まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2017.09.27
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ドラマを見て以降、
葛飾応為に関連するものを漁ってるんだけど、

かなり面白かったのは、
荒俣宏と高嶋礼子が応為の足跡を追ったドキュメンタリー。
2010年に日テレの系列で放送された番組です。
Youtubeでぜんぶ見ちゃいました。

もともと北斎と応為については、いろいろと謎も多いらしいけど、
この日テレの番組を見て、とくに興味を引いたのは、
信州・小布施のことです。



当時の幕府が天保の改革を断行し、
文化・芸能に対する取り締まりを強めるようになると、
北斎父娘は、江戸を逃れ、
高井鴻山に招かれて信州の小布施へ赴きます。

しかし、
それは、たんに自由な創作に専念するというより、
もうすこし別の側面もあったのかもしれない。



時代は幕末の動乱にさしかかるころ。

世の中は開国か攘夷かではげしく揺れていました。
じつは、信州の小布施というのは、

ひそかに活動する拠点だったというのです。

北斎を小布施に招いた高井鴻山という豪商は、
活文禅師という地元の文人に学び、
佐久間象山や久坂玄瑞らとも交流していた人物。

北斎父娘も、


もともと北斎は、
長崎出身の西洋画家だった川原慶賀を通じて、
シーボルトなどのオランダ人たちと接触し、
ベロ藍(プルシアンブルー)などの輸入絵具を取り寄せては、
積極的に西洋画に取り組んでいました。

最初にベロ藍を使用したのは渓斎英泉(善次郎)ですが、
最終的には、葛飾北斎の代表作である「神奈川沖浪裏」において、
この青い絵具が使われることになります。

このような海外との文化的・経済的な交流は、
鎖国時代の日本にあっては非常に危険をともなうもので、
事実、川原慶賀は、シーボルト事件のときに処分を受けています。

葛飾北斎というのは、
今でこそ「日本文化の代表」のように思われているけど、
実際は、当時の日本の文化的伝統に批判的だった人で、
流派の壁をぶち壊したあげく、最後には西洋画法を取り入れた。

とりわけ娘のお栄は、
西洋画からの影響を強く受けていて、
遠近や陰影の技法だけじゃなく、
西洋の動植物を絵のモチーフとして取り入れたり、
あろうことか、
禁教キリシタンの天使(エンゼル)まで描いたりしてる。

小布施では、
北斎父娘がお寺の天井画を施したのですが、
それじたいキリシタン文化を模してるようにも思える。

狩野博幸の「江戸絵画の不都合な真実」によれば、
当時の幕府は、キリシタンどころか富士講の信仰も禁じていて、
それにもかかわらず、北斎の「富嶽三十六景」というのは、
富士講信者の需要を見込んで出版されたものだったようです。

そのような北斎父娘だったわけですから、
きっと自由な創作を阻害しようとする幕府の支配にさえ、
批判的な視点をもっていたに違いありません。

そのように考えてみると、
彼らにとっての信州・小布施という場所が、
やや政治的な意味合いをも帯びてくるように思えるのです。

お栄は、
北斎が没したあとも小布施の人々と交流を続け、
その後、小布施へ行くと言ったまま消息を絶ったともいうのですが、
それもまた謎めいた話です。



吉永仁郎の戯曲「夏の盛りの蝉のように」では、
北斎と渡辺崋山の関係も描かれているようですが、
実際のところ、両者に交流があったのかはよく分かりません。

http://blogyang1954.blog.fc2.com/blog-entry-1573.html


※現在、​ 音楽惑星さんのサイト ​にお邪魔して「斉藤由貴」問題を考えています。






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最終更新日  2023.08.04 11:31:02


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