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にほんブログ村 今回は快適な環境ですごされている化粧地蔵様をご覧いただきましょう。以前ご紹介した岡山県玉野市八浜の金剛寺。その化粧地蔵がある金剛寺の隣には、宗蔵寺があります。そして、宗蔵寺にも、別の化粧地蔵様がおられます。少し長めの階段を昇ります。するとそこには、屋根がありやや解放された地蔵堂があります。地蔵堂の背後からは、八浜の街が見渡せます。快適な堂内には、綺麗な化粧地蔵様がおられます。1体ですが大型です。衣装は丁寧にお化粧されていますが、お顔は薄化粧です。次回はこちらの化粧地蔵様を眺めつつ、宗蔵寺のストリートビューをご紹介します。【前の記事】 「化粧地蔵でほのぼの (その39)」【 岡山 大手饅頭 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.11.25
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にほんブログ村 ダイソーで100円の加湿器を購入しました。素焼きの人形に入れた水の蒸発を利用して加湿します。もちろん無電源です。ハスキー・タイプもあります。素焼きは水が漏れるので、釉薬で防水されたトレイに乗せて使います。パンダ・タイプもあります。昔、流行った”素焼きの置物型の芳香剤”と同じですね。水の容量は20mL。100mLの大容量型も100円でありました。現在、投資金額は税込み440円。”買い過ぎ注意”の100均の罠にはまりつつあります。並べてみると、なかなかかわいい。では次回から、加湿性能を評価します。・・・・・・・・・・・・ご心配をおかけしています。通信障害、仮復旧しています。・・・・・・・・・・・・【 出来の良さはこちらが勝ります 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.01.19
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海辺に育った私は、子供の頃、巻貝のウミニナをたくさん食べていました。ウミニナは、多量に海辺に落ちていました。砂の上に隠れもせずいるウミニナは、まさに落ちているという様子でした。熊手でかき集めても良いほど多量でしたが、それではヤドカリが混ざります。ヤドカリは嫌なので、面倒ですが拾い集めます。短時間でバケツ一杯取ることも容易でしたが、それでは3食ウミニナになってしまいます。それでなくても、「おやつはウミニナ」でした。塩茹でして、マチバリでほじって食べるのが丁寧な食べ方。貝の尖った方を五円玉の穴に入れて先を折ってから、逆から吸い出すのが高速な食べ方。美味しいというより、楽しく食べる貝でした。ウミニナは、種類が多い巻貝です。私が食べたウミニナも、色々混ざっていたようです。驚いたのは、ウミニナの食用は、全国的には一般的ではないということ。ウミニナを食べるのは、主に西日本の習慣とのことでした。みなさんは、ウミニナを食べた経験はあるでしょうか?あれほど多量に落ちていたウミニナも、今では姿を消しつつあるという。理由は、埋め立てや海砂の多量採取などの海洋破壊。ウミニナが減ったのは、私が食べ過ぎたからではありません。けっして、いえ、おそらくは。「ウミニナ(ウィキペディア フリーライセンス)」【日本国際湿地保全連合】 「ウミニナ類の見分け方」 ※ウミニナ類を詳しく見ますと、私が食べていたのは色々な種類が混ざっていたようです。
2015.07.03
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にほんブログ村 名古屋の中心部で化石探し、第2回目。街中での化石探しは、人目が気になるというあなた。少し人が少ない場所へ移動しましょう。第2回目は、地下鉄で栄駅に移動します。化石探しは、栄地下街「セントラルパーク」です。栄は名古屋の繁華街。その中心のセントラルパークは、人通りが多い場所です。セントラルパークの床は、スペイン産石灰岩の「ロッソアリカンテ」製。床のアンモナイト探しは、行き交う人の往来妨害。では、人が少ない場所へ移動しましょう。セントラルパークでお勧めは、最も東側の通路です。オアシス21への出入り口付近のこの通りには、店舗がありません。そのため、通行人はまばらです。この通りの壁は、全面が化石で覆われています。化石は誰でも見つけられ、人通りも気にしなくて済みます。ただし、何の化石かは、判別に知識が必要です。【セントラルパークでの化石探し】 〇探しやすさ: ★★★★★ 〇化石数: ★★★★★ 〇アクセス: ★★★★ 〇人の往来; ★★★では、写真でご紹介します。往来の邪魔にならないように撮影した、床面のアンモナイト。壁全面の化石は、貝またはウミユリでしょうか。写真中央付近に、巻き貝らしき化石。写真中央右は、ウミユリでしょうか。これらも、ウミユリか貝でしょうか。化石はすぐわかりますが、その特定はやや難度あり。私のコメントも、間違っているかもしれません。これは何の化石か、思案する。その楽しみがある場所でした。【記事のリンク】 【化石】名古屋の街中で化石探し(初級編1)【 化石標本6種セット 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.07.26
