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私のブロ友で「鹿児島古寺巡礼」(南方新社)の著書のある川田達也さんが、この度、窪 壮一朗さんとのプロジェクトで「鹿児島の磨崖仏」を作成されて昨日の地元南日本新聞に紹介された。私が鹿児島の史跡についてネット・サーフィンをする中で川田さんが「rinzo」のペンネームで書かれるブログ「薩摩旧跡巡礼」を知り、コメントをお互いにやり取りするようになった。同じコメント仲間に「薩摩兵児」さんも加わっていたのだが、その薩摩兵児さんから2015年7月24日に鹿児島市皷川町にある「地蔵菩薩」の日頃は開帳されない「秘仏」が、六月燈のその日のみ開帳されるのでrinzoさんと3人で見に行きませんかとのお誘いがあり、当日、現地でお会いしたのが初対面であった。このときのことは、2015年8月16日の当ブログに詳細を書いている。 その後、川田さんは、これも私のブロ友である「本○どん」などの後押しもあって島津家一族の墓地を巡り「鹿児島古寺巡礼」を上梓された。若手だが前途有望な歴史家である。 2020年12月5日、今回の「鹿児島の磨崖仏」プロジェクト主催の「鹿児島磨崖仏巡礼 Vol.2」の講座に参加した。講師は、もちろん川田達也さんと窪壮一朗さん。この日の内容は先ずは霧島市隼人町神宮にある「沢家墓碑群」の話だった。磨崖仏とは直接関係はないが、以前私も訪ねてブログにも書いた史跡なので興味深く聞いた。次は南九州市川辺にある「清水磨崖仏」。 ここには私も数回訪れて日本でも有数の磨崖仏群に圧倒されて詳細の見て回り、写真も何十枚も写してブログにも書いているので楽しみながら講座を聞くことだった。最後はさつま町にある「下丁場磨崖仏」。ここは鹿児島史談会の史跡めぐりに一般応募して参加したときに訪れた一ヶ所である。ブログも書いた。梵字主体の磨崖仏が並び壮観だった。梵字は勉強不足で詳しいことは分からないが、ここも興味深かった。梵字の勉強も少しはしないといけない。 この「鹿児島の磨崖仏」は新聞掲載の前に川田さんからのご厚意で人伝にいただくことができたので、全ページを小さいながらも全部写真に写してブログに書くことができた。というのは、私が毎月一回、歯科クリニックで歯のクリーニング? をお願いしている同じクリニックに川田さんも毎月クリーニングに来ていて一回そこで会ったことがあった。そのクリニックの院長は私の高校の同期生の息子さんである。院長も川田さんの「鹿児島古寺巡礼」を読んでおられるそうで、私が行くといつも歴史の話、川田さんの話で盛り上がるのだ。今回その院長に私の分も預けてあって、私が行ったときにいただいて帰ったのだ。 今回、記載された磨崖仏は61ヶ所だが、これからも追加があるそうだ。61ヶ所のうち、私がこれまで見学したのは、○印をつけた14ヶ所のみである。これからの楽しみという点では前途有望だが、さてこれから何ヶ所行けることやら、というのが今の気持ちである。
2022.04.29
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過日、仙巌園の先にある「花倉坂の大魔崖梵字群」を幸運にも訪ねる機会があった。これについてはネット上の「かごしまデジタルミュージアム」にある「花倉坂の戦跡と磨崖梵字」というところで知ってはいた。曰く「西南戦争で激しい戦いがあったところです。またここは磯別邸の北の方向にあるため梵字を刻んだ大きな磨崖があります」という簡単な説明だけがついている。写真も一枚だけ掲載されているが、木の陰などで全容ははっきりしていなかった。ただ彫られた文字の力強さと迫力は凄いものがあったので、是非見たいと思っていた。あとで分かったことだが、2月に一人で「花倉御仮屋跡」を訪ねるべく近くまで行って、残念ながら見つけることが出来ず、花倉坂の屋根付石塀を見てその先にあった本道から右に入る道を途中まで行ったものの、何も発見できなかった道をもう少し進んでいれば、あるいはその時、磨崖梵字を見たかもしれないという場所だった。 説明者によると、三面に梵字が彫られているとのことで、上の写真は二面が隣り合っているのを、写したものだ。 右に「大日如来五字真言」 左に「帝釈天」 東方の守護神 二面が見えた場所から左に10mくらい進むともう一面を見ることが出来る。 「十一面観音十二梵字呪文」 実物を初めて見ることが出来たが、彫の深さ、力強い立派な梵字、大きさに圧倒されて、言葉が出なかった。こんな山の上にこのようなものが彫られているには深い意味があるのだろうが、梵字の勉強をしていない私にはこれ以上のことを書くことが出来ないが、勉強していずれかの機会にそれを書ければいいなと思う。
