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雨の森独り空蝉見る少女 春雨や祖父の先ゆくかえる寺 おもい足夕立晴に笑顔かな 夏雨のシーンふと子らの着替え手が伸びる 靡けずも龍成る日を見る鯉のぼれ 断崖は驟雨三分ノーカット 本水の髪ざんばらに夏芝居 額にぽたり緑道の青時雨5月16日のプレバト俳句。お題は「雨降りのシーン」。◇津田寛治。雨の森 独り空蝉見る少女ジブリ的なファンタジーっぽいけど、形式的に瑕疵も過不足もなく整ってます。◇結城モエ。春雨や 祖父の先ゆくかえる寺中七の助詞「の」は、主格とも連体修飾格とも読めるので、「私が祖父の先をゆく」「祖父が私の先をゆく」という真逆の読み方が出来てしまう。そのうえ「先逝く」と誤読したら、どちらかが先に死んで寺に埋葬された、…みたいな意味になってしまいます。たとえば、春雨や 祖父に先立ちかえる寺春雨や 祖父待たずしてかえる寺とすれば主語は明確になるけど、やはり「先に死んだ」という誤読を免れない。子供らしい口語で、春雨や 祖父を追い抜きかえる寺のように書くのがいちばん妥当かもしれません。◇梅沢富美男。本水ほんみずの髪ざんばらに 夏芝居本水の髪ざんばらや 夏芝居(添削後)前段は「本水の髪がざんばらになった」という意味で、文法的に間違ってるわけではありませんが、中七で切れてるのに助詞で繋がるように見えるのです。じつはこれって、前回の夏井添削、教科書を忘れた君と 風薫ると同様の過ちなのよね。◇キスマイ横尾。断崖は驟雨 三分ノーカット定型感のある句またがりですが、切れの位置が分かりにくく「驟雨三分」に見えてしまう。おそらく前段は、「断崖の撮影は予期せぬ驟雨だった」という意味なのだろうけど、それなら雨が止むのを待つはずだし、わざわざ短い驟雨の合間に撮影するわけがない。もしかしたら、「カットできない撮影の途中で雨が降って来た」ということかもしれませんが、その場合は、字余りでも切れ字を加えて、断崖に驟雨や 三分ノーカットとするほうが明快だし、さらに「三分」という情報を除いて、ノーカット撮影 断崖に驟雨とするほうが、かえって描写の正確性は増すと思います。◇笠原将。靡なびけずも龍成る日を見る 鯉のぼれ龍と成る日もあり 雨の鯉幟(添削後)だいぶ観念的な内容。鯉が龍になる「登竜門」の故事にちなんだっぽい。しかしながら、上五は、本来なら「靡けずとも」と書くべきだし、そもそも「靡く」というのは受動的な意味なので、あまりポジティブな印象の言葉ではないと思う。中七の「龍成る」も、「龍が成る」の省略ならともかく、「龍に成る」「龍と成る」の省略ではありえない。添削句にかんしては、龍と成る日を待つ凪の鯉幟としたほうが作者の意図に寄るのでは?しれっと露伴の劇伴ながしたねw #プレバト #笠松将 #岸辺露伴は動かない #菊地成孔 #高橋一生 #飯豊まりえ pic.twitter.com/k5KEN3ULLO— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) May 16, 2024 ◇高島礼子。おもい足 夕立晴ゆうだちばれに笑顔かな重い足 おもい心へ夕立晴ゆだちばれ(添削後)切れ字の「かな」で締める場合は、途中で切れを入れるべきではないし、夕立晴を描写したら「笑顔」と書く必要はない。なお、添削句の「重い」と「おもい」は、なぜ漢字と平仮名を使い分けたのか不明。◇トレエン斎藤。夏雨かうのシーン ふと子らの着替え 手が伸びる夏雨なつあめのシーン 子役の着替え手に(添削後)破調の三段切れ。とりあえず「子らの着替えに手が伸びる」と書けば、三段切れが解消されて後段のリズムも整う。しかし、そもそも、テレビ画面の季語は鮮度が低いし、テレビで雨のシーンを見たからといって、現実には雨が降ってないのだろうから、子供の着替えを準備する理由が分からない。原句が意味不明なので、添削のほうは必然的に改作となってます。◇清水アナ。額にぽたり 緑道の青時雨季語は「青時雨」で夏。緑の木々から時雨のように頭上に落ちてくる水滴のこと。これは「青時雨」を説明しただけの句ですね。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥肩の力を抜くくらいがちょうどいいのかも!?😳#清水アナの俳句道場#夏井いつき#夏井いつき先生#プレバト pic.twitter.com/LK66wIAqEq— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) May 14, 2024▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.05.20
迎え梅雨紙端に滲む友の文字 虹の下クレヨンの箱踊り出す 天王山黒ずむ袖に薄暑光 薫風や隣の君と教科書を 消しゴムが白き水面にボウフラを 密やかに鉛筆昇てんと虫 初夏の光のインク硝子ペン5月9日のプレバト俳句。お題は「文房具」。◇雲丹うに。天王山 黒ずむ袖に薄暑光鉛筆に黒ずむ袖や 夏休み(添削後a)鉛筆に黒ずむ袖や 晩夏光(添削後b)原句は、受験生の句ではなく、品評会に挑む職人の句にも見えるし、柔道などのスポーツの句にも見えます。先生の(添削後b)は良い出来だと思います。◇山本里菜。迎え梅雨 紙端したんに滲む友の文字迎え梅雨 借りたノートに滲む文字(添削後)作者の説明を聞いても、あえて「紙端」の語を選んだ理由がわからない。紙の端に書き添えられた文字は、友人からの意味ありげなメッセージに見えます。先生の添削に異論はないけど、個人的には「借りたノートの字の滲む」としたい。◇清水アナ。カンペ握りしめる初ロケは立夏初ロケは立夏 カンペを握りしむ(添削後)原句の「握りしめる」は、連体形と読めば一句一章、終止形と読めば対比的な二句一章です。添削句のほうがリズムに定型感があり、意味も明瞭だし、語順的にも正解だと思う。ちなみに助詞「は」を避けるなら、「立夏の初ロケ」とも書けますが、この場合は「初ロケの日は立夏だった」という感動を、強調して書くだけの必然性があるでしょうね。なお、季語の「立夏」には日付の意味と期間の意味があるけど、清水アナの句は「立夏日」という印象を受けます。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥ほぼ才能アリだった…!?😭#清水アナの俳句道場#プレバト pic.twitter.com/phTsxuAu8n— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) May 7, 2024◇河野純喜。薫風や 隣の君と教科書を教科書を忘れた君と 風薫る(添削後)これも先生の添削でいいと思うけど…強いて言うなら、中七で切って下五に季語を置く形式なのに、助詞「と」で繋がって見えるのが難点。実際のところ、「君と風」が薫る…という解釈も不可能じゃない。その場合は助詞「と」の意味が変わって、「You & Me」の距離感を描いた句ではなく、「You & Wind」の香りを描いた改作になる。かりに「君と風を嗅ぐ」と他動詞にすれば、中七は切れずに繋がるけど、季語になりません。ちなみに、最近の日本語では、「香ってみますか?」みたいな他動詞的な用法もあるけれど、https://salon.mainichi-kotoba.jp/archives/123130さすがに「風薫る」は他動詞じゃないので、「君とともに風を薫る」という解釈は不可能です。季語を名詞にすれば、教科書を忘れた君と夏の風のような切れのない一句一章にできますが、やっぱり「You & Wind」の意味になってしまう。原句のように「You & Me」の意味にするなら、教科書を忘れた君とゐる五月とでも書くしかないでしょうね。◇内藤剛志。虹の下 クレヨンの箱踊り出す季語は「虹」で夏。だいぶファンタジックな作品で、それを許容できるかが評価の分かれ目になる。…上五「虹の下」の是非。虹と子供がどちらも遠くに見えてるなら、この写生にはリアリティがあるけれど、実際は、子供が近くにいて虹は遠いのだから、子供たちが虹の下にいる…というのは虚構でしょう。もちろん、幻想を書くのが悪いわけじゃないし、端から端まで見える巨大な虹を目の当たりにして、「自分たちが虹の下にいる」みたいな感覚に襲われることもあるだろうから、まったく現実味のない描写とも言いきれない。…下五の擬人化の是非。子供たちが箱をガチャガチャしはじめて、箱の中のクレヨンが動き出したことの比喩でしょうが、「クレヨンが踊り出す」ではなく、「箱が踊り出す」との表現が妥当かどうか。まあ、これも幻想句としてなら許容範囲かな。とはいえ、前回の「本職」の句は合点がいかなかったし、たった2回の査定で特待生との判断は不可解です。◇ゆりやんレトリィバァ。消しゴムが白き水面みなもにボウフラを消しかすはボウフラみたい 子どもの日(添削後)消しかすはボウフラみたい 夏休み (添削後)季語は「孑孑/孑々ぼうふら」で夏。作者によると、「消しカスがノートに(散らばると)ボウフラを(思わせる)」という内容を直喩で書いたようですが、それを「消しカスがノートにボウフラを」と省略するのは、文法的に不可能。読み手からすれば意味不明。かりに子供の俳句だったら、「消しカスがボウフラみたい!」という発想や観察眼は褒めたい気もするけど、大人の俳句としては珍奇な詩情としか思えず、関西大文学部卒という学歴を考え合わせても、ウケ狙いなのか本気なのかいまいち判別がつかない。季語が比喩なので、先生の添削では「ボウフラ」の片仮名表記を直さず、もうひとつ別の季語を置いて解決してます。それはそうと…作者が最後に提示した推敲案、消しかすはボウフラみたい 初鰹は、ビート文学みたいで激烈に面白いwマイナス100点満点で一発特待生にしたいです。◇千原ジュニア。密やかに鉛筆登るてんと虫季語は「天道虫」で夏。形容動詞「密やかに」の是非が問われます。掲載決定でしたが、わたしならボツ!天道虫がひそやかに登るのは当たり前!音を立てて昇る天道虫がいるんなら持ってこい!!なお、先生によれば、A: 天道虫が密やかに登るB: わたしが密やかに見るという2つの読みが可能とのこと。たしかに、「密やかに登るてんと虫(を見る)」の省略と読めば、どちらの動詞に掛かるとも解釈できる。でも、実際にそう読ませたいのなら、芭蕉の「閑さや」と同じように、上五を「密やかや」と切るんじゃないかしら?◇梅沢富美男。初夏はつなつの光のインク 硝子ペン初夏のひかりのインク 硝子ペン(添削後)倒置法の比喩で、「硝子ペンのインクは初夏の光のようだ」と読める形なのだけど、作者がそれを明確に意図したかどうか怪しいwおおかた17音に収めてみた結果、たまたまそういう形になっただけじゃなかしら?内容的には、比喩を使って硝子ペンの特徴を説明しただけとも言える。なお、添削句は平仮名で透明感を表現してます。▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.05.13
渋滞の柩車に妣と春深し 静寂の官公庁や落椿 二時間を惜しむくちびる桜色 パレードかファンキャップ飛ばす春疾風 青嵐海の上での人違い 色も無き渋滞にふと桜雨 黄金週間の原宿四つ折りの紙幣 潮干狩父の背中が見当たらぬ5月3日のプレバト俳句。お題は「連休の混雑」。◇関水渚。青嵐 海の上での人違い連休の水着とりどり 人違い(添削後)彼女のWikipediaによれば、>「渚」という名前は> 父がウインドサーフィンをしていた逗子の海にちなむとのこと。芸名みたいな本名!苗字もふくめて。そんな地元民らしいユニークな句材ですが、字面からは状況がまったく見えない。船上の人違いの話かと誤読されてしまいます。ちなみに、季語「青嵐」を選んだ理由がすごく謎だけど…そういえば石原良純が、「逗子の風は山から海へ吹き下ろす」みたいに言ってたような気がするし、それを地元で「青嵐」と呼ぶのかしら??もしかして裕次郎は、その意味で「嵐を呼ぶ男」だったとか??※慎太郎は自民党で「青嵐会」を結成してるよね…。知らんけど。…まあ、それはともかくとして、先生の添削は例によってまったくいただけません。海上じゃなく浜辺の場面に見えるので、かえって凡庸な内容の改作になっており、句材のオリジナリティが消失しています。さらに、中七で切って下五をオチする形式は、俳句というよりも、ほとんど川柳に近い。作者の意図に沿うならば、人混みの海 サーフィンの父いずこヨットひしめく海に父を探せりみたいになるのかなと思います。◇キスマイ宮田。パレードか ファンキャップ飛ばす春疾風はるはやてパレードみたい 春風飛ばすファンキャップ(添削後)作者いわく、> ディズニーランドのファンキャップが> いっせいに飛ばされたらパレードみたいだろう…とのことですが、その発想自体が分かりにくく、たくさんの帽子とも明示されてないので、字面だけじゃ何も見えてきません。そもそも比喩で幻想を書くところに無理がある。実景を比喩で書くにとどめれば、ファンキャップのパレード春風に舞うのように書けるし、比喩そのものを諦めるなら、春風に舞うファンキャップの絢爛のように写生できます。◇呂布カルマ。二時間を惜しむくちびる桜色二時間を惜しむくちびる桜時(添削後a)二時間を待ってむくれる子と桜(添削後b)無季の句。これも字面だけじゃ状況が見えない。桜色の唇に《春》を見出したのなら、作者にとってはそれが季語なのでしょうが、桜色をしてるのは我が子の唇だそうで、女性の口紅ではないらしい。なので、作者の意図に近いのは(添削後b)ですが、語順や季語については、花の雨 二時間待ちを愚痴たる子のようなやり方もありえます。なお「愚痴たる」は日本語として間違いかもしれないので、その場合は「不平の子」か「不満の子」に置き換えます…。◇とろサーモン村田。渋滞の柩車きゅうしゃに妣ははと 春深し渋滞や 柩ひつぎの母とゐる深春(添削後)これが今週の1位。原句は中七で意味が切れるけど、助詞で繋がるように見えるのは難点だし、季語に映像がともなわないのも難点です。添削句は、「棺」でなく「柩」と書くことで、渋滞の情報に重ねれば霊柩車を想像できる、…ということなのでしょう。◇長野智子。静寂の官公庁や 落椿祝日の官公庁や 落椿(添削後)シンプルな佳作でしたが、上五の「静寂」は説明くさいわりに情報量が足りない。そこは「祝日」「連休」のように書くのが正解だと思います。◇清水アナ。潮干狩 父の背中が見当たらぬこれもシンプルな出来。小学生みたいな可愛い内容ですが、とくに形式上の瑕疵はないと思います。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥え…本当に!?✨🎊✨#清水アナの俳句道場#プレバト pic.twitter.com/uLKplrRfed— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) April 29, 2024◇立川志らく。色も無き渋滞にふと桜雨桜雨走れり 色の無き渋滞(添削後)原句が動画的なのに対して、添削句のほうは対比的な取り合わせ。そこは好みの問題ともいえますが、個人的には添削句のほうがいいかなと思う。とはいえ、色のなき渋滞にふと桜雨色のなき渋滞に桜雨舞うのように直しても悪くはありません。助詞「も」を使ったのは安易だけれど、副詞「ふと」を使った効果はちゃんとあって、渋滞に苦しんだ時間経過を感じさせます。なので、つねに「ふと」を否定するのが正しいとは言えない。◇フルポン村上。黄金週間の原宿 四つ折りの紙幣黄金週間来く 四つ折りの紙幣(添削後a)春休はるやすみの原宿 四つ折りの紙幣(添削後b)句材は面白いのだけど、さすがに字余りが過ぎるかな。わたしは地名の「原宿」が不可欠だと思うし、上五を「連休の」にすれば17音なのですが、いかんせん季語が「黄金週間」だから替えられない。落としどころは(添削後b)でしょうが、春休を「しゅんきゅう」とは読めないので、これで字余りが解消されるわけではなく、そもそも「黄金週間」を「春休み」にしたら改作ですね。…ってことで、いまいち解決策は見当たりません。なお、個人的な印象ですが、ゴールデンウイークの直訳とはいえ、「黄金週間」って季語自体が大袈裟すぎて好きじゃない。字面がクリスマスっぽく見えるし、五月の季節感に不釣り合いな気がします。▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.05.06
生家のこでまり甘やかな退屈 「乗りますか」ふるさと経由春の雲 故郷の苜蓿の香は濃かりけり 祖父の遺影褪せた賞状春夕焼4月25日のプレバト俳句。お題は「ふるさと」。今週は3人の昇格試験のみ。内容も不作でした。◇犬山紙子。生家のこでまり 甘やかな退屈こでまりの生家よ 甘やかな退屈(添削後)悪いとはいわないけど、とりたてて良いとも思えない。とくに「甘やか」という語は、幼少体験の形容として安易に使われがちだと思う。◇フジモン。「乗りますか」ふるさと経由春の雲ふるさとや 乗ってゆくかと春の雲(添削後)原句はあまりにも意味不明。まさか雲がバスの幻想だとは思わないので、たんなる三段切れに見えてしまう。添削句は、觔斗雲キントウンのような雲の擬人化ですが、上五の「ふるさとや」は具体性に乏しいし、切れ字の「や」も意味のある詠嘆とは思えない。◇千原ジュニア。故郷ふるさとの苜蓿もくしゅくの香は濃かりけりわざわざ故郷以外の苜蓿と比べる必要はない。目の前の苜蓿だけを描写すればよいのだから、助詞は「は」を使わずとも「の」で十分だと思う。下五は2音で「濃し」と書けるところを、切れ字を使って「濃かりけり」と書いてるけど、その是非はともかく全体的に内容が薄いと思います。◇清水アナ。祖父の遺影 褪せた賞状 春夕焼句材は悪くないけど、典型的な三段切れで、6・7・5の字余り。とってつけたような季語も弱い。なぜこれが「才能アリ」なのか分からない。どうせなら7・7・5にして、祖父の遺影と褪せた賞状 春夕焼と、せめて三段切れを回避すればかろうじて「才能アリ」でも容認きるかなあ…って感じ。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥お久しぶりです!!🎊🥳#清水アナの俳句道場#プレバト pic.twitter.com/8P6bgz5VCj— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) April 24, 2024犬山紙子の絵は色エンピツの次元を超えていた!お母さんメッチャ美人だった。▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.04.29