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にほんブログ村 名古屋市内の公園で、しばしば見かけるものがあります。シロクマ形公園名称板。名古屋市内の公園で、私達を出迎えてくれます。写真の名称板は、正木南公園。よく見かける名勝板ですが、写真撮影は初めて。皆さんもご近所の公園に出かけてみませんか?楽しい出会いがあるかもしれませんよ。【 名古屋 小倉トーストチーズケーキ 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.18
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キャベンディッシュの知名度は、日本ではまだ低い。1810年に78歳で亡くなるまで研究を続けながら、大半を未発表のまま。そのため生前の彼の業績は、ほとんどが陰に隠れています。彼への追悼の言葉が残っています。「ニュートン以来の偉大な天才を失った。 そして彼の業績は、現在よりも未来において高く評価されるだろう。」彼の死後に判明した業績は偉大です。地球密度の測定と万有引力常数の測定。オームの法則を先行して発見、クーロンの法則を先行して発見。水素の発見、水が化合物であることの発見、大気組成の定量化。ヒ素の合成、硝酸合成、水蒸気圧の測定、水溶液の電気伝導性の測定など。後世に発見された数多くの法則を、彼は発見しながら未発表のままでした。そのために、オームの法則、クーロンの法則などは、その発見が遅れることになります。高精度の実験データの測定が、彼の特技でした。しかし極端な恥ずかしがりやと女性嫌いで、人を避けていました。生まれつき、高い社会的な地位に恵まれた彼。そのために、研究成果を発表して、名誉を求める必要はありません。父親からの膨大な財産に恵まれた彼。生活費の心配なく、高価な実験装置に囲まれて、研究に没頭できました。あまりに余裕がありすぎて、研究は彼の趣味でしかなかったのです。そのため彼の研究業績は、後世まで歴史に埋没していたのです。幸せすぎる環境は、むしろ人を不幸にします。今を変えたいと思う気持ち。それは、人が社会的に生き続けるために必要な気持ち。そして、私たちを苦しめる不幸。それは幸福への案内状なのです。
2008.02.10
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にほんブログ村 「高見彰七がいきなり大手建設メーカと手を組んで、 大観音建立というビッグ・プロジェクトに携われたのはなぜか?」「高見彰七調査隊」の皆さん、謎は解けましたか?コメントでは、かなり良い御推理がされていたかと思います。それでは、謎の答えです。〇観音像の建つ場所について 愛知池は恵日山青峯山観音寺の土地の一部を 買収して造られた巨大な人工池です。 池の造成で観音寺の私有地が、池の中に小島として残りました。 しかし池の中の小島を私有地とするのは、 将来、池の拡張の支障となるため、 池の外に観音寺の管理地が移されました。 現在、観音像はこの移転地に建てられ、 小島は野鳥の巣となっています。〇なぜ観音像は建立されたのか? 調査隊の皆さんのコメントにもありましたが、 愛地池の造成はビッグプロジェクトでした。 その工事の際に事故で亡くなられた方がおられ、 その供養のために観音像が建てられることとなったそうです。〇なぜ観音像の作家として高見彰七氏が選ばれたのか? 昭和35年の愛知池の観音像建立の頃、 高見彰七氏のご自宅前には250体の観音像が並び、 観光バスが来るほど有名になっていました。 高見彰七氏は観音像の作家として、 愛知池近隣でも知られていました。 そのため観音寺を通じて、愛知池の犠牲者の供養のために 高見彰七氏が大観音像を「寄贈」されたとのことです。 観音像は発注されたのではなく、高見彰七氏の「寄贈」でした。〇高見彰七氏と建設メーカとの関連は? 高見彰七氏は観音像を寄贈し、建設メーカが設置施工しました。 高見彰七氏と建設メーカの間に、 特に関連があったわけではありません。若干、複雑でしたが、如何でしょうか。観音像は「寄贈」という点がポイントです。今後も「謎」に関しては推理形式を採ることがあると思います。謎解きをお楽しみください。【 バスクチーズケーキ 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.11.23