2014.05.28
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祠堂型の大きな墓が並ぶここは、宮之城島津家の墓地である。宗功寺墓地(松尾城跡)という。宮之城島津家は島津家中興の祖と言われる伊作島津家の忠良(日新公)の三男・島津尚久に始まる島津家の分家である。長兄は島津本家15代当主・貴久である。朝鮮への出陣、関ヶ原の戦後処理など島津氏に対する貢献度は高く一族としては例外的に家老職として貢献したと言われる。 ここは2代目・忠長が慶長のころ(1596~1615年)京都妙心寺の末寺として「大徳山宗功寺」として創建し、廃仏毀釈まで続いた。2代目忠長から現在まで35の墓石と「祖先世功碑」がある。(宗功寺墓地案内板) 亀の上に乗る碑文「祖先世功の碑」 亀を大写しすると迫力のある表情をしている。「延宝6年(1678)の春、五代・久胤(久竹)がこれを建てる」とある。久胤の当時幕府の弘文院学士であった林春斉の名文が刻まれている。碑の文を一度も間違わずに読み上げたら亀が動き出して川内川の水を飲みに行くと言う伝説があろ(案内板による) これに似たものは島津本家の福昌寺墓地にもあるが、どういうものなのかネット上で調べてみた。「墓前の亀趺というのは、古墳時代の終焉と共に終わった大型墓葬の一部が江戸時代に復活したもの」とある。そして「日本の亀趺を一瞥」というところにこの宮之城島津家墓地、福昌寺墓地を含め日本全国の亀趺が30ヶ所以上紹介されている。
2014.02.19
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(2018年9月14日撮影の「南洲翁終焉之地」碑) 西郷隆盛の最期の様子については地元鹿児島でもあまり知られていないのではないか。西郷の最期については、2018年9月2日の当ブログ「西郷どん 城山へ向かう。140年前にタイムトラベル」に少し触れている。それは明治10年9月1日が西郷が鹿児島に退却した日から140年に当たるため「上町維新まちづくりプロジェクト」が主催したこの催しに友人たちと参加して書いたものだ。 明治10年(1877)2月15日、鹿児島では珍しい大雪の中を薩軍1番隊が熊本方面へ向かう。それを追って2月17日、西郷も桐野利秋などと出発する。 それより前、東京から送り込まれた警視庁警部中原尚雄らの告白に基づく西郷暗殺計画の陰謀があったことを知り、上京の理由として西郷、桐野利秋、篠原国幹の連名で「今般政府へ尋問の筋これあり」と初代鹿児島県令(知事)大山綱吉に届けた。 それから約半年、戦い利あらず最後の激戦、宮崎延岡での「和田越の戦い」に敗れて約600名が城山まで退却の道を辿る。 最後の時は来た。明治10年9月24日午前4時、官軍の総攻撃が始まった。その様子を「西郷の女たち」の著書のある作家・阿井景子さんが「文藝春秋」平成29年12月1日発行の「12月特別増刊号・永久保存版」「西郷隆盛を知る」の中で「西郷はどのように死んだのか」という一文を書いている。「明治10年9月24日、西南戦争の城山で西郷は斃れた。しかし、どのような最期だったのかは、あまり明らかにされていない。信頼できる資料を元に『その時』を検証する」と書き始めている。私なりのまとめ方で、概略を述べたい。 いきなりだが、西郷の介錯をした別府晋介の刀が出てくる。ふつう介錯には脇差ではなく長刀が用いられているが、あらかじめ西郷から介錯を頼まれていた別府は長刀を用意していたと思われる。その別府の刀はどのようなものだったのか。「鹿児島之史蹟」の著者・林吉彦氏は「二尺八寸丸田惣左衛門正房」の刀を揮って介錯した、と記している。陸軍少佐だった林は大正13年3月予備役になると、西南戦争の生き残りを訪ねて精密な調査を行った。文献を調べ、現地を踏査し、西南の役体験者の談話を集めた林は、その談話に潤色が多いことを指摘している。 そして林の記述をもとに、西郷の最期を検証している。