓石をあたたかく照らしている。日当たりの良い縁側で祖母が座っているような感覚がなぜかする。 続いて母の実家の墓地へ行く。こちらは日陰がち。ただし視界が開ける場所にあり決して暗い感じはしない。墓碑にはたくさんの名前が刻まれている。積もった雪が溶けずに残っている。数年前に他界した叔父が強く思い出される。 (続く)
2011.02.26
先週の水曜日に世田谷美術館で「ある造形家の足跡 佐藤忠良展 彫刻から素描・絵本原画まで:1940-2009」を観覧した。もともと彫刻が好きで、中でも佐藤の作品には気に入っている物が多いこともあって、かなり楽しく過ごせた。 翌日になって、この佐藤についてwebで少し検索してみた。面白いインタビューがあった。大変真面目な“職人”であるのが、よくわかる。私はそこに惹かれているのだ、と気付いた。 職場に絵画作品が展示してある。4点あるのだが、どれにも好感を持っている。 しばらく前、作家さんと事前の面談をし作品も拝見した。やや重い雰囲気の印象があったが、悪くない感じだな、と思い展示をお願いした。 昨日の夕方、作者さん自身が設置の作業をしてくださった。その作業後、少々雑談した。やはり“人”が絵を描くのだな、と気付いた。 私は営業マンとして都合11年を過ごした。その間のどこで見聴きしたのか定かではないが、「営業マンは物を売る前に自分を売れ」という言葉があった。意味は理解できていた。しかし日々の忙しさに押し流され、自分を売ろうと考えることも努力することもなかった。 私は自分を売るのが、あまりうまくなさそうだ。今こうして一人きりで働いていて、そのことに気付き愕然としたりする。
2011.01.30
本当は、東京日仏学院のR.先生の講義で講読中のモーパッサン『ベラミ』をどんどん読まなければいけないのだが、こういうときになぜか他に目が行ってしまう。 昨日、古書店で買った本。片岡義男『文房具を買いに』東京書籍 2003。 片岡義男の本を、20代の頃にいくつか読んでいた。当時は、それらを読んでいることを、友達にあまり知られたくなかった。 いや、40代になった今でも、あまり知られたくないかもしれない。照れくさい。実際、こうしてこの記事を作っている今も、少し照れくさい。 片岡義男の本に、オートバイが登場することがある。映画にもなった、『彼のオートバイ、彼女の島』という本もある。 私がこの人の書いた物に興味を持ち始めたのは、その点だったように記憶している。私は、オートバイを好きだったのだ。 オートバイを好きな人にも、いろいろな側面があると思う。 とにかく運転することが好き。これが強い人は、ツーリングに出かけたりするだろう。人によっては、レースに参加したりもするだろう。 カッコいい乗り物として好き。これが強い人は、自分の愛車どころか、他人のオートバイにも興味津々だろう。 メカに惹かれる。これが強い人は、自分のオートバイを分解してメンテナンスしたり、チューニングしたりして楽しむだろう。 片岡義男の本では、そうしたいろいろな側面がバランス良く書かれている、と私は感じていた。 オートバイを好きな人がオートバイについて書くと、己の熱烈な思い入れが先行してしまい、固着したような読みづらいものになってしまう。当時読んでいたオートバイ雑誌には、そんな文章が横溢していたものだ。 しかし、片岡義男は違っていた。淡々とした調子で、オートバイの魅力の片鱗を少しずつ語っているのだった。 “ほどけた”文章。そんな印象だった。 『文房具を買いに』を、数ページ読んでみた。同じような、“ほどけた”感じがある。 読み進めるのが、楽しみである。
2011.01.20
行きたい、あるいは行かなければならない展覧会をメモしておく。 「ある造形家の足跡 佐藤忠良」 ・開催中~3月6日(日)まで。 ・個人的に彫刻が好きなので。 「建築家 白井晟一 精神と空間」 ・開催中~3月27日(日)まで。 ・近所の文房具屋さんと話題になっているため。 「文化庁メディア芸術祭 受賞作品展」 ・2月2日(水)~2月13日(日) ・知人のマスダユタカさんの「駅前図鑑 スリーディー!」が審査委員会推薦作品となった。
2011.01.08
しばらくこのブログに記事を書いていなかった。年が明けてしまった。 今年の正月は帰省しなかった。他の用事と絡めようと考えたからだ。 ずいぶん遠くに実家があるような言い方だがそれほどでもない。日帰りも十分可能な距離だ。実際そうしたことも何度かある。 しかし次に帰省するときにはやや多めに時間を過ごしてきたい。他の用事との兼ね合いもあるができれば2泊してきたい。実家で学んできたいことがあるからだ。 母が家もしくは家の周辺で一日に何をしているのか後に付いて観察をしたい。家事や農業に従事する日々の仕事を少しでも学びたい。それというのも私の現在の仕事が母のそれに近いように思えるからだ。 私は飲食店で仕事をしている。農家の主婦である母と何となく似通っていると勝手ながら感じている。 店の営業は畑仕事に近いかもしれない。とにかく場所あっての仕事である。 お客様は家族に近いかもしれない。あの店に行けば何かしら食べる物・飲む物が必ずあるだろうという期待をお客様は持つ。それは家に帰れば何かしらあるだろうという期待を家族が持つのと同類ではないか。 掃除に関しては言うまでもなく完全な共通項だ。誰かが散らかしても片付ける。当たり前に清潔さを維持する。 母の仕事を学んできたい。母は72歳である。もっと早くその意識を持つべきだったか。