「いざ月へ」宇宙ごっこの半仙戯 ふわっとふらここ 水平になる手前 廃校のぶらんこは夜よに揺れており 故郷ふるさとと同じ遊具や春の風 初虹や背中を押され漕ぐ子供 小さな手わが背押したる春の暮 ブランコと母待つ夕暮れ花吹雪 子らが去り未だ明るし遅日かな4月18日のプレバト俳句。お題は「ぶらんこ」。◇森口瑤子。ふわっとふらここ水平になる手前8+10 の破調。先生いわく「体感的」な句ですね。動画的でスローモーションっぽい。形式も内容も、なかなか独創的でした。◇梅沢富美男。廃校のぶらんこは夜よに揺れており廃校のぶらんこ夜よるを揺れており(添削後)廃校や 夜がぶらんこ揺すりおり(添削後)夜を「よ」でなく「よる」と読めば、助詞「は」を不用意に使わなくて済むよね。先生の添削は、よりホラーな感じを強めてます。◇清水アナ。「いざ月へ」 宇宙ごっこの半仙戯はんせんぎ春の季語「半仙戯」はブランコの別称。秋の季語「月」との季重なりです。もともと、天にも昇る気分のことを「羽化登仙うかとうせん」と表現するらしい。すなわち、羽が生えて仙人のように天に昇るがごとき心地のこと。そこからブランコ遊びのことも「半仙戯」と呼ぶのですね。すなわち、半ば仙人になるがごとき遊戯ってこと。なので、半仙戯を月に結びつけて、「ブランコを漕いだら月にも行けそう!」みたいな類想はけっこう出てくるし、そういうイマジネーションを詠んだだけなら、わざわざ「宇宙ごっこ」と説明する必要はない。…余談ですが、加古宗也の句に、昼の月蹴り上げて来よ 半仙戯という、やはり季重なりの句があります。↓こちらのサイトを見ると、http://www.haisi.com/saijiki/hirunotuki1.htmじつは「昼月」の句には季重なりが多く、ほとんどの場合、これを秋の季語とは見なしてないっぽい。かたや、芝不器男の俳句には、鞦韆ふらここの月に散じぬ同窓会ってのがある。こちらは夜の月ですね。鞦韆(ブランコ)は季節を問わず存在するし、月も季節を問わず存在するけれど、やっぱり「月」が綺麗に見えるのは秋だから、これは秋の句として読むのが妥当かなと思う。しかし、一般的には春の句と解釈されるようです。ためしに、季重なりを回避すべく、時事ネタを取り入れた改作ですが、月面の邦人 吾子の半仙戯としてみました。これなら春の句として疑義はないと思う。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥立派だから自信は持てる!💪#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/odlDYpOwkr— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) April 13, 2024◇南果歩。ブランコと母待つ夕暮れ 花吹雪ブランコに母待つ夕や 花吹雪(添削後a)ブランコと母待つ夕暮れに一人(添削後b)この2つの添削案はいただけない。一方の(添削後a)は、「ブランコ」と「花吹雪」の季重なりを容認した形。それならそれでいいのだけど、中七が「母が待つ」なのか「母を待つ」なのか、いまいち分かりにくい。助詞を加えれば、母を待つぶらんこの夕 花吹雪のように解決できます。他方の(添削後b)は、「ブランコ」の擬人化を容認した形。しかし、せっかくブランコを擬人化したのに、最後に「一人」と書いちゃったら意味ないでしょwブランコと一緒なら一人じゃないって話なわけで。いずれ凡句にはちがいないけれど、ぶらんこと揺れて母待つ夕間暮れ のように書けば擬人化する意味はあります。◇水田信二。子らが去り未だ明るし 遅日かな公園の子らが去りたる遅日かな(添削後)まずは中七で切れてるのが欠点です。子ら去りて未だ明るき遅日かなと書けば、すくなくとも形式的には整う。しかし、そもそも、「子供が帰るころになっても明るいのが遅日」と考えるべきなのだから、たんに季語を説明しただけの内容でしたね。◇…さて、今回は平場に「才能アリ」が3人いましたが、いずれも評価が甘いと思わずにいられない。蓮見翔。故郷ふるさとと同じ遊具や 春の風まあ、ぎりぎり「才能アリ」ってところでしょうか。句材も悪くないし、形式も出来てるし、とくに瑕疵はないけれど、よくもわるくもシンプルすぎるかなと思う。◇近藤千尋。小さな手わが背押したる春の暮小さき手のわが背を押せる春の暮(添削後)作者いわく、子供の手に「仕事への励まし」を感じた、とのこと。実際のところ、身体的に「背中を押した」のではなく、精神的に「背中を押した」と解釈することもできるし、それならそれで成立します。たとえば親の《転職》や《再就職》の句とも読めるし、あるいは《離婚》や《再婚》の句とも読めます。かたや身体的に「背中を押した」と解釈した場合、《孫が年寄りの背中を押して階段や坂を登らせてる》と読めるから、字面だけでブランコの句とは分からない。◇キスマイ二階堂。初虹や 背中を押され漕ぐ子供形式的には出来てますが、近藤千尋の句と同じように、身体的に「背中を押した」のではなく、精神的に「背中を押した」とも解釈できる。そのうえで、子供が漕いでるのは、《三輪車》なのか《自転車》なのか、《ボート》なのか《ブランコ》なのか、まったく分からないだろうと思います。これを《ブランコ》の句だと断定できるのは、評者自身が兼題写真の先入観に囚われてるからです。▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.04.22
春落葉片方だけのスニーカー われ反抗期春夕焼の海岸へ 入社式一人馴染まぬコンバース 厚底や挫く心と青い春 運がつき裏を覗けば散る桜 風光るピボットの軸は逞し 花衣運転席のスニーカー スニーカー踵に昨日の桜かな4月4日のプレバト俳句。お題は「スニーカー」。◇ペナルティ・ヒデ。春落葉 片方だけのスニーカー取り合わせが美しい。何らかの欠落をテーマにしてると思われますが、「なぜ片方しかないのか」という詩的な想像が膨らみます。とはいえ、「子供の靴が片方落ちてた」という作者の説明を聞くと、意外につまらないけどね。◇村山輝星。われ反抗期 春夕焼の海岸へわれ反抗期 春夕焼の砂を行く(添削後)われ反抗期 春夕焼の波見つむ(添削後)前回もマセた俳句だったけど、今回もマセた俳句。いきなり7・7・5の破調にしてくるのも、冒頭から客観写生のルールを破ってくるのも、なかなかにふてぶてしい!上五で「われ反抗期」と説明(宣言?)からはじまる型破りは、とりあえず句の個性として是認しますが、下五の「海岸へ」も、描写というよりは説明っぽいので、そこは添削のように映像化するのが正解でしょうね。◇梅沢富美男。花衣 運転席のスニーカー字面からは、女性を三人称的に描写した句に見えるので、まさかジジイの一人称の句とは驚きです。梅沢がスニーカーで車の運転をしてるのも意外。字面だけを見れば、> 自分で車を運転する女性で、> 最近は着物にスニーカーを合わせる人も多いけど、> この人はちゃんと下駄や草履に履き替えるのねと解釈するはず。まあ、俳句の形としては出来てるし、梅沢にしてはムダのない構成のシンプルな佳作です。◇金子恵美。入社式 一人馴染まぬコンバース入社式 一人は白きコンバース(添削後)中七の「馴染まぬ」が説明くさいので、添削句ではそれを映像化してますが、わたしは上五の「入社式」も、やはり映像ではなく状況説明に見えます。もし「入社式」を映像化するなら、たとえば8+10の句またがりですが、入社式の列 吾あのコンバース白しのように出来ます。◇キスマイ横尾。風光る ピボットの軸は逞し掲載決定だそうですが、わたしならボツです。スラムダンクヲタクの内輪ウケの評価としか思えない。これを解説なしに句集に掲載したら、はじめて読む人には意味不明だと思います。先生は、森迫永依の「旗源平」を前書きにすべきと言ったけど、「旗源平」なら調べれば分かることだし、これといって誤読の余地などもありません。しかし、以前の「1on1」や今回の「ピボット」は、一般に共有されてない単語であるばかりか、調べてみても、その意味が多岐にわたるので、それこそ前書きに「スラムダンク最高!」とでも書かなければ、バスケの句だとは特定できません。また、季語の選択も意外に平凡なのだけど、動詞の季語のあとに名詞が来るので、終止形なのか連体形なのかを読み迷うし、(古語のラ行四段活用は終止形と連体形が同じ)助詞の「は」を使う必然性も乏しい。さらに、この場合の「ピボット」は動作(ステップ)のことなので、「ピボット」と「軸」が重複するとは思いませんが、むしろ体の軸を形容する言葉として、「強し」ではなく「逞し」を選んだことに違和感を覚えます。日本語として「軸が逞しい」という言い方は変です。ためしに、陽春のゴール ピボットの軸強しとしてみました。ちなみに「ゴール」以外にも、「シュート」「コート」「ドリブル」などの語を使えば、前書きがなくともバスケの句だと伝わるはずです。◇石山アンジュ。厚底や 挫く心と青い春我が青き春 厚底に挫く足(添削後)上五の「厚底や」からして、もうギャグとしか思えません(笑)。すなわち「厚底だなあ!」ってことよね。季語をさしおいてギャルの靴を詠嘆しちゃった。ちなみに、厚底ブーツかと思いきや、厚底スニーカーで足を挫いたとのこと。ギャルにとっては切実な問題だったのだろうけど、はたから見るとコメディにしか見えないので、失礼ながら笑いを抑えられません。なお、青春の意味で「青い春」と書いたら、それは季語ではありません。通常なら、これが最下位だろうと思います。◇川﨑麻世。運がつき裏を覗けば散る桜靴底に糞ふんか 桜の散りしきる(添削後)下には下がいましたwふつうなら「運が尽き」と読むはずなので、おおかた賭けマージャンにでも負けて、不良学生が体育館の裏に行ったとか、不良オヤジが裏社会を覗いたとか、…そういう話なのかと思いましたが、靴の裏にウンコと桜の花びらが付いてたって…そこに何の詩情があるんでしょうか??…よく30点ももらえましたね。ウンコを踏んだ自虐川柳とも思えるけれど、わざわざ「運」の字を使ってるところを見ると、ウンコだけでなく桜のオマケもついてて一層ラッキー!…みたいなポジティブシンキングなのかもしれません。◇清水アナ。スニーカー 踵に昨日の桜かな中八を回避するだけなら、「踵」ではなく「底」や「裏」にすれば、とりあえず中七にはなるのだけど、それよりも上五で切れるのがよくないですね。とくに「かな」で締める場合は途中で切らないほうがいい。ためしに、(切れ字の「かな」は使いませんが)靴底に昨日の桜まだ紅しとしてみました。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥どうにかしたい気持ちはあった!🥲#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/MfF1XgKTyC— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) April 3, 2024 ▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.04.08
苗代の桜や鬼の住まいする 刑務所を囲む桜の仄白き 幽谷のロッジの夜明け白き飛花 花月夜冒険譚に挿す栞 束の間を正気の母と花の道 さくらさくらむすめのたましいのいろ 濠の端の羽音走りて初桜 花曇昼夜の区別なき赤子 花月夜学童終わりのチャンバラ戦 我が運命夜櫻に問う生も死も 祖父逝きて今朝の櫻の寒き色 出郷の車窓を叩く飛花落花 青光りせり750ccに花吹雪 風吹かば花の色なる城下町 校庭に響くピアニカ春の雲 祖父逝きて今朝の櫻の寒き色3月28日のプレバト俳句。春光戦のお題は「桜」です。決勝進出したのは梅沢、千賀、ジュニアの3人。優勝は千賀でした。◇森迫永依。花月夜 学童終わりのチャンバラ戦チャンバラの続く公園 花月夜(添削後)チャンバラの続く団地や 花月夜(添削後)十分に佳作です。9位の評価は低すぎる。添削する必要もない。前回の「旗源平」の句も、平家物語のような風情があったけど、今回も歌舞伎に見立てたような面白さがある。なお、先生は、「花月夜」から「学童終わり」への展開を、夜から夕方へ時間が逆行してる…と言いましたが、それは間違った解釈というべきです。中七の「学童」とは、一般的に「学童保育」のことであって、共働き・ひとり親家庭などの子だという示唆です。そうでなければ、わざわざこの単語は使いません。ふつうに「学校帰り」と書けばよいのだから。放課後の学童保育が終わるのは18時以降だし、家に帰っても留守番せざるをえない境遇だからこそ、学童たちは月夜になってもまだ遊んでるのです。作者がそれを説明しないせいもあるけれど、先生をふくめ、誰一人その意図を汲み取れていない。前回の「旗源平」の句もそうでしたが、今回もまた不当な評価に貶められてしまった感じ。ここまでくると、視聴者はMBSへ苦言を呈してもいいのでは??追記:原句の「戦」の要不要について。ここでのチャンバラは、見世物や演目でもないし、無邪気なごっこ遊びというだけのものでもなく、男の子のストレス発散の憂さ晴らし、ちょっと乱暴なゲームとも読めますし、貧困や寂しさにも負けない明るい逞しさとも読める。そうした意味で、この「戦」の字の多義性というのがある。下6の字余りではあるものの、撥音「n」が二箇所入ってリズム上の字余り感は少ない。◇森口瑤子。束の間を正気の母と花の道中七の「正気」でドキッとさせる。下五の「花の道」は、もちろん桜咲く並木道のことですが、比喩的な意味の「花道」とも読めます。◇的場浩司(予選句)。我が運命さだめ 夜櫻に問う生も死も満開の夜櫻に問う生も死も(添削後)満開の夜櫻に我が生を問う(添削後)内容が観念的で、ベートーベン並みに暑苦しいですね。しかも、その発想はわりに凡庸というべき。◇的場浩司(Tver限定)。祖父逝きて今朝の櫻の寒き色こっちを提出してれば決勝進出だった!!…と先生絶賛の句。時間と視覚と肌感覚と心情が、無駄なく描写されていて、たしかに非の打ちどころがありませんね。因果関係のような叙述によって、実景に心情をのせていく形式も的確です。◇千原ジュニア(予選句)。刑務所を囲む桜の仄白き終止形で「仄白し」と書くほうが、客観写生の原則に適ってますが、これを連体形で終わらせた形は、「仄白きこと」という感嘆・詠嘆の省略にも見えるし、たとえば「仄白き悲しさ」「仄白き優しさ」など、作者の印象を言い含めるような効果も与えます。通常なら避けるべき手法ですが、この句にかんしては許容したくなります。◇千原ジュニア(決勝句)。青光りせり 750ccななはんに花吹雪バイクに花吹雪、という句材は凡庸です。かりに評価すべき点があるとすれば、それを「青光り」と描写したことの独自性だけ。なお、連体形で「青光りせる750cc」と書けば、光ってるのはバイクだけですが、いったん終止形で切って倒置法にしたことで、場面全体が光ってるようにも見えるのですね。しかし、表現に多少の工夫を加えたところで、やはり句材そのものが凡庸なのは否めない。◇キスマイ千賀(予選句)。幽谷のロッジの夜明け 白き飛花幽谷のロッジ 夜明けの飛花白し(添削後)そもそも「夜明けの幽谷」に霧のイメージがあるので、下五の「白」の情報は重複にも思えるけど、添削のようなカット割りと語順にすれば、その「白さ」をさらに強調する効果が生まれますね。◇キスマイ千賀(決勝句)。出郷の車窓を叩く飛花落花車窓に桜吹雪という句材は凡庸なのだけど、上五の「出郷」は経済効率の良い言葉だし、中七の「叩く」の表現にも意外性がありました。季語の「飛花落花」も、漢字四字で動画的なイメージを与える熟語だけど、そのわりに音数も少なくて効率的です。車のスピードのせいもあるとはいえ、バタバタするほどの桜吹雪だったのでしょうね。◇梅沢富美男(予選句)。苗代なわしろの桜や 鬼の住まいする下五の「住まいする」は、韻文的な言い回しなのかもしれませんが、悪くいえば、ムダに字数を埋めただけ。かりに、中八・下五で「苗代桜に鬼の棲む」と書けば、(もしくは上五・中七で「鬼の棲む苗代桜」と書けば)残りの5音分でもう一要素を加えられます。これまでも梅沢は、「日焼けを剥く子」「剪定の音」など、わずか7音で書ける内容に17音も費やして、剪定や鋏の音の霏々として一心に日焼けの鱗はぐ子かなみたいにスカスカな句を作ってるけど、今回も12音あれば書ける内容なのです。そもそも、下呂市の「苗代桜」は、苗代に咲いてるからそう呼ばれるのではなく、「苗代へ植える頃に咲く」ということが由来なので、それを「苗代の桜」と書いたら意味が違ってきます。固有名詞の「苗代桜」ではなく、一般名詞の「苗代」に咲く桜としか読めなくなる。まあ、それならそれで、ひとつの幻想句としては成立しますが、それを予選1位と高く評価するのはどうなんでしょうね。◇梅沢富美男(決勝句)。風吹かば花の色なる城下町夕風や 花の色なる城下町(添削後)句材そのものが凡庸なのですが、たんなる取り合わせにするよりも、「風が吹いたので花の色になった」と因果っぽい書き方にするほうが幻想的なので、添削句よりは原句のほうがいいかなと思う。◇キスマイ横尾。花月夜 冒険譚に挿す栞下五の「挿す栞」だけを見ると、挿さない栞があるんなら持ってこい!…ってことになりますが、たんに「冒険譚に栞」と書いただけでは、A そこに読みかけの本があるB いま本を閉じたC これから本を開くなどの解釈が生まれてしまうので、Bであると明示するためには動詞を省けない。そのうえで、先生は、「栞挿す」か「挿す栞」かの選択について、先に「栞」を出したらネタバレになるので、原句のように「挿す栞」と書くのが正解としました。しかし、それは「季語よりも栞が主役」と言ってるのに近いし、いつもの先生の説明とも違ってます。いつもなら、「動詞に軸足を置くか、名詞に軸足を置くか」という観点で判断するのだから。あらためて比べてみます。A: 花月夜 冒険譚に挿す栞B: 花月夜 冒険譚に栞挿すBのほうは動作に軸足があるので、「読書を終えて花月夜へと視線を移す」って感じになるし、そのぶん季語が立ちます。Aのほうは「栞」に軸足が置かれるので、そのぶん季語が脇役に回ってしまいかねない。とはいえ、全体としては「読みかけの冒険譚」の映像が残るので、先生が「ファンタジーっぽい」と言ったように、季語の「花月夜」と「冒険譚」のイメージが、たがいに幻想的に響き合って重なる感じもあるのだけど、その効果はAでもBでも変わりありません。なので、「栞を主役にしすぎずに季語を立てる」のなら、動詞に軸足を置いたBのほうが正解だろうと思います。◇犬山紙子。さくらさくら むすめのたましいのいろさくらさくら 子のたましいのさくら色(添削後)原句は6+4+7=17の破調。すべて平仮名で書いてますが、子供の視点で書いてるわけじゃなく、むしろ親の視点で書かれてるのよね。前段の「さくらさくら」が娘の歌声なら、そこにかんしては平仮名で書く必然性があるけど、後段まで平仮名で書く必然性があるかは疑問。しかしながら、実際に、さくらさくら 娘の魂の色と漢字で書いてみると…なんだか「自分の娘」じゃなく「若い女」の句に見えるし、鬼滅の禰豆子みたいな世界観に見えるかもwかたや添削句のほうは、字余りで6+7+5と調子を整え、子供の「魂」とその「色」を平仮名で表記してます。その意図は理解できるけれど、なんとなく「亡き子の追悼句」のように読めるし、やはり原句とは意味合いが違ってるように感じる。ためしに6+8+5にして、さくらさくら むすめのたましいさくらいろ…としてみたのですが、これまた「うら若き娘」の色香に見えてしまうかもwってことで、いまいち解決策は見つからず、結局、原句が最適解かもしれません。◇フルポン村上。花曇 昼夜ちゅうやの区別なき赤子こども花ぐもり 夜を泣き昼を泣く赤子あかご(添削後)原句の「昼夜の区別なし」は説明的だし、赤子が「泣いてる」のか「遊んでる」のか、それも字面からは判然としないので、その意味では添削句のほうが優れてます。ただし、添削句は、説明が描写へと訂正されたぶん、描いた時間が「夜から昼まで」になり、季語の「花曇」の時制までぼやけてしまう。原句の場合は、「昼夜の区別なし」ってのが描写ではなく、赤子についての抽象的な説明だからこそ、時制はあくまで「花曇」の日中なのですね。…ってことで、これもちょっと直しにくい内容ですが、漢語の「区別」を使わずに説明を短くし、赤子が「泣く」という情報を加えるなら、花曇 昼夜ひるよるなしに泣く赤子と出来ます。◇中田喜子。濠の端の羽音走りて初桜濠の端を羽音走れり 初桜(添削後)NHK俳句の村上鞆彦の言葉を借りると、4つの「ha」の押韻はクドいとも言えるし、とくに「端」と「初桜」の語には、押韻ありきみたいな作為性を感じる。とはいえ、添削句のように、適切な助詞や切れを用いて、意味と構成を明確にすれば、ただ言葉遊びに溺れたかのような作為性は、だいぶ緩和されるかもしれません。◇清水アナ(Twitter)。校庭に響くピアニカ 春の雲よくいえば素朴なのですが、あまりに内容が凡庸すぎました。中七の「響く」も不要だし、季語もだいぶつまらないけど…なんとなく、この季語の選択は、フォスターの「静かにねむれ」っぽいよね。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥ちょっと攻めすぎた…😭#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/oDga5MZgMK— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) March 25, 2024 ▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.04.01
