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2005.10.21
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カテゴリ: カテゴリ未分類
天宥法印

流人第1号 天宥法印は出羽の国(山形県)羽黒山の第50代の別当

でした。羽黒山といえば、月山、湯殿山とともに出羽三山として古くから

信仰が厚く、今でも大いににぎわっています。

新島村と羽黒町は現在「友好町村」として深いつながりを持っています

それは、長い間見つからなかった「天宥法印の墓」が新島で見つかった

ことがきっかけとなっています。では、天宥法印とはどんな人で

新島でどんなことをしてくれたのでしょうか。

天宥法印ははじめ「宥誉」(ゆうよ)と言う名前でしたが



黒幕的な力を持ち、大いに勢いをふるった「天海僧正」の弟子となって

その一字をいただいたからです。法印は羽黒山にあって

大きな功績をを残しました。その功績の一部を紹介します。

(1) 承応3年(1654)年近くを流れる川の水を引いて原野を開拓したこと

(2) 本殿を造り替え、参道を改修整備し、杉の木を植え神社の

領域を整理したこと、天宥は、本山の再興を図ったので後世になって

「羽黒山中興の祖」といわれたのです。

あるとき、羽黒では宗教上の争いが起きて、天宥は苦しい立場に立った

天宥は天海の力を借りて、出羽三山を統一しょうと考えました。

もともと出羽三山は、真言宗でしたが天海の弟子になった天宥は

これを天台宗に統一しょうとしたのです。



かえって対立してしまい、にらみあう結果になってしまったのです

また、増川山が寺の領地か藩の領地かで、藩主の酒井出羽守との間に

土地の境界争いが起こりました。そしてこの争いを解決するために

幕府に訴え出てその採決をあおいだところ、羽黒山の不利に終ったのです

それは万治元年(1658)のことです、そのうえ、頼みにしていた



有罪になってしまいました。そして寛文8年(1668)4月4日に

新島に流されてきたのです。天宥は新島に流された流人の中の第1号です。

新島に着いた天宥は、現在の梅田茂兵衛宅で、島の子供たちを集めて

読み書き算盤をはじめ農作物の生産技術を教えるなど

大きな功績を残しました。そして、流罪となって7年後の延宝2年(1674)

10月24日、82歳の高齢でわびしく死にました。

遺品となった印鑑1個と書画数点が今でも梅田家の家宝として残っています

その2に続く





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Last updated  2005.10.21 20:31:56 コメントを書く


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