2011.01.04
10月後半はあれこれ用事が重なり忙しかった。11月に入り多少余裕ができたが当ブログの更新は滞ったままである。 東京日仏学院でのR.先生の講義はサルトルの『言葉』を扱っている。既に4回の講義が済んでいる(うち1回は欠席)がその記録も残していない。 ブログの記事を書かないからといって楽になるわけではない。もちろん書いたからといって楽になるわけでもない。〔日時など記録なし〕・新宿区立林芙美子記念館を観覧 建物も庭も良くとても気に入った。区内には新宿区立佐伯祐三アトリエ記念館もあるとのこと。・「バウハウス・テイスト バウハウス・キッチン展」を観覧 パナソニック電工汐留ミュージアム。食器や調理器具が興味深い。・中銀カプセルタワービル 上掲の汐留ミュージアム近くにあるのに現地で気付いた。ビルの1階にカプセル本体の見本が1個置かれガラス越しに内部が見える。裏に回ったらドア部分にガムテープがピッチリと貼ってあり「非公開 アスベスト吸引の恐れあり」と書してあった。・中銀カプセルタワーに引き続き日生劇場へ 村野藤吾の傑作。1Fの飲食店に入ったのみ。内部をもっと見てみたい。・アレッシィ社「Juicy salif」購入 フィリップ・スタルクのデザイン。職場で果物を搾ってカクテルを調合することにした。・ジン「ヘンドリックス」 職場で仕入れた酒。この品自体が凝っているがHPもやたらと凝っている。○11月6日(土)・東京日仏学院でR.先生の講義 サルトル『言葉』の第4回。大人が少年時代を思い出している記述。大人が回顧する自分の子供時代。太宰治『人間失格』にもそんな部分があったような記憶がある。 一冊の書籍の意味が大人と子供とで全然違う。物理的には全く同じ物なのに。(当たり前だが大人と大人とでも全く違う。) ○11月7日(日)・夜の樹「まうしろの今」 知人が出演していたため観劇。 芝居って何でもできると思った。いや芝居がそうなのではない。人間の想像力に歯止めがないのだ。○11月10日(水)・新宿中村屋で昼食 東京へ来て20年以上にもなるのに入ったことさえなかった。カレーを注文。さすがにうまい。どのようなものを使っているのかわからないが普通にコップに注がれている水が非常に良い。驚いた。 1階の菓子類売り場で會津八一の筆跡をもとにしたサインを発見した。八一の自作自書の短歌をあしらった湯呑茶碗を販売しており欲しくなった。・腕時計の電池交換発注 フィリップ・スタルクがデザインした時計を所有していたがしばらく放置しており電池切れだった。「Juicy salif」の購入をきっかけに再び使用したくなった。購入した店舗へ電池交換を頼んだ。・伊勢丹新宿店のクリスマス向けディスプレイ 面白い。クラウス・ハーパニエミという人。・「収監の作家・文化人 -中野刑務所1910~1983-」を観覧 中野区立中央図書館にて。内容が濃い。関連書籍も揃えてあり力が入っている感じがした。
2010.11.11
私の職場は飲食店である。18:00に開店するが、21:00頃までは大抵誰も来ない。それゆえ、19:00以前などにお客様が入ってくると、少々慌ててしまう。 この日、18:30頃に入ってきたお客様がいた。KSさんだった。 「明日の朝、山形へ行きます。今日でとりあえず東京は最後なので、寄りました。」 慌てずして、何ぞや。 KSさんには、9月の中旬に会っていた。 「田舎で興味のあることがあるので、あっちの人と接触しているんですよ…」と、話していた。私自身も関心があることなので、耳を傾けた。 あれから1ヶ月ほどで、KSさんは出身地の山形へ行く決断をし、身の回りの荷物さえまとめてしまった。 随分と急である。また、大きな転換でもある。 自分に置き換えて考えてみる。私は1ヶ月で、20年以上住んでいる東京から離れる決断をし、田舎へ行く支度ができるだろうか。物理的にも精神的にも、無理な気がする。 いや、私が急だと感じているだけで、KSさんにとっては、急でも何でもないのかもしれない。また、大きな転換でもないのかもしれない。 KSさんはビール2杯とウィスキー2杯を飲んでいった。「明日は山形までトラックを運転しますから、ほどほどにしておきます。」と言っていた。自転車に乗って隣の街の自宅へ帰って行くKSさんは、何だか楽しそうだった。 「どうせ、いつかまた、どこかで会うんだろうし。」という言葉を、私は最後に言ったような気がする。 楽しいお別れ、というのもあるようだ。
2010.10.15
