マックの文弊録

マックの文弊録

2005.11.19
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◇土曜日:旧暦十月十八日 丁未;一茶忌
蕉雨園開門!
僕 は高校時代までは郷里の岐阜で過ごした。僕の高校は当時は、所謂「県を代表する進学校」で、同窓生には東京に出稼ぎに来て根付いてしまった連中も結構多い。団塊の世代もそろそろ人恋しくなる年齢らしくて、時々首都圏在住の同期生だけで集まっては親交を新たにしている。僕はその幹事に何年か前に任じられて、適当な口実を設けてはいい加減な同期会を開催している。

今 日は、一茶忌。だからといって、小林一茶は吾が郷里とは何も無いのだけれど、そんなことは構わない。一茶忌が口実になればそれでいいのだ。それで、都合の付く十数人が集まってなりゆきの同期会を開いたのである。
いつもは、夕刻から集まって宴会をするのだけれど、偶々同期生の一人が講談社勤務で、目白台にある蕉雨園を特別に参観させていただく事になった。

蕉 雨園は宮内大臣田中光顕伯により明治30年に建設された武家屋敷である。大正8年、田中光顕伯は、この邸宅を当時の財界人、渡辺治右衛門氏(渡辺銀行総裁)に譲り、その後昭和7年に講談社初代社長野間清治が購入し、以来蕉雨園と隣接する芭蕉庵は講談社が管理している。椿山荘に隣接する約6000坪の敷地をもち、涌き水のあふれる大池と回遊式庭園に囲まれた明治の貴重な建物だが、現在は一般公開はされていない。
目白台のこの辺りは、かつての士族の旧邸宅跡が散在し、歴史を求めて散策する人たちもちらほら見える。この日もいっぱしの老紳士たちが数名、散策の途中に行き着いたのであろう、蕉雨園の門前に集まって札書きの説明書きを読んでいらした。無論彼らは非公開の門中に入ることを得ない。我々は、案内を得てそろそろ引き開けられた門をくぐり、粛々と園内に進むのである。何だか老紳士たちの訝しさと嫉妬の混じった視線を背中に受けつつ、というのがいい気分であった。
蕉雨園玄関
門 を抜けて広い砂利道を百メートルほど進むと、立派な唐破風の玄関に至る。材も手に入らず、技術を持つ大工も払底して、今では再現できないという格子天井からは、鋳物製の釣灯篭が下がっている。往時、貴顕の来客が有る時には、この灯篭に灯が入り、主人以下主立った使用人が勢ぞろいして、唐破風の玄関に客の車を迎えたのであろう。

玄関を上がると、正面の壁に屋久杉の一枚板を貼りつめた式台である。その先に総書院造りの広間や、数奇屋造りの部屋ゝが、高い天井の下、建物の奥深くまで連なり続く。小ぶりながらも、石造りの暖炉が刻まれたダイニングも明治の重厚さを感じさせる。
総書院には、実現はしなかったそうだが、明治天皇の行幸に備えた、武者隠しもある。部屋を隔てる欄間には鳳凰の姿が刻まれ、数奇屋造りの部屋を隔てる唐紙の引き手金具には、菖蒲や雀などが細密に刻まれて、これが部屋の名前になっている。


見 回せば、木立の多くは楓である。今年の紅葉には、まだ2週間ほど先になるでしょう、との事だ。今目の前にする楓が一斉に紅葉すれば、眺める側も紅に染まってしまうほど美しいことであろう。是非にも拝見したいものだが、一時にすべての望みを満足させるのは勿体無い。又来年に友には機会を作っていただこう。

この建物にモデルと撮影班を連れ込んで、昔風の浴室で裸体写真の撮影に及んだのが露見して大目玉を食らったという、若く血気盛んな頃の武勇伝を友から聞くのも、又大いに愉快であった。

想像でしか知りえなかった明治の大身代の屋敷のたたずまいに、直に触れることが出来本当に良い心持であった。何より、此処には実際人が暮らしていたのだという雰囲気が残っている。僕などこんな大きな家に住んだ事など無論無いけれど、昔の木造の家には共通する匂いや音がある。よく拭き込まれた外柱を見れば、それを拭く雑巾の臭いが嗅覚に甦る。学校の窓拭き、廊下拭き、家の年末の大掃除で極々身近だったあの、すえたような懐かしい臭いだ。板貼りの雨戸を見れば、戸袋に出し入れする時に戸車がじたばたする感触が手に感じられ、戸車が走る時の勢いの良い音が耳に戻ってくる。

豪壮なお屋敷も素晴らしかったが、本当に落ち着く事が出来たひと時であった。
こういうものを残しておいてくれる、講談社という会社もエライのである。こういう精神は、今を盛りのIT関連企業などには、薬にしたくても無いのは明らかである。

建 物を出て庭に回ると、土地の高低を利用した回遊式の庭園が広がる。高みの古びた木造屋敷を仰いで、視線を低きに廻らすと遥か下方に湧水をたたえた池が、神田川に水を落としている。鬱蒼と茂った木々は、周囲の喧騒を遮断し、一瞬深山幽谷に迷い込んだような雰囲気である。
関口芭蕉庵の庭
庭を出て、神田川の方角に向けて樹間の小径を下ると芭蕉庵の庭に出る。飛び石伝いに危なっかしく行き着いたところに小さな池、というより水溜りがあって、そのほとりに「古池や蛙飛び込む水の音」という句碑がある。
「おぉさすが芭蕉庵! この句が詠まれたのはこの地であったか!」と、無学者は歓声を上げつつ脇の札書きを読む。すると、「文字は芭蕉の真筆。しかしこの句はここで詠んだものではありません」と言い訳が書いてあったのはご愛嬌だ。

東 京には芭蕉庵という史跡が三つあって、普通に芭蕉庵で調べると、ここ目白台の芭蕉庵は出てこない。ここは関口芭蕉庵と言われて、所在地の町名が冠せられる芭蕉庵なのだ。
関口芭蕉庵は、後に俳聖と称される松尾芭蕉(1644~1694)が、延宝元年(1673年)江戸に下向してしばらく後、1677年から3年間程住んだ場所の跡とされている。
芭蕉はここで、旧主筋にあたる藤堂家の下級武士という立場で、眼下を流れる神田川の改修工事の現場監督のような仕事をしたのだそうだ。芭蕉庵とはいえ、元々は水番小屋か工事現場事務所のようなものであったらしい。

ふ りて平成の御世になってしまえば、工事現場だって立派な桜の老木が植わった花の名所だ。庵の敷地の内も古木が茂り、風雅なたたずまいである。関口芭蕉庵は、大正15年に東京府の指定史蹟に指定された。
関口芭蕉庵
折 りしも芭蕉庵では句会が開かれており、我々はその部屋に連なる事務所のようなところで、お茶を振舞っていただいた。当日は晴天なるも風やや強く、冷えた体に熱いお茶は大変なご馳走であった。

東京には未だまだ探せばこういうところが残ってあると言う。現在の僕の境遇では、休みの日毎に、探訪散策に時間を費やせる贅沢は許されていない。だからこそ余計に、友の采配で計らずも持つことが出来た今日の時間は、まことにありがたくも貴重であった。友には大感謝である。





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最終更新日  2005.11.21 20:35:18
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