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猫に関することわざで、あまり使わないことわざを見ましょう。「猫が肥えれば、かつおぶしが痩せる」 物事は両立しないということ。「猫の魚辞退」 長く続かないこと。「猫を追うより皿を引け」 物事の原因から直せということ。「猫の前の鼠の昼寝」 危険が迫っているのに気づかないこと。「たくらだ猫の隣歩き」 よその家のことばかりをして、自分の家で何もしないこと。「猫の歯に蚤」 猫が歯でノミを捕ろうとしても、なかなか捕まらないこと。 ほとんど成功しないこと。「猫またぎ」 猫がまたいで通るほど、まずい魚。「猫に紙袋」 猫の頭に紙袋をかぶせると、後ずさりすること。 尻込みすること。「猫も茶を飲む」 分不相応で、なまいきなこと。使わないことわざ、まだまだあります。最近は紙袋好きの猫も多くいますし、かつおぶしが減るのは仕方がないですね。お茶を飲んだだけで、なまいきと言われる猫もかわいそう。隣歩きをする猫も減り、猫も屋内ですごすようになりました。でも、残念ながら、猫は自宅の屋内にいても、とくに仕事はしないようです。
2013.09.06
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愛知県の五色園は、心霊スポットとしても知られています。それだけに、ちょっと怖さがある場所でもあります。特にそれは、先に紹介した「箱根権現御饗応」像からさらに奥に進むとわかります。樹木の間を暗い谷に降り、また登ります。道の除草もあまり良くなく、この道でよいか不安になります。丘を登り、明るい場所に出ると、突然に塔が現れます。そして、振り返り進むと拝殿らしき建物。相当に痛んだ様子。撮影時、何が水平が分からなくなりました。拝殿の脇を進むと六角堂があります。この六角堂の内部にも、浅野祥雲のコンクリート像があります。しかし普段は見ることができません。この場所にしばらくいると、不安になってきます。ただ、それは心霊スポットの”なにかいる”不安ではありません。”だれもいない”という”遭難しそう”な不安です。地図でほとんど人が来ない道を、白く示しました。この場所であれば、すぐに”遭難感覚”を体験できます。この他にも、地図にない道や像が多くあります。注意なのは、六角堂の場所。地図では黄色丸で示されていますが、実は橙の場所にあります。メインの通りを外れれば、遭難の恐怖が待つ五色園。霊感の強い方は、ヒト以外の”なにか”にも出会えるかもしれません。来場者を飽きさせない五色園。みなさんも、いかがでしょうか?【日記1】 「魅力的なコンクリート像 ― 五色園 ―」【日記2】 「夏は厄介です ― 五色園2 ―」【日記3】 「踏みつけては駄目です ― 五色園3 ―」【日記4】 「迷う道で救いの手が ― 五色園4 ―」【楽天商品: 遭難防止】
2020.01.13
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にほんブログ村 江戸時代、淀川に謎の幻獣が出現しました。その名は「豊年魚」。豊年魚が現れると、豊作になると言います、豊年魚は吉報を告げる幻獣。その姿は……。(画像出典: 東スポWEB)魚とは思えない、その姿。その正体は、皆さん、お分かりですね?そうです。ゴジラは、江戸時代から生きているのです。【 ゴジラ・キングギドラ 芋焼酎セット 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.09.23
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にほんブログ村 リンク集更新 2024年10月10日掲載数 計106体●【リンク集1「神馬」編】 掲載数7体 「高見彰七 神馬編」●【リンク集2「観世音菩薩」編】 掲載数36体 「高見彰七 観世音菩薩編」●【リンク集3「その他」編】 掲載数6体 「高見彰七 その他」●【妙楽寺の仏像群】 掲載数57体 「妙楽寺」 「妙楽寺 追記」●【年表】 「高見彰七 製作年 (年号記述があるもののみ)」●【高見彰七氏とは?】 「高見彰七の真実1」 「高見彰七の真実2」 「高見彰七の真実3」 「250体はなぜ消えた?」皆様のおかげで、リンク集が充実してきました。これからも情報をよろしくお願いします。【 幻のチーズケーキ 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.12.16
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にほんブログ村 愛知県の愛知池にある大観音。この大観音は、私にとって大きな謎でした。作家 高見彰七、施工 鹿島建設㈱の大観音。昭和35年、仏像製作10年の農業が専門の彰七が、いきなり大手建設メーカと協業できたのはあまりに不自然です。如何にして、大観音建立のプロジェクトを任されたのか?大手建設メーカと、どの様な縁があったのか?考えるほど、謎が深まります。今回、この謎も解明できました。しかし、すぐに答えを示すのも、楽しみがないでしょう。みなさんも、「高見彰七調査隊」の一員として、ぜひこの謎を推理なさってください。推理のお題は、「高見彰七がいきなり大手建設メーカと手を組んで、 大観音建立というビッグ・プロジェクトに携われたのはなぜか?」です。答えは次回の記事で掲載します。【 冬のぶどう 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.11.20