終点は天空の城春の雷 別れ雪古城を抱きてそっと消ゆ 長野駅見送る義母の春ショール 旗源平の賽奔放に春満月 旅ひとり「はくたか」を追ふ百千鳥 校印の長閑なかすれ学割証 車窓行く「北陸ロマン」春の雪3月7日のプレバト俳句。お題は「北陸新幹線」。◇森迫永依。旗源平の賽さい奔放に 春満月(加賀・旗源平)春満月よ 賽の目は奔放に(添削後)先生の査定は「現状維持」でしたが…わたしは非常に面白い句だと思いました。季語にも歴史を感じさせる風情がある。これがボツになったのは惜しまれる。地方の風習を取り入れる俳句はべつに珍しくないし、それを前書きにすべきという先生の主張は納得しがたい。実際のところ、7・5・5の破調にした添削句にくらべても、むしろ原句のほうがいいんじゃないかと思います。前書きとして排除したら、サイコロが勢いよく跳ねる様子を、あたかも源平の武者に見立てるような、せっかくの効果もかえって失なわれてしまう。…とはいえ、議論すべき点は他にも3つほどあります。7・7・6の字余りについて6音の「旗源平」「春満月」という、撥音「n」をふくんだ漢字三文字が、シンメトリックに「ha」で頭韻を踏みながら呼応し、まるで平家物語のような独特のリズムと効果を生んでおり、わたしはこの字余りがまったく欠点とは感じません。切れの位置について意味は中七で切れてるはずなのに、形容動詞が連用形「に」で繋がるようにも見えます。しかし、これは、跳ねたサイコロが満月に重なるような効果ともいえるので、あきらかな欠点とまでは言い切れない。形容動詞「奔放なり」の選択についてこの「奔放」という語は、サイコロの予測不能な動きだけでなく、義経の型破りな戦法なども想い起こさせるけど、一方では「不埒」というニュアンスもあるので、伝統行事にふさわしい言葉なのか判断に迷います。たとえば「跳躍す」「乱舞す」など、ほかの動詞に置き換える選択もありえる。どこにも切れを入れず、たとえば「ha・ha・ha」と頭韻を踏んで、旗源平の賽はねあがり春満月とすることも出来ます。◇勝村政信。終点は天空の城 春の雷作者は「越前大野城」のことを詠んだらしいけど、先生はこれを幻想句と解釈したようです。そもそも「天空の城」と呼ばれる場所は、マチュピチュをはじめ世界中にたくさんあるし、前書きに⦅越前の旅⦆とでも書かなければ、具体的な地名を特定できません。しかも、越前大野を「終点」とする電車やバスの路線は、ネットで調べてみても見当たらないし、じつはそれ自体がフィクションなのかもしれない。なので、これは先生が言うように、宮崎駿や宮沢賢治っぽい幻想句として味わうのが妥当でしょう。◇犬山紙子。長野駅 見送る義母の春ショール義母の立つホームや 風の春ショ-ル(添削後)上五「長野駅」は、映像というよりも状況説明に見えます。また、動詞「見送る」の主語も明確とはいえず、「私を見送る義母」とも読める一方で、「私が見送る義母」とも読めてしまう。とりあえず、春ショール巻きたる義母の長野駅のようにすれば駅は映像化できますが、これでは「出迎え」か「見送り」かも明示できない。じつは添削句も、どちらかといえば「出迎え」のように見えるし、のみならず、二句一章に分けた結果、ショールを巻いてるのが義母なのか私なのか、それすらも判然としなくなっている。こうした情報の正確性を優先させて、かりに「長野」という駅名だけを諦めるなら、見送りの義母のショールや 春の駅のような解決策もありえます。◇的場浩司。別れ雪古城を抱きてそっと消ゆ古城抱く雪 あえかなる別れ雪(添削後)もし上五で切れる二句一章なら、A:最後の雪が降っている。私は古城の残像を抱きしめて去る。みたいな意味に解釈できるし、もし切れのない一句一章と見れば、B:最後の雪が古城を抱くように降り積もって消えた。と擬人化をふくんだ時間経過の描写になる。それによって「抱く」「消ゆ」の主語が変わります。作者は「B」の意図で詠んだらしいけど、動詞の主語を読み迷わせるのもあるし、雪が「降り積もってから消えるまで」ってのは、俳句が描写する時間としては長すぎる。そして、動詞の「抱く」もさることながら、下五「そっと」という副詞も安易な擬人化です。かたや添削句のほうは、同じ「雪」を二度描写するリフレイン的な手法。◇中田喜子。旅ひとり 「はくたか」を追ふ百千鳥ももちどり先生の査定は1ランク昇格でしたが…たしかに取り合わせが模範的とは思うものの、内容の面でちょっと疑義がある。春の季語「百千鳥」は、さまざまな種類の小鳥が鳴き交わす様子のことで、いっせいに群れをなして飛ぶ様子ではありません。そもそも、さまざまな種類の小鳥たちが、停まった車両のうえで戯れるならともかく、走る新幹線を群れをなして追うってのは、どれほどリアリティのある光景なのか疑わしい。正直、ちょっと嘘っぽいのです。なお、北陸新幹線「はくたか」の名称は、立山の"白鷹伝説"に由来してるとのことで、その意味でいうと、この句は、春の小鳥たちが冬の鷹を追う比喩とも読める。◇フルポン村上。校印の長閑のどかなかすれ 学割証うーん、ここまでくると好みの問題ともいえますが…いったい、どこの誰が、校印のかすれを見て「春の長閑」を感じるのか?ハンコのかすれに季節感なんかないでしょ。つまり、「ハンコのかすれが長閑である」ってのは、ごく主観的な作者の印象にすぎないわけで、およそ客観写生からは程遠いというべきなのです。こういう主観を押しつけられると、読み手によっては「しゃらくさい」と感じるし、わたし自身もそこに引っかかってしまう。…とはいえ、こうした主観の独白もふくめて、「長閑な春の景色のなかに一人の学生がいる」ってのは、客観的な映像として見えてくるのですよね。それは紛れもない事実。作者の主観そのものに違和感を抱けば、否定的な評価にならざるをえないけれど、その先に見える客観的な景にまで辿りつけば、一転して肯定的な評価にもなりうる。そこらへんが賛否の分かれ目になると思う。いずれにせよ、村上は、「ペンの減り」だの「目の潤み」だの、「窪みの浅さ」だの「ハンコのかすれ」だの、変な作風で味をしめちゃったなあ…と思います。半径30cmの世界に目を向けるのはいいとしても、変なところに詩情や季節感を見出すのは、ほとんど特殊体質のようになっている。◇梅沢富美男。車窓行く「北陸ロマン」春の雪車窓には春雪 「北陸ロマン」流る(添削後)谷村新司の追悼句なのでしょうか?「北陸ロマン」という曲が、新幹線の車内チャイムになってるそうです。おそらく、「発車のメロディと春雪の景色が車窓を流れていく」みたいな一句一章の内容なのでしょうね。しかし、それを構造的に組み立てられず、二句一章とも三段切れとも見える形になってるし、その結果、動詞「行く」の主語が、本来は《北陸ロマン&春の雪》のはずなのに、字面では《車窓 or 北陸ロマン》のように見えてしまう。そもそも、この「行く」という動詞を、景色が「流れ去る」という意図で使ってるのか、雪の北陸へ「向かう」という意図で使ってるのか、作者自身のイメージが曖昧なんじゃないかしら?もともと曲名だけで7音もあるので、あくまでそれを使うとしたら、添削のような字余りに収めるしかありません。◇清水アナ。春眠のA席 金沢切符はらり句またがりの二句一章ですが、2つの場面を取り合わせてるというより、「春眠のせいで切符を落とした」との因果関係です。無理やりな造語の「金沢切符」は、金沢行きの切符という意味なのでしょうが、たとえば「金沢で発行された切符」とか、たとえば「金沢市内を周遊できる切符」とか、そういう誤読も不可能とは言いきれない。そもそも17音に収めるには、「春眠」「金沢行きの列車」「切符を落とす」ってのは、やや材料として多すぎます。まあ、無理をするなら、金沢までの春眠 切符いずこと17音に出来なくもないけれど。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥前半カッコいいのに惜しい…😢#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/Sfykefn7si— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) March 5, 2024 ▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.03.11
春場所前夜鯛の握りを十五皿 赤貝や父のアガリの緑濃し 鯛掲げ春場所終えし夢をみる ナマモノが苦手な僕は浅利汁 桜鯛皿取り思う宇良ピンク 回転寿司小さき手小さき春を取る 海の陽をたたえて碧し海苔の艶 二周目も取られぬ鮪花曇2月29日のプレバト俳句。今回は相撲力士対決。お題は「回転寿司」。◇梅沢富美男。海の陽をたたえて碧し 海苔のりの艶海の陽の香や 軍艦の海苔の艶(添削後)原句を二句一章と見れば、A:海が陽光を湛えて青いなあ。ここには海苔のツヤがあるよ。という意味になるし、かたや倒置法の一句一章と見れば、B:海苔のツヤが海の陽を湛えて青いなあ。という意味になります。それによって「碧し」の主語が変わる。また、もともと「湛える」という動詞は、1.液体を満たす(例:水を湛える)2.表情を浮かべる(例:笑みを湛える)という意味なので、一般には「陽を湛える」という言い方をしません。なので、この動詞は「讃える/称える」の意味にも誤読できる。その場合は、C:海は太陽を讃えて青くなったのだよ。ここには海苔のツヤが見えるよ。D:海苔のツヤは海の太陽を讃えてこそ青いのだよ。みたいな擬人化表現とも解釈できる。おそらく作者は「B」の意図で詠んだのでしょうが、「海の色を湛えて青い」のならともかく、「海の"陽"の色を湛えて青い」というのもちょっと奇妙です。陽の色なら赤やオレンジと考えるのが普通だから。…察するに、一方で、陽の光が海苔の「ツヤ」になり、他方で、海の色が海苔の「青色」になる、…みたいなイメージなのでしょうが、そのロジックが字面のうえで混乱をきたしている。じつは、動詞を漢字で書き、「碧し」を連体形にして「海苔」を修飾させ、海の陽を湛えて碧き海苔の艶と書けば、上記の問題はおおむね解決するし、かりに「湛える」という動詞を避けるなら、海の陽を秘めたる海苔の碧き艶海の陽を浴びしや 海苔の碧き艶のような添削案もありえます。とはいえ、ジュニアが指摘したとおり、寿司屋ではなく海辺の場面に見えてしまうし、先生も「色」の句にするのをやめて、あっさり「香」の句に改作してしまったのですね。あくまでも、作者の意図を汲むのなら、海の陽の記憶 巻き海苔つや碧しあの海の陽よ 巻き海苔の艶碧しのような二句一章にできるかもしれません。◇湘南乃海。春場所前夜 鯛たいの握りを十五皿一山本。ナマモノが苦手な僕は浅利あさり汁ナマモノが苦手 浅利汁は熱々(添削後)前者は70点の才能アリ1位。後者は40点の凡人4位。たしかに、前者のほうが二句一章の俳句らしい体裁に見えるし、後者は「僕」の主語表記がいかにも散文っぽいけど、じつは両方とも、「春場所前夜に鯛の握りを十五皿食べました」「生ものが苦手な僕は浅利汁をいただきます」という散文を俳句にしただけで大差がない。もっといえば、「春場所前夜なので、縁起のよい鯛の握りを十五皿食べました」「生ものが苦手なので、火をとおした浅利汁をいただきます」という因果関係の説明にも見えます。まあ、前者のほうが、「縁起ものの鯛」「一場所15日分」と験ゲンを担いだところに情緒があるとはいえ、それでも「才能アリ」にふさわしいかは疑問。なお、鯛は季語ではありませんが、「桜鯛」「鯛網」なら晩春の季語。「黒鯛」なら夏の季語だそうです。◇御嶽海。赤貝や 父のアガリの緑濃し刺身とお茶を写生することによって、満ち足りた父の様子を描いたのでしょうが、取り合わせと見れば前段と後段が近すぎる。むしろ切れ字で詠嘆せずに、赤貝に父のあがりの緑濃くと一句一章にまとめるべきだと思います。◇島津海。鯛掲げ春場所終えし夢をみる場所終えて掲ぐる鯛や 春の夢(添削後)夢オチの句は客観写生とはいえないし、「~し夢をみる」で締める形を認めたら、いくらでも同じパターンの句が作れてしまいます。かたや、添削によって夢が実景になったかどうかは微妙。◇若元春。桜鯛 皿取り思う宇良ピンク桜鯛 宇良の回しのような色(添削後)これも写生ではなく「思ったこと」を書いている。サッカーに「サムライブルー」があるように、相撲に「宇良ピンク」なる造語があるかは知らんけど、寿司ネタを見て力士のまわしを思い浮かべる、…って発想は、個人的にかなり抵抗を感じます。「食べ物の季語は美味しそうに詠む」という原則に抵触してるのでは??あくまで価値観は人によるだろうけれど。◇清水アナ。二周目も取られぬ鮪まぐろ 花曇これは「鮪」が冬で「花曇」が春の季重なり。兼題写真がなければ、回転寿司の場面だとは分かりません。まぐろ漁船が旋回してるようにも見えるし、まぐろが回遊してるようにも見える。鮪を「トロ」「赤身」などと書くことで、季重なりを回避できるかは賛否が割れるでしょうが、とりあえず回転寿司の場面だと明示するには、二周目の赤身の皿や 花曇中トロの皿は二周目 花曇のように書けばいいわけですね。カピカピの不味そうな食べ物と天気の取り合わせ。季語を不味そうに詠むのでなければ、ひとつの倦怠感の表現として容認できるでしょうか。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥ぎりぎり…😭#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/4DB3Z0nIzB— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) February 26, 2024◇千原ジュニア。回転寿司 小さき手小さき春を取るこれは文句ありません。現代の核家族のささやかな幸せを切り取ってる。それが豊かだといえるかは分からないけれど。ジュニアの俳句はかなり良くなってますね。▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.03.02
親友のしゃがれたエール忘れ雪 デンモクがふたりを隔てる春休み 春の夜のカラオケ締めは「雪椿」 カラコロンマイクとお酒沁みる春 朧月負けたらあかんで東京に 「なごり雪」君を見ないで歌い出し らうらうと僧侶の美声花まつり カラオケの履歴は桜らんまんと2月22日のプレバト俳句。お題は「カラオケ」。◇GLAY・HISASHI。親友のしゃがれたエール 忘れ雪これが今週の1位。かなり知的に感じられる出来です。的確な写生だけに徹しつつ、ちゃんと心情が伝わってくるし、季語の選択も絶妙だし、中七で切って下五に季語を置く、という二句一章の型もしっかり出来てる。どこにも欠点は見当たりません。◇関口メンディー。デンモクがふたりを隔てる春休みデンモクが隔てるふたり 春休み(添削後)デンモクは第一興商の商品名で、カラオケ操作用リモコン(=電子目次本)だそうです。まず問題のひとつは、中八をどう処理すべきか。助詞「を」を除けば済む話ではあるけど、語順についての先生の解説は正確さに欠ける。「ふたり隔てる」なら動詞に軸足が来て、「隔てるふたり」なら名詞に軸足が来る、…みたいな話じゃないでしょ!これは、あくまでも切れの問題です。つまり、「隔てるふたり」とすれば、中七が名詞止めになって切れるけれど、「ふたり隔てる」とすれば、動詞の連体形が下五に繋がるわけです。先生&梅沢の添削案だと、中七で切れるために、映像のない季語「春休み」だけが浮いてしまう。季語を映像化するには、動詞の連体形で修飾して、デンモクがふたり隔てる春休みと書くほうが正解でしょう。しかし、問題はもうひとつある。そもそも「隔てる」という動詞の選択は、句材の状況を描くのにふさわしいのかどうか。この動詞を使うことで、二人の関係がネガティブな状態に見えて、別れを予感させてる気がしなくもない。作者いわく、二人の関係は、「デンモクを超えてまでは近づけない」ものの、その反面では、デンモクがあってこそ繋がってるわけだから、けっして二人の関係を裂いてるのではありません。いうならば、「繋いでもいるけど隔ててもいる」…みたいな微妙な位置づけのアイテムってこと。それを客観的に写生するなら、デンモクをはさむ二人の春休みとでも書くしかないと思います。◇田中あいみ。カラコロン マイクとお酒沁みる春ドアベルとマイクとお酒沁みる春(添削後)作者いわく、・おなじ擬音でドアベル&グラスの氷を掛け合わせた・楽しむ人もいれば悲しむ人もいるカラオケ店の様子とのことです。ちょっと材料が多すぎますよね。「カラオケ」「ドアベル」「グラスの氷」の3つの要素を描きながら、客の様子まで季語と取り合わせるってのは…。しかも擬音の「カラコロン」は、ドアベルやグラスの氷というよりも、入店客の下駄の音かしら?と誤解してしまう。さらに「沁みる」というのは、作者の主観・心情であって客観写生ではありません。あえて「沁みる」とは書かずして、そこに集う人々の心情を想像させなければならない。かりに「歌と酒が沁みる」と書いていれば、かろうじて聴覚&味覚の描写と言えたのだけど、「マイクが沁みる」という変な表現をしたことで、そうも言えなくなってしまった。そして、添削句のように、「ドアベルとマイクと酒が沁みる」と書いたなら、これはもう聴覚や味覚の描写ではなく、状況に対する心情の表現と解釈する以外にない。かりに「カラオケ」の要素を省くなら、ドア鈴と水割り 泣き笑いの春のように書けます。◇レイザーラモンRG。朧月 負けたらあかんで東京に例によってネタを組み込んだお約束の作風。