というのも従来の書物の多くが、緊迫した戦況、岩崎谷の地形を念頭に置いていないからだという。明治10年9月24日。 西郷が城山の洞窟を出たのは、午前6時過ぎだったと思われる。洞窟前に勢揃いした桐野利秋と40余名の将兵は、西郷を囲むように走り出す。岩崎谷入り口堡塁に移動し、全員斬り死するつもりである。だが、堡塁に向かう谷底の道は幅2間の狭さで、行列は縦隊にならざるを得ない。恐らく将兵は西郷を行列の中に挟み込み、2,3人づつ駆け下りたと思われる、岩崎谷が火点(鉄砲など装備)となっていたからで、政府軍はわずか2時間の間に、城山の他の塁をすべて陥れていた。彼らは唯一残った岩崎谷堡塁(薩軍はここを本営にしていた)をめがけて、鉄砲を猛射した。薩軍が歩いて移動できるような状況ではなかった。古老の話にも、40余名の将兵は「黒い疾風のように走った」とあるそうだ。そのあと、走り出した途端に桂久武が雨のように注ぐ弾丸に斃れたとか、雑誌、書籍によく書いてあるように、この谷道で辺見十郎太が「この辺でどげんでしょうか」と自刃を問うと「まだまだ」と答えたといったというが、そんなのんびりした状況ではなかった。別府晋介の下僕で大内山平畩(ひらげさ)(加治木出身 当時16歳)は、そのことを裏付けるように「官軍の弾丸がどんどんくる中を・・・進むなかに沢山の人が弾にあたって倒れていた」と述べている。平畩は、畩市(垂水出身)と二人で別府晋介の輿(別府は脚に負傷し、歩行困難)を担ぎ、西郷のあとに続いていた。だが島津應吉(まさよし)邸(下記地図参照)の少し上で、畩市が弾丸にあたって動けなくなったので、平畩は別府を背負い坂道を駆け下る。以下、平畩の話。 私は別府さんを背負って進みました。そのため西郷さんなどからは少し後れました。そして島津さんの前に行った時、西郷さんが股を撃たれ少し脚を上げて停まっておられましたから、別府さんが先に行く方々に「先生が弾丸に中っておられるが、いけんすっか」と叫ばれました。西郷さんは別府さんに向かって「もー歩かれぬから、首を斬ってくれ」と言われましたから、別府さんが一撃に斬られました。その時私は別府さんより先に岩崎谷台場(堡塁)右手(坂を下って行くと左手)にある鮫島さんの内(うち)に着きました。 別府は西郷の首を一撃で斬った。ぐずぐずしていたら別府も弾丸にやられていたにちがいない。平畩がいなくなったので、西郷の首は薩軍の士が持って去り、土中に埋めたという。(『鹿児島之史蹟』より) 前述の平畩はその後政府軍に捕らえられる。そして最後にこう述べている。「・・・その後私が米蔵に送られるため今の高野山の辺りを通る時に、別府さんの輿に西郷さんの屍体を載せて通るのを見ました。 以上が阿井景子さんの文章の概略である。 下の写真は一番上の写真にある「南洲翁終焉之地」碑(マンションの手前)前から城山洞窟方向を写したものである。この坂道を下ってきたが、西郷が自決し別府が介錯した場所はずっと先に小さく見えるマンションの向こう側である。 下の写真の場所が島津應吉宅があった場所で、この辺りが最期の場所である。 下の写真の手前の建物辺りが西郷の首が発見された場所とされる。その後のことについては別な読み物がある。「西郷の首を発見した男」の話 である。機会を見て続編みたいな形で書けたらいいと思っている。
2022.02.06
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「2018年 かんまち本でさるく 上町歴史散歩」に参加し「知られざる薩摩の英雄たちが眠る興国寺墓地をめぐる①」に行ってきた。今にも降り出しそうな天気だったが、幸い雨に降られることもなく、無事終了した。 上の写真の興国寺墓地は元々は興国寺のあった場所である。興国寺は、曹洞宗 福昌寺の末寺で島津家11代忠昌、及び18代家久の夫人持明院の菩提寺だった。 明応5年(1496)忠昌は、清水町(清水中学校プール裏手)に興国寺を創建した。その後、12代忠治が同地に大興寺を創建したため、城山下の鶴丸城の地に移されるが、築城が始まると、ここ冷水町に移設された。 明治の廃仏毀釈後、興国寺跡は、現在興国寺墓地となり市が墓地を継承した。また南林寺墓地の市街化に伴い、大正期に拡張整備され、多くの墓がこの場所へ移転した。現在市内に18ヶ所ある市営墓地の中で最も古く、明治43年(1910)に開設された。 