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名護市民、再び「辺野古反対」…稲嶺さん当選- 読売新聞(2014年1月20日07時19分)Infoseekニュース【続きはInfoseekニュースへ】年末の仲井真知事の辺野古埋め立て承認の時の言葉には、北海道に住む私の気持ちも逆なでされた。「沖縄県民を代表して心から感謝し、お礼を申し上げます」とか「良い正月を迎えられる」って、何なのよとカチンときた。ましてや沖縄の人たちはどう感じるんだろうと、知事の言葉がとても不思議だった。もちろん、沖縄の歴史や現状を考えれば、どうあがいても日本政府は「お国のために犠牲になってくれ」と、たとえ言葉は丁寧でも、戦争中と同じような感覚で沖縄を踏みつけにしている。おまけに、尖閣をはじめとして中国・北朝鮮・韓国などとの危機感を煽り、戦争にでもなりかねないのだからと、国民を脅しながらのかじ取りだ。そんな中で、少しでも良い条件を引き出すのが知事(自分)の仕事だと思うのだろう。普天間の危険性除去を最優先とするのもわからないでもない。でも、普天間の人たちはどう思っているのか。同じ沖縄であっても、辺野古に移設されればそれでいいと思うのだろうか。そもそも、米軍基地を同じ規模で日本におかなくてはならないのか、私にはわからない。アメリカに睨まれるのがどれほど日本にとって恐ろしいことなのか、よくわからない。わからないで批判することはいけないのかもしないけれど、日本が本当に自立することを願うのなら、アメリカべったりよりも距離的に近い国々との友好関係を大切にした方がよいのではないか。日本が沖縄を安全の踏み台にしているとするなら、アメリカは日本を、アジアへの軍事力配備の踏み台にしているではないか。どちらの大陸が日本と地続きなのか、世界地図を見てみると…。やっぱり、アメリカべったりの方が危険なような気がするのは、私だけなのか?
2014年01月20日
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津田塾大学女装替え玉受験事件 試験日2日目に父の女装発覚- NEWSポストセブン(2014年1月19日07時00分)Infoseekニュース【続きはInfoseekニュースへ】こんなことあったんだ。この時期になると、カンニングや替え玉の話はあるように思うけど、今年はどうでしょう。
2014年01月19日
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昨年末で、2年半受講していた講座が終了した。児童文学に関係する講座だったのだが、途中から予想と違っていたことに気づいた。私は赤ちゃんと保護者が、乳幼児期から絵本と触れ合うきっかけづくりのためのボランティア活動に関わっている。そんなことから、絵本や児童文学についてもう少し幅広い視点で学びたいと受講したのだが、事前のリサーチ不足のために予想とは違っていたのだ。それでも、せっかく始めたのだから最後までと、何とか終了までこぎつけることができた。考えてみれば、私は自分が勉強不足だと感じることが多いために、仕事をしている頃から色々と受講したり通信で学んだりしている。その延長線上という感じで、慶應の通信課程で大学を卒業し、明星の通信課程で図書館司書資格を取った。司書資格は、あわよくば図書館のパートでもと思ったのだがそれは叶わなかった。しかし図書館に関わるボランティア活動や協議会などでは、学んだ知識が随分役に立ったと思っている。児童文学の講座受講もその延長線上にあったのだが、最後は「とにかく早く終わりたい」という気持ちであった。それでも頑張って受講したおかげで、絵本・児童文学に関する知識地図のようなものは知ることができ、今後の活動などへの役に立つとは思っている。こう思い返してみると、私は「学ぶこと」は嫌いではないようだ。一つ終了して「次は何をしようかな」と思う時は、やはり学べることを探してしまう。(というより、本と触れ合うことが好きなので、そうなってしまうのかも)ということで、親しくしている友人とそんな話をした時、彼女が「論語」をちゃんと読んでみたいというので、「それだ!」と思った次第。考えてみれば、論語をちゃんと読んだことはない。「子曰く、学びて時に之を習う、また説ばしからずや。 朋遠方より来たる有り、また楽しからずや」なんて、良く引用されているけれど、どのような状況で誰に言ったのか、その意味するところの解釈なんて、知っているようだけど実はよく知らない。一つ一つ読んで、それをネタにおしゃべりするのもまた楽しからずやというものだろう。年をとるということはありがたいもので、そんなネタでも十分盛り上がることができそうだ。しかし不安もある。論語をネタに話し合うということでは、彼女となら絶対におしゃべりに流れてしまう。ということで、自分なりの論語ノートをパソコンで作り、お互いにそれをやり取りすることで、多少なりとも学びの足跡を作っていこうと思う。さて、どうしても楽に流れがちな私(達)が、この方法でどこまでゆくのか見ものである。
