NHK BSの番組「にっぽん縦断 こころ旅」投稿のつもりで書いてみました
正平さん、スタッフの皆さん、こんにちは。
私の心の風景は、宮城県女川町の旧女川第一小学校と、その校門前の石巻線ガードです。
半世紀以上昔のことですが、両親と三歳だった私、それに生まれたばかりの弟の四人家族は、父の勤めの関係で女川に引っ越して来ました。
お隣のおばちゃんや5歳年長のケンちゃんとはすぐに打ち解け、私は何の躊躇もなくお隣と自分の家を行き来するようになってしまいました。
おばちゃんは「お父さんはどこに行っているの」とか、
原発も建設される前で、漁業とその関連事業を生業にする人が大半の小さな町では、転入者に興味津々だったのでしょう。
でもおばちゃんとケンちゃんはとても親切で、新しい隣人の生活を何くれとなく助けてくれました。
家から東に行けば港があり銀行や商店が並んでいました。しかし私たちの女川第一小学校はその反対、西に向かって国道を数十分歩かねばなりません。学校の正門前に石巻線のガードがあり、そこだけ国道の幅が狭まる危険な通学路でした。
小学校4年の夏休み明け、弟と登校時にこのガードに差し掛かったときです。大きな車が前方から迫り、弟を避けさせようと体を掴んだところ、その途端に弟は転んでしまいました。
折悪しく私が弟の学用品を持ち、弟は私の夏休みの工作を持っていたため、その工作の作品は潰れてしまったのです。学校で修理はしましたが元通りにはならず、なんともみじめな気持ちで夏休みの宿題を提出しました。
そんな思い出を残し5年生の時、この学校から転校しました。それ以来女川には行っていません。車で2時間も走れば、いつでも懐かしい街に行けると思っていたのです。
あの日までは。
そう、2011年3月11日、街も思い出の場所もすべて破壊されてしまいました。消え行く街がTVに映し出される度に、息を飲み戦慄しました。私の家は海岸から500m近く離れ、きっとそこまで津波は到達していない、そう信じたかった。
被害が明らかになるにつれ、予想以上に津波が内陸まで到達していたことを知り、友達の消息も怖くて聞けませんでした。
街に復興の槌音が響き始めた頃、風の便りでとなりのおばちゃんもケンちゃんも帰らぬ人となったことを知りました。海も見えず、津波の襲来に気付かなかったそうです。
女川第一小学校の校庭に仮設住宅が建ったのをTVで見ました。校門の映像にはあのガードも写っていました。この地区だけでも残ったのがせめてもの救いです。
正平さん、校門前のガードをちょっと見て来てくださいませんか。そしてその先に進む勇気が出ない私の背中を、少しだけ押してくださいませんか。
宮城県仙台市 ○○ ○○子 5さい✙α

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