真理を求めて

真理を求めて

2005.12.29
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民主主義は、多数決原理を基礎に持っている。これは、意見が分かれるような問題である種の決定が必要になったとき、多数が賛成したものを決定するというやり方を取る。しかし、多数が賛成したからといって、それが正しいとは限らない。ヒトラー政権は、多数決によって民主的に選ばれたが、その結果は悲惨なものだった。この選択は間違っていたと言える。だが、選択そのものは民主主義として間違いではなかった。

このことは、本来は民主主義の欠陥として捉えなければならないのだが、僕は長い間それを他の部分の欠陥として受け止めていた。三浦つとむさんの主張に、民主主義が選択すべきなのは恣意的な個人の利益ではなく、個人を越えて抽象された全体の利益というものだというものがあった。これは、本来そのようなものを選択していれば、民主主義の決定に間違いがないという点で僕はその通りだと思っていたものだ。

民主主義による決定に間違いがあるのは、民主主義を支える個人の判断に間違いが多く出たときだ。だから、間違いを犯さないような判断力をつけるように努力しなければならない。このこと自体は、論理的には間違っていないと思う。しかし、これは現実的には困難なことだと思うようになった。

間違えることが、人間の認識にとって本質的であれば、どんなに努力しても我々は間違いを避けることはできない。間違いを犯さないように努力することは大切だが、それ以上に大切なのは、間違えたときにもそれが重大な影響を与えないような工夫をすることではないかと思うようになった。セーフティネットを張っておくことの重要性を感じるようになった。

民主的な決定によって間違った結論を出したとき、それは結論が間違えていたから結果が悪かったのであって、民主主義そのものは正しいのだ、と民主主義に対する信仰のような気持ちを持つことに疑問を感じるようになった。民主主義は必ずしも素晴らしいものではない。他にもっと素晴らしい制度がないから、とりあえずはこの制度を維持しているだけで、この制度の欠陥を深く認識しながらそれに関わらなければならないのではないかと思うようになった。

論理的に正しい結論が出るような問題に関しては民主主義は必要ない。その対象に通じている専門家の判断を信頼してそれに従えばいい。むしろ、論理的にその問題を考察出来ない人間が、単に恣意的に結論したいものを多数決で決定すれば、結論を間違えることになるだろう。論理的に扱える問題は、民主主義ではなく、専門家の議論によって決定することが正しいと僕は思う。

民主主義という制度を使わざるを得ない問題は、論理的な結論が導けないような問題に限るべきだ。何が正しいかが分からないが、何らかの結論を出して行動を決めなければならないというような問題にのみ民主的な多数決原理を適用すべきだろう。

そして、民主的に決定された問題は、それを選んだ多数者が、選んだ人間の責任として推進すべき仕事を担うべきだと思う。そして、その結果として不利益がもたらされたときは、その不利益の責任も、賛成を選んだ多数者が責任を担うべきだろうと思う。

民主主義は、そのように運営されることによって、重大な誤りを逃れる可能性を担保出来るのではないだろうか。民主主義というものに、バラ色のイメージを持ちすぎていると、民主主義でさえあればそれは正しい・良いものだと受け止めてしまうが、民主主義的であるかどうかは、問題の解決として正しいかどうかを保証しないという見方をしなければならないだろう。




「民主主義は多数決を持って全体の意志とする。ここに「話し合い」という微温的な行為は含まれていない。もちろん、意見を交換させ議論を戦わせて、そのあとの多数決であるから、その間の「話し合い」は当然であるが、最終的には多数派が全体を支配するのであって、話し合った結果、少数派の勝利、とはならない。もし、そんなことが行われれば、それは多数決の否定につながってしまう。」


と語っている。ここで語られている「話し合い」というのは、最終決定に対して「妥協」という手打ちを行うことを意味している。多数決による最終決定をしないのが「話し合い」だ。多数決前の議論は「話し合い」とは呼んでいない。

民主主義の本質を、最終的な決定の多数決において、それを「多数派が全体(つまり少数派)を支配する」ということに見ている。これは、板倉さんが語っていた、「民主主義は最後の奴隷制」という言い方に通じる。民主主義の時代に生きる我々は、この民主主義の危険をもっと良く自覚すべきであろうと思う。

民主主義で決定される問題は、意見が対立し・利害が対立する問題である。誰もが賛成するような問題であれば、それは民主主義にかけるまでもなく、いつの間にか当然そうなるであろう方向へと決定が下されるだろう。しかし、利害が対立する問題では、どの利益が重要かということが議論されて、不利益を被る人間を無視する論理によって多数決的な決定がなされる。

もし不利益を被る人間を無視しない決定をしたければ、多数決ではなく妥協を図る手打ちをしなければならないだろう。しかし、不利益を被る人間が少数派であり、多数派がそれを無視しうると考えれば、多数派の利益が多数決で決定される。これは、もちろん少数派が不当な利益の主張をしているので無視してもいい場合もあるかも知れないが、正当な利益の主張の場合は、結果的には判断を誤ることになる。