「薩藩旧記雑録」という藩の史料をまとめた 伊地知季安(いぢちすえやす)、季通(すえみち)親子の墓標。 左が季安 天明2年(1782)~慶応2年(1867) 右が季通 文化15年(1818)~明治34年(1901)の墓 伊地知季安は文化5年(1808)26歳の時、近思録崩れに連座して奄美の喜界島に遠島になる。3年後に帰ってきたが、その後40年も役職につけず苦しい生活を続けた。嘉永5年(1852)28代当主・島津斉彬にみとめられて記録奉行となり、史料収集をし、親子2代でまとめた。それが「薩藩旧記雑録」とよばる島津家及び薩摩藩家臣の鎌倉時代から明治時代までの文書集である。島津家、及び薩摩藩の歴史研究の根本資料といわれる。現在順次発行されている「鹿児島県史料」で見ることができる。 「近思崩れ」とは?江戸時代後期の文化5年(1808)から翌6年にかけて薩摩藩で勃発したお家騒である。「文化朋党事件」「秩父崩れ」ともいわれる。処分者の数は有名な「お由羅騒動」(高崎崩れ)より多い77名であり、薩摩藩の経済改革が遅れる原因となった。処分された秩父季保らが「近思録」(朱子学の教本で、儒教の実践に重きを置く)の学習会によって同志を募った事からそうよばれている。 伊地知家初代からの招魂墓 高崎五郎右衛門・正風親子の眠る高崎家の墓 五郎右衛門 享和5年(1801)~嘉永3年(1850) 正風 天保7年(1836)~大正元年(1912) 高崎五郎右衛門は、薩摩藩の船奉行を務めていた。嘉永2年(1849)、お由羅騒動(高崎崩れ)で島津斉彬派を指導したことが、藩にばれてその罪で咎を受け切腹させられた。 正風(まさかぜ)は歌人(二条派・桂園派)としても知られる。五郎右衛門の長男。正風もお由羅騒動に連座して奄美大島に流罪となる。その後、八田知紀について和歌を学び、桂園派歌人として有名になり、宮中のお歌所長となった。明治23年(1890)、皇典講研究所所長山田顕義の混声により初代國學院院長(明治26年まで)を努めた。 「お由羅騒動」(高崎崩れ)とは?島津家27代当主・薩摩藩10代藩主の島津斉興の後継を巡る嶋津家の家督争いである。本来は島津斉興の正室である周子(かねこ)の子、斉彬が家督を継ぐべきであるが、藩主であった島津斉興本人や側室であるお由羅の方(NHK大河ドラマ「西郷どん」のお由羅役の小柳ルミ子の怪演? で有名になった)、側近で倹約主義の調所広郷(ずしょひろさと)らが、お由羅の方の子、島津久光を後継にしようと謀ったことに端を発する騒動である。 高崎五郎右衛門の墓 参考資料として「かんまち本、その二」、現地案内版などを参考にした。
2018.05.19
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「西郷隆盛御座石」を後に、向かったのは坊野上にある「西郷殿屋敷跡」。ここを知ったのは、昔読んだ 阿井景子著「西郷家の女たち」(平成元年・1989年8月10日 第一刷)の「あとがき」(昭和61年・1986年書いている)を読んでからである。そこには概略次にようなことが書いてある。 「そんなところに行っても、何もないのでは・・・・・・」”坊野(日置郡吹上町)に行く”という”私に、鹿児島ではあやぶむ声もあった。しかし私は鹿児島取材を思い立った時から坊野・西別府をコースに組み入れていた。 あとがきはこのような書き出しに始まり、「坊野」に行きたいと思ったのは、文献に西郷家に仕えた女中・よしの家がそこにあるというのがわかったからだ。すでに吹上町役場の佐土原さんには連絡済みで南日本新聞の高柳さん(「西郷隆盛伝・終わりなき命」の著者で後に西郷南洲顕彰館館長)が同行してくださる段取りがついていたとある。吹上町では佐土原さんの案内で「よしの家」に案内され、よしの子孫・黒川ゆきえさんから吉之助(隆盛)やいと(隆盛の妻)の話を聞くことが出来た。ゆきえさんは、西南戦争の時、いとが女・子供たちを連れて避難した当時の場所に住んでいた。下の案内板にあるように西郷はよし夫婦に家を一軒建ててやったが、よし・仁太夫婦は西南戦争後その家は売ってしまっていた。その理由をゆきえさんは「広か家なので、西郷さんの魂が籠っているようで、こわかったとおばあちゃん(よし)が言うておりました」と語ったそうだ。