真理を求めて

真理を求めて

2004.06.28
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仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんも、僕は多くのことを学んだ人の一人だ。板倉さんは、三浦さんの弟子を自認している人で、三浦さんに対するすぐれた批判者でもある。板倉さんの三浦さんへの批判は、僕はほぼ賛成をするのだが、それでも僕が三浦さんを師と思う気持ちには変わりがない。師と思う気持ちは、全人格的な影響を持つもので、間違いも間違いとして受け止めて師と感じるといったらいいだろうか。

三浦さんに出会う前に板倉さんに出会っていたら、僕は板倉さんを師と感じたかもしれない。でも、師は一人しか持てないようで、板倉さんからは多くのことを学んだけれど、師と思っているのはやはり三浦さんの方だ。

板倉さんの三浦さんへの批判では、弁証法を「発想法」だととらえるか、「科学的真理」だととらえるかというものがある。これは、「科学」の定義にかかわるとらえ方になるのだが、板倉さん的な「科学」の定義では、弁証法は「発想法」の一つということになる。僕は、「科学」の定義に関しては、板倉さんが定義するものの方がすぐれていると思うので、この批判に関しては板倉さんに賛成する。板倉さんは、三浦さんには、板倉さんが考える意味での「科学」という概念はなかったという評価をしている。

板倉さんが考える「科学」は、それが真理であることを決定するのは「実験」のみであると考えるものだ。いくらもっともらしい論理で真理であることが確からしく思えようとも、最後は実験で決定しなければ真理であるという判断をしてはいけないと考える。そして板倉さんが考える「実験」というのは、これから起こるであろうことを、真理であるという証明をしたい「仮説」のもとで考えて、それを予想し、その予想が実現するかどうかを見るのが「実験」というものであると考える。

だから、「実験」が設定できないようなものは、「科学」としての真理性が証明できなくなるので、「科学」ではないということになる。弁証法は、その適用範囲があまりにも広く・抽象的でありすぎるので、真理であることを確かめる「実験」を設定することが出来ないのだ。

「実験」はあくまでも具体的な現象に対しての「仮説」を証明するような、具体的な設定がなされないと出来ない。三浦さんについても、その論理が言語学に関するものであったり、具体的な個別の対象に関する考察であった場合は、板倉さんの「実験」概念に近い、マルクス主義的な「実践」概念を持ってその真理性を証明していた。しかし、マルクス主義そのものに関する言及では、実験よりも思弁的な論理の正当性で語る場合が多く、真理性の証明にマルクスやエンゲルスの言葉をもってくるというようなやり方も見られた。だから、板倉さんの批判については、これは正当だろうという感じが僕にもしている。

しかし、師から学ぶというのは、ここの知識が正しいかどうかを学ぶというのとは違う。内田さんがどこかで語っていたが、師から学ぶものというのは、師の世界に対する姿勢や態度・ものの見方というような、師の視点を学ぶのだといっていた。僕も、三浦さんから大きな影響を受けているのは、その視点であるように感じている。世界を見るときに、三浦さんの視点で見たら、そこがどのようにして見えるのか、ということをいつも考えているような気がする。

板倉さんからも、様々なものの見方や視点を学んでいるが、それはどちらかというと知識として受け止めているという感じがして、全人格的に思いを入れ込んでいるという感じがない。だから、師と感じるほどにはならなかったのだろう。それでも、そういう知識であるのなら、人に伝達できるという感じもする。師への思いは、同じように感じる人でなければなかなか共有は出来ないが、知識ならば伝達可能な気がする。

前置きが非常に長くなったが、板倉さんの発想法の優れた知識を伝えたいと思う。これは、「私の発想法」(仮説社)という本からの抜粋だ。まずははしがきからの言葉を紹介しよう。ここでは、「発想法はいかがわしい」というようなことを語っている。すぐれた発想法を見つけると、人間は、それを使えばどんなものでも素晴らしい結論を導けそうな錯覚に陥ることがある。それを戒めて、板倉さんは次のように語る。