多数決の前の議論というのは、このように少数派の意見が無視出来るものであるかを議論する厳しいものになる。無視出来るならば多数決によって決定出来ることになる。無視出来ないときは、多数決を否定し、民主主義を否定して結論を出さなければならなくなる。それはある意味で「談合」的な議論になるかも知れない。

民主主義を標榜しながらも、少数者を無視せずに、弱者救済の方向も取るべきだと考えると、ある点で民主主義を無視して否定することになる。日本社会は、そのようなやり方を取っていたのではないかと思える。それに対して、小泉さんという人は、ある意味では民主主義の厳しさ・冷たさを徹底したと見ることも出来る。それこそがネオリベ路線というものかも知れない。ネオリベ路線というのは、民主主義の否定ではなく、むしろ民主主義の徹底の道だったようだ。

小泉さんは、選挙で多数派を取ることにより、郵政民営化で不利益を被る人たちを無視して、利益を得る多数派の利益を選択した。この多数派というものが、実は神保哲生氏が語るように、本来は不利益を被る弱者であるはずなのに、自らが弱者であることを自覚していないので、あたかも小泉さんと同じ多数者の側にいるように感じて投票してしまった人々の判断の間違いによって作られたものだという見方もある。

たとえ判断に間違いがあろうとも、多数決という結果はすべての人々を支配するところが厳しいところだ。結果を間違えるという可能性は、判断を間違える人々が多くなればなるほど可能性が高くなる。だから、民主主義という体制は、判断を間違える可能性が高い人間の参加を制限するということも必要になってくる。

歴史の勉強では、選挙権の平等を保障する普通選挙制度は素晴らしいものだと教えられているが、誰でも無制限に参加するという前提は、民主主義にとっては危険な前提と言えるかも知れない。判断能力があると考えられる人間に選挙権を制限していた時代は、必ずしも不当な差別を基本としていただけとは言えないのではないかとも思える。

ブッシュ大統領を選んだアメリカの選挙は、それまでは選挙に関心がなくて行かなかった層が多く参加したと言われている。ブッシュ大統領が誕生したらアメリカの行方はどうなるかという判断において、深く考えていない人々が多く投票したとも言えるかも知れない。しかし、民主主義という制度を選んだ時代には、たとえそのような結果が出ようとも、その結果を受け入れなければならない。民主主義というのは、結果が間違っていると確信出来ても、多数決で選ばれたものは拒否出来ないものとして受け入れなければならない。




「以上述べたように、民主主義を生の形で子供に教えることは、問題点が多すぎる。論理と多数決を中心に議論を展開し、議を決する手法は、確かに重要ではあるが、多くの子供は、そのあまりにも冷酷な結果に面従腹背するであろう。自分にとっていかに不利な結果といえども、甘んじて議決に殉ずる、などという態度は、そう易々と身に付くものではないのである。
 だからこそ一刻も早く指導するべきである、などという考え方には賛成しかねる。そもそもその意味を、特にその隠された残虐性を、理解も想像も出来ない子供が、いたずらに「民主主義」なる言葉をもてあそんで討論に及べば、ほとんどの場合、声の大きな子供が声の小さな子供を圧するにとどまるであろう。弱者救済とばかりに意気込んで議論を勧めても、結局、早熟な強者に「新たなる武器」を与えるだけで終わってしまうだろう--そして、両者の溝は一段と深まるのである。」


声の大きな人間が圧倒するという姿は、子供ばかりでなく、大人でさえも、日本社会にはよく見られるものだ。民主主義が、そのような結果しか出さないものであれば、むしろ民主主義は欠点の方が多いのではないかとも思える。我々にとって大事なのは、民主主義的な多数決を出来るだけ使わないようにすると言うことなのではないかとさえ思う。

つまり、冷静な判断力があれば正しく結論が導ける問題であれば、それは正しい判断を見つけると言うことが問題になるのであって、賛成者が多数であるということは末梢的な問題になる。だから、その問題が多数決にふさわしい問題であるのかどうかというのを議論することがまず重要だろう。多数決をするのにふさわしくない問題は、民主主義的な決定をしてはいけないのである。

しかし、どうしても結論を出さなければならない問題もある。そのようなときは、結果的に起こる影響に対して、賛成者にもっとも重い責任を課すべきだろうと思う。そして、責任を取るだけの能力がない人間は、その決定に対しては投票権がないという判断も重要ではないかと思う。



仮説実験授業は、人々の意見が多様であると言うことも教えてくれる。そして、その多様な意見を処理するときに、多数決ではない方法で処理する仕方を教えてくれる。そこから、多様な意見が存在する問題で、どのような問題が多数決で処理するのにふさわしいかということも考えさせてくれる。それこそが、おそらく本当の意味での民主主義教育だろう。

例えば学校において、日の丸を掲げ、君が代を歌うことは、多数決によって決定するのにふさわしい問題なのかどうか。これを考えてみることは、民主主義を深く理解するのに役立つ考察になるのではないだろうか。このこと自体には、多様な意見があるだろうが、その決定を多数決で行うかどうかで、民主主義に対する態度というものが分かるのではないかと思う。





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最終更新日  2005.12.29 11:15:07
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