真理を求めて

真理を求めて

2004.04.15
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今朝もまた大きなニュースが飛び込んできた。イラクで、さらに日本人二人が拘束されたというのである。しかも、またしてもジャーナリストだった。そして、二人ともフリーのジャーナリストだった。

「<イラク>日本人2人がまた拘束の情報 外務省など確認急ぐ」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040415-00000164-mai-int

この二人に関して、やはり「自己責任」というようなことが言われているが、世論はかなりこの方向に流れているように感じる。「日本人人質事件が起きた後の小泉内閣の対応について、どう思いますか?」というヤフーのアンケートに関して、100点だと答えた人が最も多く34%を占めている。おおむね評価していると考えられる80点までの人を含めると56%の人が支持をしている。

このアンケートに関しては、次のところで見ることが出来る。

http://polls.yahoo.co.jp/public/archives/589105065/p-topics-43?m=r

逆に0点と30点という批判をする人は、33%になっている。この調査は、信頼できる世論調査のように、無作為に抽出したものではないので、そのまま世論の動向ということは考えられないけれど、積極的に声をあげる人の意見は、政府の対応を支持していると考えられるかもしれない。積極的な人たちの声がそのような方向だと、それに反対する声はますます表に出にくくなってくるかもしれない。

しかし、この「世論」の動向というのはちょっとおかしいのではないかと僕は感じる。世論というのは、どれくらい情報が与えられているかで大きく揺れるものである。重要な事実が知らされていて、その事実をもとにして判断しようとするなら、世論の動向というのは正しい判断の方向を選択することが期待できる。しかし、情報が制限されており、そこに操作されているということが感じられるときは、情報を操作する側に都合のいい世論が形成される可能性がある。

アメリカがイラク侵略に踏み切ったとき、世界中が反対していたのに、アメリカ国内ではそれを支持していた。アメリカでは、イラクへの侵略の面の報道がいっさいなされなかったからだろうと思う。



「中傷 家族追い討ち イラク邦人人質 匿名社会 陰湿さも」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040415-00000020-nnp-kyu

という記事を見ると、逆の意味での「表現の自由」が行使されているのを感じる。政府を批判する方の声は、「自己責任」という声でその表現を押さえつけようと言うことを感じるが、拘束された人質やその家族をバッシングする表現の方はやり放題という感じで、無法状態という感じさえ受ける。この記事では、

「十五日で発覚から一週間になるイラクの日本人人質事件。依然、解放の見通しは立たず、心労深まる三人の家族に、心ない中傷や嫌がらせが追い打ちをかけている。「自業自得だ」「自己責任で何とかしろ」―。励ましの声や折り鶴に交じって電話や手紙で届く非難は、大半が匿名か正体の分からない団体名のもので、“匿名社会”の陰湿さも浮き彫りにする。周囲からは「まるでいじめだ」と憤りの声が上がった。」

ということが報じられている。批判というのは、どのようなものでも表現の自由があると思う。しかし、それが責任あるものであるには、匿名ではなく責任を持った主体であることを表明する必要があるだろう。上に報じられているものは、内容的にも批判と呼べるものではなく、誹謗中傷と呼ぶべきものだろうと思う。

「嫌がらせもはや犯罪

 酒匂一郎・九州大大学院法学研究院教授(法哲学)の話

 家族に対する匿名の嫌がらせの電話はもはや犯罪に近い。家族が求めた自衛隊の撤退を「理由がない」とあっさりと拒否した政府の姿勢が、社会に対して、家族を攻撃する“お墨付き”を与えてしまったのではないか。背景に、個人よりも国家を優先する社会的傾向の強まりを感じる。」

という話では、政府の姿勢を問題にしているが、それをそのまま垂れ流して報道するメディアの責任も大きいのではないかと僕は感じる。「非国民」を作り上げて、それをバッシングする雰囲気を作ることは、表現の自由を守ることにはつながらず、やがては表現の自由を失う道につながるのではないか。かつての戦争の歴史はそれを教えているのではないかと感じる。

「会見でも謝罪が先行

 ジャーナリスト・大谷昭宏さんの話



大谷さんの意見に全く同感だ。今の報道の状況は、民主主義国家のものとは言えないのではないかと、僕も思う。民主主義国家なら、自衛隊撤退という意見も、言論の自由として、表明することは許されるはずだ。それに対して論理的に反論し、真っ当な批判をするのなら、同じ言論の自由だ。しかし、悪口雑言でそのことを口にすることを非難するのは、言論の封殺に他ならないと思う。

「いじめやすい人狙う

 評論家・樋口恵子さんの話

 憂さ晴らしをしたい人がいじめやすい人を狙っている。目立つこと、自分にできないことへの一種のねたみだろう。苦しんでいる被害者をいじめるとは本当にひどい。」

樋口さんの感想は、日本の教育のゆがみがこんな形で出てきているのかなと、教育という仕事に携わっている人間としてはそんな感想を持つ。ねたみというのは、いつも競争相手を意識していなければ生まれてこない感情だ。勝ったとか負けたと言うことを気にしないのなら、誰が、どれだけ素晴らしいことをしようともねたみということを感じない。素晴らしいことをそのまま素直に素晴らしいと思うだけだ。ゆがんだ競争原理に毒された日本の教育が、このような社会の雰囲気を生み出してしまうのではないかというような感想を僕は持つ。



それは、ナイフをのど元に突きつけられている緊迫した場面の映像だった。彼ら3人が、いかにイラクの人道復興支援に努力した人間であっても、すべてのイラク人がそのことを知っているわけではない。毎日大量のイラク人が殺されている中で、殺人者であるアメリカを支持している日本人として3人を見ているイラク人が、感情が高ぶって乱暴なことをするのではないかという危惧を抱かせるような映像になっている。その映像がカットされていると言うことは、事件の状況をソフトなものにするという効果を持つのではないだろうか。ソフトなイメージを与えるから、犯人グループと人質との間には何らかの馴れ合いのような感情があるのだというような憶測が生まれてくるのかもしれない。

宮台氏は、たとえ残虐な映像であっても、その残虐さの原因に我々自身がかかわって責任があるのなら、その残虐さを残虐であるという理由で目を背けるのは間違っているのではないかと言うことも語っていた。我々の責任として、その残虐さを生んでいると言うことを意識するために、残虐さを直視する必要があるだろうということだ。僕は、全くその通りだと思う。イラクで行われている大量殺人という残虐さを、我々日本人は目を背けてはならないのだと思う。日本人には、それに対する責任がある。我々は、むしろイラクで何が起こっているのか、その本当のところの報道を要求する権利があると思う。

そして、その要求に応えてくれているのが拘束されたフリーのジャーナリストを中心とする人々なのだ。彼らは、本当の意味での表現の自由のための活動をしているのだと思う。マスメディアは、ここでも表現の自由の闘いをしていないと僕は感じる。

文春は、出版差し止め問題で表現の自由と言うことを争った。では、この表現の自由に関しても闘ってくれるだろうか。それとも、このようなものは表現の自由の範疇に入らないという判断をするだろうか。メディアの側が、イラク戦争に関して、どれくらい表現の自由をもとにした報道を考えているか、その面からもこれからの事件の行方を見守っていきたいと思う。





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最終更新日  2004.04.15 09:30:12
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