真理を求めて

真理を求めて

2006.01.14
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カテゴリ: カテゴリ未分類
仮説実験授業の討論を考えると、実りのある議論というイメージが分かってくる。それは、ある種の真理と結びついて、真理を確認するための議論というものになっている。そして、その際に感じるのは、その真理がいかなる真理であるのかということが明確で、「論点」がハッキリしていると感じることだ。

「ものとその重さ」の授業では、体重計で測るという実験があったが、このときに何が真理かということを考えているその「何か」は、体重計の目盛りが変化するかどうかと言うことだった。つまり論点は、体重計の目盛りの指し方であり、最初から最後までここから議論がはずれることがない。

実りある議論では「論点」がハッキリしていてそれがずれることがない。それは実りある「論点」だと呼んでもいいだろう。それに比べて、ディベート的な議論では論点が定まらない。それは、最後に決着をつけるべき実験がないからだと考えられる。もしかしたらそのような決着をつける実験が最初から存在しないかも知れないものを議論している場合もある。

僕は、ディベートというものをある種のゲームだと思っているので、勝つためには相手の弱いところを攻めるという戦略が当然あるものだと思っている。そうすると、論点を絞って議論するのは不利な場合もあるだろう。自分の主張に理がないときは、論点を絞ったらそれが明らかになってしまう。出来るだけ論点をぼかして相手の失策を待つのが戦略として有効だ。自分に有利な論点にずらすのはディベートの戦略としては当然一つのテクニックだ。

だから、ゲームとしてディベートを楽しんでいる人に対しては、それに対して何も言うことはない。勝ったり負けたりするのは運によるのであって、議論の中身が正しいからではないからだ。スポーツと一緒だ。サッカーにおいて、どんなに相手が強くてもゴールが入らなければ負けることはない。運良くゴールの中に転がれば1点だけでも勝てることがある。審判が見ていなければ反則をしても見逃される。ディベートはゲームである以上、そのようなことがいくつもあるはずだ。

このゲームによってある種の論理能力も育つだろうが、僕には関心がない。そんなもので育つ論理能力は、他の練習で伸ばした方がいいと思っている。むしろ相手を論駁することが目的のディベートというゲームでは、論点はその目的のみで選ばれるもので、そこからは実りのある議論は出てこないと僕は思っている。これは、実りのない「論点」だと言ってもいいかも知れない。

神保哲生氏のマル激の話を聞いていて、ディベートにもその使い方を工夫すれば有効性もあり得るという点を一つ発見した。それは、議論をしている双方の違いを確認するという作業においてディベートを利用するというやり方だった。ディベートは、一見正しさを争って議論しているように見えるが、実は、双方の立場の違いや視点の違いというものが、論点の選び方や論理の展開の仕方から伺うことが出来る。それを一つずつ細かくチェックしていけば、対立している両者の違いの構造を浮かび上がらせることが出来るという。

ディベートというものを、このような自覚を持って行えるなら、その弊害はかなり薄れるだろうと思う。しかし、そのためには優れた審判と、ディベートをする双方が、それがディベートだという深い理解があって、お互いがルールに従っているという信頼感がなければならないだろう。インターネットで展開される、ルールなし・審判なしのディベートごっこでは、おそらく神保氏が語るようなディベートの有効性は現実化しないと思う。

ディベートごっこをしている掲示板を眺めていると、双方が論点のすり替えを主張していたりするが、僕から見ると、元々論点があるようには見えなかったりする。それぞれが勝手に自己主張しているだけで、相手に応じて論理を展開しているようには見えない。そこで改めて「論点」というものを自覚するためによく考えてみたいと思う。これは、果たしてどのようなものを指すのだろうか。



しかし、一見対立しているように見えながら、実は両立するようなことを言い合っているときは、まったく「論点」がないとも言えるのではないかと感じる。例えば、リンゴの属性を巡って、ある者は赤いと主張し、ある者は丸いと主張したとしよう。このとき、赤いという主張の中には「丸くない」という主張も含まれていると考えられるケースがある。同様に、丸いという主張には、「赤くない」という主張も含まれていると考えられるケースもある。

それは次のように考えるのだ。色なんて関係ないという立場なら、赤なんてどうでもいいという見方になる。この「どうでもいい」という見方が、「赤なんて属性は大事じゃない」という意識につながり、それが短絡的に「赤じゃない」という意識につながる。