最近、ときどき寄る喫茶店がある。 小さい店である。席は全部で10程度だろう。お客もそれほど多くない。少なくとも私が寄ったときには、他のお客で賑わっていたことはない。 店内の音楽はジャズだ。あまり凝った感じはしない。いわゆる“どジャズ”である。最近では、居酒屋やラーメン屋でも流れている感じである。 コーヒーの値段がやや高い。500円近辺である。豆は自家焙煎のようで、小綺麗な磁器のカップを使っている。それなりの設定なのは理解できる。ただ、一般的には抵抗が感じられる数値かと思う。 ネガティブな書き方をしているが、私としてはとても好きな店である。 小規模でガヤガヤしていないのは、気に入っている。 居酒屋やラーメン屋で垂れ流しの有線放送ジャズに耳を傾けようとは思わないが、喫茶店でレコードやCDをわざわざかけているなら、こちらの意識も違う。 コーヒーの味も良くサービスも良い。値段も納得できる。 自分が飲食店で仕事をしていることもあり、大丈夫か?と心配になってしまうところもある。 まとまった売上は、まず望めないだろう。 ジャズなんて、人気がある音楽ではない。 多少値段が高くても、味やサービスの良さが求められている時代だろうか。 良い店には通うべきだ、と私は思っている。百の賛辞よりも一の注文が、良い店を支える。いくら好ましい噂が飛び交っても、実際に売れなければ、店なんてすぐに消えてしまう。 ブログやら何やらで、実店名を明記して紹介するのも結構だが、それは何のアシストにもなっていない。もう一度足を運んで、コーヒーを頼んで代価を支払うのが正当だろう。 以上のようなことを意気込んで考えつつ、その喫茶店の名前をサーチエンジンで検索してみた。かなり多くの事項がヒットした。たくさんのお客が、あの店で実際にコーヒーを飲んでいる模様だ。私は、要らぬ心配をしているのかもしれない。
2010.09.28
最近の出来事を個人的なメモとして残しておきたい。・9月6日(月) 知人KM(現HM)さん男の子ご出産とのこと(8日にメールにてお知らせ受理)。・9月8日(水) バロンと世界一周楽団の「ボードビルアゲイン」観覧。・9月15日(水) 新宿の京王プラザホテル「ぐんまの食材を語る夕べ」に出席。・9月22日(水) 知人のAMさんご逝去。訃報受理。・9月27日(月) 上掲のAMさんの告別式に出席。※その他・立原道造記念館を観覧した。・久々にオートバイに乗って出かけた。車体はレンタル。静岡ホビーフェアを見物した。
2010.09.27
3年前の今日、知人が突然他界した。 彼は職場にも、ときどきお客さんとして来てくれた。だいたい、コーヒーを注文してくれた。 彼の命日である。いつもは高い所に掛けている遺影を下ろして、白い花を供える。コーヒーも供える。昨年も一昨年も、そうした。 彼がコーヒーを注文してくれたとき、「砂糖とミルクは?」と尋ねると、いつも「砂糖だけ」という答えだった。 ミルクだけ、のお客さんは結構いる。でも、砂糖だけ、のお客さんはほとんどいない。 「砂糖だけ」は、彼だけかな、と思った。
2010.09.04
久々に何も予定がない休日で気分が高揚していた。 11:30頃千代田線根津駅着。ホームが上下2層。東西線神楽坂駅以外にもこの構造があったのかと興味湧く。外に出て近隣を歩く。立派な木造建築が多い模様。 言問通りを東京大学方向へ進む。「弥生式土器発掘ゆかりの地」の碑があった。その傍らに文京区が設置した案内板あり。かつて浅野侯爵邸や警視局の射的場があったことが書かれていた。 目的地の一つである立原道造記念館へ着くが休館。予想していなかっただけに驚いた。開館日は木~日曜日とのこと。隣接する弥生美術館・竹久夢二美術館は開館していたが立原道造記念館と一度に観覧したく出直すこととした。近日中に訪問したい。 不忍池方面へ向かう。かつて珍建築として名を馳せたソフィテル東京の跡地近くを歩いたがその記録を残すものは一切なし。 閉館していた横山大観記念館を通過。ここも開館日が木~日曜日とのこと。 湯島天神参拝。合格祈願らしき少年・少女を見て夏休みはまだ終わっていないのかと妬む。境内に碑が豊富にあった。特に目を引いた碑2点。王貞治自身の書を使った「努力碑」。鈴木俊一都知事が題字を書した「文房至宝碑」。 通りがかりの稲庭うどんの店で昼食。とても素晴らしかった。ここは誰にも教えないことにしよう。 湯島~本郷を歩く。医薬系の会社が軒を連ねていた。 東京都水道歴史館に入る。江戸時代以来の水道整備に関する資料展示。都市のインフラ整備は第一に水を制することにあるのかと感じた。歴史館裏にある本郷給水所公苑に入る。ここにも鈴木俊一都知事が題字を書した碑があった。柳原義達のブロンズ彫刻作品も複数設置されていて面白く感じた。 神田川~JR御茶ノ水駅を通過し神保町に入る。古書店を覗いていると小腹が空き某飲食店に入り餃子とビール。店内に掲げられた「親父の小言」を読みながらボンヤリとする。 靖国通りを歩き九段下へ向かう。途中で古書数冊購入。 帰宅して寝転がり入手した田村隆一『ダンディズムについての個人的意見』リクルート出版 1990 を読む。 楽しい休日だった。 一夜明けて持ち歩いていた手提げ袋を整理していると「多忙とは怠け者の遁辞である」と書かれた短冊状の紙切れが出てきた。湯島天神に置かれていた東京都神社庁のチラシだ。徳富蘇峰の言葉らしい。