2014年01月14日
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午後から映画「ハンナ・アーレント」を見て、夕食を早めに取ってから道新ホールでの「桂米團治独演会」で笑い初め。上京した時にはできるだけ寄席に行ったりして、落語は好きなのだけど、まだ「独演会」というものには行ったことがなかった。さらに関西の落語家の噺をちゃんと聞いたこともなかったような気がする。今回は、新聞やネットでこの独演会を知り、「桂米團治」にも興味があったし、出し物の「地獄八景亡者戯」が聴きたかったのである。北海道ではあまり落語に接する機会がないせいか、夫と妹を誘っても「落語ねえ…」とあまり気が乗らない様子。聴いたら絶対に面白いはずとは思っても、無理強いして万一外れだったら申し訳ないし、そんな時にはとっておきの「持つべき友」を誘ってみた。私だって、できれば観劇や落語などは一緒に笑ったり感想を言い合える人が一緒の方がいいですから。(一人で上京した時などは、一人で行きますけど)彼女は勿論、「行く行く~」と快諾してくれて、一緒に楽しむことができたのである。やっぱり、「持つべきものは友」ですね。さてその独演会は、期待以上に楽しかった!最初の若手の桂團治郎の『子ほめ』もとても歯切れがよい話しぶりで、大いに盛り上がり、次の米團治の『掛け取り』も、お腹をよじって笑わせてもらった。話の中は駄洒落が満載なのだが、米團治はクラシックに明るいらしくて、次から次へと作曲家や音符の名称をもじったり、歌やオペラのさわりをうなり語り(?)したりのてんこ盛り。きっとこの話には「元」があって、それぞれの噺家が自分の得意分野で変化させるのだろうけれど、実に面白かった。でも、音楽の多少の知識がなければ何をもじっているのかわからないかも。そして、一番の期待の「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」は、一時間近くの大ネタだそうで、私は寄席落語しか聴いたことがないのでとても楽しみだった。これもまた、期待以上に面白かった。内容は、サバで当たって死んだ男の冥土への道中話だが、米團治はマクラで「これから冥土ツアーにご案内」と言っていた。これは、時事ネタと駄洒落やギャグてんこ盛りで、次から次へと決して飽きさせない。その上に、顔の表情や動作も大仰なので、噺家も体力勝負だと思うけど、私たちも笑いや拍手で体力勝負である。終了後には米朝&米團治関連の手ぬぐいや色紙などがあたる抽選もあり、最後まで期待したけど賞品は貰えませんでした。そこまでの大当たりを期待しては、欲張りというものですものね。それにしても米團治、すっかりファンになりました。米朝の長男として育ち、色々プレッシャーもあるであろう中を、しっかり自分の芸を磨いてきたんだなと、その精進にも拍手です。本当に楽しい時間をありがとうございました。
2014年01月09日
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友人と、以前から見たいと思っていた「ハンナ・アーレント」を札幌のシアターキノで鑑賞。椅子席を出すほど、満員であった。ハンナ・アーレントの名前は知らなかったのだが、新聞の映画紹介欄で「ハイデガーの弟子で彼と一時不倫関係にあった」というような記事を読み、ハッと思いだしたことがある。まだ慶應通信で勉強中に、講師派遣学習会でハイデガーについての話を聞いた時、彼が大戦中にナチスに協力して戦後批判を浴びたことや、教え子と関係を持ったというようなエピソードを聞いたような気がしたのだ。実は、その時の学習会は帯広で開催されて、私はハイデガーのことを少しは知りたいと泊まりがけで参加したのだが、心に響かなかったのか私の理解能力がなかったせいか、ほとんど覚えていないし、そのエピソードを聞いただけでも、深く考える哲学者もまた、平凡な人間なんだなという印象を抱いたので、その後ハイデガーをもっと知りたいとも思わなかったのである。