これは、色そのものを否定しているのではなく、色を重視する立場を否定しているのだが、「大事なのは」赤じゃない、という意識が「大事なのは」という条件を落としてしまうと「赤じゃない」という相手の主張の否定だけが見えてきてしまう。こうなると、対立的ではない「赤である」と「丸い」という主張が対立的になってくるわけだ。

これは結果的に対立した主張を展開していることになる。しかし、これはリンゴの属性を巡る論点にはなっていないと僕は思う。赤いという主張に対して、それは赤くない、丸いのだというのは、正反対の主張を対置しているのではなく、単に違う観点からの見方を対置しているに過ぎない。形を見るという観点を捨てて、色を見る観点に移行すれば、それはすぐに赤いという主張も成立することが見て取れる。

双方の主張は並立するものであり、排他的な関係にあるのではない。色という観点で見たいのなら、どうぞご自由にと言うことでいいのだと思う。そうも解釈することも出来ますね、ということですむ。しかし、自分は色という観点を無視するのだという観点を取れば、違う解釈が成立することはごく当たり前のことになる。

このときに、色が大事か形が大事かと言うことが論点になりそうな気もしてくるが、それは論点になったとしてもあまり実りはないだろうと思う。どちらが大事かと言うことの根拠がこの場合は客観的にはないだろうと思うからだ。こういうつまらないことを論点にしてディベートごっこをするよりも、世の中には面白い問題がたくさんあるのだから、そちらの方を考察した方がいい。

このように、一見対立的な意見で議論をしているように見えても、その対立が、排他的なものでなく両立するものであるならば、それは本当の意味では論点になっていないと考えることが出来る。相手の前提を確認して、その前提であれば、そう見えても仕方がないですね、ということが確認出来ればいいのである。ただ、自分がその前提を持たないのであれば、結論に賛成することは出来ないし、それが本質的なことではない末梢的なことだと考えるのなら、わざわざ深い考察をすることでもないといえる。

論点が本当の意味での論点になり議論が成立するには、それが排他的なものでなければならないだろうと思う。究極的には、「Aである」という主張と「Aでない」という主張の対立が、論点としては明確なものだろうと思う。すべての論点が、この形に還元出来るものであるならば、論点があるかないかの判断は簡単になるだろう。

仮説実験授業の場合は、必ずしも二つの意見を巡る討論ではないが、一つが成立すれば、他の意見は成立しないという関係があるようにも思う。体重計の問題で言えば、いずれかの場合が他よりも重い数字を指せば、「どれも同じ」という主張は否定される。両立する主張ではなくなる。これが、論点としての明確さをもたらしているのだろう。

しかし、ここで注意しなければならないのは、条件付きの命題である仮言命題「AならばB」という主張において、結果のBが排他的に対立しているからと言って、それが論点になると単純には判断出来ない場合があるときだ。

Aという前提の元に結論したBと、Cという前提の元に結論したBでないと言う結論が、排他的に対立していても、それは十分両立しうる場合がある。同じAという前提の元で、Bであるという主張と、Bでないと言う主張が生まれたならば、これは排他的な論点になるが、その前提が違えば排他的ではないかも知れないのだ。議論における前提の重要性は、それが論点であるかどうかという判断にも関わっているのだと思う。



対立した主張に論点が含まれているかどうかを、排他的に成立する主張かどうかという点で判断をしてみたいと思う。その主張が排他的に成立しないのであれば、十分両立しうると言うことになる。両立するのなら、それは単に解釈の違いに過ぎないのである。僕は、このような議論らしきものには、実は論点は存在せず、形として議論らしくなっているだけで、僕がイメージする議論ではないと考える。

最後に蛇足ながら付け加えておくと、論点が存在して議論になったとしても、それが実りあるものになるとは限らないと考えられる。実りあるものになるためには、さらに他の条件が必要だろう。仮説実験授業の場合は、その議論が最後に実験で決着がつくということがある。このように決着がつけられる方法が存在する論点は、実りある議論につながるのではないかと、僕は考えている。決着をつける方法がない議論は、お互いの解釈の違いを理解し合うことが最大の目的になるべきだろうと思う。もっとも、議論などしなくても、実りある対話はいくらでも出来るのだから、僕はそういうコミュニケーションを楽しみたいと思う。





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最終更新日  2006.01.14 11:35:43
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