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にほんブログ村 愛知県東郷町の傍示本御嶽講社。御嶽社にありがちですが、この神社も分りにくい場所にあります。交通量の多い県道57号線がかすめる様に通る狭い入口。深池という名の交差点近くにありますが、Google map等では、この神社は簡単には表示されません。当然、駐車場はありませんので歩きましょう。傍示本御嶽講社には、高見彰七のコンクリート像があることで知られています。台座に右から左へ「法徳霊神」と書かれています。服の皴は表現されていますが、手の造りはラフです。背面も正面と同等の造りです。この像には、珍しく銘があります。右から左へ「高見彰七作」と書かれています。年号も書かれています。「昭和三十三年一月」と読めました。宮口神社の神馬と同じ製作年です。表情をよく見ましょう。いつも思いますが、高見彰七は人物像はあまり上手ではありません。一方で、高見彰七が作る神馬やお狐様は愛らしい。高見彰七は、動物好きだったのかもしれません。**************【傍示本春日神社の白い仔馬の神馬について】先の日記で紹介した白い仔馬の神馬がある傍示本春日神社は、この傍示本御嶽講社と県道57号線を挟んで、隣接しています。また、傍示本春日神社の境内にも、御嶽社があります。後日、Google mapで検索すると、御嶽社は傍示本春日神社の位置で表示されます。推定ですが、後年にできた県道で、傍示本御嶽講社が分割されたのでしょう。この傍示本御嶽講社の関連から、傍示本春日神社の仔馬の神馬像も高見彰七の作品と推定したのでした。「高見彰七の神馬」●【傍示本春日神社】 「東郷町の仔馬の神馬 製作年不明」●【八幡社】 「豊田市 八幡社の神馬 昭和20年10月製作」●【福田神明社】 「みよし市 福田神明社の神馬 昭和31年3月製作」●【宮口神社】 「豊田市 宮口神社の神馬 昭和33年10月製作」●【米野木神明社】 「日進市 米野木神明社の神馬 昭和36年10月製作」●【八柱神社】 「豊田市 八柱神社の神馬 昭和41年4月製作」【 栗千本 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2021.10.24
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にほんブログ村 名古屋の中心部で化石探し、第5回目。地下街や百貨店での化石探しは、人目が多くて恥ずかしい。そういうあなたのために、今回の場所をご紹介します。場所は、栄・オアシス21の北隣。栄大野ビル1Fロビーが、今回の化石スポットです。【栄大野ビルでの化石探し】 〇探しやすさ: ★★★★★ 〇化石数: ★ 〇アクセス: ★★★ 〇人の往来; ★★★★★美しい化石をご覧ください。石材は、モロッコ産石灰石「フォッシルブラックマーブル」です。実はこの化石、ロビー1F左に写真の状態であります。そのため、探すまでもなく、誰でも見つけられます。無人のロビーですので、ゆっくり撮影できます。本当に綺麗な化石です。街中化石探しシリーズも、5回連載しました。名古屋の街にはまだ多くの化石はありますが、ここで一区切りとしましょう。次の連載は、あれば冬休み特集でしょうか。いつもと違う話題の”夏休み特集”。夏休み向けの話題(と本人は思っている)はまだ続きますので、ぜひお付き合いください。【記事のリンク】 【化石】名古屋の街中で化石探し(初級編1)【記事のリンク】 【化石】名古屋の街中で化石探し(初級編2)【記事のリンク】 【化石】名古屋の街中で化石探し(初級編3)【記事のリンク】 【化石】名古屋の街中で化石探し(初級編4)【 ”アンモライト”は、アンモナイトがオパール化した宝石 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.08.01
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にほんブログ村 愛知県豊田市 八王山 春光院の観音像の注目点をご紹介します。(1)失われた首飾り春光院の観音像も首飾りをしています。ただし他の観音像の様に2重の首飾りではありません。その特徴としては、首飾りのペンダントが取れていることがあります。渡刈町の与次の観音像は写真の様に、円い飾りが付いています。「渡刈町 『与次』観音像」当初は渡刈町の様なモルタルの飾りが付いていたのか、それとも別の象嵌風の飾りが貼りつけられていたのか。あまりに綺麗にはがれています。モルタル以外の飾りの貼り付けの可能性を感じます。(2)消えた作家銘?観音像の背面右下に、違和感のある模様が見えます。次の様な作家銘の可能性はないでしょうか。作家銘を示す長方形の縁取りと「七」の文字が見えませんか。参考に、今は亡き宮口神社の神馬にあった高見彰七の作家銘を示します。「七」がよく似ていませんか。春光院の観音像は、作家銘の上半分が補修用のモルタルで消されている様に見えます。「与次=高見彰七の弟子」に加えて、「与次=高見彰七」の可能性も高まった様に思います。はたして「与次」とは誰でしょうか。いささか「見たいものが見える」、心霊写真的な要素がありますが、もし作家銘ならば、「与次」の重要な手がかりにもなるかもしれません。【前の記事】 「春光院 1」【 活性炭アニマル置物 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.10.09
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にほんブログ村 茨城県の八溝山、八溝嶺神社の神馬。はたして、これは愛知から最遠方にある高見彰七の神馬でしょうか。通常の神馬は駆ける姿で造られます。しかし高見彰七の神馬は、四つ脚で立つ静止した姿であるという特徴があります。おそらくコンクリート像の劣化による破損を避けるためでしょう。神馬に限らず、高見彰七の作品は破損を避ける造形がなされています。たてがみ、尾の造形など、八溝嶺神社の神馬は高見彰七の神馬によく似ています。しかしこれだけでは判別できません。そこで、さらにネットで別の画像を探しました。(画像出典: 「YAMAP」 )神馬の正面からの画像で、正面から見るとひび割れがあります。この神馬は石像ではなく、コンクリート像の可能性がありそうです。ただし神馬の顔つきが、高見彰七の神馬にしてはシャープです。また、正面からは銘板も読めます。拡大しましょう。奉納者が常陸屋商店であることと、店主のお名前があります。年号は「昭和五十五年」あるいは「昭和三十三年」と読めます。高見彰七の年表で確認しましょう。昭和三十三年であれば、まさに高見彰七の活動期です。一方、昭和五十五年の場合は、移設された可能性が出てきます。そう悩んでいましたが、下記のネット情報で昭和五十五年奉納と分かりました。もし高見彰七の神馬であれば、移設となるでしょう。 【奉納年の情報: 「茨城見聞録」 )残念ながら、高見彰七の神馬であるという確証を持つには到りません。可能性はあるとは思いますが。今後、新たな情報が待たれます。またネット調査の中で、八溝嶺神社近くに別の神馬も見つけました。次回、こちらも紹介します。【 栗秋山 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.10.17
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にほんブログ村 今回ご紹介する新発見の高見彰七作品は、重要な意味を持っています。民家の敷地内にありますので、詳細は省かせて頂きます。撮影許可などを頂いての画像掲載となります。まずはご覧ください。一見して高見観音とわかります。ただ服装の表現などが、多くの高見観音とは異なります。微笑みは少なめで、お顔も下膨れのふくよかなお顔ではありませんが、高見観音で見かける表現です。実はこの観音像、高見彰七作品であって、高見彰七作品ではありません。今までこの作風の観音像も含めて、私は高見彰七作品としてきました。しかしこれは、「高見正美」氏の作品です。高見正美氏は、彰七氏の御子息に当たります。高見彰七氏と正美氏の親子は、時に協同で作品の製作に携わった様です。今回ご紹介の観音像は、高見正美氏単独での作品例です。思えば高見観音を私が4分類に整理した時、第2分類の観音像の作風は一定ではなく、その理由に悩んでいました。もちろん製作活動での試行錯誤と捉えることはできますが、彰七氏と正美氏の両者の手が加わっていたということであれば、より納得ができます。【第2分類】 「高見彰七作品 第2分類」いずれにしても「高見彰七としていた人物はふたりいた」というのは、私にとっては衝撃の新事実でした。まずは従来通り、高見彰七作品リンク集2「観世音菩薩像」にNo.29として登録します。リンク集2 (No.29) ・所在地: 豊田市 民家 ・製作年月: 不明 ・作家銘: なし, 高見正美作品 ・特徴: 高さ120cm, 胸部幅25cm, 胸部厚さ15cm今後、リンク集を活用して、明らかに高見正美氏の作品と判明した作品があれば、その旨を表記したいと思います。次回はさらに新発見の作品の紹介をしつつ、また別の重要な情報をお伝えしたいと思います。【 福寿柿 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.11.15