「よしさんが売った西郷さんの家は、この山の上のほうに残っていますよ」前もって調べてくださっていた佐土原さんが、舗装の切れたデコボコ道を誘う。「あの家でしょうか」高柳さんの車を下りた私は、竹藪に囲まれた家を指差した。「あんなものではないでしょう」高柳さんは言下に否定し、「西郷さんが建てた家ですから、きっと立派だと思いますよ」と言う。道路から細い坂道を上がると、山を切り開いた場所に二軒の家がみられた。佐土原さんがその一軒に近づいて行く。なるほど高柳さんの言葉通り、吉之助がよしに与えた家は立派で堂々としていた。百十年の歳月が感じられぬほど真新しく、がっしりしている。「手を加えられたのですか」「いいえ、土間を少し広げただけで、むかしのままです」住んでいる婦人は、西郷さんの家とは知らずに、私の問いに答えた。 以上の他に、この後、鹿児島市内の西別府の西郷さんの野屋敷を訪ねたことが書いてある。これを数年前に読んだ私は、特別な感慨を持つこともなかった。しかし、先日来、Kくんから回してもらった井口富雄さんの「史跡ひとり歩き」を読む中で私が昔住んだ鹿児島市武町にあった「西郷屋敷」の写真を見て、そこに住んだ人々の事を思い「西郷家の女たち」を再読した。そして驚いた。なんと「よし」の家が親交のある「本〇どん」の住む吹上町永吉だという事実である。そこで、よしの家が現在もあれば、訪ねてみたいと思い、本〇どんに詳細を書いてメールした。日を置かず返信がきた。地元の事ゆえもちろんご存じのことであり、いつでも案内しますという嬉しい知らせだった。私は「高校同期歴史同好会」のメンバー3人に呼び掛けて、この「永吉史跡めぐり一日旅」が実現した。当日はMくんが車を出してくれるということでMくん宅を午前8時に出発したのだった。 ほん〇どんの話によると、この「西郷隆盛開墾の碑・手水鉢」のところにある家はよしの家だが、西郷さんがプレゼントした家は柱野にあった。今はもう壊されているとのことで、見ることは出来なかった。 (西郷隆盛開地の碑) 西郷さん手づくりの手水鉢 同じ場所ある昔の家は空き家になっている。 上の写真にある西郷隆盛手水鉢(西郷屋敷跡)・開墾の地は坊野上にある。西郷さんがよしにプレゼントした家は柱野にあったが、現在は壊されていた。
2021.03.17
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名護屋城を後に向かたのは同じく佐賀県唐津市呼子町呼子。ここは漁業が盛んで新鮮な海産物と「呼子の朝市」で知られ観光客も多い。夏には呼子大綱引きが行われ町全体が賑わうという。松浦半島の北部に位置しており、気候は玄界灘からの北風の影響により夏は比較的に涼しいという。沿岸はリアス式海岸になっている。呼子港のすぐ前に位置する加部島とは呼子大橋が平成元年(1989)に」開通して結ばれた。沿岸部は玄海国定公園に指定されている。 泊まったホテル 部屋からの眺めに癒された。 よるの宿の食事には呼子名物の「イカの生きづくり」を中心に海の幸のオンパレードだった。 朝食の後、「呼子朝市」へ 私は約30年くらい前に初めて呼子を訪れて以来、数回ここには来たがいつ訪れても新鮮なイカをはじめ海の幸に満足して帰る。 江戸時代、捕鯨によって栄えた呼子町「鯨一頭で七浦潤う」一頭の鯨が七つの漁村を豊かにすると言われ多くの人が集い「鯨組」が形成されたという。中尾家は江戸時代から170年に渡り捕鯨業を営んだ一家で中尾甚六はその初代当主であり、その家も残っている。 ちょい旅はまだ続きます。次は同じ佐賀県伊万里の「秘窯の里 大川内山」に向かいます。
2025.09.01
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井沢元彦著「日本史の反逆者 私説・壬申の乱」は(以下第一章 血風の峰 本文)は、次のような書き出しで始まっている。 真紅に染まった太陽が、山の陰から昇り始めた。山に囲まれた不破の関、後世、関ケ原と呼ばれた一帯を見おろす峰の上で、大海人(おおあま)は夜明けの空気を胸一杯に力強く吸い込んだ。壬申の年(672)7月23日のことである。(ついに、わしは帝に勝った)大海人は満足げにあたりを見回した。 大海人とは、この後に天武天皇になるその人である。壬申の乱に勝利した大海人がそこから20数年前のことを鮮やかに思い出すというこの場面から、一気にその当時に戻り、話は展開していく。