真理を求めて

真理を求めて

2004.07.10
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
僕の日記を訪れてくれている人は、どのくらい掲示板の方を訪れてくれているだろうか。楽天日記の掲示板は、個人的なやりとりを公表しているにすぎないものなので、あまり関心のないものはのぞかないで通り過ぎていくだろうが、このところは、某S氏くんと、タイ少女の問題をめぐってやりとりをしている。

僕は、彼の論理はすでに破綻していると判断しているのだが、論理に関心のある人は、具体的にどこが破綻しているのかを考えてみると論理の訓練になると思う。個々の書き込みに書かれていることにとらわれていると、その破綻はなかなか見えてこないかもしれない。へりくつというのはどうにでも語れるものだから、個々のやりとりは、それなりにお互いに理屈を言っているように見えるからだ。

論理が破綻しているかどうかを判断するには、その全体像をつかんで、個々の論理が、全体の中でどう位置づけられるかを見ることが出来なければならない。このやりとりの最初から、ちょっと詳しく分析して、彼の論理がどうして破綻しているかというのを僕なりに説明してみようかと思う。これは、破綻した論理を使っている当人には分かりにくいものだが、岡目八目という言葉もあるように、利害から離れた他人からは、その破綻がよく見えるだろうと思う。

僕も論理の応用問題として、彼の論理の破綻を論理の問題として解いてみようかと思う。まず、彼は最初の書き込みで、

「我が国は明治以来の由緒正しい法治国家ですから。
自分に都合のいい時は法律をねじ曲げろって言うのは人治国家ですな。 (7月5日20時4分) 」

と書き込んでいた。そこで、僕は、「言う」という言葉があったので、「自分に都合のいい時は法律をねじ曲げろ」というのを、誰が言っていたのかというのを問題にした。この主張は、明らかに間違ったものだから、誰がそのようなことを語っていたのかを明らかにすれば、それを言った人間を批判すれば、この主張はそれで終わりだからだ。

しかし、彼の返事は期待したものではなかった。誰が言ったのかという「誰」には答えてくれなかった。次のようなものだ。

「少女だから、可哀想だから法律をねじ曲げてでも強制送還するなと言うのは法治国家のやることではないと言いたかったんですがね。


「法律をねじ曲げろ」ということの内容として、「少女だから、可哀想だから法律をねじ曲げてでも強制送還するな」というふうに、「強制送還するな」ということの理由として、「少女だから、可哀想だから」という理由を挙げている。これも不当な主張なので、いったい誰がこのような主張をしているのかということを僕はまた聞いた。

僕の感覚としては、誰かが彼の言うような主張をしていて、それを彼が非難していると思っていたのだ。そして、僕はその「誰か」が間違っていると考えているので、彼がそれを主張することには少しも反対しない。だから僕も同じようにその「誰か」を非難してやろうと思っていたのだが、彼はその「誰か」を指定することが出来なかった。

彼の「言う」という言葉を使った部分は、実は誰かが言っていたことではなく、彼がそう考えているということを表しているに過ぎないのだということがその後のやりとりで分かった。これは、彼が意味している「法律をねじ曲げて」という部分の認識を考えるとそういう受け取り方が出てくる。「法律をねじ曲げてでも少女を救え」と誰かが主張しているのではなく、「少女を救いたい」と願っている人間はすべて法律をねじ曲げているのだと、彼が解釈している、と考えざるを得ない。それは次のような言葉から伺える。

「血は法よりも強いというのは、人治主義を正当化するセリフですね。
法治主義は、血縁や義理人情よりもルールが強くなければ維持できないんですが。
14才の少女で可哀想だから法律をねじ曲げてでも日本に居させろと言うのは法治国家ではあり得ない論理です。(7月6日23時39分)」

少女を救いたいと願っている人が、具体的にどのような考えを持っているのか、事実を調べることなく、「14才の少女で可哀想だから法律をねじ曲げてでも日本に居させろ」と主張していると、彼が受け取っているのが、この文章から伺える。もし、本当に少女を救いたいと願っている人のすべてが、彼が思い込んでいるような主張をしているのなら、彼の非難も当たっているのだが、これはとんでもない事実誤認だと僕は思う。実際に、僕自身は、少しもそんなことを思っていないにもかかわらず、少女を人道的に救いたいと思っている。あくまでも合法的に。