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にほんブログ村 しばらく遠方に出ていました。その間にX(旧Twitter)を見ていて、興味深いものを見つけました。それは高見彰七作品によく似た神馬です。場所は、茨城県の八溝山にある八溝嶺神社です。写真は 「ツネツネツネ」さん の許可を頂いて転載しています。如何でしょうか。四つ脚で立つ姿、たてがみ、尾の造形など、高見彰七の神馬によく似ていないでしょうか?ネットで別の画像を探しました。(画像出典: 「CROW'S CLOW」 )高見彰七の神馬に比べると、やや細身の神馬です。高見彰七作品の様な、違う様な……。また別の方の画像から。(画像出典: 『栃木発「ちゃりあん」ブログ2』 )やや小柄な神馬らしい。高見彰七の神馬と酷似した台座には、銘板が見えます。もし茨城県での発見となれば、愛知から最遠方での発見例。真贋が気になります。さらに調べると、別の方の画像で銘板も解読できました。それをご紹介しつつ、次回はこの神馬の謎解きを試みます。【 秋の味覚 食べ比べ 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.10.15
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にほんブログ村 高見彰七について、幾つもの新情報が得られました。その中には、すべての前提をくつがえす、驚愕の新情報もあります。私自身、大混乱で、なにからお伝えすべきか迷います。情報を整理しつつ、まずは新発見の高見彰七作品からご紹介したいと思います。新発見の作品にも、皆さん驚かれることでしょう。そして新情報は、謎を解くことにもなりますが、さらなる混乱を生むことにもなります。次回以降の記事にご期待ください。【 ショコラクリスタル 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.11.09
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にほんブログ村 今回以降お伝えするのは、高見彰七のご親族3名の方からのヒアリング結果です。最も御詳しい彰七氏の御孫さんにたどり着くのにやや手間取りましたが、皆さん丁寧にご対応下さり、ヒアリング継続中です。まず、新情報1件目です。高見彰七の活動期間が判明しました。80歳で他界されましたが、79歳まで製作活動を続けていました。活動期間を年表で整理します。没年、昭和45年。製作活動は、昭和25年から44年の19年間。この期間に、あれほど多数の作品を製作されたわけです。しかも当初は木彫りの仏像を製作していましたので、コンクリート像の製作期間は更に短くなります。ここで奇妙なことに気付きます。没年以降に建立された観音像もありますが、これは移設でしょうか。実はそこには驚愕の新情報が隠されていました。そのお話は次回以降でお伝えします。【 かぼちゃ バウム 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.11.13
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にほんブログ村 今回も民家敷地内の観音像を、撮影許可を頂いて紹介します。背景などはAI処理、トリミングしていますので、違和感がある箇所もあるかと思います。やや経年を感じさせる風化が進んでいます。お顔もややわかり難くなっています。高見彰七作品リンク集2「観世音菩薩像」にNo.30として登録します。リンク集2 (No.30) ・所在地: 豊田市 民家 ・製作年月: 不明 ・作家銘: なし ・特徴: 高さ105cm, 胸部幅30cm, 胸部厚さ20cmこの観音像には像の前面/背面の境界に、縦に明瞭なヒビ割れがあります。高見観音の製法は、1)前面,背面を別々に半割りの像として作り、2)その後、前面,背面を接合して一体化して立像としたということが、ご親族の情報から確認できました。観音像の観察から推定していた「半割り接合製法説」は正しかったことがわかりました。半割りであれば接合面を下にして、像を造形できます。一方で、接合面が弱く、ヒビ割れなどの劣化が進み易くなります。モルタルを使いコンクリート像を作ることは、一見、容易なようで、実際は難しいことがよくわかります。【 元祖 くず餅 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.11.18
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正月早々、風邪で寝込んでいましたが、復活です。ゴロゴロ寝込んでいると、西部劇で風で転がるタンブル・ウィードを思い出しました。タンブル・ウィードは、いつも風に吹かれて転がっているわけではありません。秋に実が熟すると、種をばらまくために茎が折れて転がるのです。”西部劇の草”のイメージですが、アメリカにとってタンブル・ウィードは外来種。本来はアフリカとユーラシアに生育し、アメリカには1877年に持ち込まれました。タンブル・ウィードがアメリカに広まったのは、早くても西部開拓時代の終わりでしょう。(※画像出典:http://karapaia.com/archives/52117483.html)タンブル・ウィードが多数転がり、交通の障害になることもあるようです。下記の動画では、自動車がタンブル・ウィードを押しのけながら進んでいます。どこの国でも、動植物の外来種は困りものですね。