2010.09.01
数日前から辻静雄の著書を読んでいる。『フランス料理を築いた人びと』。ただ、まだ数ページ進んだだけである。 辻静雄の出自がなかなか面白い。この人は大学の仏文科を卒業して、新聞記者になった。生え抜きの料理人ではない。 子供の頃、土曜日の夕方になると必ず見ていたテレビ番組があった。TBSの『料理天国』。姉が好きだったから、一緒に見ていたのだと思う。 この番組に料理監修として全面的に協力していたのが、辻が校長を務めていた、大阪あべの辻調理師専門学校だったようだ。 辻は1993年に60歳で他界している。 命日が、私の誕生日と同じらしい。
2010.08.30
自転車で阿佐ヶ谷住宅を見に行った。 取り壊しが近いのだろうか。かなりの数の棟が閉鎖されていた。小ぶりで洒落たテラスハウスに、自分でも住んでみたかったものだ、と感じた。 前川國男の事務所がこの住宅の設計に関わっていたと聞いているが、公式サイトには実績として記されていないようである。 その足で荻窪へ向かった。 目的は、杉並アニメーションミュージアムだ。以前の勤務先がこの展示制作に関わっており、前々から興味があった。 当該ミュージアムは、杉並会館マツヤサロンの中に入っていた。とても凝った意匠の建物だ。設計者は誰だろう?と思いながら館内に入ると、“芦原義信が設計”との旨が掲示してあった。 公式サイトと思われる「芦原義信デジタルフォーラム」を見るが、実績として記されていないようである。 これらを、隠れた名建築、と呼ぶのは言葉が過ぎるだろうか。 設計業務の受注経緯や、設計者本人の自己評価などにより、実績として公表しづらい面もあるのだろう。とはいえ、こうした名建築が身近にあることは、多くの人に知ってもらいたいと考える。
2010.08.21
横浜美術館で開催中の「ポーラ美術館コレクション展 印象派とエコール・ド・パリ」を観覧した。 ビゴーの作品があった。海辺での漁の様子を描いたものだった、と記憶していた。 特に作品のタイトルなどはメモしておかなかった。もう一度どんなものだったか確認しておきたい、と思い“ポーラ美術館 ビゴー 絵画”などの言葉で検索してみるが、見つかりそうもない。 そこで“ビゴー”の名前だけ入れ、画像だけで検索してみた。何枚も見ているうちに、漸く発見できた。「漁夫」というタイトルの油彩画だ(画像参照)。 私の記憶が混乱していた。企画展の「ポーラ美術館コレクション展~」にあったように思っていたが、その後に観覧した「横浜美術館コレクション展 2010年度」で展示してあったのだ。 ビゴーは1860年4月7日生まれで1927年10月10日に没しているようだ。彼が生きた時代は、印象派~エコール・ド・パリの時代と重なる。 混乱も当然だったか…と自己の誤謬を正当化してみる。
2010.08.15
月の光に与へて おまへが 明るく てらしすぎた 水のやうな空に 僕の深い淵が 誘はれたとしても ながめたこの眼に 罪は あるのだ 信じてゐたひとから かへされた あの つめたい くらい 言葉なら 古い泉の せせらぎをきくやうに 僕が きいてゐよう やがて夜は明け おまへは消えるだらう ――あした すべてを わすれるだらう (神保光太郎編『立原道造詩集』 白凰社 1989年新装版 p.145~p.146) 立原道造。いままで接したことがなかったが、なかなか興味深い人のようだ。 こんなニュースも見つけた。東京市電の切符を大量にコレクションしていたようだ。見に行ってみたい。
2010.08.09
国立新美術館で「マン・レイ展」を観覧した。 かつて写真が好きだったこともあって、マン・レイには親しんでいたと思っていたが、知らない物がたくさんあった。 ポール・エリュアールの詩にマン・レイの写真を合体させた『Facile』という書籍が展示してあった。とても美しかった。いつか、実物を手に入れてみたいと思う。
2010.08.08
国立新美術館で「オルセー美術館展2010―ポスト印象派」が開催中ということもあってか、WEB上でこんな記事が出てきている。 オルセー美術館がかつて駅舎であったことは知っていたのだが、その設計者までは知らなかった。ヴィクトール・ラルーという人物だそうだ。 このヴィクトール・ラルー、パリのクレディ・リヨネ銀行本店の設計も手がけたようだ。 ところで、Googleマップで「siege central du credit lyonnais」と検索してみた。一発でヒットした。さすが大手である。
2010.08.06
