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昨日、広島で美味しいと有名な蕎麦屋(手打ちのです)に行った。 美味しかった。しかし、正直な話、他の蕎麦屋との差というものは全然わからない。 ざるそばというシンプルな料理のおいしいまずいが、はっきりでるもの なのだろうか? スーパーの茹でそばを出されたらわかるかもしれないが。 いや、わからなかったりして。 恥を忍んで言うなら、僕が、美味しいと思う蕎麦屋の条件は、 一枚でお腹が一杯になることと、つゆがたっぷりあることです。 粋じゃないなぁ。
2009年02月15日
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山本兼一「利休にたずねよ」を読んだ。 美に対して妥協せぬこの小説の利休は僕のイメージに合ったものだが、 小説の最後のほうになってくると(話は利休の切腹から、時間を遡っていく) はっきり言って ? なのだ。 「人の命をなんとも思わぬ紹鴎に呆れるしかなかった」って。 僕が思うに、薬を飲めなかったほうが、かなり呆れる。 今後の人生で出会う‘美’のために死にきれなかったと言うんだろう。 彼女が可哀想だ。 それから、 諸星大二郎「西遊妖猿伝・西域篇」連載、もう終わった。 まさかこんなに短い連載だったとは・・・
2009年02月12日
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今日も、前回に引き続いて「永すぎた春」について。 とはいえ、日本語としての「永すぎた春」について。 「永すぎた春」は、「永すぎた春に終止符を打って」のように使われる。 これが、よく分からない言い回しなのだ。 なんとなく、「男女が長く付き合った末、結局別れてしまった」という 意味合いで使われると思ってはいるのだが、「いろいろな危機を乗り越え結ばれる」 場合にも、使われることもあるような、ないような・・・ 辞書にも載っていない。 ネットで調べると、「結局別れた」の方が、分がいいようだ。 しかしちなみに、三島由紀夫の「永すぎた春」は、最終的に強い絆で結ばれる ハッピーエンドである。 ある人が、「永すぎた春」に続く言葉で意味が違ってきます、と書いてたが、 「永すぎた春に終止符を打つ」という言葉自体が、日本語の慣用句として 認められてないのだろうか?
2009年02月10日
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今日、ある小説を読み終えてちょっとして、図書館から「予約していた本が 入りましたからお越しください」と電話があった。 なんかグッドタイミングでよろしい。 予約していた本は以前のブログにも書いた山本兼一「利休にたずねよ」。 まだ、読み始めたばかりだが、評判通り面白かったらうれしい。 読み終えたのは三島由紀夫「永すぎた春」。 三島のどの小説を読んでも思うのだが、登場人物たちはよそ見していたら 見逃しそうな相手のちょっとしたしぐさ、喋った言葉、話の語尾の微妙な 違いを感じとり、自分に対する感情が変化したんではなかろうかなどと、悩む。 そんなに、他人のやることなすことに一喜一憂していたら疲れるんじゃ ないかと思うほど悩む。 そこが、三島作品の魅力には違いないとは思うのだが。 やはり作品とは作家の心の反映だと思うので、三島由紀夫という人は 恐ろしく繊細な人だったんだろうと思う。 三島作品を読むと、他の作家の作品など読まなくていい、三島作品だけ 読んでいればこと足りるなどと思ってしまう。 実際そんな事はなく、浮気などしてしまうのだが、帰る場所はやっぱり ここだな、などと思っている昨今である。
2009年02月08日
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一年半ぶりくらいに、歯医者に行った。 虫歯の有無の検査と、歯石を取ってもらいに。 虫歯は無しで、一安心。 歯石を取ってもらったことあります? 僕は、特に下の前歯の並びが悪いので、ここの裏に歯石がたまりやすい。 奥の歯の間もきれいになって、してもらってすぐは、ご飯のような柔らかいものも はさまって、びっくりします。 歯石取りは、1年に一回はしたほうがよいとのこと。 歯磨きの常識も、昔とはかなり変わってるようです。 たまには、あのウィ~ンっていう機械音を、聞きに行かれてみては?
2009年02月05日
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デアゴスティーニ(片仮名で書いたらなんか変だが)の「週刊 安土城をつくる」は なかなか興味をそそる。しかし、買おうとまではいかない。 こういうパートワーク(というらしい)のシリーズで、一番知りたいこと、 それは、全何号で完成するかということじゃなかろうか? そのことを、テレビCMでも言わないし、実物を本屋で手にとっても 大きく書いてない。探すと、ひっそり書いてある。 こういうシリーズは、だいたいそうだ。 そのあたりの心根がいやだ。 ちなみに、「週間 安土城をつくる」は、全110号だ。2年以上だ。総額も結構いきそうだ。
2009年02月03日
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