かつては、マルクス主義的でありさえすれば正しいという主張が信じられた時代があったそうだ。しかし、今ではマルクス主義そのものさえ忘れ去られようとしている。それが発想法の運命というものだろう。内田さんが語っていたが、構造主義の時代というのは、構造主義的な発想が普通になってしまって、誰もそれに疑問を抱かない時代なのだと言っていた。そういうときに、「発想法はいかがわしいもの」という考えを持ち、発想や思想だけでは真理に到達しないという意識を持つことは大事なことだと思う。

発想法がいかがわしいという意識があれば、常に判断の前提を疑い、その確信が得られるまでは判断を保留するという慎重な態度が出てくる。自衛隊のイラクでの活動は、「人道復興支援」であるということになっているらしいが、これは証明されたことのない思い込みだと僕は思っている。だから、このことを前提にして考えた結論は、発想法だけで真理を確定しているいかがわしいものだと僕は思う。真理が確定するまでは、すべては「仮説」なのだという自覚を持つべきだろうと思う。

板倉さんは、発想法がいかがわしいものであることを忘れてはならないと言いながらも、一歩踏み出すための発想法の重要性も同時に主張する。こう言うのが対立物の統一というもので、やはり弁証法というのは、発想法として役に立つのだなと思う。板倉さんの主張は次の通りだ。

「しかし、未知の世界に踏み込もうと思ったら、なにがしかの思想、発想法に従って考えを進めなければなりません。間違えるかもしれないことを承知の上で、足を一歩踏み出すより他ないのです。ところが、私は時々、「みんながみんな、同じような考えにとらわれて考えているから、先に進めないではないか」と気づくことがありました。そして、「一度は<違う考えの方が正しいかもしれない>と考えてみて、「一歩踏み出してみることが大切ではないか」と強く主張したくなることがありました。」

間違いを承知で新しい道へ踏み出すと言うことは、間違いに敏感で、それを正しく処理できなければならないことを意味する。間違いなどないという思い込みをすれば、かえってひどい結果になりかねない。そして、その「失敗を成功のもと」にする条件は、みんなが、今までの常識的に正しいという発想のもとに行っているのでは全く成功の道が見えないときに、違う発想を持つことが大事ではないかと考えている。その違う発想こそ、対立物を統一する弁証法が与えてくれると板倉さんは考えている。

板倉さんは、弁証法は詭弁であるということも語っている。それは、常識の範囲内で解決できる問題に対して、わざわざ弁証法を適用しようとすれば、わざと間違えるような発想法になってしまうからだ。弁証法の威力を感じるのは、曲がり角や限界を感じるときに、それを越えるための発想を与えてくれるときに感じるものだ。

仮説実験授業研究会には、岩波の科学映画を製作していた牧衷さんという面白い人がいる。この人は、学生運動の頃からずっと(市民)運動を続けている人で、「運動論いろは」(季節社)という本を書いた。これには、いろいろな発想を助けてくれる格言がたくさん載っている。その中に、「壁に突き当たったら曲がれ」というものがある。

普通の人は、壁に突き当たったらどうするのだろうか。努力して、自分の能力を高めて、壁を乗り越えようとするのではないだろうか。それとも、自分の力に限界を感じてあきらめてしまうだろうか。その時に、壁を乗り越えることはない、ちょっと曲がって回り道をして、壁の向こう側へ行けばいいじゃないかという発想は、とても面白いと思う。まともにやったらうまくいかないことも、まともでない方法でなんとか出来るかもしれない。

こう言うのは、三浦さん的に弁証法用語を使うと、「否定の否定」と言うことになるのだろう。壁を乗り越えることを一度は否定して、回り道を探すのだが、結果的には、否定した壁の乗り越えが出来てしまって、否定の否定で結果は同じになる。

板倉さんの「発想法カルタ」(仮説社)にも、具体的な面白い格言がたくさん載せられている。発想法は、格言の形になっていると利用しやすい感じがする。

今、解決不可能ではないかと思われている問題はちまたに溢れている。それは、今までの常識的な発想法では解決の方法が見いだせないものばかりだ。大胆な発想が必要なのではないかと感じるが、大胆な発想法は非常識なので、間違いかもしれないけれど、発想のためにあえて考えてみるという自覚がなければなかなか生まれてこないだろう。






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最終更新日  2004.06.28 09:44:58
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