今回は天童よしみネタを取り入れたわけですが、パクリ審判で「70点」から「3点」への大減点。歌謡曲の七五調を安易に取り入れる失敗は、星の入東風 今夜の恋をくれた人のときに予測したとおりの結果です↓https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202211150000/このときの前科があったわけだから、まして「カラオケ」の兼題で詠ませれば、こういう顛末になるのは想定内だったし、そう考えれば、今回の減点査定は、あらかじめ番組が仕込んだものと思えなくもない。…とはいえ、当初の査定が「70点」だっただけあって、句としてみると、じつによく出来てるのよね(笑)季語の選択もけっこう的確だし、「で」を省けば中七の定型になるものの、あえて中八のダメ押し効果を狙った気もする。たぶん、この人は、俳句の作り方は心得てるんだろうなと思う。◇梅沢富美男。らうらうと僧侶の美声 花まつり締めの一句に認定されましたが…中七の「美声」があれば「らうらう」は不要だし、逆に「らうらう」があれば「美声」は要らないでしょ。ためしに、らうらうと読経の若し 花まつりとしてみました。しかし、もっと根本的なことをいえば、「花まつりで読経する」のは当たり前なのだし、「剪定で鋏の音がする」ってのと同程度に無内容な凡句です。伝統行事にかんする知見をひけらかしただけ。◇小林幸子。春の夜のカラオケ 締めは「雪椿」雪椿咲きカラオケの締めはさて(添削後)曲名をそのまま季語として用いたら、季語の鮮度が落ちてしまうという話です。添削では、あえて曲名とは明示せず、あたかも実景の季語っぽい体際にして、そこから曲を連想させる、という作戦。…それはまあいいとして、添削句の「咲き」と「さて」は、不必要な音数合わせにしか見えません。ためしに、雪椿 カラオケの締め選びけりとしてみました。◇武田鉄矢。「なごり雪」君を見ないで歌い出しなごり雪 君を見ないで歌い出す(添削後)これも実景の季語から曲名を連想させる添削。…それはいいとして、そもそも「君見ず歌う」と書けば7音で済むものを、後段の12音をまるまる使う必要ってあるの?とくに中七の「見ないで」は、あまりにも口語的かつ散文的な言い回しだし、かりに4音分を使うにしても、「見ずして」「見ぬまま」「見れずに」のように書くべきでしょ。下五「出す」の必要性についても疑問なので、なごり雪 君見ぬままに歌う夜とでも直してもらいたい。もしも12音分を7音で済ませるなら、なごり雪 君見ず歌う博多の夜よのようにさえ書けるはずです。◇清水アナ。カラオケの履歴は桜らんまんとこれまた曲名を季語とするのでなく、やはり実景から曲名を想像させるべき内容。単純に添削するのなら、カラオケの履歴 桜のらんまんとでもいいでしょうが、カラオケの履歴や 並び立つ桜と書いたほうが楽曲履歴を連想しやすいかも。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥おしい…!今週の放送回で学びましょう!📚💪#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/3ixZe39wS8— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) February 19, 2024 ▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.02.26
本職に黙礼される今年も春 春の雲血のり右目に染みており 春夕焼台本ト書き「ここで泣く」 初刑事手錠震わす余寒かな 冴えかえる帰宅後妻の取り調べ ロケバスに積む犯人の春日傘 張り込みのあんぱん香る桜漬け 刑事ドラマ沈黙破る鶯よ2月15日のプレバト俳句。お題は「刑事ドラマ」。◇矢柴俊博。春の雲 血のり右目に染みており春の雲 右目に染みてくる血のり(添削後a)撮影のどか 右目に染みてくる血のり(添削後b)紺野まひる。春夕焼 台本ト書き「ここで泣く」春夕焼 ト書き犯人「ここで泣く」(添削後)どちらの句も、上五に季語を置き、撮影の場面と取り合わせた作品。添削は入ったものの2句とも「才能アリ」の査定でした。なお、矢柴俊博の添削は、(b)よりも(a)のほうがいいと思う。状況は下五の「血のり」で想像できるはずだから、わざわざ冒頭から字余りでネタバレしなくともよい。◇内藤剛志。本職に黙礼される 今年も春本職に黙礼さるる春やまた(添削後)上の2句をおさえて、今週の一位だったのがこの作品。しかし、その評価が適切かは疑問です。まず作者が誰かを知らなければ、上五の「本職」の意味が分かりにくい。リズムや形式の面でいうと、下6の字余りもさることながら、中七に切れがあるかどうかも判然とせず、(終止形か連体形かが不明瞭)俳句の形として、いまいちボヤッとしてる。…添削句は、古語を使って動詞が連体形であることを明示し、くわえて下五の字余りも解決してます。ちなみに、ここで注目したいのは、添削句の下五「や」の用法です。以前もこういう添削があった気がするけど、思い出せない。一般に、切れ字「や」は場面を転換するため、リズムだけでなく意味の切れも生むのですが、実際には、場面転換をともなわない「や」もあって、たとえば芭蕉の「古池や」も、じつは場面を転換してないとの解釈がある。また、日本語の間投助詞「や」には、詠嘆のみならず呼びかけの意味もあるので、たとえば「ポチや、お食べ」のようにも使える。そこに場面転換はなく、多くの場合はリズムの切れさえありません。詩歌にも「これやこの」「春や春」などの例がある。それらは切れ字とは異なる「や」の用法です。なお、場面を転換しない「や」の用法については、↓以下の記事でも言及されてます。https://www.sakigake.jp/special/2020/haiku/article_55.jsp◇トレンディエンジェル斎藤。冴えかえる帰宅後妻の取り調べ冴返る深夜の帰宅 妻や待つ(添削後)下五の「取り調べ」はつまらない比喩。しかも、比喩だと伝わらなければ、妻が容疑者になった場面と誤読されます。かたや添削のほうは、またも下五で切れ字ではない「や」の用法!もしや先生のマイブーム?その是非はともかく、今後、この用法が増える可能性もあります。◇大友花恋。初刑事手錠震わす余寒かな余寒なり 手錠をかける初シーン(添削後)切れのない一句一章を「かな」で締める形。俳句の型はちゃんと出来てますが、主語に助詞がないため、リズムが上五で切れるのはちょっと惜しい。上五の造語「初刑事」は、兼題写真がなければ読み手に伝わらず、「刑事としての初仕事」「生まれて初めて会った刑事業の人」などの誤読を招きます。また、初めての刑事役に挑んだ「緊張」を、季語の「寒さ」と重ね合わせたことで、かえって焦点が散漫になっている。それらの問題は、刑事デカ役の手錠震わす余寒かなのように書けば、いちおう解決します。季語の「余寒」と「震え」が、重複(もしくは因果関係)に当たるとの見方もありますが、「刑事役の手錠の震えない余寒があったら持って来い!」とまでは言えないし、むしろ原句の問題は、「緊張」&「寒さ」の二重の因果が重複する点にあるので、「緊張」の要素を排して「寒さ」だけに特化したほうが、(添削というよりも改作になるけれど)手錠の金属の冷たさも際立ってくるはず。かたや添削句のほうは、「緊張」&「寒さ」を両立させたまま、それらが「震え」に帰結する因果関係を排除した形です。もちろん、それもひとつの選択ではある。ちなみに、添削の上五は「なり」で言い切る珍しい形ですが、その是非はちょっと判断しかねます。◇清水アナ。刑事ドラマ 沈黙破る鶯よここで描かれてる状況は、舞台かドラマかの違いはあれど、森口瑶子の「くつさめ(くっさめ)」の句とほぼ同じ。上7字余りの「刑事ドラマ」はちょっと状況説明的だし、下五の「よ」は詠嘆するだけの必然性に乏しく、取ってつけただけの音数合わせに見える。鶯の鳴き声を《子季語》と見なせば、刑事デカ役の台詞遮るホーホケキョのような定型にも出来ますが、それでもまだ因果関係の説明くささが残る。やはり森口瑶子の「くっさめ」と同じく、刑事デカ役の沈黙 鶯の初音のような対句に直すほうが描写的ですね。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥お題がハード過ぎた…🤷♀️#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/khSOf6tqZI— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) February 12, 2024◇森口瑤子。ロケバスに積む犯人の春日傘犯人が女…ってところにドラマがありますよね。しかも日焼けを嫌う優雅な金持ち女の役どころ。その天気の良さとサスペンスの暗さの対比も面白い。◇梅沢富美男。張り込みのあんぱん 香る桜漬け桜漬けほんのり 張り込みのあんぱん(添削後)原句は、切れがあるのかないのか分かりにくいものの、香るのは「あんぱん」じゃなく「桜漬け」だろうから、構造的には中七で切れる句またがりです。(作者にその自覚があるかは知らんけど)そして、そのことをハッキリさせるためには、張り込みのあんぱん 桜漬け香ると書いて動詞の主語を明確にすればよい。▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.02.19
タン塩を頬張る視線春愁の吾子 ハラミ食む君の笑顔や春の恋 目を背く燃えるパプリカ彼我の春 先輩をいや肉待ち侘びる二月の夜 焼肉で筋肉つけて春肥大 スッカラの窪みは浅し春の宵 春愁の一人焼肉持て余す 二月の焼肉屋涙の受験生2月8日のプレバト俳句。お題は「焼肉」。◇清水アナ。二月の焼肉屋 涙の受験生AのB/CのDの対句。季重なりなのもあるけど、下五の「受験生」って主観の説明なのかも。つまり、作者が「受験生だろう」と判断しただけで、厳密な意味の視覚情報ではないのでは?視覚的に描写するなら、学生の涙 二月の焼肉屋焼肉屋の冬 セーラー服の涙みたいな書き方になると思います。まあ、かつて受験生だった自分とか、知り合いの受験生を描写した可能性もあるので、季重なりを回避するだけなら、駒場の焼肉屋 涙の受験生焼肉屋の煙 受験生の涙みたいなやり方もあります。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥初歩的ミス…。😭#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/kQx69Mmwo3— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) February 5, 2024◇渡辺満里奈。タン塩を頬張る視線 春愁の吾子タン塩を頬張る春愁の吾子よ(添削後)下7の字余りですが、「春愁の吾子」と書いたら、わざわざその表情まで書く必要はない。なお、語順を逆にして、春愁の子はタン塩を頬張れりのようにも出来ます。◇梅沢富美男。春愁の一人焼肉持て余す春愁と一人焼肉持て余す(添削後)渡辺満里奈と同じ理屈でいえば、下五の「持て余す」が不要との判断になる。つまり、「持て余さない春愁の一人焼肉があったら持って来い!」ってこと。しかし!先生の添削は予想外の一手。下五を消すのではなく、「春愁」と「一人焼肉」を切り離してしまう作戦。これは添削というより改作だけど、なるほど、その手もあるか!って感じです。◇笠原秀幸。ハラミ食む君の笑顔や 春の恋ハラミ食む君と春待つ恋ひとつ(添削後)中七を「や」で切って下五に季語を置く形。そして「ha」の頭韻も踏んでます。…ってことからいえば、俳句の型はしっかり出来てるのだけど(笑)まず内容がつまらないし、「ハラミ食む君」と書いたら、あとは「笑顔」だの「恋」だの書く必要はない。そして、韻を踏むために使ったのか、文語のつもりで使ったのか、女性を可愛く見せるために使ったのか知りませんが、一般に「食はむ」という動詞は、人間が肉を食べるときには使いません。牛や馬が草を食べるときの動詞です。その意味では添削句も容認しがたいので、春待つや ハラミを食べる君の口としてみました。…そもそも、詩歌の世界で、「肉を食べる女性」というのを、綺麗な恋愛対象として描くのは難しいよね。あえてそれをやったら、滑稽になるか、ちょっと諧謔的になってしまう。◇棚橋弘至。焼肉で筋肉つけて春肥大筋肉の映える春なり 肉を食う(添削後)こちらは「肉を食べる男性」なので、女性にくらべれば句材にしやすいけど、発想があまりに散文的で詩情に欠けました。でも、本人の意図はともかく、下五の「春が肥大する」という表現は、考えようによっては面白いのよねw春の息吹が膨れ上がる…とも読めるし、春の妄想が膨れ上がる…みたいな解釈もできなくはない。まあ、作者自身が意図したところは、肉食えば筋肉輝く俺の春みたいな話なのだけど…(笑)。一方、先生の添削もなかなか面白い。下五は「肉喰らう」のほうがいいかも。◇市川紗椰。目を背く 燃えるパプリカ 彼我ひがの春彼と吾と網にパプリカ焦がす春(添削後)市川紗椰にはちょっと期待したのに!予想以上にダメだったな…(笑)。なにか難しいことをやろうとしたっぽいけど、結果的には意味不明な三段切れでした。本人の話によれば、網の上でパプリカが焼け焦げてるのに、それを見て見ぬふりをする自分の姿を、彼との距離感に重ねた…とのこと。うーん。ちょっと何言ってるかわからない!まず上五で、なにか凄惨な場面から「目を背けてる」と誤解させるので、中七の「燃えるパプリカ」もなにやら大仰な事態に見えます。下五の「彼我」は、相手と自分を対比的にとらえる言葉だから、あながち間違った用法とも言えないけど、男女の描写というよりは、パプリカをめぐる地域紛争とか、パプリカに象徴される国家戦争とか、そういう対立の抽象的表現かと見まがってしまう。たとえば、パプリカの焦げるのも見ず 春の彼我のように書けば大仰さは軽減されるけど、それでも状況はちょっと分かりにくい。かりに男女の描写だとしても、まだ出会ったばかりで距離感が埋まらないのか、もう別れ際で距離が遠ざかったのかも判別できない。ちなみに、以前もパプリカを使った句はありましたが、つい、それが季語なのかと錯覚してしまうし、色彩的なぶんだけ季語の主役感を喰ってしまいます。その意味でちょっと扱いにくいアイテム。なお、パプリカの一般的な収穫時期は7月以降なので、本来なら「春の野菜」とは言いがたいらしい。◇和牛水田。先輩をいや肉待ち侘びる二月の夜焼肉屋の前に先輩待つ余寒(添削後)いわく、「俺が寒さのなかで待ってるのは先輩ではなく肉なのだ」ってことだけど、意味も分かるし、句材も面白いとは思う。ただ、それは写生というより作者の心情なのよね。これを描写的に書き換えるのはなかなか難しい。◇フルポン村上。スッカラの窪みは浅し 春の宵掲載決定だそうですが…わたしなら断じてボツ!!句材は悪くない。描いてる映像は良いと思います。しかし、スプーンや匙のヘラ部分を「窪み」って言いますか??「スプーンの窪み」とか「匙の窪み」とか、そんな日本語の言い方は聞いたことがない。むしろヘラじゃなくて柄の部分に「窪み」があるのかしら?…と誤解してしまいます。わざわざ「窪み」などと書かなくても、「浅いスプーン」「浅い匙」と書けば通じるのだから、この句の場合も「浅いスッカラ」と書けば済むのです。たとえば、汁掬ふ浅きスッカラ 春の宵料理屋のスッカラ浅し 春の宵スッカラの浅きこと知る 春の宵のように書けば事足りる。ところが!!Googleで「スッカラ/浅い/深い」を検索すると、なぜか、この「窪み」という表現がネット上に頻出します。ちなみに、「スプーン/浅い/深い」で検索しても、「匙/浅い/深い」で検索しても、この「窪み」という表現はいっさい出てきません。せいぜい「掬う部分」「皿の部分」などと出てくるだけ。にもかかわらず、なぜか「スッカラ」で検索したときにだけ、この「窪み」という謎の日本語表現が頻出するのです。…どゆこと?あくまで、わたしの想像ですが、きっと日本語を使い慣れない韓国人のだれかが、この「スッカラの窪み」という変な表現を使いはじめて、それが韓国料理業界へと広まったのではないかしら?そして、村上も、これをどこかの韓国料理屋かネットで目にして、俳句にそのまま取り入れたんだと思う。しかし、これは日本語の表現としてかなり違和感があります。日本語の「窪み」は、全体の中でそこだけ凹んでる箇所を指すわけで、皿状・椀状の器具などに使う言葉ではありません。「茶碗の窪みに飯を盛る」「鍋の窪みで汁を煮る」「湯船の窪みにお湯を張る」などとは言いません。またしても、おかしな日本語が、公共の出版物に掲載されることになってしまった。やれやれ。▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.02.12