2018.01.13
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遺跡の発掘は、考古学や地元を愛する愛好家に支えられています。炎天下での、長時間の発掘。土と汗にまみれる地道な作業は、多くが愛好家によるボランティア。宮城県の中学美術教員、遠藤智一さん。遠藤さんも自分の時間を割いて、発掘を支えた民間愛好家。発掘の案内に、現地説明。頭に手ぬぐいを巻き、黙々と、でもうれしそうに、発掘を続けていました。考古学の愛好会「談話会」を結成、発掘を進める遠藤さん。特に愛したのは、1949年の岩宿発見より前に、自力で石器を発掘していた、座散乱木遺跡の調査。得意の絵で、太古の復元図を描く遠藤さん。座散乱木遺跡は、遠藤さんが愛し、生涯をかけてきた遺跡。やがて、遠藤さんの努力も実ります。座散乱木遺跡は、宮城県で数少ない旧石器時代の遺跡として知られます。しかし、その知名度の高まりが、災いを招きました。東北旧石器文化研究所の藤村新一氏。藤村氏は、この座散乱木遺跡を利用しました。自らこの遺跡に石器を埋め、それを「発見」する藤村氏。藤村氏は、後にゴッドハンドと呼ばれた、石器捏造の主犯者。「研究所の人は、ぼくたち愛好家とは違うな」発掘を愛し、楽しむ遠藤さんは、成果を挙げる藤村氏をそう評し、信頼していました。しかし、2000年11月、藤村氏の石器捏造が発覚します。そして、座散乱木遺跡は、捏造遺跡の代表として報道されました。藤村氏の捏造の、さらに前から知られていた遺跡にも関わらず。生きがいを、数十年もの努力を、踏みにじられた遠藤さん。遺跡の「無実」を晴らそうと、それからも座散乱木遺跡に通いました。無念の時が過ぎ、2001年11月、捏造発覚から1年後。自転車の横で、倒れていた遠藤さん。遠藤さんは、その翌日、帰らぬ人となりました。いつものように、自転車のかごには、軍手と小さなスコップ。いつものように、発掘用の長靴を、はいたままの姿で。翌年、座散乱木遺跡の史跡指定は、取り消されました。その他にも、遺跡取扱い廃止は142遺跡にも上りました。ある人は、責任を問われ、将来を閉ざされました。ある人は、無関係な遺跡の捏造を疑われ、自死で抗議を示しました。ある人は、病床で生涯を捧げた発掘の捏造を知り、涙を流しながら帰らぬ人となりました。35年間続いた捏造で、すべてが無に帰してしまいました。【参考】 岡村道雄,旧石器遺跡「捏造事件」,山川出版社,2010年,245P
2011.07.04
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今日は鬼がひょろつく、上野天神祭。上野天神祭は三重県伊賀市のお祭りです。私はこの後、切り捨てられました。(嘘)詳細は明日の日記で。【楽天商品】
2019.10.20
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愛知県東浦町の小さな御堂、地蔵堂。ここには、「沢瀉(おもだか)の井戸」と「うなり石」があります。「おもだかの井戸」は、緒川城主 水野家の家紋の由来となった井戸。水野家は、徳川家康の親族です。「おもだかの井戸」3代緒川城主 水野清忠。ある年、その奥方が子宝祈願で地蔵堂に参拝しました。満願の日を向かえた日、奥方は井戸を見ました、すると、井戸の水面に、永楽銭が乗ったオモダカが浮かんでいました。その後、子宝に恵まれ、永楽銭とオモダカを水野家の家紋としたそうです。「水野家の家紋(一例)」 (家紋の出典: https://folklore2017.com/kamon/036.htm)「うなり石」この石は、もともと緒川城にあり、不気味なうなり声を出していました。そこでこの地蔵堂に移すと、唸り声をあげなくなりました。何を思って、この石は唸っていたのでしょう。(ロケーションの注意)写真のとおり、この地蔵堂は狭くて小さな御堂。写真右の細い道沿いにあり、駐車スペースもありません。写真はわずかなスペースの後端まで下がって、何とか撮影しました。写真以上に右の道は狭く、上り坂。私も徒歩でしたが、御参拝は徒歩をお勧めします。・・・・・・・・・・・・・・・・【 ストレス解消キューブ 】 にほんブログ村
2021.02.16