昨夜の職場。 久し振りにご来店のURさんと、話が弾んだ。 月とその光に関して話題を集めているんです…と当ブログに写した李白の「月下獨酌」をお見せしたところ、李白で月ならこれも有名ですよ、と教えてくださった。 靜夜思 牀前看月光 床前 月光を看る、 疑是地上霜 疑うらくは是れ地上の霜かと。 擧頭望山月 頭を挙げて山月を望み、 低頭思故郷 頭を低れて故郷を思う。 寝台のあたりに射しこむ月かげ、そのあまりの白さに 霜がおりたのではないかと目を疑った。 頭をあげて山にかかる月を仰ぎ、またうなだれて故郷 のことをしのぶのである。 (松枝茂夫編『中国名詩選(中)』岩波文庫 1984 p.284~p.285) 同じ『中国名詩選(中)』に収められていたのに、注意していなかったようだ。
2010.08.01
国立新美術館で「オルセー美術館展2010―ポスト印象派」を観覧した。 ジョルジュ・スーラの絵画が展示してあった。スーラは短命だったため、作品は少ないはずだ。貴重な物を見られたと思う。 スーラは、エッフェル塔を描いている(サンフランシスコ美術館所蔵;画像下)。詳細は良くわからないが、私の目で見る限り、完成以前の姿のようだ。 そう言えば過日、職場近くの駅のホームから建設中の東京スカイツリーが見えることに気付いた。
2010.07.24
学規一ふかくこの生を愛すへし一かへりみて己を知るへし一学芸を以て性を養うへし一日々新面目あるへし 秋艸道人
2010.07.23
酒場で仕事をしていることもあり、文芸作品に酒が見えると興味が湧く。 李白の詩はその宝庫だが、最近話題が集中している《月とその光》に関わるものがあるので、転記しておく(松枝茂夫編『中国名詩選(中)』岩波文庫 1984 によるが、当ブログ表記の都合上縦書きを横書きとし、いくつかの漢字については簡略化した)。 月下獨酌 李白 花間一壺酒 花間 一壺の酒、 獨酌無相親 独り酌んで相親しむもの無し。 擧杯邀明月 杯を挙げて明月を邀え、 對影成三人 影に対して三人と成る。 月既不解飲 月 既に飲を解せず、 影徒随我身 影 徒に我が身に随う。 暫伴月将影 暫く月と影とを伴い、 行楽須及春 行楽 須らく春に及ぶべし。 我歌月徘徊 我歌えば 月 徘徊し、 我舞影零亂 我舞えば 影 零乱す。 醒時同交歡 醒むる時は 同に交歓し、 醉後各分散 醉うて後は 各々分散す。 永結無情遊 永く無情の遊を結び、 相期遥雲漢 相期す 遥かなる雲漢に。 咲きにおう花かげに酒徳利を持ち出したが、相伴 してくれる友もない。そこで杯をあげて明月を招 き寄せ、わが身の影と合わせて三人の仲間ができ た。 だが、月はなにしろ飲むことはできないし、影も 私にくっついて回るだけだ。まあともかく月と影 とを相手にして、春の去らぬ間を存分に楽しもう。 私が歌えば月は歩み、私が踊れば影もゆらめく。 醒めている間はこうして楽しみをともにし、酔っ てしまえばたがいにさよならさ。だが月と影、こ の無情のものといつまでも交遊を結び、はるかな 天の川で再会を約束する。 (『中国名詩選(中)』p.306~p.307) 漢詩というと硬派なイメージがあり、上掲の「月下獨酌」もそのように感じられる。しかし、男女の恋愛感情を詠ったロマンチックな詩も少なからずあるようだ。 以下に転記する「子夜歌」の一部は、無名氏=詠み人知らずであるが、小倉百人一首所収の歌にあるような叙情性が、表現されているように思える。 夜長不得眠 夜長くして眠るを得ず、 明月何灼灼 明月 何ぞ灼灼たる。 想聞歓喚聲 歓の喚ぶ声を聞けりと想いて、 虚應空中諾 虚しく空中に「諾」と応う。 人を思って眠れぬ身には夜が長い。お月さままで がいやに明るく照っている。ふと恋人の声を聞い たような気がして、思わず空に向かって「あい」 と返事をした。 (『中国名詩選(中)』p.169)
2010.07.21
7月16日。 昨年他界した、祖母の命日である。 ところで芥川龍之介の『或阿呆の一生』に、有名な一節がある。 「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」 芥川は35歳で他界している。 92歳まで続いた祖母の人生は、数行程度のボオドレエルに値したのか?と考えてみる。 いや、そもそもそういう観点に立つべきではない。 ボードレールの詩は、とても端正にでき上がっている。一行だけを抜き出して価値を考えるものではない、と私は考える。 ボードレール自身が、下記の詩を書いている。 芥川よ。良く読んでから物を言いたまえ。 TOUT ENTIERE Le Demon, dans ma chambre haute, Ce matin est venu me voir, Et, tachant de me prendre en faute, M'a dit : ? Je voudrais bien savoir, Parmi toutes les belles choses Dont est fait son enchantement, Parmi les objets noirs ou roses Qui composent son corps charmant, Quel est le plus doux. ? ? O mon ame, Tu repondis a l'Abhorre : Puisqu'en Elle