真理を求めて

真理を求めて

2004.02.15
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憲法の問題を考えるとき、それを具体的に変えるかどうかを考える前に、「憲法とは何かについての基本的理解」というものを考える必要があるのではないかと僕は感じている。これは、宮台真司氏が書いているのだが、「残念ながら私たち日本人の多くは理解を欠いているからだ」ということを僕も感じるからだ。

宮台真司氏のこの文章は次のところへ行くと全文を読むことが出来る。

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=80

今日は、この文章を元に、憲法を考える入り口のところを考えてみたいと思う。宮台氏はまず次のように主張する。

「第一に、憲法が統治権力への命令であること。詳しく言うと、(1)憲法が国民から統治権力への命令で、(2)法律が統治権力から国民への命令で、(3)憲法が法律に優越するとは、国民からの命令の範囲内でのみ統治権力は国民に命令しうるということだ。」

これは、憲法は法律に優越するのであるから、たとえ憲法に疑問があろうとも、それを解釈によって読み違えて憲法に反するような法律を作ってはいけないということだ。憲法に疑問があろうとも、現行の憲法がある限りでは、憲法に従った法律のみが許される。憲法を越える法律を作りたかったら、まず憲法の方を変えなければならないと言うことだ。

イラク特措法への見方が、この原則を知った後ではかなり変わるのではないだろうか。憲法が、解釈で変わるものであれば、原則としての重みはなくなる。解釈はどうにでも出来るからである。解釈で憲法違反を疑われる法律を通してはいけないのだ。憲法に抵触する疑いがあるだけで、その法律はもう正当性を失うのだと考えなければならない。

憲法についての基本でもう一つ大事なのは、「憲法は憲法意思を参照して初めて意味を持つ」のだと宮台氏は語っている。これはかなり難しいことだと感じるので、宮台氏の次の言葉をもっとよく考えてみたい。

「憲法の文面によって国民がどんな意思を表明したのかが重要だ。その意味は二つある。例えば政教分離の規定は各国憲法に似た文面で規定されるが、それによって表明された国民の意思はまちまちで、ゆえに憲法解釈は国ごとに異なる。それが一つ。
もう一つ、憲法は国際条約と同じく「事情変更の原則」が通用しない。民法などと違い、事情が変わったので意思表明や合意が無効になった、ということがあり得ない。もしあり得たら大変だ。統治権力が「事情が変わった」と表明しさえすれば、何でも出来てしまう。」



憲法において、その意思が大事だというのは、「統治権力が「事情が変わった」と表明しさえすれば、何でも出来てしまう」ということが理由であることは納得できることだ。もし時代が変わり事情が変わったことに対応するとなったら、それは「法律」の範囲で行えばいいのであって、統治権力が憲法を勝手に解釈して対応してはいけないのである。なんでもやり放題だという前例を作ってはいけないのだ。

もし、その事情が憲法を変えるほどの大きなものであるという判断であれば、国民の意思として憲法を変えるという意思を確かめなければならない。宮台氏は次のように語っている。

「憲法においては「事情が変わった」かどうかを判断するのは国民で、そう判断したのなら国民が憲法(統治権力への命令)を変えねばならない。変えない限り憲法制定時に始祖が意思した本義は永久に不変だ。国民は文面ではなく当初の本義を参照せねばならぬ。」

僕もこれに同感だ。宮台氏は、ここで「憲法が国家への命令」であることと「事情変更の原則」の二つを語っているが、憲法を考えるときに、この二つの事柄はその入り口として合意しておかなければならないことではないだろうか。もしこのことが合意できないと、その後の議論がかみ合わなくなる恐れがある。「事情変更の原則」については、宮台氏は次のようにも付け加えている。

「「事情変更の原則」が通用しないのを知っているか。知っていれば、事情が変わったので当初吉田茂が認めなかった自衛権が認められるようになる、などあり得ない。」

イラク特措法によって自衛隊が「自衛のために」イラクに行くというのも、それは制定時の意思に含まれていなかったのであるから、当然憲法違反であるということが、宮台氏の論理からは出てくるのではないかと思う。これに対して同意できないとなれば、憲法論議に関しては、その入り口のところでまず議論をしなければならないのだろうと思う。

さて、ちょっと気になるニュースを眺めてみると、次のようなものが目に入った。

「北朝鮮経済改革は「本物」 核問題解決必要と米分析官
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040211-00000069-kyodo-int

僕は、こういうニュースを、感情抜きに論理的に醒めた目でとらえた方がいいと思っているのだが、感情的な反応をしてしまう世論があると、ここで判断を間違えないだろうかという危惧を持って、このニュースに注目した。経済改革が本物であれば、そこでは民主的な改革が不可避になるのではないかと僕には思える。資本主義というのは、本質的に民主主義が成立しないところでは成功しないと思うからだ。

そこで実現されるのは完全な民主主義ではないが、消費者としての自由意志が保証されないと資本主義として発展することは出来ない。何を売り買いするかを国家が規定していたのでは、本当に売れるものが出回ることがないし、質の高い製品に発展することもあり得ない。



ところで日本の方向だが、相変わらず世論も政府の方向も強攻策が基本になっている。しかしそれは、ほとんどなんの成果ももたらしていないのではないだろうか。日本がいつまでも強攻策という駆け引きにとらわれている間に、経済発展を軸とした方向へ問題が進んでいったら、日本はなんの手札もないままに交渉へ望まなければならない状況になるのではないだろうか。経済発展で恩を売っておいて、日本なしには先へ進めないという形を作る道もあると思うのだが、強攻策の方が見込みがあるという方向へいっているように感じる。

朝鮮民主主義人民共和国が日本との政府間交渉を持ちかけてきたのは、強攻策によって追いつめられているからだという解釈が政府にも世論にも多いような気がするが、それならば今回の交渉で少しは日本側の要求が通ってもいいと思うのだが、そのニュースは見あたらない。むしろ、従来の主張を相手側が繰り返しているというニュースを見るだけだ。これによって、朝鮮民主主義人民共和国がけしからんという感情的世論がもっと高まる可能性もあるけれど、僕には、強攻策の成果が何もなかったというふうにしか見えない。

外交において、相手国が、道徳的改心をして「すまなかった」と頭を下げることがあるのだろうか。相手は、どこまでも自国の利益のために最大限の努力をして動いてくると予想した方がいいのではないか。外交をするのなら、相手にどこまでの利益を提供して妥協をはかり、そのことによって自国の利益を見いだすというのが基本的な考え方になるような感じがする。損して得取れという感じだ。もしこのような妥協をはかる気がないのなら、結果的には武力による解決へ行かざるを得ないのではないだろうか。それが出来ない憲法を持っている日本が、最終的にはそれを望んでいるような動きをしているというのはおかしなことだと思う。

憲法の歴史をこれから調べてみようかな。





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最終更新日  2004.02.15 11:01:02
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