物語は飛鳥時代、大化の改新の主役である中大兄皇子(後の天智天皇)が中足鎌子と出会う当たりから乙巳(いっし)の変、大化の改新、白村江(はくすきのえ)の戦い、そして壬申の乱に至るまでのことである。中大兄皇子(後の天智天皇)の異父兄弟として,実際は大海人の方が兄でありながら、中大兄皇子の弟とされ様々な確執や憎しみがあった。その兄・中大兄皇子からいいように使われて遂に20数年後に爆発したというのが壬申の乱であったと物語はいうが、作者も「私説」と書いているように実際はどうだったのかはここでは知ることはできない。しかし、そのフィクションもあるだろうこの小説を面白く読むことができて、古代史初心者として、さらにこの時代や人物に興味が深まった。「県民だより奈良」によると、今年、令和4年は西暦672年に起きた壬申の乱から1350年にあたる。天武天皇・持統天皇が「飛鳥・藤原」で国家の礎を築く出発点となった出来事としている。関ヶ原の戦いは、岐阜県不破郡関ケ原、慶長5年(1600)、徳川家康と石田三成の率いる東西両軍がこの地で戦った。その約1000年前、古代日本の命運を決める合戦が同じこの地で行われていたのだ。天智天皇亡き後の皇位を賭けて、吉野に挙兵した弟の大海人皇子は、尾張・美濃の軍隊数万を率いて、この不破の地に陣したのだ。叔父(大海人皇子)と甥(天智天皇の子・弘文天皇)の間で争われた、古代史上最大の戦闘だった。 「日本史の反逆者」を読み進む中で、当時の結婚の特異さが目についた。それは、一族を血縁で固めて、未来永劫に血族で国を統べていくという狙いがあったからだろうが、それにしても現代の考えからすれば異様と言っていい。もちろんそういうことは、中世の島津家の歴史の中でもその例にもれないことは、これまで何回も当ブログにも書いてきた。 今回「松本清張の日本史探訪」の中の「皇位を賭けた古代の大争乱 壬申の乱」を紐解いてみると、松本清張と梅原 猛(哲学者 「隠された十字架 法隆寺論」など多数の著書あり) 両氏の対談があり、その中でも皇室の女性についても概要次のような対話がある。 松本:当時の宮廷では、一人の女性がいろいろな男性と交渉をもつのは、普通のことでした。宮廷の結婚も、異母兄妹、伯(叔)父・姪が一緒になった。たとえば、天武天皇の妃には、天智天皇の娘さんが四人も嫁入っています。額田王がどれだけの才女かしれないし、また、どれだけの美人かわかりませんが、まさかその一人を争って壬申の乱が起こったとは思えませんね。 梅原:私は、額田王というのは、「万葉集」には三角関係が出てきますけれど、もう少し別の意味があるのではないかと思います。額田王というのは、初め大海人皇子、つまり後の天武天皇に愛されて、その妃となる。 ところで、大友皇子(天智天皇の子で後の弘文天皇)の妃が十市皇女(天武天皇と額田の間の娘)ですね。大友皇子と十市皇女の間には葛野王(かどのおう)が生まれる。そして葛野王が生まれてから、天智天皇はやっと大友皇子を後継者にすることを決意している。 つまり、可愛い孫の顔を見たら、もう天下を異父弟の天武天皇にわたすのが惜しくなって、子の大友皇子を天皇とする。そして、その後継者が、天武天皇の血を引く葛野王であるならば、天武天皇も了承してくれるというような思惑が、天智天皇にあったと思います。 しかし、このように大友皇子と十市皇女を結びつけたのは誰でしょうか。それはやはり額田王ではないかと思います。自分の前の恋人の間の子である十市皇女と、後の恋人の天智天皇の子の大友皇子を結びつける。そうすれば、天武天皇と天智天皇もうまくゆくであろう、そういう計算が彼女の中なあったのだと思います。ところがこの計算は狂ってしまう。彼女は持統天、あの意志の強い、誇りの高い天武の妃の存在を無視したことになります。私は壬申の乱は、その意味で、額田王の計算の狂いから生じたものと言ってよいと思います。 なるほど、自分の中で結論はでないが、梅原理論は納得のいくものだと思った。今回はこのあたりまでとします。 (ネットから借用した。系図参照ください)
2022.07.15