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岡山県岡山市の最上稲荷山 妙教寺の仁王像の背面。そにも福崎日精の白狐像が2体あります。白狐「阿」金色の仁王像に対して、白狐は銀色です。白狐「吽」台座には「奉献 株式会社 寿屋 鳥井信治郎」とあります。鳥井信治郎氏は、サントリーの創業者。株式会社 寿屋は、サントリーの旧社名。最上稲荷はサントリーの地元にはありません。それでも信心深い鳥井信治郎氏は、白狐を 奉献されたようです。鳥井信治郎氏は1879年生まれ。福崎日精氏は1905年生まれ。仁王像と白狐像が仁王門再建の1958年とすれば、鳥井氏は79歳、福崎氏は53歳。円熟の期にあった福崎氏に、鳥井氏は信仰心の具現化を託しました。仁王門再建の4年後、鳥井氏は他界しました。そして作品を残した福崎氏は、仁王門再建の8年後、61歳で他界しました。神社仏閣の境内を見回せば、様々な人の生き様の一端を伺うことができます。・・・・・・・・・・・・・・・・【 狐 法被 】 にほんブログ村
2021.02.20
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にほんブログ村 茨城県の八溝山には、日輪寺という寺院もあります。こてらは八溝嶺神社からも近い様です。ネット情報で、日輪寺に下記の画像がありました。(画像出典: 「Laugh and grow fat」 )親子の神馬で、八溝嶺神社とイメージが違っています。シャープな造形で、コンクリート像(モルタル製)ではなく、石像の可能性も出てきます。はたしてこれらの神馬は、高見彰七作品でしょうか?【 ねんりん屋 バウムクーヘン 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.10.19
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にほんブログ村 愛知県 鞍ヶ池公園東の矢並町にある八柱神社。その八柱神社の神馬の続きです。この神馬には台座がありません。しかし銘板があります。昭和29年と読めます。その横に書かれているのは、奉納者のお名前です。神馬のお顔、たてがみ、尾、脚の造形や大きさから、高見彰七作品で間違いないと思います。調査中、地区の方にお会いしました。神馬は昨年(2023年)に再塗装したばかりで、まさにお会いした方が再塗装されたそうです。地区の方には製作年などのご確認をお願いしました。少し時間はかかるものの、町内会の折に記録を確認くださるそうです。記録でも製作年が昭和29年であれば、製作年を登録します。その場合は、みよし市の大狐像より古く、製作年が判明したものでは、最古の高見彰七作品となります。(みよし市の大狐像は昭和31年2月建立)地区の方には、永くこの神馬を保存くださるようにお願いしました。また、かつて道路沿いにあった250体の高見彰七作品は地区の方もご存知で、当時は有名だったとのことです。ところで、この矢並八柱神社の神馬を見ていて、あらためて先日の茨城県 八溝山の神馬がよく似ていると感じました。八溝山の神馬についても、もう少し検討したいと思います。【 レゴ 名馬8体セット 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.11.02
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にほんブログ村 浅野祥雲と1歳違いで同世代だった高見彰七。それなのに知名度がある浅野祥雲に比べて、高見彰七が忘れ去られてしまったのはなぜでしょうか?むしろ、作家銘すら残さないコンクリート像作家が忘れられるのは自然なことだと私は思います。浅野祥雲の知名度の高さが特殊なのです。そこで、なぜ浅野祥雲の知名度が高いのかを考察したいと思います。以下はその理由と思われる点です。1)浅野祥雲の作品は、多色に塗装された作品が多い 多色に塗られた人物像は表情がユニークに見えます。 そのため、テレビ番組でも取り上げられました。 一方、今日残る高見彰七の観音像は大半が塗装が残っていません。2)浅野祥雲の作品は、まとまって観られるスポットがある 関ケ原ウォーランド、五色園、桃太郎神社などでは、 浅野祥雲の作品をまとまって観ることができる。 高見彰七の作品は基本、分散している。 妙楽寺の58体は廃棄を免れているにすぎない。3)大竹敏之氏の貢献が大きい 大竹敏之氏は浅野祥雲について詳細に調べ、 書籍を出版されています。 様々な浅野祥雲のPR活動を行い、さらに五色園の浅野祥雲作品の 定期的な再塗装活動もしています。 これらの活動は浅野祥雲の知名度向上に 大きく貢献していると思います。実は私も以前に、大竹敏之氏が説明役の五色園見学会に参加しています。その際に私は大竹敏之氏の著書を購入して、サインも頂いています。マニアックな見学会で参加者も限られていました。Xで私のコンクリート像関係の投稿に「いいね」を下さる方の中には、あの時の見学会の参加者もおられるのでは?と思ったりもしています。【 浅野祥雲大全 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.11.07
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