tout est dictame, Rien ne peut etre prefere. Lorsque tout me ravit, j'ignore Si quelque chose me seduit. Elle eblouit comme l'Aurore Et console comme la Nuit ; Et l'harmonie est trop exquise, Qui gouverne tout son beau corps, Pour que l'impuissante analyse En note les nombreux accords. O metamorphose mystique De tous mes sens fondus en un ! Son haleine fait la musique, Comme sa voix fait le parfum. 彼女のすべて 「悪魔」が、俺の高い部屋へと、 俺に会うため今朝やってきた、 そこで俺の悪さの現場を押さえようと、 こう言った:《知りたいものだ、 その魅惑をつくっている すべての美しいものの中で、 その魅力ある体をつくりあげている 黒色や薔薇色のものの中で、 どこが一番いいのさ。》― あぁ俺の魂は、 「嫌な奴」へ答えてやるのだ: 「彼女」のすべてがやすらぎだから、 どこがいいということではないのだ。 俺が喜んでいるときは、頭にない 何かが俺を惹きつけているかなんて。 「彼女」は「朝の光」のようにまぶしい それから「夜」のようにやすらかで; またその調和はあまりに甘美で、 あの美しい体をすべてまとめる、 たくさんの和音を記録して 分析することも無駄になる。 あぁ神秘な変身である 俺の感覚すべては溶けて一つに! 彼女の呼吸は音楽になる、 その声が香水となるように。 (拙訳)
2010.07.16
オフィス・デイズの店主・MSさんと、また月の話題になった。 中原中也の詩「月夜の浜辺」が発端だった。 次にMSさんと私とは、別の二つの詩に引っ掛かった。 月の光 その一 月の光が照つてゐた 月の光が照つてゐた お庭の隅の草叢に 隠れてゐるのは死んだ児だ 月の光が照つてゐた 月の光が照つてゐた おや、チルシスとアマントが 芝生の上に出て来てる ギタアを持つては来てゐるが おつぽり出してあるばかり 月の光が照つてゐた 月の光が照つてゐた (大岡昇平編『中原中也詩集』岩波文庫 1981 p.260~p.261) 月の光 そのニ おゝチルシスとアマントが 庭に出て来て遊んでる ほんに今夜は春の宵 なまあつたかい靄もある 月の光に照らされて 庭のベンチの上にゐる ギタアがそばにはあるけれど いつかう弾き出しさうもない 芝生のむかふは森でして とても黒々してゐます おゝチルシスとアマントが こそこそ話してゐる間 森の中では死んだ子が 螢のやうに蹲んでる (前掲書 p.262~p.263) 「チルシスとアマント」。突然出てくるこれらは、一体何なのだろう?半ばふざけて笑いながら私たちは、この二つの名詞を繰り返し声に出してみた。 そこで今朝、岩波文庫版を確認してみたところ、下記のような注釈があった。 *チルシス―ヴェルレーヌの『艶やかな宴』中 「マンドリン」中の人物。ウェルギリウスの 「田園詩」に出てくる下女。 *アマント―同じく「マンドリン」中の人物で、 「田園詩」第二歌中の美少年「アミンタス」の フランス語読み、いずれも各国の喜劇的牧人 劇に作られる間に類型化された。 (前掲書 p.467) またヴェルレーヌが出てきたか… そんなことを考えつつ、「艶やかな宴 fetes galantes」などの言葉で検索を続けていたところ、興味深い絵画にぶつかった。アントワーヌ・ヴァトーの「愛の音階 La gamme d'amour」である。男が抱えている楽器は、恐らくマンドリンだろう。 この絵を見ていると、マンドリン~チルシス~アマントが、甘美さを示唆すると容易に想像できる。 一方で、中也の「月の光」はその一・その二とも、“死んだ児”“死んだ子”が出てくる。また“ギタア”も弾かれない。甘美さは、そこにはない。ヴェルレーヌの「Mandoline」とは、大きく雰囲気が異なるようだ。 月とその光は、中也に何を感じさせていたのだろうか。
2010.07.14
相良直美の歌は、とても良いと思う。 「二人のために世界はあるの」 ・レコード ・紅白歌合戦 「いいじゃないの幸せならば」 ・レコード ・レコード大賞 ・紅白歌合戦 「ひとり旅」 ・レコード ・紅白歌合戦 ・夜のヒットスタジオ(恐らく)/馬パターン ・夜のヒットスタジオ(恐らく)/ギターパターン1 ・夜のヒットスタジオ(恐らく)/ギターパターン2 ・cf.美空ひばり 【参考】 相良直美は遠心分離機に縁があるようだ。
2010.07.11