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次に訪ねたのは、桐野利秋(中村半次郎)の誕生地。それは、道路から少し上り坂を進んだ見晴らしのいい場所にあった。1838年、別府晋介と同じ鹿児島郡吉野村実方の下級武士の家に生まれる。(別府とは従兄弟)無類の豪胆さで勤皇の志士として活躍し、一般的には中村半次郎の名で有名である。示現流を体得し、佐幕派に恐れられ「人斬り半次郎」の異名をとる。戊辰の役で大きな功績をあげ、明治4年には陸軍少将となる。遣韓掄(征韓論という説もある)に敗れた西郷と帰鹿し、明治7年同志と「私学校」を設立した。西南戦争では薩摩軍の四番大隊長を務めた。1977年、西南戦争の最後の城山の戦いで西郷とともに戦死。享年40歳。 桐野利秋も西郷や同じ薩摩軍の兵士たちと南州墓地に眠る。
2019.03.12
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島津義久没後400年に寄せて 猛将・義弘と苦楽をともにした妻・宰相殿(さいしょうどの) 生年不詳~慶長12年(1607)実窓婦人とも呼ばれる。園田清左衛門の娘で、広瀬助宗の養女、島津義弘の正室。島津久保、島津忠恒(家久)(薩摩守)らの生母。但し、最初の妻は北郷忠孝の娘、その後、人吉(球磨)の相良氏の娘が継室・亀徳となる。 宰相殿と呼ばれたのは、夫の義弘が参議などの官職に補任されて、参議の唐名(中国名)を宰相ということから周囲に宰相殿と呼ばれたのではないかと言われている。永禄7年(1564)、北原氏を滅ぼし日向真幸(宮崎市えびの市)の領主となった義弘は、飯野城や加久藤城(二つともえびの市)などの築城、修復を行った。そして宰相殿を加久藤城に住まわせた。天文元年(1573)にここで二男・久保(文禄の役に出征し韓国唐島で病死)天正4年(1576)三男・忠恒(18代当主、のち家久で初代藩主)などが誕生した。 加久藤城が元亀3年(1572)に島津氏の宿敵・伊東方からの攻撃を受ける。当時飯野城を守る義弘にはわずか300人の手勢しかなく、加久藤城も50人余り。眼前の伊東氏の軍勢3000人が迫り苦しい戦いとなった。勢力を広げていた伊東し当主・義佑はこの機を逃さず相良氏とも結び、真幸領内の3000人が押し寄せた。木崎原合戦の始まりだった。この戦いで島津軍の奮闘で伊東軍は川内川と池島川に挟まれた近くの木崎原(えびの市池島)まで退いた。この戦いで戦上手の義弘は敵将・伊東新次郎を討ち取るなど、相手は総崩れとなった。宰相殿は天正18年(1590)まで加久藤城に住んで、久保や忠恒(家久)などを育てた。 宰相殿は義弘との夫婦仲がよく、二人の間では義弘朝鮮への出征時にも手紙が交わされていて、お互いの愛情の深さを窺うことができる。 関ヶ原の戦いで諸々のいきさつがあって豊臣側についた義弘軍だったが、時に利あらず敗走することになった義弘に大きな課題が残されていた。息子である忠恒(家久)の妻で兄・義久の娘である亀寿が大阪城に人質として残されていたので、それを救出し薩摩に連れ帰ることが、忠恒に家督を継がせる絶対条件と考えていたのだ。人質は亀寿だけではなかった。義弘夫人・宰相殿、義弘の甥・豊久の姉らもそうだった。幸いにして知恵を絞った末に幾多の苦難を乗り越えて薩摩に帰りつくことができた。 そんな宰相殿は、慶長12年(1607)義弘より先に病没したというが、義弘は芳真軒という寺院を建てて菩提を弔った。遺骸は妙円寺(鹿児島県日置市伊集院)に埋葬されたが、明治維新後に島津家の菩提寺 福昌寺跡に埋葬された。 参考資料 「島津義弘公の概要」 加治木郷土館編集 「戦国武将 島津義弘 史跡ガイドブック」 姶良市教育委員会 「島津義弘 没後400年」 南日本新聞連載記事から 「島津一族 無敵を誇った南九州の雄」 川口 素生 著
2020.05.10
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上の写真は「古地図に見る かごしまの町」より武・荒田の水田地帯(『薩摩沿革地図』 中文政前後鹿児島絵図写) 鹿児島中央駅の西口側にある武岡が私の終の棲家であるが、子供の時も疎開先から鹿児島に帰ってきたあとそれまでの我が家(当時は武町と呼ばれていたが現在は中央町と呼ばれ駅近くの繁華街になっている)は戦火で焼けていたので、5年間武岡麓の借家に住んだのでこの周辺一帯は切っても切れない縁のある土地である。上の文政前後の地図の辺りには幕末の頃はお寺がいくつかあり、建部神社があり、神社下から田上方面に向けて農家が散在する農村だったそうだ。 