真理を求めて

真理を求めて

2004.05.31
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ある人を評価すると言うとき、その評価を語ることが、同時に自分自身の評価の観点を物語っていると言うことを僕は書いた。そのことを考えることで、僕が評価している人の、どこを評価しているのかというものを考えてみた。自分のことをより深く知るためには、このようなことを時に哲学的に考えてみるのは意義のあることではないかと思う。

僕は三浦つとむさんという明治生まれの哲学者を尊敬し、直接の教えを受けたことはないけれど、僕の論理学の基礎を作ってくれた人として、師と仰いでいる。なぜそこまで三浦さんを高く評価しているかと言えば、弁証法を語る哲学者で、唯一弁証法が分かるように語ってくれたからだ。他の哲学者が書いた本は、「弁証法は、分かるヤツには分かる。分からないヤツには分からない」という印象を受けるような本ばかりだった。それが、三浦さんの本では、初めて弁証法の全体像が分かったような気がした。

細かい知識という点では、三浦さんが書くことも他の哲学者が書くこともそれほどの違いはないようだ。しかし、三浦さんは全体を見渡す地図のようなものを与えてくれた。この全体像がなければ、部分というのは、どんなに知識があろうとも「分かる」ようにはならない。それは「知っている」だけのことに過ぎないのだ。

考えてみると、僕が評価する人たちというのは、全体を見渡す地図を提供してくれている人が多いようだ。それは、哲学的な視野の広い人たちだと言っていいのかもしれない。教員になったばかりの頃は本多勝一さんの文章に夢中になった。本多さんは、社会の出来事の知識を与えてくれると言うことにとどまらず、その出来事をどのような観点から見て、どのように社会の中に位置づけるかと言うことを教えてくれたような気がする。

教員になろうと思った頃は、数学教育に大きな功績のあった遠山啓先生の書くものに心惹かれた。遠山先生も、数学教育というものを、単に効率よく数学を理解するための技術にとどめることなく、学ぶに値する数学とはどういうものかと言うことを基本に数学教育を考えていた。この基本姿勢に共鳴して遠山先生の数学教育を学んだ。

その後仮説実験授業に心惹かれたのも、板倉聖宣さんの哲学的なものの考え方を基礎にした論理があったからだ。板倉さんも、学ぶに値する「科学」はどのようなものかと言うことが出発点にあった。

その他僕が評価してきた人は、灰谷健次郎さん・林竹二先生・佐高信さん・河合隼雄さん・千葉敦子さん・鎌田慧さん・斉藤茂男さん・佐藤忠男さん・武谷三男さん・羽仁五郎さん等々、いずれも哲学的なものを感じる視野の広い人だと思っている。

最近特に高く評価しているのは宮台真司氏だ。上記の人たちに対してもそうなのだが、その文章に初めて触れたときから、すぐにその評価が固まってしまった感じがする。昨年の6月頃だっただろうか、かなりポピュラーな存在だったので、そこで知ったのは遅いかもしれないが、その論理の明晰な部分にもっとも心惹かれたと言っていいだろうか。

この宮台氏と「マル激トーク・オン・デマンド」というインターネットの番組をしている神保哲生氏も同じように高く評価する人だ。ジャーナリストとしてのセンスの非常に高い人物として尊敬している。僕は、自分が高く評価する人につながる人に、またすぐれていると思える人を探すことが多い。佐高信さんを通じては、松下竜一さんとか浅見定雄さんというような人を知って、その本をいくつか読んだ。宮台氏につながる人も、高く評価したい人がたくさんいる。



しかし、どうしても関心を抱けない人もいる。宮台氏が「大先生」と呼ぶ小室直樹氏は、僕にとってどうしても関心を抱けない人だった。数学を基礎にしたその文章は、ある意味では僕の好みには合うはずなのだが、どうしても宮台氏に感じるほどの共感を感じない。天皇制主義者と言うことに引っかかるのかもしれないが、強い関心を抱くことが出来ない。小室氏を批判すると言うことはないのだが、強い関心を抱けないと言うのが正直な心情だろうか。

この評価というものは、絶対的に正しいものなどはないから、僕と評価が違う人はたくさんいるだろうと思う。それは観点の違いというものだ。たとえば本多勝一さんを嫌いな人はたくさんいる。特に、本多さんを「左翼」だと思っている人は、そのことが評価にかかわっているような気がする。確かに、神保氏などと違って、本多さんは自分の位置というか立場をかなり鮮明に出しているジャーナリストだ。神保氏のように、完全に第三者的立場に立とうとするジャーナリストもいるが、「殺される側」からの報道をするという立場も僕はあり得る選択だろうと思う。だから、反対の立場からはあまり評価されなくても仕方がないとは思う。逆に言うと、反対の立場から評価されてしまうのは、もう一方の立場に立つ者としては矛盾も背負わなければならないのかもしれない。

ジャーナリストは、どちらの立場にも与しないと言うのが、神保氏の基本姿勢で、このような立場なら、どちらからも評価されると言うこともありうるかもしれないが、どちらからも評価されないと言うこともありうる。これは、なかなか難しいところだろう。

そういえば、田中宇氏を巡って、僕は高く評価しているのだが、それほど高く評価していない人もいる。これは、評価の観点の違いだから、それ自体はどちらの評価もあり得るものだと思っている。どちらが正しくてどちらが間違っていると言うことはない。見解の相違というものだ。

たとえば、田中さんは、イラク戦争が始まる前は、「論理的に考えれば、戦争をしても悪い結果だけが予想されるから、論理的に考えれば戦争を避けるだろう」と予測していた。しかし、実際にはブッシュ大統領は戦争への道を選んでしまった。

この事実を取り上げて、田中さんは予測を間違えたのだから、田中さんの言うことは大したことではないと評価する観点もあるだろう。しかし、僕は、予測というものを間違えたとしても、その間違いから正しく学ぶならその間違いは決してマイナスの評価だけを生むものではないと思っている。

論理的に考えれば、イラクでの戦争がコスト的に割に合わないと言うのは、泥沼化して当初の予想の戦費を遙かに上回る予算をつぎ込んでいるアメリカの姿を見れば、その予想に関しては正しかったと僕は感じる。だから、この戦争を避けようと考えるかどうかは、そのコストをどう評価するかということにかかわっていた。

田中さんは、ブッシュ政権が論理的な判断を間違えたか、別の意味でのコストの計算をして、あえて泥沼化する方向を選んだのか、と言うことを論じていた。この論じ方については、僕は論理的に正当だと思うので、やはり田中さんを高く評価する気持ちに変わりはない。

予測というのはいつでも間違うことがあり得る。特に、困難な現実というものを予測する場合には、100%正しい予測などはあり得ない。問題は、間違えたときの対処の仕方にある。日本政府は、イラクでの人質事件や、今回の襲撃事件を正しく予測していただろうか。予想外の出来事だったとしたら、それに正しく対処できただろうか。ばかげた「自己責任論」に寄りかかった姿は、とても正しく対処したとは思えない。

田中さんの予測の間違いは、その間違いがどこからもたらされたものかを分析することによって、一つの教訓が得られるものであれば、間違いが正しさをもたらすことになる。「失敗は成功のもと」ということわざの正しさを教えてくれる例にもなるのだと僕は思う。





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最終更新日  2004.05.31 09:11:39
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