片言の子の猫舌と鱈の鍋 無事願いかかあと待ってる三平汁 牛鍋の〆のおうどん捜索隊 鍋囲う笑顔思いて出汁選び よーいドンおしくらまんじゅう鍋の夜 商談の中華テーブル窓凍てる ちゃぶ台に干支の過ぎたる祝箸 日脚伸ぶポン酢はあるかと問ふ電話2月1日のプレバト俳句。お題は「鍋つゆ売り場」。◇高橋真麻。片言の子の猫舌と鱈の鍋片言の子の猫舌と鱈鍋と(添削後)句材は面白いけどね。下五「鱈鍋」を「鱈の鍋」と書いたところは、いかにも音数合わせだなと感じてしまいます。また、幼い子供の描写として、「片言」で「猫舌」と2つの特徴を並べるのは、やや材料が多すぎる気がしなくもない。あるいは、すこし脚色をして、片言の子は猫舌で鱈鍋を猫舌の子が片言で鱈鍋とのように季語に絡める手もあるかな。◇勝俣州和。無事願いかかあと待ってる三平汁無事帰港願うかかあの三平汁(添削後)字面だけを見ると、「息子の無事を妻と一緒に願う夫」の句に見える。しかし、実際は、「夫の無事を願うその妻と一緒にいる作者」の句らしい。失礼にも、他人の妻を「かかあ」などと呼んでるので誤読を招きます。◇ナダル。鍋囲う笑顔思いて出汁選び鍋の出汁選ぶ売り場や 冬の夕(添削後)鍋の出汁を選んでる…というだけの凡庸な場面。そこに自分の心象を添えてしまう初心者の失策。なお、調理器の「鍋」は季語ではないけれど、「鍋物」「鍋料理」の意味なら季語と見なすべき、との考え方もあるようです。◇加藤ローサ。よーいドンおしくらまんじゅう鍋の夜おしくらまんじゅうみたいに寄せ鍋を囲む(添削後)兄弟家族で鍋を囲んでる…というだけの凡庸な場面。そして季語「押し競饅頭」を比喩にしてしまう初心者の失策。ちなみに、作者は一句一章のつもりで詠んでるのだけれど、字面だけを見ると、「かけっこ」「押し競饅頭」「夜の鍋」という三段切れの三句一章に見えてしまいます。◇キスマイ宮田。牛鍋の〆のおうどん捜索隊牛鍋の〆のうどんをさぐる箸(添削後)ベタな比喩で「捜索隊」と書いてしまう初心者の失策。ぜんぜん初心者じゃないけどねw鍋の底のうどんを探ってる場面だそうですが、台所の奥にしまってある乾麺を探してるのかな?と誤読されます。◇森迫永依。商談の中華テーブル 窓凍てる窓凍つや 商談中の中華卓(添削後)原句にあきらかな欠点があるとは思えない。「窓凍つ/凍てる」を上五に置くか下五に置くかは、もはや好みの問題かなあ…って気がします。たしかに、添削のように上五に置くほうが安定するけれど、逆にいうと、原句のほうは、最後の窓の印象が心もとなげな余韻を残します。しかも「凍てる窓」より「窓凍てる」のほうが、いっそう心もとない余韻を残すので、そこは好みの分かれるところかもしれません。なお、添削句のほうは「商談中」としたことで、当事者視点から第三者視点に変わってる気がする。それから「中」と「中」が重なるのも、押韻という感じではなく、むしろ鬱陶しい印象。原句の当事者視点を維持するなら、凍つる窓 中華テーブルの商談のような破調でもいいかなと思います。ちなみに、「凍つ」と「凍てる」は同義の古語だけど、「凍つ」は文語で「凍てる」は口語です。つい安易に《古語=文語》と同一視しがちですが、正確にいえば、現代語に《書き言葉》と《話し言葉》があるように、古語にも《文語》と《口語》があるわけですね。凍つ:自動詞下二段活用活用{て/て/つ/つる/つれ/てよ}凍てる:自動詞下一段活用活用{て/て/てる/てる/てれ/てよ}◇清水アナ。日脚伸ぶ ポン酢はあるかと問ふ電話先週につづいて動詞の季語。しかも、上五を終止形で切る形ですね。古語なので、連体形で「日脚伸ぶるポン酢」と誤読される惧れはないけど、時効の季語だけが映像化されないまま浮いてる感じがして、いまいち収まりが悪い。内容的にも、ちょっと状況が見えにくいですよね。近所に住む実家の親から、「ポン酢を貸してくれ」と頼まれたのか。遠方に住む実家の親から、「ポン酢がないなら送るよ」と言ってもらったのか。兼題写真を見れば、鍋の季節の状況だと想像できるけど、兼題写真がなければ、「醤油切れ」とか「味噌切れ」みたいな、ごく日常的な調味料切れの場面とも読めます。ちなみに「日脚伸ぶ」は、大寒と同じく1月下旬の時候の季語ですが、春の近さを感じさせる季語でもあります。もう鍋の季節も終わりに近づいて、日常で使うポン酢も切れてしまった状況なら、「日脚伸ぶ」という季語は妥当かもしれないけど、大寒のころで鍋真っ盛りという状況を詠んだなら、この季語はあまりふさわしくありません。そこは解釈の仕方によって判断が分かれる。なお、中八は助詞「は」を省けば解決します。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥まだまだこれからも勉強!!📚💪#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/o7FSbLR8ZH— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) January 29, 2024◇梅沢富美男。ちゃぶ台に干支の過ぎたる祝箸かしましや 干支の過ぎたる祝箸(添削後)中七・下五の、「干支の過ぎたる祝い箸」はとても面白いけど、作者の話をよく聞くと、じつは「年を越した」という意味ではなく、たんに「正月を過ぎた」という意味らしいので、正確性を欠いた記述なのですよね。つまり、作者は、正月を過ぎてしまって、ハレの日に用いられるはずの祝い箸が、日常のちゃぶ台に置かれてしまっている、…という滑稽味を詠んでるわけです。ところが、先生は「年を越した」と誤読してるので、去年の干支違いの祝い箸が使われてることに、面白みと詩情を見出してしまっている。そうすると「ちゃぶ台」との取り合わせは、蛇足かつ不釣り合いにしか見えないのです。これは先生の誤読のせいではなく、作者の不正確な記述のせいとしか言いようがない。まあ、わたしとしては、「去年の祝箸がちゃぶ台に置かれてる」との解釈でも、それはそれで面白いかなって気もしますが。両端を細めてあるのは神様と共用するためだそうです!▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.02.05
待春の病室祖母に巻くロッド ほっとするパーマのヒーター冬の朝 早いかな襟足すっきり春近し 先駆けて切り揃えし春待ちの朝 金に染め宙舞う一月勝ち儀式 就活の黒髪は艶失せて冬 髪の毛の挟まる雑誌四温かな 切りすぎた襟足触り日記買う1月25日のプレバト俳句。お題は「美容院」。◇アインシュタイン河井。待春の病室 祖母に巻くロッド74点の高評価で1位。「春待つ」「待春」は晩冬の季語です。AのB / CにD …の形ですが、4つの要素を過不足なく配置した描写で、季語に詩情や希望を託した句またがり。キスマイ横尾の対句より内容に手応えを感じます。◇君島十和子。先駆けて切り揃えし春待ちの朝あさ髪を切り揃えて春待ちの朝あした(添削後)原句は破調の字余り。まず何を切ったのかが分からないし、「春に先駆けて」も、季語の「春待ち」に重複してる。全体的に映像の具体性も乏しい。◇研ナオコ。早いかな 襟足すっきり 春近し襟足をすっきり 春近き鏡(添削後)中八の三段切れ。上五は描写ではなく作者の心情になってる。本来、切れ字の「かな」は下五に置くべきだけど、この句は詠嘆でなく疑問の終助詞を上五に置いてて、いまいち俳句の体裁になっていない。添削のほうは、句またがりにせずとも、襟足をそろえ鏡に春近しのような定型に収めるのも可能。◇梅沢富美男。髪の毛の挟まる雑誌 四温かな切り髪の挟まる雑誌 四温晴(添削後)まずは型の問題。下五に切れ字の「かな」を置く場合は、途中に切れを入れないのが基本だから、中七に切れを入れた時点で失敗してます。この期に及んで初歩的な理解が欠けている。たとえば、切り髪の雑誌に残る四温かなとすれば、この問題は解決します。内容面でいうと、そもそも美容院の場面と分かるかどうかが疑問。たんに自分の抜け毛を描いた不潔な状況とも見える。たとえ美容院の場面であっても、「知らない誰かの髪の毛が挟まってる」ってのは、個人的にネガティブで汚らしい印象しか受けない。せめて「誰の髪の毛か」が分かってれば、愛おしい気持ちが湧くこともあろうから、だいぶ印象が変わるのかもしれませんけど。たとえば、見開きに吾子の切り髪 四温晴のようにも出来ると思います。◇武尊。金に染め宙舞う一月 勝ち儀式金髪に変え一月のゴング待つ(添削後)原句は、抽象的な表現を駆使した結果、まったく意味不明な句になってしまった。さらに、中七で切った場合は、下五に季語を置くのが基本なので、型の面でも、ちょっと無理がある。◇柏木由紀。ほっとするパーマのヒーター 冬の朝ほのほのとパーマヒーター 冬の朝(添削後)中八ではあるものの、そこで切って下五に季語を置いた基本の型。ヒーターは冬の季語だし、作者も暖を取るためにパーマを当てたらしいけど、まあ、一般的にいえば、パーマヒーターは季語にならないのでしょう。添削では、「ほっとする」という心情表現を「ほのほのと」というヒーターの描写に代えてます。◇森口瑤子。就活の黒髪は艶失せて冬就活の黒髪木枯に束ぬ(添削後)面白い俳句ではあるし、これはこれで成立してると思うけど、助詞「は」を使う必然性は薄いので、ふつうに「の」で十分だろうと思う。そして、下五を「~して夏」とか「~して冬」と締めるのは、言うならば「愛なんていらねえぜ夏」的な感じで、ややキャッチコピー的な安易さを感じないでもなく、このスタイルを容認したら、どの季節の俳句も量産できてしまう懸念がある。かたや添削句のほうは、気持ちを奮い立たせてる感じがあって、原句よりもポジティブに改作された印象ですね。◇清水アナ。切りすぎた襟足触り日記買う季語は「日記買ふ」で年末です。これに対して「日記始」や「初日記」は新年の季語。たとえば、「襟足を気にしながら買う」とか、「襟足を押さえながら買う」とか、「襟足を隠しながら買う」ならまだしも、「襟足を触りながら買う」ってのは、やや違和感がある。つまり、持続的な動作ならともかく、「触る」のような瞬間的な動作は、買う行為とは同時になしえない気がします。…ってことで、切りすぎた襟足隠し日記買ふとしてみました。動詞の季語はなかなか扱いにくいですよね。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥ぎり凡族!!😂#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/x677qC9k0X— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) January 22, 2024▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.01.29
どこまでが猫でどこから毛布かな 冬晴のパリの街並み猫二匹 老猫のいびきは父似日向ぼこ 冬日向窓辺に毛布猫の夢 母を待つ今日も感謝の冬薔薇 吾に見えぬもの見えておる炬燵猫 可惜夜の猫の温みの布団かな1月18日のプレバト俳句。お題は「毛布の猫」。◇呂布カルマ。どこまでが猫でどこから毛布かな どこまでが猫でどこからが毛布(添削後)これが今週の1位。切れ字でなく、疑問の終助詞をそのまま使った、まるで小学生の子供みたいな俳句。俳句という文芸は、へたに概念的な大人の発想よりも、むしろ子供みたいな素朴な視点のほうが有利にはたらく、…という典型的な事例。とはいえ、俳句らしからぬ「かな」の用法や、助詞「で」の使用はいただけないので、わたしなら、どこまでが毛布か 猫はどこからかと直します。◇新木優子。冬晴のパリの街並み 猫二匹冬晴のパリの街並み 猫と吾と(添削後)句材はいたって凡庸だし、二句一章の取り合わせも近すぎるけど、俳句の形は出来てるので、平場なら「才能アリ」ってことでしょう。中七で切って、下五に季語以外のものを置いてますが、猫2匹が主役の存在感をもっていて、前段と後段の比重に偏りはないし、主役が冬晴れの風景を引き立ててるので、とくに季語を脇役に貶めてる感じもない。まあ、逆にいえば、それこそが「取り合わせが近い」ってことだけどw◇風間トオル。冬日向 窓辺に毛布 猫の夢日向なる窓辺に毛布 猫の夢(添削後)「冬日向」と「毛布」の季重なり。形式上は三段切れですが、「冬日向の窓辺に毛布があって猫が夢を見ている」という一句一章1カットの内容。句材も凡庸です。◇清水アナ。ガラス戸の喫茶 毛布の看板猫下6の字余り。風間トオルが住居の窓を描いたのに対して、こちらは喫茶店の入り口を描いてますが、おおむね同じような場面です。「ガラス戸の喫茶」とすべきか、「喫茶のガラス戸」とすべきかは迷うところ。また「喫茶」というのは、たしかに《喫茶店》の略としても使うけど、本来の意味は《茶を喫すること》なので、むしろ「カフェ」と書いたほうが正確です。さらに「毛布の猫」は、《毛布のような猫》との誤読もなくはないので、むしろ「毛布に猫」と書いたほうが誤読されない。…以上を踏まえて、カフェの硝子戸 毛布に看板猫とすれば17音に収まります。句材は凡庸なので、やはり平場なら「才能アリ」ってことでしょう。清水アナは過去にもっと良い句があったけどね。わたしと先生の評価はつねにあべこべなのです。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥久しぶりの才能アリ!🎊#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/r0AZbB1JYx— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) January 15, 2024 ◇サルゴリラ児玉。老猫ろうびょうのいびきは父似 日向ぼこ奇しくも先週の水野真紀が、「君は私似 春間近」と詠んだばかり。助詞「は」を使ったところも、下五に季語を置いた形式まで同じですね。二句一章なので、季語「日向ぼこ」の主体は、猫ではなく作者自身ということになる。◇若村麻由美。母を待つ今日も感謝の冬薔薇ふゆそうび通院の母待つ庭の冬薔薇(添削後)通院の母待つ庭や 冬薔薇(添削後)兼題とは無関係な、凡人ワードの「母」を用いて、自分の内面を語ってしまった心情句ですが、その「感謝」の対象も、はたして母なのか、薔薇なのか、または自分の人生のすべてなのか分からない。一般に季語の「冬薔薇」は、寂しさや侘しさの象徴なので、自分の孤独と共鳴する存在にはなっても、あまり感謝の対象にはなりにくいと思う。◇千原ジュニア。吾に見えぬもの見えておる炬燵猫なかなか非凡です!サスペンスホラーでありながら、ちょっと滑稽味もある。そして、これほど模範的な一物仕立てにはそうそう出会えない。◇梅沢富美男。可惜夜あたらよの猫の温みの布団かな可惜夜の布団に猫の寝息かな(添削後)可惜夜。すなわち《惜しむ可べき夜》ですね。ただ飼い猫と眠ってただけの夜を、おおげさに「可惜夜」などと書いたことが、かえって先生の反感を買ってボツ!例によって美辞麗句をひけらかしただけの作。なお、形容詞の「惜あたらし」という古語は、《惜しまれるほど貴重である》《もったいないほど素晴らしい》みたいな意味。なぜか「新し」と同音ですが、後者は「あらた」が「あたら」に音変化したもので、もともと語源も意味も違うようです。▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.01.22
一月の笑いの外にひとりいた 残業の鍋焼M-1の出囃子 初笑い追い出す寄席のはね太鼓 爆笑や横隔膜に去年の揺れ 福笑いのような祖父の、死に顔 初旅のB席iPadにドリフ 盃の富士に一礼初笑 「犯人は…」に続く客席のくつさめ 笑ひ声洩るる交番注連飾 妣の忌や遺言だもの牡蠣フライ ばればれの手品の父や冬座敷 ゲラの子はゲラに育つや春隣 元日の大仏の鼻抜く女優 大笑ふ君は私似春間近 墓前にてあなたと笑った冬の空 雪景色転んだあとの顔判子 1月11日のプレバト俳句。冬麗戦です。お題は「大笑い」。上位から順に見ていきます。◇1位は春風亭昇吉。一月の笑いの外にひとりいた笑いの外に誰かを見つけたときのセリフなら、「いた」という過去形にもなるだろうけど、自分自身を描写したのなら、ふつうは「居いる/居をり」と現在形にすべきです。◇2位はキスマイ横尾。残業の鍋焼 M-1の出囃子いつもの対句。正直、このスタイルにも飽きたけど(笑)。問題は季語の「鍋焼」です。本来の「鍋焼」は、肉を野菜と一緒に煮る料理。職場で豪勢に鍋焼を囲んでるのかしら?…とも誤読されるだろうし、かりに「鍋焼うどん」の略だとしても、キッチンのある職場で鍋焼うどんを作ったのかしら?…とも誤読されるはず。しかし、映像を見ると、即席の鍋焼うどんのようです。思うに、「いつものカップラーメンよりは贅沢」みたいなニュアンスかもしれませんが、そこらへんの作者の意図が量りにくい。なお、歳時記にはないものの、「M1」も「紅白」と同様に、実質的に季語としての機能をもってるので、ダメ押しの年末感がありますね。◇3位は梅沢富美男。初笑い追い出す寄席のはね太鼓ハネ太鼓の別称は「追い出し」です。なので、言ってみれば、「観客を追い出すのが寄席のハネ太鼓である」との説明を、季語を使って俳句っぽく書いただけ。いつもならボツになるパターンですが、今回は景気の良さや縁起の良さもあいまって、たまたま上手くいったかな、という感じ。◇4位はフルポン村上。爆笑や 横隔膜に去年こぞの揺れこれは評価するのが難しい…。季語でないものを上五で詠嘆し、形式は二句一章なのに、中身は一物仕立てに見えます。山本健吉の言葉を借りるなら、《主題+細叙的な反復》かもしれないけど、わたしにはたんに、《主題+主題の説明》のようにも思えるし、ある意味では、梅沢と同じく、「笑いとは横隔膜の揺れである」との説明に、季語を加えただけの句とも言える。上五の「爆笑」が、現在の爆笑か去年の爆笑かも分かりませんが、それを切れ字で詠嘆した際の位置づけも、どう解釈すればよいのか、判断しがたい。◇5位は立川志らく。福笑いのような祖父の、死に顔読点込みで17音ってこと?散文でいうなら、さしずめ「…」のような効果を狙ったものですが、なんか小手先の技巧って気もする。◇6位は川島如恵留。初旅のB席 iPadにドリフ9+9=18音の対句。他人のiPadなら、初旅や 隣のiPadにドリフと助詞の「に」を使ってもいいと思いますが、自分のiPadだったら、助詞は「の」を使うほうが妥当じゃないかな。◇7位は中田喜子。盃の富士に一礼 初笑実体験だといわれれば仕方ないけど、富士の絵柄に頭を下げる場面は、なんだかちょっと芝居がかっていて、あまりリアリティを感じないのよね。むしろ大袈裟に「一拝」「叩頭」などと書いて、マンガっぽい滑稽味を強める手もあるかなと思う。◇8位の森口瑤子。「犯人は…」に続く客席のくつさめ「犯人は…」の静黙 客席のくつさめ(添削後)原句は18音、添削句は19音の破調。芝居の重要なシーンの緊張感を、観客のくしゃみで遮られた様子ですが、あえて「くしゃみ」と書かずに、狂言っぽく「くっさめ」と描写した大仰さが、この場面の滑稽味を強めています。たしかに原句の「続く」が説明くさいけど、うまい代替案を出すのもちょっと難しい。ためしに17音で、「犯人は!」…そこで客席のくつさめでどうでしょうか。◇9位は千原ジュニア。笑ひ声洩るる交番 注連飾しめかざり兼題に対して内容が控えめすぎる…との理由で9位に甘んじましたが、俳句自体の出来としては、これがいちばん良いと感じました。◇10位は安藤和津。妣ははの忌や 遺言だもの牡蠣フライ母の忌や 遺言だもの牡蠣フライ(添削後)母の通夜 遺言だもの牡蠣フライ(添削後)梅沢が言うように、「妣」と「忌」の重複は避けるべきなのか、正直なところ、よく分からないけど、まあ、あえて両方を並べずとも、「母の忌」or「妣の日」で十分ってことでしょう。なお、後段のフレーズを面白いと思う人もいるでしょうが、わたしは「相田みつを?」との印象が先立って、どうも安っぽいコピーライトのように感じてしまう。むしろ、母の忌も遺言だから牡蠣フライと書いたほうが滑稽味が増すのでは?◇11位の本上まなみ。ばればれの手品の父や 冬座敷ばればれの手品の父や お正月(添削後)これも兼題に対して内容が控えめすぎる…との理由でランク外。たしかに添削のほうがいいと思うけど、個人的にはジュニアの次に良い出来だと思いました。◇12位はこがけん。ゲラの子はゲラに育つや 春隣大笑げらの子は大笑げらや 春隣のげらげら(添削後)原句は、助詞の「は」を使う必要を感じない。むしろ「の」を使うのが妥当だと思います。添削句のほうは「は」でいいと思いますが、いつもながらリフレインがくどくて好きじゃない。なお、Wikipediaを見ると、「ゲラ」はおもに関西方言とあります。とはいえ、その記述はやや信憑性に乏しい。むしろ起源不詳の現代語じゃないのかな。もちろん俳句に現代語を使っても構わないのだし、「ゲラ=校了紙」と誤読される惧れがなければ、あえて「大笑」にルビをふる必要もない気がする。◇13位はかたせ梨乃。元日の「大仏の鼻」抜く女優大仏の鼻を抜けたり お元日(添削後)これは東大寺の「柱くぐり」の場面。おそらく、「通り抜ける」を古語で「通り抜く」としたのでしょうが、字面からは古語か現代語か判断できないので、まるで鼻を「抜き取った」みたいに誤読されますね。◇14位は水野真紀。大笑ふ君は私似 春間近君は私似 春まぢかなる大笑ひ(添削後)造語「大笑ふ」の是非と、我が子の意味で「君」を使ったことの是非。※俳句では、恋人の意味で使うのが一般的。ふつうに書いたら、笑ふ子の顔は私似 春間近私似の子の笑ひ顔 春間近のようになるんじゃないかしら?◇15位は勝村政信。墓前にてあなたと笑った冬の空冬空に笑う原田芳雄の墓前にて(添削後)原句には2通りの解釈がありうる。A: あなた(墓参りの同伴者)とふたり墓前で笑ったときの冬空を思い出してるよB: 墓前にひとり立って、あなた(死者)と笑ったときのような冬空を見てるよしかし、Aの解釈はありえません。季語をふくめてまるごと過去の話になってしまうし、そもそも「墓前で笑う」という行為が不謹慎です。なので、Bの解釈が正しいのだけど、過去と現在の時制が交錯して分かりにくいし、上五に切れがあると言えなくもない。かたや添削句にも複数の解釈がありえる。A: 冬空に私は笑っている、原田芳雄の墓前で。B: 私は「冬空に笑う原田芳雄」の墓前でたたずむ。Aの解釈は、やはり「墓前で笑う」という不謹慎な話になる。Bの解釈は、季語が過去の話になる。したがって、両方とも許容できない。かろうじて、C: 冬空に「笑う原田芳雄」の墓前で立つ私との解釈をとれば問題を回避できるけど、かなり無理があるし、これなら原句のほうがマシ。ためしに句またがりで、冬空の墓前 あなたと笑った日としてみました。◇16位はえなこ。雪景色 転んだあとの顔判子失恋や 雪にわたしの顔の痕(添削後)下五「顔判子」の比喩の是非。手をつかずに顔面から転ぶ場面が、なにやらマンガっぽくて嘘くさく、比喩そのものもつまらなく思えるけど、あえてマンガっぽさを自嘲して、雪に転べば見事なる顔の型のようにも書けるかもしれない。◇清水アナ。ゴーグルの雪焼け はきと残りけり先生が言うとおり、後段の説明は不要ですね。かりに横尾っぽい対句にすれば、オフィスの休憩 ゴーグルの雪焼けみたいな感じでしょうか。なお、「ゴーグル」には、スキーの雪眼鏡や、水泳の水中眼鏡のほかに、オートバイ用とか、最近はVR用ゴーグルもあるけど、なぜか歳時記によっては冬の季語になってるらしい。一昔前の日本人にとっては、もっぱらスキー用語だったのでしょうねえ…(^^;https://t.co/mGVY7rUA6r— 清水麻椰 (@mayasmz4) January 6, 2024 ▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.01.15