梅雨らしい空である。どんよりと重く、雨もポツポツ降り出した。昨日晴れ間があったのが、嘘のようである。 漱石の『それから』を、また読んだ。雨の日に代助が三千代を呼んで会うこの場面が、私は好きだ。 「僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ。僕は それだけの事を貴方に話したいためにわざわざ貴方を呼ん だのです」 代助の言葉には、普通の愛人の用いるような甘い文彩を 含んでいなかった。彼の調子はその言葉と共に簡単で素朴 であった。むしろ厳粛の域に逼っていた。ただ、それだけ の事を語るために、急用として、わざわざ三千代を呼んだ ところが、玩具の詩歌に類していた。けれども、三千代は 固より、こういう意味での俗を離れた急用を理解し得る女 であった。その上世間の小説に出て来る青春時代の修辞に は、多くの興味を持っていなかった。代助の言葉が、三千 代の官能に華やかな何物をも与えなかったのは、事実であ った。三千代がそれに渇いていなかったのも事実であった。 代助の言葉は官能を通り越して、すぐ三千代の心に達した。 三千代は顫える睫毛の間から、涙を頬の上に流した。 「僕はそれを貴方に承知してもらいたいのです。承知し てください」 (夏目漱石『それから』岩波文庫 1989年改版 p.244~p.245)
2010.07.11
建設中の東京スカイツリーは、7月3日の時点で398mに達しているそうである。 竣工時には、634mになるという。G県の私の実家付近が標高500mほどだが、それを超えてしまうことになる。想像もできない高さである。 このところテレビのスイッチを入れると、「アナログ」の文字だけでなく「地デジカ」という鹿のキャラクターの動画も出てくるようになった。どうも揶揄されているような感覚である。 ふと東京タワーのことが気になりだした。 地上波アナログテレビ放送が廃止となってデジタルへ切り替わると、テレビ放送塔としての役割が東京スカイツリーへ完全に移行してしまうのではないか?となると、あのタワーは… 東京タワーには、ちょっとした親近感がある。 東京タワーの設計で中心となっていたのが、内藤多仲という人物である。内藤は名古屋テレビ塔や通天閣などのタワーを多く手がけており、“塔博士”とも呼ばれたそうだが、ビルなどの建築物の構造設計もたくさん担当している。私が通った学校の校舎の構造設計も、内藤の実績だ。 その校舎は、残念ながら取り壊しが予定されている。少々さみしく感じられるのを、東京タワーへの親近感へと、私はすり変えているのだろうか。
2010.07.07
お客様のオフィス・デイズの店主・MSさんのブログ上でコメントのやり取りがあり、高村光太郎の詩が話題となった。 月の光ですか。「私の手は重たい・・・すごい略・・・ わたしはもう一度 月にぬれた自分の手を見る」 といった感じの高村光太郎の詩があった記憶が あります。すごく心には残ったつもりでしたが、 脳ミソからはすっかり蒸発してしまいました(笑)。 ご存知ありませんか? 知らなかったので調べてみると、「月にぬれた手」という詩があることがわかった。 月にぬれた手 わたくしの手は重たいから さうたやすくはひるがへらない。 手をくつがへせば雨となるとも 雨をおそれる手でもない。 山のすすきに月が照つて 今夜もしきりに栗がおちる。 栗は自然にはじけて落ち その音しづかに天地をつらぬく。 月を月天子とわたくしは呼ばない。 水のしたたる月の光は 死火山塊から遠く来る。 物そのものは皆うつくしく あへて中間の思念を要せぬ。 美は物に密着し、 心は造型の一義に住する。 また狐が畑を通る。 仲秋の月が明るく小さく南中する。 わたくしはもう一度 月にぬれた自分の手を見る。 (草野心平編『日本詩人全集 9 高村光太郎』 新潮社 1966 p.177~p.178) MSさんの記憶力には、感服である。全く蒸発していないではないか。 どうやら杜甫の詩「貧交行」を下敷きにしているようで、こちらのサイトに面白いことが書いてあった。
2010.07.05
果物屋や八百屋やスーパーなどの店頭で、さくらんぼを見かけるようになった。 そう思っていたら、お客様からいただいてしまった。思いが通じたのだろうか。 それはともかくとして、「さくらんぼの実る頃」。有名な歌だ。 YouTubeで見つけたいくつかの良い演奏をメモしておきたい。・イヴ・モンタン・ジュリエット・グレコ・加藤登紀子・フェムエフェム MAI & タケゴロ Wikipediaの Le Temps des cerises を見てみると、作詞者のジャン=バティスト・クレマンのポートレイトが添えられている。ナダールが撮影したようだ。
2010.07.03