下の写真は上の地図の右側に位置する場所で太平洋戦争前・昭和10年頃の地図だが、私達が住んだ昭和23年頃から私達がここを去って区画整理が行われるまでは、大体このままの状態ではなかっただろうか。 下の地図は県立図書館にあった「鹿児島市全圖」から武・武岡周辺を抜粋した部分だが、この地図も私の知る時代のもとほとんど変わらない。 下の地図は「県別マップル 鹿児島県道路地図」から鹿児島中央駅周辺を写したもの。赤く表示された鹿児島中央駅の右側が「桜島側出口」(東口)で左側にレールと共に「九州新幹線」と書かれた方向から新幹線は入って来る。左側が私達の住む武岡方面で西口がある。ただ、鹿児島本線とはT字型に入ってくるので駅舎は同じである。区画整理と新幹線とトンネルによって武岡以外は全く昔の面影は失われてしまった。 地図の左側から一般道の武岡トンネルを写した写真が下。 武岡トンネルから左に20mくらいの場所には新幹線トンネルがある。数え切れないほどある九州新幹線のトンネルこれで終わり、これを通過すれば鹿児島中央駅に滑り込む。私の記憶ではこのトンネルの辺りから左側に「島津どんの墓」があり、遊ぶ場所でもあった。新幹線立ち入り禁止の柵の前に「武小學」発祥之地の記念碑がある。この記念碑の説明文には「鹿児島市立西田小学校は明治8年12月8日、西郷南洲翁の揮毫による『武小學』の門札を掲げ、ここ武岡の麓、笑岳寺跡に創立された。西田小学校創立130周年に当り記念事業の一つとして『発祥之地』なる記念碑を建立した。平成17年12月7日 建立」とある。後に私の母校・武小学校も開校したのだが、この記念碑は「武小學」として発祥しながらも、あくまでも「西田小学校」の発祥之地だということを主張している。 このすぐ下が西郷屋敷跡の「西郷公園」であるが、二階堂家の屋敷もあった。 私は40年前に鹿児島に帰ってきて、仕事も落ち着いた頃、区画整理された昔の借家跡や友人宅を探し回ったことがあったのだが、2,3の表札でそれらしい家を見つけただけで何もわからなかった。そこで、今回は最後と思って念入りにまわってみた。結果は同じで知人の家や昔の名残を見つけることはできなかった。70年の月日は過去を捨て去っていた。
2022.01.12
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鹿児島市の鴨池動物園は私達の子供の頃、いつ行っても楽しい場所だった。終戦後の復興の中で小学校時代を過ごした私と同年輩の人々にとっても恐らく同じ気持ちであっただろう。当時は「鴨池」という名前の由来も知らず、この歳になって初めて知る始末であったが、改めて今回訪れてあまりの変わりように驚くしかなかった。 下の案内板にあるように、江戸時代、現在のこの鴨池児童公園(鴨池2丁目)の辺りに黒木屋敷という薩摩藩の家老の別荘があり邸内に大きな池があったそうだ。そこに鴨が集まりたくさんの人が鴨狩りを楽しみ、鉄板で焼いて美味しく食べて賑わった。後に島津藩第29代藩主・島津忠義が譲り受けたという。忠義は昔からの池の近くに更に大きな池を掘って禁猟区にしたので、たくさんの鴨が繁殖したという。そのようなことから人々がここを「鴨池」と呼ぶようになったという。 駒池動物園は大正5年(1916)鹿児島電気軌道によって開設された日本で4番目の歴史の古い動物園である。昭和3年(1928)鹿児島電気軌道を鹿児島市に買収され動物園も市営となった。鴨池という地域には、この動物園の他にも鹿児島市営野球場や海水浴場もあり、当時の子供達にとっては一つのオアシスでもあった。私の記憶では毎年春のお別れ遠足は市内の小学校の全てが動物園に行っていたと思う。私は昭和37年の春に鹿児島を離れたが、鴨池動物園は昭和47年(1972)鹿児島市の平川町に移転し現在は「平川動物公園」となったという。 公園内にある「鴨池」の石碑。石垣も当時のものだという。 下の写真はネットから当時の絵葉書という動物公園の写真を拝借した。私の記憶ではここは入口から比較的近い場所であり、写真でも見えるように公園の中を高架で電車が通り過ぎていた。 公園の一角に残された動物園入口の本門
2022.10.26
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