かじかむ手シワの号外握りしめ 新元号重なるシュプール光さす 十の目を集めし鰤は丸一本 号外も炬燵でスマホ此のごろは 冬の虹トラウマ乗り越えアレ掴む 昭和逝く凍星今日もそこにある 極月の号外無傷のチャンピオン スパイクに詰める号外冬の雨12月21日のプレバト俳句。今回は女子アナ対戦。お題は「号外」。◇森香澄。号外も炬燵でスマホ 此のごろは号外をスマホで眺めゐる炬燵(添削後)下五の「此のごろは」の説明で、いっきに俳句でなく川柳になってしまう。まあ、アナウンサーに「号外」という兼題なので、どうしても時事川柳になりがちよね。◇青山祐子。冬の虹 トラウマ乗り越えアレ掴む優勝アレ掴む三十八年目の冬虹(添削後)これも時事川柳。とくに「トラウマ乗り越え」が、俳句の描写でなく川柳の説明になってる。なお、冬の句にしてますが、一般的に日本シリーズ最終戦って秋なのでは?今年は11月5日だったので、ちょっと微妙ではある。◇松田和佳。かじかむ手シワの号外握りしめ悴かじかむや 皺の号外握りしめ(添削後)原句は「悴む手が握りしめる」という一句一章。かたや、添削句は、同じ手の描写をわざわざ2カットに分け、「悴む手」と「握りしめる手」の二句一章にしてますが、そんなことをするなら、せめて別の季語を使って「悴む」は諦めるべきでしょう。そもそも、手の描写がそんなに重要とも思えない。慶応高校の優勝を詠んだらしいので、それを季節どおりに書くなら、甲子園の夏 皺くちゃの号外と出来ます。…内容的にかなり凡句ですが。◇桝田絵理奈。十とおの目を集めし鰤ぶりは丸一本鰤一本家族五人の目を集め(添削後)市場の競りにしちゃ人数が少ないと思ったのよね。やはり、そこは「家族」と書かないと伝わらない。下五の「丸一本」は、「丸一匹」からの造語かと思ったけど、ネットを見たら、そういう言い方もなくはないようです。動詞は過去形でなく現在形にすべきですが、そもそも「目を集める」ってのが説明くさい気もする。端的に、鰤一本家族五人の前にありぐらいでもいいかなあと思います。◇長野智子。新元号 重なるシュプール 光さすシュプールのひかり 新元号発表(添削後)三段切れ。2つの動詞の使い方も不用意です。「シュプールが重なる」なのか、「新元号が(シュプールに)重なる」なのか分からないし、「光さす」は倒置法にも見えるので、「新元号」や「シュプール」に掛かるように読める。句材の良さで評価されたのでしょうが、よくこれで67点ももらえたなって感じです。添削句は18音だけど、長音、撥音、促音が入って字余り感は少ないから、いっそ原句と同じ19音にして、新元号発表 光さすシュプールでもいいかなと思います。なんなら20音まで欲ばって、新元号 光さすシュプールの重なりと書いてもいい気さえする。そもそも日光は「差す」ものだけど、雪原にまぶしく反射する冬の陽光なら、あえて「さす」と書くだけの効果はある。◇的場浩司。昭和逝く 凍星今日もそこにある長野アナの詠んだバブリーな改元とは対照的。実際、昭和天皇を詠むとなれば、「戦争責任」と「戦後復興」の相反する面から、そのイメージが必然的に引き裂かれる。昭和期の「戦争・破滅」と「平和・繁栄」の、両極を負うのが冬の季語《凍星》の輝きですね。なお、字面的に「今日」が昼間っぽいので、字余りでも「今宵」にすべきかな…ってのはあるし、それを17音に収めるなら、昭和逝く 今宵も凍星はそこにと出来ます。◇清水アナ。スパイクに詰める号外 冬の雨どこが悪いのかしら??とても良い句だと思います。形は過不足なく整ってるし、試合に負けた悲しみらしきものも窺わせる。これを「普通に凡人」とは、かなり不可解な査定。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥前に才能アリを獲得しているので自信を持って!💪#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/dw34DhpT1s— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) December 18, 2023◇千原ジュニア。極月の号外 無傷のチャンピオンこれは文句のない出来。どこにもボクシングとは書いてないけど、全体的な字面に凄みがあるので、なんとなくボクシングを想像させるのね。そこが巧いし、句材もジュニアらしい。▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12実際の景色より美しい…水彩画というより絵本!
2023.12.25
冬うらら小さな手に砂の地球 冴ゆる夜やコントラバスに小さな手 レノン忌や小さき手にまだ利き手なし 眠る子の小さき手ぴくり冬うらら12月14日のプレバト俳句。名人&特待生の査定。お題は、凡人ワードの「小さい手」。◇犬山紙子。冴ゆる夜や コントラバスに小さな手子の指や 冬のコントラバスぼぼん(添削後)添削が妥当とは思うものの、冴ゆる夜だからこそ、コントラバスの音が温かく美しく響くわけで、原句の季語は捨てがたいなあ…という気持ちも残る。手の描写をせずとも、稚児鳴らすコントラバスや 冴ゆる夜と書くことはできます。コントラバスの撥弦音(ピチカート)◇水野真紀。冬うらら 小さな手に砂の地球泥だんご光れ 地球の冬うらら(添削後)発想も素敵だし、破調も「地球」の比喩も、べつに悪くないと思うけど、強いていえば、「砂のように崩れそうな地球」が、ややネガティブな印象を与えてしまうってことかな。その意味で、添削が妥当かなと思います。◇フルポン村上。レノン忌や 小ちさき手にまだ利き手なしレノン忌や まだ利き手なき小さき手(添削後)太平洋戦争開戦日に重なるレノン忌と、未来の舵取りを担う子供の手の取り合わせ。素晴らしい発想!ただ、否定語の「なし」で終わるよりも、添削のように名詞止めにするほうがポジティブな印象になるし、ポジティブな印象にするほうが、利き手がまだ決まってないことの意味も伝わりやすい。…ってことで、これも添削が妥当。とはいえ、添削句は「ki」の音が5つも重なってて、なんだか早口言葉のようで鬱陶しいです。これは韻というには逆効果ですね。◇清水アナ。眠る子の小ちさき手ぴくり 冬うららどこも悪くないし、むしろ良い句だと思うけど、同じような句はいくらでもあるのだろうし、凡人ワードで普通に作ったら凡句になる、…ってことだよね。でも、平場なら「才能アリ」でもいいと思います。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥ポイントは押さえれていても、、、厳し〜😭#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/0umwxVjCDx— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) December 10, 2023 ▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2023.12.18
席替えは窓側蜜柑お裾分け 弁当の輪ゴムで鉄砲冬の空 顔見せや贔屓出る前幕の内 パプリカを子ども包丁冬の朝 浅漬と三歩先では米硬き 白息や弁当運ぶ吊足場 セット裏鯛焼を選るホシとデカ 放課後のコンビニおでん爪の土12月7日のプレバト俳句。お題は「お弁当」。◇こがけん。白息や 弁当運ぶ吊足場これまでになく模範的な出来。文句のつけどころはないですね。◇村山輝星。席替えは窓側 蜜柑お裾分けこれも文句のつけようがない出来ですが、…小学生らしさという点で疑義がなくはない。子供らしからぬところが彼女の売りとはいえ、13才の子供が、句またがりを用いて、「蜜柑」や「お裾分け」を漢字で書くかしら?ちなみに、わたしなら書けませんw字面だけ見ると、教室での小学生の席替えでなく、職場でのOLの異動の句かと思ってしまう。…まあねえ。小学生でも仲邑菫ちゃんみたいな天才がいるし、ほんとうに輝星ちゃんが自分で作ったのなら、凡庸な大人ごときに文句のつけようもないですが。◇千原ジュニア。セット裏 鯛焼を選よるホシとデカ作者は、「様々な差し入れの中から鯛焼きを選ぶ」という場面を詠んだらしい。かたや先生は、「様々な鯛焼き(カスタードとか餡子とか)からどれかを選ぶ」と解釈したようです。辞書的には「選ぶ」も「選る」も同義なのだけど、「鯛焼きを選ぶ」と書けば前者の意味になって、「鯛焼きを選る」と書けば後者の意味になる気がする。これは現代日本語の感覚かもしれませんが。◇鈴木梨央。弁当の輪ゴムで鉄砲 冬の空弁当の輪ゴム鉄砲 冬うらら(添削後)この添削はやや疑問。たしかに、助詞の「で」は避けたほうがいいし、中八もできれば7音に収めるべきだけど、機械的に「で」を除けばいいってものでもない。弁当に「輪ゴム」は付いてるけど、弁当に「輪ゴム鉄砲」は付いてません。しかし、添削句の「弁当の輪ゴム鉄砲」は、《弁当に付属の輪ゴム鉄砲》とか、《弁当を使った輪ゴム鉄砲》のように読める。以前、梅沢が、「一段飛ばしで来る」と書くべきところを、「一段飛ばし来る」と書いてましたが、助詞を除いて合成語や複合動詞を作れるとしても、それによって意味が変わってしまう惧れがある。※ちなみに梅沢の場合は「一段飛ばしに来」と書くべきでした。この添削も同様の過ちじゃないかと思います。◇尾上右近。顔見せや 贔屓出る前 幕の内顔見世や 贔屓待つ間の幕の内(添削後)季語は「顔見世」で冬。原句は、(内容的には二句一章だろうけど)形のうえで三段切れになってます。なお、下五の「幕ノ内」について、"幕の内側"という場所の意味になるのでは?と疑ったのですが、一般的な意味としては、《幕間》の時間か《幕の内弁当》の略かどちらかなので、誤読の惧れはなさそうです。添削句は、言葉遊び的な「ma」の押韻。◇清水アナ。放課後のコンビニおでん 爪の土基本型に則れば、二句一章を中七で切る場合は、季語を下五に置くのが常道です。そうしないと、取り合わせのバランスが悪い。前段に対して後段が弱くなるから。この句の場合は、下五「爪の土」の印象がわりと強いので、取り合わせのバランスはさほど悪くないけど、主役はあくまで季語の「おでん」なので、無理やり最後に脇役を取って付けた感が否めない。先生が言うように、「放課後」を「部活後」に置き換えて、あえて因果関係をもたせたほうが、その"取って付けた感"が解消できるのかもしれません。 でも、句材は面白くてリアリティがありますね。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥あと少しの工夫だけ!💪#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/ZLE6XCOQwS— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) December 4, 2023◇住田萌乃。パプリカを子ども包丁 冬の朝冬の朝 パプリカを切るおてつだい(添削後)上五の助詞は「を」でなく「に」にすべきですね。「パプリカを包丁で」と書くのは、やや説明的だし、最後の「で」も省略不可です。「パプリカに包丁を」と書くほうが、より描写的だし、最後の「を」を省くこともできる。語順的にいうと、中七で切って季語を下五に置いた二句一章なので、清水アナとはちがって、基本型に則っています。ただ、先生も言ったとおり、「パプリカ」のあとに「冬の朝」が来ると、どことなく季重なりっぽい印象を与えるので、添削の語順にするほうが違和感は少ないのかも。◇小林星蘭。浅漬と三歩先では米硬き浅漬や 弁当の飯ひえびえと(添削後)浅漬や 冷たきものに飯と妻(添削後)季語は「浅漬」で晩秋~初冬。作者の説明によれば、《妻たる浅漬の三歩先を行く夫たる米が冷えて硬い》…みたいな擬人化の句。原句は日本語の体をなしてないので、とりあえず、浅漬と三歩先行く硬き米浅漬の三歩先には硬き米浅漬の三歩先なる米硬しぐらいにしないといけませんが、たとえ日本語らしくしてみても、浅漬と米の擬人化だとは分からないし、そもそも何を言わんとしてるかが謎です。一方、添削句は季重なりの疑いがあるのだけど、一般的な「冷や飯」なら季語にはならないと思う。力づくで作者の意図を推し量り、冷や飯に浅漬添える夫婦めおと椀との写生句に改めてみました。▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2023.12.11
便座冷たし世界地図睨む夜 万国旗小春の影を落としけり 冬虹のかけらとなった万国旗 万国旗隠し持つ手の如き鵠11月30日のプレバト俳句。お題は「万国旗」。◇清水アナ。便座冷たし 世界地図睨む夜なかなか面白い句材です。トイレの壁に世界地図が貼ってあるのね。先生は「世界地図」から始める語順にせよ、とのこと。たとえば、a. 世界地図にらむ便座の冷えし夜b. 世界地図にらみ冷たき夜よの便座c. 世界地図にらむ寒夜の便座かななどの案がありえます。動詞「にらむ」は、通常なら連体形になるはずですが、連用形で「にらみ」とすれば、そのあとに「座る」「いきむ」などの省略を仄めかせる。でも、動詞を使わずに句またがりで、世界地図の壁 夜の便座つめたしと写生するほうが面白いんじゃないかな。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥惜しいぃぃぃ!😭#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/sZYfG1cwC3— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) November 28, 2023◇森迫永依。万国旗小春の影を落としけり作者自身は、《万国旗の影が小春の暖かさをもたらす》とポジティブな印象を詠んだらしいけど、先生も言ったように、「影を落とす」という慣用句のニュアンスが、不穏な世界情勢のネガティブな印象を抱かせる。平和への願いを込めてることには違いないけど、作者の意図とは逆の解釈で高評価となりました。追記:たとえば《万国旗小春の影を地に揺らす》のようにすれば、ネガティブな読みは避けられるかもしれません。◇森口瑤子。冬虹のかけらとなった万国旗冬虹に溶けて万国旗の残像(添削後)ある種の幻想句ですが、やや散文的という気がしなくはない。より韻文らしくするために、a. 冬虹の欠片となりて万国旗b. 冬虹の散りたるごとき万国旗c. 冬虹の弧のほどければ万国旗などの案もあるかと思います。なお、原句は、《虹が消えて万国旗になった》という話だけど、なぜか添削句のほうは、《万国旗が消えて虹になった》という話に変わってる。追記:Tverで作者の話を聞き直すと「褪せている万国旗が冬の虹にリンクして…。吸い取られてしまったのかな」と言ってるので、「万国旗」の色彩が「冬虹」に吸い取られたという意味かもしれません。そう考えれば、添削はそれなりに意図を汲んでるし、たとえば《万国旗色あせ冬の虹と化す》のような案もありえます。◇フルポン村上。万国旗隠し持つ手の如き鵠くぐい万国旗抱くか 白鳥の羽撃はたたき(添削後)これも一種の幻想句ですが、白鳥のくちばしをマジシャンの手に見立て、そこからカラフルな万国旗まで想像させるのは、かなり唐突な比喩じゃないかなと思う。しかも、わたし個人の感覚でいえば、万国旗の手品は、手よりも口から繰り出すイメージが強いので、そもそも「万国旗隠し持つ手」の意味が分かりにくい。せめて「万国旗を繰り出す手」のほうが平易かも。17音で表現するには困難な内容の幻想でした。添削句も、完全な改作になってます。追記:Tverで作者の話を聞き直したら、白鳥の「くちばし」ではなく「飛び立つときの華やかさ」をマジシャンの手に見立てたとのこと。だとすれば、先生の添削はその意図を汲んでますね。▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2023.12.04
