真理を求めて

真理を求めて

2004.06.15
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僕が心惹かれる人は、師と仰ぐ三浦つとむさんを始め、いずれも論理を前面に押し出して話を展開する人が多い。批判の言葉もかなり辛辣で、ある種の冷酷さを感じるところもある。三浦さんは、戦後まもなく「生長の家」という新興宗教の批判をしたり、「官許マルクス主義」と言って当時の権威的なマルクス主義批判を展開したりした。その批判は、論理的にもっともだと思うものなので、批判された方はかなり痛いところをつかれているだろうなと思った。

最近入れ込んでいる宮台真司さんとか内田樹さんとかも、論理的な人で、口調は穏やかだが批判は辛らつだ。論理的な人は感情に流されて語ることがない。だからこそ論理を誤ると言うことが少ないのだが、これは感情に流されると、どちらか一方の立場に偏る恐れがあるから、それを避けるためでもあると思う。立場でものを考えれば、論理のもっている普遍性という面を見誤る可能性がある。論理的に考えようと思うのなら、立場を離れて、感情移入しないように気をつけて物事を見なければならないと思う。

感情移入しないで、第三者的に物事を眺めるというのは、個人的な資質がかなりかかわっていると思うが、諸刃の剣でもある。この資質は、論理を徹底させれば、宮台氏や内田氏のように、客観的な観点というものを提供してくれるが、ちょっと方向を間違えると、世の中を見放したニヒリストになりかねない。

若い頃の僕は、社会は自分とは無関係に流れている、だから自分も社会とは無関係にやりたいことだけをやるんだという、どちらかというと非社会的な個人主義をもったニヒリストだったような気がする。社会を転覆させようと言うような積極性はもっていなかったので、反社会性はなかった。社会を無視するという非社会性があったと思う。

しかし、人間は社会を無視して生きようと思っても、生きている限りはそれほど無視できるものではない。僕も、「でも教師」として仕事を始めることによって結果的には社会に対する関心と目を開いていくようになるわけだが、それのきっかけになったのは本多勝一さんの文章だった。本多さんも辛らつな批判をする人だが、その批判は論理の中の「事実」とのつながりを持つ部分を重視するものだった。本多さんは、立場というものを打ち出して論じる人なので、論理的な冷酷さとともにある種の熱さも感じる人だ。立場を打ち出すだけに、違う立場からは嫌われても仕方がないなとも思う。

僕は、自分の立場としては、どのような結論であろうとも、より正しいと思えるような結論へ向かうことに価値を見いだすという立場だと思っている。感情的には気に入らない結論であろうとも、それが正しいと思えれば仕方がない。感情よりも論理の方を受け入れていくという立場だ。感情の流れによって結論を出さないように注意したいと思っている。ただ、人間であるからには、いつもそのように判断できるとは限らないから、時には失敗することもあるだろう。そんなときも、常にこのような注意をする気持ちを持っていれば、自分の失敗には敏感になるだろうと思っている。

僕が、このようなインターネットの場で展開する批判は、ほとんどが権力の側に対する批判だ。公に表明する批判としては、より大きな存在に対する批判の方がふさわしいのではないかという思いがあるからだ。個人の批判を公の場でしても仕方がないという感じがしている。その個人が、何か権力の側を代表しているような個人であれば、個人に対する批判も意味があるだろうが、その批判は、個人的な部分に関する批判ではなく、あくまでもその個人が代表していると思われる一般的な部分に関する批判が望ましいと思っている。

登山家の野口健氏を批判したのは、野口氏個人の批判ではなく、野口氏が展開していた「強者の論理」の批判が中心で、その具体的な展開として野口氏の言葉を批判したものだった。野口氏が単なる一個人ではなく、公人に近い存在だと思ったので、批判の対象としたという考えがあった。

イラクでの人質とその家族に対するバッシングが始まったときは、個人という存在である彼らを批判すると言うことの意味が僕にはよく分からなかった。彼らが、何らかの論理を代表している存在であるのなら、その論理の代表として見える部分を批判する意義はあるだろうが、態度が悪いとか、個人的な活動が大したことがないとか言う言葉を見ると、単に個人攻撃をしているだけじゃないかとしか見えなかった。だからこそバッシングと呼ばれたのだろう。これは批判の方向として間違っていると思ったので、僕はバッシングする方を逆に批判した。それでも、バッシングする個人を批判したのではなくて、バッシングを代表するような論理を批判したつもりだった。その最たるものは、日本政府の語る「自己責任論」だと思ったので、それを批判の対象として取り上げることが一番多かった。



その個人が、大きな影響力を持つ個人であれば意味がある。しかし、市井の一市民が、単なる感想として書き記した文章に間違いがあったとしても、それがさほどの影響を与えるものでなければ、親しい人間だったら忠告をしてあげればいいし、それほど親しくないのであれば、わざわざ波風を立てる人間関係を作ることもないのになと僕は思う。そんなところで正義感を発揮せずに、もっと大きな存在の批判へ向かった方が生産的な感じがする。正義感を発揮する人は、とても親切心に溢れた人なんだろうけれど、受け取り方によっては紙一重の「お節介」になってしまうのが難しいところだ。

僕はそういうところで正義感を発揮することがほとんどないので、ある意味では冷酷な人間だ。よほど親しいか、信頼感がなければ、間違いだと思っても指摘することはない。間違いだと思うような言説を見たら、そのような言説を代表している、もっと一般的な存在がないか探して、その存在を批判することで間接的にその言説を批判するという方法を採る。

エンゲルスは「反デューリング論」で、ディーリングに対する辛らつな批判を展開した。それは、デューリングをほとんど全否定するほどの激しいものだった。それは、ディーリングが当時の間違った言説の代表者だったからで、エンゲルスがデューリングに個人的な感情を持っていたからではない。ディーリングが時代を代表するような人間でなかったら、あれほどの批判をすることはなかっただろう。

単なる一個人を批判するのは実りのない議論だと思う。それが一般論にかかわった部分で議論できればまだ何か成果が出るかもしれない。しかし議論が実りあるものになるのは、やはり信頼感がある場合だけだろう。そういう意味では、相手に対する批判は実りある議論に結びつくことは少ないと思う。だから、僕は最初の書き込みは、だいたい共感したことしか書かない。そして、信頼関係を築いたと思ったときに初めて批判的なことも書くことにしている。最初から批判的な書き込みをしてくるような人間は、あまり信頼されないだろう。

トラックバック機能というのは、そういう議論の方向を探る上ではなかなかいいものだと思う。掲示板の書き込みと違って、相手のところで展開している言説だから、関心がなければ直接返す必要もないし、個人攻撃よりも一般論の展開というスタイルを取ることが多いと思われるので、冷静に眺めることが出来そうだ。

トラックバックは、議論のために有効な機能だと思う。それは、和気藹々と和むような目的では使いにくい機能なので、楽天にはあまり必要のない機能かもしれない。しかし、掲示板の議論では、冷静さよりも冷酷さが前面に出てしまいがちだったが、トラックバックの議論だったら、冷酷さよりも冷静さの方が現れるのではないかと僕は感じている。冷静さと冷酷さの紙一重の違いを感じながら文章を書いている人間としては、トラックバックには期待するところ大である。





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最終更新日  2004.06.15 09:36:38
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