昨夜、と言うよりも、今朝だろうか。 帰宅時に月が見えた。この時季でも月が見えることを、嬉しく感じた。 去る6月27日の日記で、daysさんへの返信コメントで次のことを書いた。 (月光荘画材店の)店名はヴェルレーヌの詩 から拾っているらしいですね。永井荷風や堀 口大學も訳出している「La lune blanche」と のことです。 これは間違いである。 月光荘画材店の現店主へのインタビューで、次のことが書かれている。 父がお店を開くときには、与謝野晶子さんが 「大空の 月の中より君来しや ひるも光りぬ 夜も光りぬ」と詠んでくださり、鉄幹さんが ヴェルレーヌの詩から引用して「月光荘」と名 付けてくださいました。今もお店の入り口にあ る看板の「月光荘」の文字も、与謝野晶子さん に書いていただいたものです。 ヴェルレーヌの詩が何だったのかまでは、書かれていない。 私が良く知っているヴェルレーヌの詩が「La lune blanche」であったため、勝手にそれが月光荘の起源だと思い込んでいたのだ。 ヴェルレーヌは、「Claire de lune」という詩も書いている。 「La lune blanche」は、「白い月」。 「Claire de lune」は、「月の光」。 与謝野鉄幹が引用したのは、恐らく後者だろう。 いずれにせよ、人は月の光に何かを感じやすい、と思う。 小倉百人一首にも収められている、三条院の歌。 心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな
2010.07.02
恵比寿の東京都写真美術館で3つの企画展を観覧した。 「侍と私 -ポートレイトが語る初期写真-」 「古屋誠一 メモワール. 愛の復讐、共に離れて…」 「世界報道写真展2010」 18:00に閉館となったため外に出たがまだ明るかった。渋谷方面へ散歩した。 過日このブログに書いた竹久夢二のことを思い出した。代表作「黒船屋」のモデルとなった女性・お葉と夢二とが暮らしたとされる場所に碑があるのだ。この機会に確認していくことにした。 現地に着く。柱状の石碑があり「竹久夢二居住地跡」と刻まれていた。 裏面に下記の文があった。 画家・詩人竹久夢二は、38歳の大正10年 (1921)8月から大正14年(1925)1月まで、 この場所(当時、渋谷町宇田川857番地) に住んで、「どんたく図案社」「一草居」の 表札を掲げて画業にはげみ、また小説 の執筆なども行っていました。 お葉のことについては特に触れられていなかった。
2010.06.30
西條嫩子編『西條八十詩集』角川文庫 1977 に、下記の詩が収められていた。 この詩は寺山修司作ではないかとボンヤリ記憶していたが、西條作だった。 文殻 恋びとの文をくりいでしとき 後庭に血のごとき月はのぼれり。 恋びとの文よみゆくにあまりに長かりしかば、われ、 そを柳の枝に掛けつ、 かくてまた十二の青銅の牡牛の首に ひとつびとつからめゆきぬ。 恋びとの文なほ尽きず、 海近き七つの金の燈台を、そもて 七めぐりめぐらしゆけば 燈火ひとつびとついつか隠れて 暗き海ぞ慌しくもあらびたる。 恋びとの文かくても尽きず、 いざや、かの夜の蒼穹に冷き真珠なす 星の簇より 熟れくづるる果実のごとく血色の 月かけて、 かくてわが恋びとの白き文殻、 王者の城を、バビロンの夜の砦をぞ いくかへり百めぐりせむ。 (西條嫩子編『西條八十詩集』角川文庫 1977 p.25~p.26)
2010.06.30
一、ちょっとした挨拶に使う絵葉書が必要になり、職場近くの文房具屋「オフィス・デイズ」へ行った。月光荘画材店の製品で、素朴で洒落たものがあった。気に入ったので3枚買った。ニ、オフィス・デイズの店主MSさんに薦められて、月光荘画材店製レターセットを買ったこともある。縦20字×横10字の原稿用紙様の便箋が、真面目な感じがして気に入った。三、西條八十の詩。これも、気に入っている。 恋文 恋文を送ると 彼女は それがまだ届かぬやうなふりをして 手紙をよこす、 そして、わたしをいらいらさせて、 急いでもう一通 新しい手紙を書かせた、 そんな技巧を弄してまで 手紙を欲しがる可愛いひとだつた。 ふるい昔のそんなことを 今夜、ふと、山の湯宿でおもひだした、 梅雨の箱根がうそ寒く 湯上りの丹前の上に 若い女中が、もう一枚、丹前を着せかけてくれたとき。― (西條嫩子編『西條八十詩集』角川文庫 1977 p.197~p.198)
2010.06.27
所用で吉祥寺に寄った。 駅にすぐ近い喫茶店でコーヒーを飲んだ。 20年ほど前のことだ。私は吉祥寺に住んでいたことがある。 とても狭い賃貸マンションの部屋だった。だがガールフレンドがときどき遊びに来てくれた。 吉祥寺という街のイメージが良かったせいもあるのだろう。それ以前に住んでいた千葉県F市のアパートにはガールフレンドは来なかった。それ以後に住んだ東京都N区のアパートにもガールフレンドは来なかった。 そんなことを考えながら、当時良く聴いていた曲を思い出した。 マイルス・デイヴィスの『ワーキン』に入っている「イン・ユア・オウン・スィート・ウェイ」だ。 これをガールフレンドと一緒に聴いたかどうかまでは思い出せなかった。多分一緒に聴いていなかったのだろう。 作曲者がデイヴ・ブルーベックだということを今日始めて知った。 本人の演奏もとても良い。
2010.06.26
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