初冬のラグかの愛犬の尨毛あり 手入れして畳むセーター弛む歌 コロコロする寒夜ルンバ充電中 重ね着でコロコロ使う孫の顔 家族集うセーターから取る犬のぬくもり 着膨れた背中猫の毛あちこちに コロコロのミシン目ずれている四温11月23日のプレバト俳句。お題は、掃除具の「コロコロ」。もともとは商品名ですが、いまや一般名詞として使われている単語です。◇竹財輝之助。コロコロする寒夜 ルンバ充電中コロコロする絨毯 ルンバ充電中(添削後)原句は9+9=18音、添削句は10+9=19音の句またがり。今週のお題を選んだ時点で、もし「コロコロ」という単語を使えば、それが《掃除具》なのか《擬態語》なのか区別がつかない、…という問題が生じるのは容易に想像できる。まして、動詞で「コロコロする」と書いたら、ほとんどの読み手は擬態語と誤解するはずです。原句の「コロコロする寒夜」は、《何かを撫で転がしてる》とも読めるし、《寝転んでじゃれている》とも読めるし、《患部が腫れて違和感がある》とも読めるし、《何かが木枯らしに吹かれて鳴っている》とも読める。添削句の「コロコロする絨毯」は、《丸まって転がってしまう》とも読めるし、《毛玉が固まって凹凸が気になる》とも読めます。かろうじて誤読を回避するなら、7+10 の句またがりで、ルンバ充電 絨毯にコロコロをとでもするしかないかと思います。◇辰巳琢郎。重ね着でコロコロ使う孫の顔コロコロを巧みに重ね着の孫よ(添削後)原句も原句ですが、やはり添削句も添削句で、兼題を知らなければ、字面だけで「コロコロを巧みに」は理解しがたいし、語順的にも「巧みに重ね着する」との誤読を誘います。かろうじて誤読を回避するなら、重ね着の孫のお掃除コロコロととでもするしかないと思う。◇清水アナ。ローラーにマフラーのひだ張り付いて擬態語の「コロコロ」に誤読されるのを避けて、あえて「ローラー」という語にしたのでしょうが、これはこれで意味が分かりにくいですね…。上五から中七で、「ローラー=重機 or 工具」「マフラー=自動車の消音器」と解釈したら、まったく意味不明だし、かりに衣類のマフラーと解釈しても、「美顔ローラー or 粘着ローラー」などの読みの迷いが生じなくはない。さらにいうと「マフラーのひだ」も、《フリンジ/房飾り》なのか、《ニット面の繊維のひだ》なのか、《巻いたときのドレープ/たるみ》なのか、ちょっと判断がつきません。…内容的にも、さして詩情のある場面とは思えませんが、接続助詞の「て」で終わらせた後は、何の動詞が省略されてるんでしょうか?マフラーが絡まった滑稽味を詠んだのなら、マフラーの房コロコロに貼りつきぬと終止形にすればよいと思います。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥ストレートでシンプルな表現が1番!💪#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/Qm4Wl9onQg— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) November 12, 2023◇アインシュタイン河井。初冬はつふゆのラグ かの愛犬の尨毛むくげあり7・7・5の字余りなので、「かの」or「あり」の省略も検討できるし、さもなくば、ラグに亡き犬の尨毛や 冬支度のような形に直すことも可能ではある。ところで、ラグは年間をとおして使う人もいるので、その場合は「初冬のラグ」でも問題ありませんが、この句では1年前の犬の毛を目にしたのだから、あきらかに冬物としてのラグを扱ってるわけで、単語の記載が歳時記にないとしても、それは冬の季語「カーペット」と同義であり、実質的には季重なりというべきです。そう考えると、たとえば6・7・5で、去年のラグ かの愛犬の尨毛ありのように直すことも出来ます。※ちなみに去年を「こぞ」と読むことも出来ますが、それだと新年の季語になってしまいます。4音の「昨年」などを使って「あり」を省略する手もある。◇YOU。手入れして畳むセーター 弛たゆむ歌手入れしてたたむセーター 弛む歌(添削後)おおむね俳句の形は出来ていて、「te・te・ta・ta・ta・ta・ta」の韻も面白いけど、描いてる場面は、どちらかといえば凡庸です。さらに、上五の「手入れ」が具体性に乏しいし、「~して~する」というのは経緯の説明です。手入れをしたのは、すでに過去であって現在ではない。そこにかんしては、手入れしたセーターたたみ弛む歌と名詞の修飾部にすることで、おおむね解決しますが。◇山之内すず。家族集う セーターから取る犬のぬくもりコロコロで犬の毛を取るお元日(添削後)6・8・7の字余りですが、上六の動詞は連体形か終止形かを読み迷うし、毛を意味する「ぬくもり」の直喩は誤読を招きます。さらに、助詞の「から」があれば動詞の「取る」は不要だし、逆に動詞の「取る」があれば助詞の「から」は不要です。つまり、技術的にムダが多いための字余り。なお、添削では道具の情報を優先してますが、原句に沿って、セーターの犬の毛を取るお元日でもいいんじゃないでしょうか。追記:スミマセン。これだと季重なりでした…◇皆藤愛子。着膨れた背中 猫の毛あちこちに外出時の場面らしいけど、字面からはそのことが読み取れないし、下五の「あちこちに」も蛇足に思えるし、内容的には、切れを入れず一句一章にすべきなので、着膨れて急ぐ少女の背に猫毛としてみました。◇梅沢富美男。コロコロのミシン目ずれている四温。前回の句《鼈甲のフレームにある小春》を見たとき、それが許されるなら、「階段にある小春」でも「鉛筆にある小春」でも、テキトーに言ったもん勝ちじゃないの?と思ったのだけど、今回の句についても、たとえば「埃の舞っている四温」とか、たとえば「ラジオの鳴っている四温」とか、テキトーに言ったもん勝ちって気がしなくはないし、そのまま「小春」に置き換えても成立する句です。…とはいえ、三寒のあとの四温という弛んだ日柄と、室内で掃除具の細部を観察してる気分は、それなりに響き合ってるし、季語の選択に説得力があるぶんだけ、前回よりはマシかなと思います。…それはそうと、前回といい、今回といい、半径30㎝のちまちました世界を詠んでて、いつのまにか作風が村上みたくなってますねw
2023.11.27
木枯の窓際母の老眼鏡 眼鏡落つ押しくら饅頭空を見る 荒星を映すメガネや死体役 ねんねこや視力は似るなと同じ顔 指ワイパー払うメガネの冬景色 家の妻の眼鏡も白くあんこう鍋 年の瀬の終電網棚に眼鏡 鼈甲のフレームにある小春かな11月9日のプレバト俳句。お題は「メガネ」。◇八嶋智人。眼鏡落つ 押しくら饅頭 空を見るあからさまな三段切れ。詩情には優れているものの、1位にふさわしいのかは疑問。連体形で「落つる」とすれば、とりあえず三段切れは解消するけれど、語順として考えれば、「押しくら饅頭に眼鏡落ち…」のようにするほうが自然です。とはいえ、原句が18音ということもあり、語順を変えてこの内容を17音に収めるのは難しい。◇矢柴俊博。荒星を映すメガネや 死体役荒星にメガネ冷えゆく死体役(添削後)地べたに寝そべって空を見上げる発想は、不思議なことに八嶋智人と同じでしたね。これも句材は面白くて詩情があります。たしかに動詞の「映す」が蛇足でしたが、俳句と形としては八嶋よりも上じゃないかな。◇相席スタート山﨑。ねんねこや 視力は似るなと同じ顔視力よき子であれ ねんねこの吾子よ(添削後)親の願いを詠んだ心情句なのに加えて、下五の「同じ顔」という描写も、親目線からとらえた主観的印象なので、全体として写生の要素に乏しいのが欠点。添削でもそれは変わってませんが、こうするより直しようがないでしょうね。冬の季語「ねんねこ」は、子を負う母親が着る綿入れ半纏のことですが、作者はむしろ「寝んねする子」の意味で使ってるっぽいし、切れ字の「や」も呼びかけのように見えます。◇ずん飯尾。指ワイパー払うメガネの冬景色指で拭くメガネきゅきゅっと冬景色(添削後)目的語の「雪」を省略した結果、「メガネを払う」とか「指ワイパーを払う」とか、そういう誤読を生む文の構造になってる。たしかに「雪」と書いたら季重なりになるので、あえて目的語を省略したと思えなくもないけど…。ところが、作者が意図したのは、「雪を払う」じゃなく「曇りを拭く」だったらしい。要するに、動詞の選択そのものが間違ってるってこと。先生が言うとおり「指ワイパー」という比喩も幼稚な印象です。ふつうに書くなら、指先で眼鏡を拭けば冬景色となるんじゃないでしょうか。◇マヂカルラブリー村上。家の妻の眼鏡も白くあんこう鍋鮟鱇鍋 妻の眼鏡も曇りたり(添削後a)鮟鱇鍋 妻の眼鏡もほのぼのと(添削後b)作者の説明から察するに、「家にいるときの妻が自分と同じく眼鏡をかけていた」(外ではコンタクトを付けてるのかも)ということらしいのだけど、字面だけ読んだら、「家以外にも眼鏡の妻が別にいる」と誤解されます。なお(添削後b)の、「眼鏡がほのぼのとしている」という表現は、先月の水野真紀の句の、「渋谷の秋がそぞろである」と似た手法なのだけど、正直、これはちょっと違和感があります。しかも、先生は「ほのぼのと曇る」とまで言ったのですが、そうなるともう日本語の感覚としてかなりおかしい(笑)。たとえば夜が明けるときに、「空がほのぼのと明るくなる」とは言うけれど、「空がほのぼのと曇る」とはけっして言いません。この副詞の一般的な用法とは逆行しています。◇清水アナ。木枯の窓際 母の老眼鏡いままでで一番いいんじゃないでしょうか!なんなら、これを今週の1位にしてほしい(笑)。母の句ではあるけれど、ベタベタした心情を詠むのではなく、さらりとした写生に徹しているのがいい。ちょっと文学的な風情も感じるし、個人的にとても好きな作風です。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥母への想いがこもった才能アリ!!#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/fLB8J7cGwh— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) November 6, 2023◇キスマイ横尾。年の瀬の終電 網棚に眼鏡いつもの句またがり。とくに欠点もなく、掲載決定でしたが、個人的には、さほど面白い句材とも思えず、正直、ボツかと思いました。なお、後段は、「網棚の眼鏡」と書いたほうが客観的なのだけど、あえて助詞の「に」を使うことで、「なぜ網棚に眼鏡があるんだろう?」というニュアンスが出るのかもしれませんね。◇梅沢富美男。鼈甲のフレームにある小春かなフレームの柄に小春っぽさを感じたのか、それともフレームから小春らしい景色が見えたのか、いまいち分からない。先生は、「小春のような鼈甲のフレームである」…という比喩として解釈してましたが、季語を比喩として使うのもセオリーに反するし、もし、こういう手法が許されるなら、「階段にある小春」だの「鉛筆にある小春」だの、テキトーに言ったもん勝ちって気がする。
2023.11.13
吾子眠る秋のドラマをミュートで観る 秋寒し家路につく朝千鳥足 秋のあさゲームしすぎて目が開かない 暗がりで骨の秋刀魚が睨んでる おはようの電話待つロンドンの夜長 夜食喰うもうない王朝を覚え 夜半の秋即席めんを鍋のまま11月2日のプレバト俳句。お題は「夜更かし」。◇和牛水田。暗がりで骨の秋刀魚が睨んでる夜のシンク 骨の秋刀魚の目が白い(添削後)夜の皿や 骨の秋刀魚の目が白い(添削後)先生は、「才能アリor才能ナシの両極的な評価になる」と言いましたが…わたしも一読して面白い句材だと感じたし、直すべきは助詞の「で」くらいだと思います。添削では、擬人化を排して客観写生にしましたが、個人的には擬人化もそのまま容認したい。たとえば文語で、暗がりに骨の秋刀魚の睨みけりとしても十分に面白い句です。いくらなんでも才能ナシの20点は低すぎ。欠点があるとしても60点台が妥当でしょ。◇丸山桂里奈。吾子眠る 秋のドラマをミュートで観る夜泣き果てミュートでドラマ観る秋夜(添削後)むしろ、これを「才能アリ」にした理由が分からない…(笑)通常回なら凡人以下のレベルでしょ。実際、原形をとどめないほど添削されてるわけだし。全体的なレベルが低すぎたので、番組の都合上、無理やり「才能アリ」にしたのでは?…一般に「秋ドラマ」ってのは、テレビ局の編成上の分類であって、そこに季語としての実質があるとは言いがたい。「秋ドラマ」が秋に制作されるとは限らないし、「秋ドラマ」が秋の物語を描くとも限らないからです。上五の「吾子眠る」も、連体形で繋がるのか、終止形の切れなのかを読み迷う。いずれの点でも、添削が妥当だと思います。◇清水アナ。冷すさまじや 二次会終わりの靴擦れ慣れない靴を履いて出掛けたところから察するに、同窓会とか結婚式とかの場面ですよね。先生は凡人との評価でしたが、わたしは才能アリでもいいと思う。まあ、中七については、「二次会終わり」より「二次会帰り」のほうが、描写として正確な気はしますが。追記:そもそも「○○終わり」というのは、近年の口語的な言い回しじゃないかと思います。たとえば「仕事終わり」とも言ったりするのでしょうが、本来なら「仕事上がり」「仕事帰り」「仕事のあと」が正しい。かたや「仕事おさめ」といえば年末の仕事を指すわけで、その対義語の「仕事はじめ」は、仕事のやりはじめの意味ではなく、年始の仕事のことです。そういう日本語の使い分けが崩れてきてるんでしょうね。かりに議論すべき点があるとすれば、後段が8・4の破調になっていることの是非と、季語の「冷まじ」が靴擦れの「凄まじ」にも掛かる、…と読めてしまうことの是非ですね。どちらの点でも、わたしは悪くないと思います。/11月2日、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥凡人〜!😭#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/Slr08yTFHw— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) October 30, 2023 ◇鈴木砂羽。秋寒し 家路につく朝千鳥足秋寒き朝よ 家路へ千鳥足(添削後)季語を映像化するためには、添削のように「秋寒き朝」にするとか、村上が言ったように「朝寒の家路」のようにするとか、そういう選択肢を考えねばなりません。なお、添削の「家路へ」というのは助詞の選択ミス。「家路へ行く」と書いてしまったら、まだ帰路にもついてないことになるわけで、「家へ行く」もしくは「家路を行く」が正解です。したがって後段は、「家路を千鳥足」or「千鳥足の家路」とすべき。◇高橋恭平。秋のあさ ゲームしすぎて目が開かない秋の朝眠し ゲームをしすぎた眼(添削後)よくいえば素直だけど、あまりに散文的でした。初心者にはありがちですが、描くべき対象をいったん自分の外側に置かないと、こういう主観的な独白の句になってしまうよね。◇岩永徹也。おはようの電話待つロンドンの夜長朝を待つ電話よ ロンドンは夜長(添削後)句材は面白いと思いますが、破調のリズムがなんとなく間延びした印象で、いまひとつパッとしない。かといって、先生の添削がいいとも思えない。原句のほうは「時差」を題材にしてるのが分かるけど、添削句は、それがかえって伝わりにくくなっている。◇フルポン村上。夜食喰う もうない王朝を覚えかりに「消えた王朝」と書けば、歴史に関心のある大人の句と読めますが、原句の「もうない」という口語的な書き方は、《いまさらこんな勉強して何になるの??》と、なかば疑問を抱く中高生の姿を想像させます。そこらへんの言葉選びは正しい。議論すべき点があるとすれば2つ。第1に、動詞「喰う」の要不要について。第2に、倒置法と破調の是非について。動詞「喰う」については、先生と梅沢で意見が割れましたが、わたしは梅沢と同じで不要との立場。…というより、こういう季語を上五に使うのは適切でない。丸山桂里奈の句もそうですが、上五を動詞で切ると、終止形なのか連体形なのかを読み迷うからです。したがって「夜食喰う」のような季語は、上五なら連体形で、下五なら終止形で使うのが常道だろうと思う。かりに上五の動詞と倒置法を避けるなら、(別の形の破調になりますが)もうない王朝を覚えつつ夜食のようにも出来ます。◇梅沢富美男。夜半の秋 即席めんを鍋のまま長き夜や 鍋のまま喰う即席麺(添削後)内容が陳腐なので、どう直しても凡句にしかなりませんが、まあ、中七・下五を倒置法にするよりは、添削のように名詞止めにする語順のほうがいい。とはいえ、動詞「喰う」はやはり不要だと思えるし、むしろ「鍋から掬う」とするほうが映像的かな。
2023.11.06
オーディション帰り渋谷の秋 秋の夜ビルの谷間に光る傘 三十年余勤めし渋谷野分晴 天高しビジョンに写る同世代 青年の歩幅につられ秋空へ 秋雨や渋谷の路地に鼠と吾 甘栗の香を行く渋谷交差点10月19日のプレバト俳句。お題は「渋谷スクランブル交差点」。◇水野真紀。オーディション帰り 渋谷の秋そぞろ句またがり。下五の「秋がそぞろである」という言い方が面白い。実景にさりげなく心情をのせて成功してます。◇山下真司。秋の夜 ビルの谷間に光る傘ビル街の谷間 秋夜を光る傘(添削後)句材は良いですよね。でも、季語を映像化するには、添削のように書いたほうがいい。◇武田真一。三十年余みそとせよ勤めし渋谷 野分晴三十余年勤めし渋谷 秋高し(添削後)渋谷時代は「野分」と言うほど過酷だったのか?!…と思わせるところが大袈裟だし、過去への決別みたいな心情を季語にのせすぎた感がある。添削のように、晴れ晴れとした境地だけを描くほうが穏当かな。◇ネルソンズ青山フォール勝ち。天高し ビジョンに写る同世代天高し 街頭ビジョンに同世代(添削後)中七の「ビジョン」は展望を意味する単語でもあるから、添削のように書かなければ伝わりにくいし、下五の「同世代」という言葉は、人だけでなく、物や技術にも用いられるから、《街頭の映像画面に同世代の技術を見てとれる》みたいな解釈ができなくもない。字余りですが、秋空の街頭ビジョンに同期芸人としてみました。◇中田喜子。青年の歩幅につられ秋空へ交差点まではイメージできませんが、空へ舞いあがるような気分は伝わります。ただし、「空へ」という比喩は死をも想起させるので、追悼句のように見えなくもない。比喩を使わずに、青年の歩幅まねれば秋高しと書いても同じ情景は描けると思う。◇千原ジュニア。秋雨や 渋谷の路地に鼠と吾あブルーハーツみたいな内容だよね。助詞は「路地の」より「路地に」のほうが平面的で、地べたに這いつくばってる印象が強まるけれど、まるでホームレスのようにも見えるので、わたしは「路地の」とするほうが穏当かなあと思う。◇梅沢富美男。甘栗の香を行く渋谷交差点渋谷 はや甘栗の香の交差点(添削後)渋谷 かの甘栗の香の交差点(添削後)中七の「香を行く」は面白い言い方だし、原句のままでも悪いとは思わない。かたや添削句は、冒頭3音の「渋谷」で切れる変則的な形。もしかしたら、助詞を省略した主語のつもりかもしれないけど、「渋谷は交差点である」という文は成立しないので、冒頭3音で切れた二句一章としか解釈できません。まあ、たしかに原句の「行く」は蛇足なので、それを省くとしたら、甘栗の香立つ渋谷の交差点甘栗の香が満つ渋谷交差点のようになるでしょうか。◇清水アナ(Twitter)。秋時雨 傘握りしめ交差点中七の「握りしめ」は、次につづく動詞の省略を仄めかす連用形ですが、「立つ」の省略なのか「歩く」の省略なのか不明瞭だし、曖昧な言い方でお茶を濁したようにも見える。たとえば最後に助詞を補って、「握りしめ十字路に」と書けば「立つ」の省略になり、「握りしめ十字路を」と書けば「歩く」の省略になります。…しかし、そもそも、「時雨・傘・交差点」という句材は当たり前にすぎるし、動詞「握りしめる」の一語だけで、詩情や心情を十分に喚起できるとは言いがたい。もうすこし何か具体性が必要なのでしょうね。/10月19日、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥まだまだこれから!#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/ASlluxZFvl— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) October 17, 2023白石聖ちゃんの横浜港シンボルタワー。幻想的!