そしてこの印象は、この映画でもまた強化されたわけである。ハンナ・アーレントは第2次世界大戦中にナチスの強制収容所から脱出し、アメリカへ亡命したドイツ系ユダヤ人である。彼女がナチス戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴して書いた記事は、ユダヤ人社会はもとより全米から激しい批判を浴び、大切な友人すらも去ってゆくような苦しみの中でも、毅然としてアイヒマンの個人攻撃ではなく、彼を通して人間の持つ「悪の凡庸さ」を主張し続けた。アイヒマン裁判の実際の映像を使っているので、彼が発する「悪の凡庸さ」がリアルに伝わってくる。映像のアイヒマンを見ていると、何人かの面影が脳裏に浮かんだ。言われたことは忠実に正確に行うけれど、自分がやっていることの意味を考えることを意識的に放棄しているようなあの人・この人…。言われたことを正確にやることが職務遂行の基本と信じている人。このようなタイプの人は、実は今まで私が仕事などで出会った人の中には少なからずいる。それは、私の住む町の地域性にもよると思うが、根っこは善良で真面目な人たちなのだ。集団の中で出る杭になることを注意深く避け、自分が責任をとることをできる限り避けようとするタイプの人たちである。そしてそれは、たぶん多くの日本人に共通する傾向ではないかと思うし、この私もその範疇にあることを自覚せざるを得ない。そのようなタイプの人間が、自分達の社会の責任を取ってくれる強いリーダーを求め、抑え込んでいる自我のストレス発散を、弱い立場の人たちや、出過ぎた杭に向けることが多いのだ。毅然として「悪の凡庸さ」を主張し、バッシングの嵐にも決して節を曲げようとしなかったハンナ。このような人がいたのだということに、私はとても感動したし、人間に対しての希望をつなぐこともできるような気がした。映画の中で、古いユダヤの友人から「君はイスラエルや同胞をを愛していないのか?」と問われ、「一つの民族を愛したことはない。私が愛するのは友人だけ」と答えるシーンがある。それでもそのユダヤの友人は彼女に背を向けるのだが、ドイツ社会で生まれ育ち、そのドイツから迫害を受け、アメリカに亡命し、その中で自分の生活や思索を深めてきた彼女の言葉には、強い説得力があると思う。現在の日本の状況、そして紛争の絶えない世界の現況を救えるのは、彼女の信念にキーワードがあるように思う。私達が何かをできるのは、身近な家族・友人・地域社会にしかない。そして、その中で自分が感じていることを発信してゆくしかない。身近な人たちが自分を非難することがあっても、本当に自分を信じて支えてくれる人が一人以上いたなら、きっと耐えられる。そんなことを、この映画で感じていた。
2014年01月09日
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あまり更新していないにも関わらず、時々このブログの様子を見て下さっている皆様、いつもありがとうございます。今年は、昨年11月に父が亡くなって喪中ということもあり、例年よりは静かな年明けとなりました。新年早々の四日が四十九日ということになり、実家のお寺で身内が集まっての法要をすませました。親の死というものは、やがて自分達が歩んでゆく「老い」と「死」を考えさせられます。人間の最後の仕事は、残っている人たちにそれを考えさせることなのかもしれません。「あのように逝きたい」と思う人もいますが、「あのような死は寂しい」と思わせるのもまた、人の仕事になるのかもしれないですね。さて、いずれ私は、残してゆく人たちにどのように思われるのか。どっちにしても私達にできるのは、毎日毎日をあまり悔いのないように暮らすこと。さて、今年はどんな年になるのでしょうか。日本も、そして世界も、どんなできごとがあるのか。多くの人が心安らかに、楽しく生きられる世の中であってほしい。それは誰もが願うことでしょうに、人間というものはどうにも思うようにはならないもので…。今年も、気が向いたら時々更新するようなブログですが、それこそ気が向いたら遊びに来てください。私も、時々色々な方々のブログを訪問し、拝見させていただきます。あまり書き込みはしない方なのですが、お気に入りに登録しているブログは、ちゃんと拝見しております。皆様が、健康でお過ごしになるようにと願っております。どうぞよろしくお願いします。
2014年01月08日
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