「温情や署名の多寡で、規定対象外の人に対してルールを捻じ曲げて発行するのは法治国家の精神ではない。 (7月6日23時39分) 」

これも、彼の思い込みだ。「温情や署名の多寡」で運動が勝利に導かれると思っているとしたら、運動に対して非常に甘い認識しか持っていないといわざるを得ない。いくら日本全国の「温情や署名」が集まろうと、論理的に正当な強い根拠がない限り運動は勝利に終わることはない。時にはそれがあってすらも運動が勝利しないこともあり得るのだ。

実際には、報道にもあるとおり、

「出入国管理法は、6歳未満の子供が養子になった場合など一定の要件について定住資格を認めているが、それ以外についても「特別な理由」がある場合は定住資格を認めると定めている。メビサさんの両親は亡くなっているため、タイに扶養できる親せきなどがいないことが資料などで確認できれば、「特別な理由」に該当する可能性が出てくるとみられる。」
「<メビサさん>法相が在留資格更新と定住資格の検討を指示 」



彼のような思考法は、哲学史では「形而上学的思考」と呼ばれている。これは、自分の頭の中で作り上げた世界を固定化して、現実を無視して思考を進める方法である。これは、それが出来る対象について考えているときは、正しい結果をもたらす。ある種の数学は、定まった対象に対して固定的な思考をすることもあるので、その場合に限り、形而上学的思考も真理をとらえることが出来る。対象が、ある意味での固定性という特徴を持っていれば、形而上学的思考でも真理をとらえることが出来る。

しかし、対象が変化するものである場合は、固定的にとらえる形而上学的思考では、その変化をとらえることが出来ずに誤謬に陥る。彼は、法律を形而上学的にとらえ、現実をあくまでも法律にあわせようとする形而上学的思考に陥っている。しかし、現実は変化するものであり、法律というものが人間のためにあるものであり、社会の安定のためにあるものであるという認識があれば、現実の変化に対応して、弁証法的思考が出来なければならない。

弁証法的思考というのは、言葉は難しいが、臨機応変に、現実に従って考えを進めろということだ。ことわざ的な思考を考えるといい。「急がば回れ」ということわざと、「善は急げ」ということわざがあるが、これは両方とも真理だと我々は認識している。それは、ある場合には、慎重に事を進めて「急がば回れ」が真理であることを理解し、ある場合には、タイミングが大事だということから、急ぐことが正しいと理解するからである。状況によって真理が違うという理解をしている。このことわざ的理解が出来る人間だったら、弁証法的思考が出来るのである。

彼の論理の破綻の根本原因は、弁証法的思考が出来ず、形而上学的思考に陥っていることにあると僕は理解している。それは、対象が弁証法的特性を持っているにもかかわらず、そのように対象にあわせた思考が出来ないから論理が破綻するのだと思っている。

彼の論理の破綻の根本原因を僕はそのように論理の構造に見るわけだが、これを、全体の地図と思って、さらに具体的に彼の個々の発言を分析していこう。しかし、ここまでで十分長い文章になったので、続きはまた明日にしよう。



これは批判ではなく、彼とのやりとりのまとめなのだと僕は思っている。彼が僕の所にやってきたので、このようなやりとりが生まれた。そうでなければ、僕は彼に対して何か言及するということはなかっただろう。そういう意味で、これは批判というものでは決してないのである。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2004.07.10 00:46:16
コメント(35) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

カレンダー

コメント新着

真の伯父/じじい50 @ Re:自民党憲法草案批判 5 憲法34条のロジック(02/03) 現行憲法も自民草案も「抑留」に対する歯…
秀0430 @ Re[1]:自民党憲法草案批判 5 憲法34条のロジック(02/03) 穴沢ジョージさん お久しぶりです。コメ…
穴沢ジョージ @ Re:自民党憲法草案批判 5 憲法34条のロジック(02/03) ごぶさたです。 そもそも現行の憲法の下で…
秀0430 @ Re[1]:構造としての学校の問題(10/20) ジョンリーフッカーさん 学校に警察権力…

フリーページ


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: