モラルを忘れていませんか。自戒も込めて

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2008.12.07
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カテゴリ: カテゴリ未分類
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)


例えば、ある石があったとして、Aさんは、それを置物として眺め、Bさんは、それを分析して、ある成分を取り出して活用し、Cさんは、見たまま通り過ぎて、Dさんは、建物の一部として使うというような、

同じ物が、違う人によって、違う使われ方をしたり、また、それを使うことに気がつく人と、
気がつかず、通り過ぎてしまうだけの人がいる。

この差はどうして、人によって違いが出るのだろう。

石というのは喩えであって、あらゆる物事がそういうことになっているのだと思う。

逆にそういうところの仕組みが分かれば、どうして創造して行けばいいのか
わからない人に対して、解決のヒントになるのではないだろうか。



または、ヒントを与えてくれる周囲という方からも見ると、違うアイデアが生じてくるだろうか。

それは、保育園、幼稚園、小学校から、そういうアイデアや理解が生じるために教育を
受けてきて、そのつながりから、道筋を得て、獲得していくという経緯が普通なのだろうが、
産業構造が変化してしまい、今までの技術が使えなくなってしまったという出来事もある。

また、有効ということが、商品やサービスとお金と生活という縛りから考えられているもので
あるということが、私の思いの中でも前提のようになってしまっている。

むしろ、私のように、創造物や創造した事が、商品とサービスとお金というものと関連しない
ところからでも考えている、または意識的にそう考えなくても、なにかをしようとする人、
またはしてきた人が、経済的にマッチすることになった場合に脚光を浴びる場合もあるし、

例えば、クラゲの発光物質によってノーベル賞を受賞した先生のような、最初は何のためになるのかと思われていたものが、他人によって、応用する方法が見つかり、とても有用になった例もある。先生は有用さが見つからなくても、それを研究していたということもある。

だから、そういう創造物や創造した事が、経済効果を生むためのことと、繋がっていないと


私自身としても、なにか考えようとすることが、経済効果とリンクしていなければならないのではないかという前提の上で考えようとしてしまっているのだろうと思う。

そんなことおかまいなしに好きなイメージを出そうとしていったほうがむしろ、自分のような
重大なラインには乗っていないような立場には良いのだろうか。

「脳と日本人」松岡正剛・茂木健一郎(文藝春秋)の78ページに、松岡さん「われわれのクオリアやアフォーダンス(行為の可能性)の体験というのは、われわれの知覚に急角度で切り込んでいるわけですね。しかし、それに対応する多くの感覚がわれわれのほうで失われてしまっている」

と書かれていて、それは、松岡さんが言っているように、「道具に頼ってしまう」とか、


他者が用意しておいたもので、足りてしまっているように感じている場合、より大きく
変化させようという能力はより大きなものを使わねばならないものになるかも知れない。

高度に加工されて、誰でも自力では作れないようなものの増加が、そういうことに関係して
いるのだとも思う。

『フォロソフィア・ヤポニカ』中沢新一(集英社)の44ページに、似た問題意識だと思えることが買ってあった。

「たとえば、現代においては、文化も商品化されて消費財となっていくが、そのさい文化的消費財にも、大量生産の原則が適用されるようになるために、小説でも芸術でも、また学問的な作品でも、おしなべて『出来栄えの水準は低くなる』19世紀の後半に、ピアノの大量生産を
実現するために採用された『12平均律』による調律が、いつしか音楽を聞いたり、創作したりする場合のスタンダードになってしまった結果、音楽を聞き分ける人間の聴力の能力は、著しく平準化され、退化してしまうことになったが、もはやその事実に気づいている人さえごくわずかになってしまった」

と書かれている。

この文章からも、多くのことが考えられると思う。

現在の、当たり前と思っている外側の構成が、違うものになったら、もっと違う世界観が
持てるのではないかということや、それぞれの人の思考が、気づかないうちに、自意識と
いうものが、外側に影響されているということがあると思う。

また、昔の人が持っていた感性を、今の人が忘れてしまっているというものがあると
予想される。喜怒哀楽以外の、なんらかの感覚。

他人に対する思いやりというものも、報道される出来事やネットでの一部の書き込みにしても、分からなくなってしまった人が出てしまっているのかも知れない。

また、それが相互作用となると、余計複雑になる。

河川の汚れなども、汚れはじめてきた頃の人たちのほうが、危機意識が強かったのかも
知れない。

人間の慣れて行くという習性が、麻痺とも重なって行く。

あらゆるものが、消費財として、お金を得ようとするための道具化してしまうことにより、
もともともってそれぞれの能力を衰えさせてしまったということも多々あるのかも知れない。

タバコは体に悪いと思って、吸っていない人にとっては、歓迎されるような、タバコの増税
についての問題も、タバコの生産に関わっている人たちにとっては生活保障問題となってしまう。

商品経済が生活に密着しすぎると、難しい問題への解決がより困難になってしまう。

食品偽装や耐震偽装なども、利益を得ないと生活が苦しくなるという方向性を
持っている仕組みの表出となってしまったのであろう。

アメリカの銃や、車社会というものも、生産側の生活と製造との密着が、変化を起こしにくく
してしまう。

このような例以外にも、商品経済の生活とのあまりの密着はほとんどのところに
固定化を生み出してしまっているのではないのだろうか。

逆に、新しい何かができれば、大きく人が携わる周辺も変わるということでもある。

インターネットに関する業界に従事する人などは、ここ10年で大変化、急増した
ものであろう。

反面、農業のように、どんどん従事する人が減り続けていて、危機感を提案する
人がいるにも関わらず、変化できない状態が続いていることもある。

これも茂木健一郎さんがどこかで語っていたことから、思い出したことだと思うが、
(アスキーという雑誌のしりあがり寿さんとの対談の中で言われていたかも知れない、
図書館で借りていたものなので、手元に今はない。)

停滞状態を打破するなんらかの生命感が生じるようなゆらぎが欲しい。

だからなんなのだというようなブログになってしまっているが、ほとんどそういう
ブログである。

ぜんぜん私は無欲では無いために、多くの人がそういう観念にはまっているのかは
わからないが、何か書いても何も有効性が無いとしたらということに空虚感を
覚えてしまうことがある。

そういう感覚のないままの思いで生きられている状態のほうが、自然なのかも知れない。

こんなことを書くのも無力だからだが、

有力な人には、派遣切りといわれてしまうような構造を作らず、誰もが楽しく
生きられる方法を創って欲しいと思う。

人間のための社会構造になっていないと本末転倒である。



































































































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Last updated  2008.12.07 11:50:32


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