2023.10.23
朝月のアザーン砂漠の空港へ 月白のワーディー渡るヌーの群 こりりとすっぱそうな三日月のかど 良夜かな香典返しの茶漬け食ふ 名月は東に父島観測所 良夜のノーヒッター肘の手術痕 あんな家二度と帰るか睨む月 桂月やキャラメルの香の満ち満ちて 別れるはずだったのに月が綺麗 細月を探す三箇所残り蚊にプレバト俳句。金秋戦決勝。お題は「月」です。1位から順に見ていきます。◇森迫永依。朝月のアザーン 砂漠の空港へ原点にもどって、実体験のモロッコ句でふたたび優勝。モロッコでも月が美しいのは秋なのかしら?ちなみに先生が言った「有明の月」とは、陰暦16日以後の、夜明け前の月のこと。◇フジモン。月白のワーディー渡るヌーの群こちらは実体験ではなく、エキゾチックな幻想でしょう。なんとなく「月の砂漠」を思い出しました。◇森口瑤子。こりりとすっぱそうな三日月のかど4+6+7の破調。ひらがなが多いところも、触覚と味覚にうったえかけるところも、なんだか谷川俊太郎っぽい。◇フルポン村上。良夜かな 香典返しの茶漬け食ふちょっと変則的な形です。ふつうなら、調べを崩しても、香典返しの茶漬け食ふ良夜かなとしますよね。原句の語順だと、上五がセリフで、中七・下五が描写のように見えます。どちらがいいかは何とも言えない。◇春風亭昇吉。名月は東に 父島観測所満月は東に 父島観測所(添削後)この添削で異論ありません。ただ、念のために補足すると、先生は「名月」と「満月」の違いを、いわば「主観」と「客観」の違いのように説明しましたが、すくなくとも暦の上では、どちらにも客観的な定義があります。名月(中秋の名月)とは旧暦8月15日の月のことで、かならずしも満月ではありません。今年の9月29日は「名月」と「満月」が一致しましたが、次にそうなるのは7年後だそうです。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230929/k10014210701000.html◇キスマイ横尾。良夜のノーヒッター 肘の手術痕10+8の字余り。いつもの句またがりの対句です。しかし、前段と後段に、「手術したからノーヒット」という因果関係が見えてしまい、二物衝撃の取り合わせになってるとは言いがたい。◇千原ジュニア。あんな家二度と帰るか 睨む月あんな家二度と帰るか 月皓皓(添削後a)あんな家二度と帰るか 月明し(添削後b)あんな家二度と帰るか 月睨む(添削後c)あんな家二度と帰るか 月に吼ゆ(添削後d)上五・中七の作者自身のセリフに、下五の描写を取り合わせたのでしょうが、どうしても散文的なのは否めない。むしろ(添削後c/d)のようにしたほうが、セリフ&動作をまるごと第三者の視点で描写できるのかも。ちなみに「月に吠え」は的場浩司の句にもありましたね。◇梅沢富美男。桂月や キャラメルの香の満ち満ちてキャラメルの香か 桂月の甘からん(添削後)実際に甘い香りが漂っていたのなら、写生句と言えなくもありませんが…おそらくは、「月に桂花が生えている」という中国の伝説によった幻想句なのでしょう。幻想句を否定はしませんが、下五に「満ち満ちて」とまで書かれると、かえって大袈裟なホラに思えて白けてしまうし、先生が言うように、ただ知識をひけらかしただけの無内容な句に見えます。接続助詞「て」でお茶を濁すのも梅沢の悪い癖。…なお、Wikipediaには、> 中国でいう「桂」はモクセイ(木犀)のことであって、> 日本と韓国では古くからカツラと混同されているとあります。すなわち、"月に生えている"との伝説があるのは、中国でいうところの「桂花/金桂」(モクセイ)であって、日本でいうところの「桂」(カツラ)ではない。そして、(たとえばキンモクセイの花なども甘い香りはしますが)一般にキャラメルの香りに似ているとされるのは、「桂」(カツラ)の落葉であって「桂花」(モクセイ)ではありません。…ちなみに、桂(カツラ)の花が咲くのは3~5月ですが、桂花(モクセイ)の花が咲くのは9~10月です。にもかかわらず、俳句の世界では、古来からの伝統的な誤解にもとづいて、桂花(モクセイ)を「かつらばな/かつらのはな」と読み、これを「木犀」と同じ秋の季語にしている…(笑)旧暦の八月(現在の9~10月)を「桂月かつらづき」と呼ぶのも、それと同じ誤解に由来しているわけです。追記:桂花(モクセイ)は中国原産であり、このうち基準種の銀桂(ギンモクセイ)が15世紀に、変種の丹桂や金桂(キンモクセイ)が17世紀あるいは明治時代に日本へ伝来したとのこと。その一方、桂(カツラ)は、一説によれば日本の固有種だそうです。双方の植物を知らなかった時代に、中国の「桂花」と日本の「桂」が同一視されたのかもしれません。古今和歌集には「ひさかたの月の桂も秋はなほ紅葉すればや照りまさるらむ」と詠まれていますが、 本来は《桂花(モクセイ)の花色が月を金色に染める》という中国の伝説だったはずが、日本では《「桂」(カツラ)の黄葉が月を金色に染める》と解釈されたのでしょうね。https://tenki.jp/suppl/kous4/2020/10/09/30020.htmlさらに、明治時代にはフランスからクスノキ科のローリエが移入されましたが、これもまた同じ中国の伝説にちなんで「月桂樹」などと名づけられたので、ますます面倒くさいことになってます(笑)。なお、桂(カツラ)そのものは俳句の季語になってないようですが、キャラメルの香のする「桂黄葉かつらもみじ」なら、秋の季語として使えるはずです。◇犬山紙子。別れるはずだったのに月が綺麗別れるはずだった 月が綺麗だった(添削後)11+6の破調。夏目漱石のエピソードを意識してるらしく、見かけによらず文学的な引用から出来てるらしい。全体がセリフの形式なので、さほど「のに」による逆説が悪いとは感じません。9位でしたが、個人的には3~4位ぐらいでもいいと思う作品。◇皆藤愛子。細月を探す 三箇所残り蚊に月さがす間を残り蚊に刺されけり(添削後)まずは二句一章の是非。かりに二句一章だとすれば、「月を探してたら蚊に刺された」との因果関係に見えてしまう。かりに一句一章だとすれば、動詞「探す」が連体形になってしまい、その結果「三箇所で探した」との誤読を生む。どちらの解釈をしても問題が生じます。そして季重なりの是非。主たる季語が「残り蚊」だとすると、三箇所も刺すとは生命力が強すぎじゃないの?!とも思えるのですが…もしかすると、「秋なのに月のほうが弱々しくて蚊が元気」という逆説を意図したのかしら?◇清水アナ(Twitter)。パイプ椅子片す良夜のグラウンドこれは綺麗に出来てます。熱戦が終わった後の涼しい月夜でしょうか。なお、現在は全国で使われてるかもしれませんが、片づけるを意味する「片す」は東京方言だそうです。/10月12日、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥才能アリ!!!!やった〜😇#プレバト #俳句 #MBS #TBS pic.twitter.com/9ZJV8aau17— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) October 9, 2023
2023.10.16
乳房切除す母よ芒の先に絮 黒ぶどう甘やか母の背にほくろ 発熱の母月光の車椅子 薄月夜母の電卓スタッカート 母の背は硬く娘を待つ秋夜 秋湿り添い寝の母の生返事 手羽を煮る小さき背中や秋彼岸 門付けの母に背負われ蚯蚓鳴くプレバト俳句。お題は「母の背中」。句材はどれも面白かったのだけど、形式的に理解しがたいものが多かった。◇馬場典子。秋湿り 添い寝の母の生返事秋の蚊帳 母の背中の生返事(添削後)個人的には、これがいちばん良かったと思うけど、残念ながら6位の予選落ち。母のけだるい態度を季語に託しましたが、逆に「季語が近すぎる」との理由で減点。添削句のほうは、出来の良し悪し以前に、実体験ではない創作になってるので、添削というよりは改作ですね。◇森迫永依。薄月夜 母の電卓スタッカート星月夜 母の電卓スタッカート(添削後)星流る 母の電卓スタッカート(添削後)ぎりぎりの4位で予選通過。下五「スタッカート」の比喩の是非です。ぼんやりした視界の中に、音響だけを際立たせる意図だったのでしょうが、こちらは「季語と噛み合わない」との理由で減点。たしかに「スタッカート」には明朗な印象があるので、情景も明るいほうが響き合うとはいえる。つまり、馬場典子は季語に寄せすぎて減点。森迫永依は季語との対比を狙って減点。この査定に同意するかは人それぞれでしょう。◇森口瑤子。黒ぶどう甘やか 母の背にほくろ黒葡萄あまやか 母の背にほくろ(添削後)これが2位でしたが…まず疑問なのは、葡萄の季節は秋なのに、なぜ母親が裸なのか?ってこと。なおかつ、作者は「母のほくろが色っぽかった」と言うけど、もしブヨブヨふくれた醜いほくろだと解釈したら、葡萄まで不味くなりそうです。いずれにせよ、字面だけでは、取り合わせの意図が分かりにくい。◇犬山紙子。発熱の母 月光の車椅子これが3位でしたが…中七に意味の切れ目があるとのことなので、一方に「発熱した母」が寝ていて、他方に「冷たい月光に照らされた車椅子」がある、という解釈になるはず。しかし、作者の説明によれば、発熱した母は車椅子に座ってる、とのこと。それなら二句一章に分けるべきではない。調べは崩れますが、その内容に則して書くならば、月夜の車椅子に発熱の母のような一句一章になるはずです。◇キスマイ千賀。手羽を煮る小ちさき背中や 秋彼岸手羽を煮る母よ 厨のちちろ虫(添削後)手羽を煮る母よ 時雨の過よぎる窓(添削後)これは予選落ち。季語「秋彼岸」の是非ですね。ジュニアが言ったように、「亡くなった人の好物が鶏の手羽だった」と解釈すれば納得できるかもしれません。しかし、仏教的な通念からすると、「彼岸」と「肉食」は似つかわしくないし、どうも季語のミスマッチ感が否めない。なお、添削について一言いえば、現代の台所にコオロギなんていないし、もしいたならば、たんなる駆除対象です。◇清水アナ(Twitter)。秋の暮 出発ゲートへ向く母よ秋の暮 出発ゲートへ向かう母(添削後)くるりと背中を向けた瞬間だったのかな。そう考えると、原句の「向く」と添削の「向かう」では、やや映像が異なるのですが、それでも「向く」を使うのはちょっと難しい。助詞も「へ」or「を」で迷うところ。動詞「向く」には「を」を使うのが一般的だけど、母が旅立つのか迎えに来たのかが分かりにくくなりますね。/10月5日、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥惜しい!!!!#プレバト #俳句 #MBS #TBS pic.twitter.com/9630BpN0qZ— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) September 29, 2023◇中田喜子。母の背は硬く 娘を待つ秋夜母の背は硬し 吾を待つ秋夜の背(添削後)5位の予選落ち。第一に、主語の問題があります。形容詞「硬し」と動詞「待つ」の主語が、どちらも「母の背」であるのなら、母の背の硬く娘を待つ秋夜と一句一章になるはずですが、作者の説明によると、形容詞「硬し」の主語は「母の背」で、動詞「待つ」の主語は「母」のようです。つまり、主語が違ってるのに後者を省略している。そのうえ「硬くあり」を省略して、連用形のように「硬く」と切ってるので、同じ主語による「硬く待つ」との誤読につながる。主語が違うのなら、娘待つ母の背硬し 秋の夜と書けば済む話です。…第二に、主観の問題があります。この句は第三者の視点で書かれてますが、作者の説明によれば、母の背が「硬し」というのは客観写生ではなく、娘(=自分)の主観なのだと。第三者の視点で書かれてるのに、なぜ娘の主観が入ってくるのか…って話です。作者としては、「帰りの遅い自分を待つ母の背中は怒っていた」という主旨で詠んだらしいのですが、字面からは、「娘を心配して待ちわびる母の背中は年老いて強張っている」としか読めません。かりに「娘」を一人称にして、連用形と誤読させる「硬く」を終止形にすれば、我を待つ母の背硬し 秋の夜と出来ますが、それでも「硬し」が怒りの描写だとは読めない。なぜなら、俳句は客観写生と解釈するのが基本だからです。なお、添削では、一人称の「吾」に直して余った2音分で、なぜか「背」を2度重ねていますが、ただの音数合わせとしか思えないし、下手すると「もう一人の背中」と誤読されかねません。◇立川志らく。門付かどづけの母に背負われ蚯蚓みみず鳴く門付けの母よ 真昼を鳴く蚯蚓(添削後)最下位の予選落ちです。これまた主語の違う動詞を連用形でつないでいる。たしかに日本語は一人称の主語を省略できるけど、散文で「母に背負われミミズが鳴く」と書いてみれば、まるでミミズが母に背負われているように見えるはず。たとえば、門付けの母が子負えば蚯蚓鳴くのような形なら主語の問題は解消されます。◇春風亭昇吉。乳房切除す 母よ 芒すすきの先に絮わたこれが1位でしたが、なかなかの問題作!上7字余りの三段切れです。ほぼ自由律と言っていい。作者は「ちぶさ」と読ませていますが、医療的な読み方なら「にゅうぼう」なので、その場合は上8の字余りになります。一概に否定はしませんが、あえてこの形にする必然性があるのかどうか。…より具体的にいえば、真ん中に「母よ」の呼びかけを入れる必然性があるのか。その是非が問われるところ。たとえば、乳房切る母と芒の先の絮とすれば定型17音になるし、乳房切りし母 芒の先に絮とすれば句またがり17音になります。また、下五の「先に」が不要だと考えれば、乳房なき母や 芒の絮揺れるのようにも出来ます。なお、俳句の動詞は現在形にするのが基本ですが、この句は手術の現場を描いてるわけではないので、手術前なら「乳房切る」、手術後なら「乳房切りし」「乳房なき」となるはずです。
2023.10.09
秋風の駅や立ち食い鴨南蛮 CMのオファー来老舗の新蕎麦を 望月や蕎麦と肴の箸休め 台本見ながら4人で新蕎麦 七味の蓋差し直し初蕎麦待つ 麦猪口の藍に濃淡水の秋 梁太き山家色濃き走り蕎麦プレバト俳句。お題は「お蕎麦屋さん」。最下位が65点ってことで、先生の評価はかなり高めでしたが…わたしの評価は全体的に低めですw◇ゆうちゃみ。秋風の駅や 立ち食い鴨南蛮これが1位。句材は平凡ですけどね。俳句の形としては出来ている。冬の季語「鴨」と重なってますが、そこは不問にしたようです。追記:渡り鳥の季語って難しいのよね。「鴨」「鴨鍋」が冬の季語。「引鴨」「残る鴨」が春の季語。「夏鴨」「鴨の子」が夏の季語。「初鴨」「鴨渡る」が秋の季語。去年のNHK俳句では、「燕」「燕の巣」が春の季語。「親燕」「燕の子」が夏の季語。「帰燕」が秋の季語。…との解説もありました。https://www.kohaneko.tokyo/2019/10/212.html◇フルポン村上。蕎麦猪口そばちょこの藍に濃淡 水の秋中七の「濃淡」が説明くさいです。濃い部分と淡い部分を見たあとに、はじめて「濃淡」と判断できるのだから、それは描写というよりも、把握された概念だというべき。むしろ、濃い部分と淡い部分を見るときの視線の動きを、そのまま進行形で描写するならば、蕎麦猪口の藍濃し淡し 水の秋のようになると思います。◇梅沢富美男。梁はり太き山家やまが 色濃き走り蕎麦梅沢には珍しい対句です。しかし、「山家の梁が太い」だの、「田舎蕎麦が黒い」だのは、いたって凡庸な発見というべき。それでもなお、あえてその詩情を言いたいのなら、述語を後ろにもってきて、山家の梁太し 走り蕎麦黒しと書くのが妥当でしょうね。…ただ、この蕎麦の色合いは田舎蕎麦の「黒さ」ともいえるし、走り蕎麦の「青さ」ともいえるので、それを考えると「色濃し」と描写するしかないのかな。◇浅野ゆう子。CMのオファー来く 老舗の新蕎麦をCМのオファー 新蕎麦かぐわしき(添削後)前段と後段の取り合わせの是非。「新・新」の取り合わせなのか。「新・旧」の対比なのか。そこがボヤけているので焦点が定まらない。新しさに別の新しさを取り合わせるなら、先生の添削のようにすべきだし、新しさに古さを対比させるなら、CMのオファー 老舗の秋の蕎麦のようになるかと思います。なお、中八にしてまで「来」を入れる必要はないですね。◇酒井美紀。望月や 蕎麦と肴の箸休め新蕎麦や 出でくる月が箸休め(添削後)原句の前段と後段は、主語と述語の関係(=望月が箸休めになる)とも、目的語と述語の関係(=望月を箸休めにする)とも、補語と述語の関係(=望月に箸を休める)ともいえますが、いずれにせよ切れを入れず一句一章にまとめるべき。わたしなら前段を補語にして、望月に肴と蕎麦の箸をとめのようにします。それがいちばん整うと思う。かりに「肴」を省くなら、望月の出で蕎麦の箸休めたりのようにも出来ます。それはそうと、添削はあえて「月」と季重なりにしたのかしら?◇皆藤愛子。七味の蓋差し直し初蕎麦待つ新蕎麦待つ 七味の蓋を差し直し(添削後)中七の「蓋を差す」ってのは耳慣れない言い方。本体より蓋のほうが大きいなら、「蓋を被せる」「蓋を嵌める」「蓋をする」と言うだろうし、逆だとしても「蓋を閉める/締める」と言うはずです。ためしに、初蕎麦を待つ間ま 七味の蓋を締むとしてみました。追記:考えてみたら七味入れって5種類くらいはあって、大きく「栓」タイプと「蓋」タイプがありますね。問題は、動詞「差す」の是非じゃなくて名詞「蓋」の是非だなと思いました。ネットを見ると、木栓のことを「蓋」と呼ぶ例もなくはないけど、やはり「栓」と呼ぶのが一般的です。上の瓢箪型と樽型が「栓」のタイプ。◇清水アナ(Twitter)。満月や 蕎麦屋が父の秘密基地下五の「秘密基地」という比喩の是非。比喩の使用を認めるとしても、この比喩が適切なのかどうか疑問。基本的に「秘密基地」は子供の遊び場の比喩でしょ。大人の隠れ家に用いるべき比喩ではない。そもそも比喩を使わずとも、満月や 父は蕎麦屋に引き籠るとかでいいのでは?/9月21日、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥レベルアップしてきている感じが...!✨😇#プレバト #俳句 #MBS #TBS pic.twitter.com/LkVuBzEXN9— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) September 19, 2023 ◇キスマイ二階堂。台本見ながら4人で新蕎麦台本を見つつ四人で食う新蕎麦(添削後)台本を置いて四人で食う新蕎麦(添削後)なぜ字足らずの破調??8・9の句またがりは諦めたの?助詞の「で」を排除して、台本をめくり新蕎麦喰う四人と定型にすることも出来るし、かりに8・9の句またがりなら、台本四冊 新蕎麦四人前でもいいわけで。句材は悪くないけど、65点の評価は高すぎ。
2023.09.25
NHK俳句。一昨年は阪西敦子の回を欠かさず見てて、去年は井上弘美の回を欠かさず見てたけど、今年は村上鞆彦の回を見るようにしています。(夏井回はまったく見てませんw)9/17の放送では、季重なりと韻についての解説がありました。◇まずは「季重なり」について。野見山朱鳥の句。天高く地に菊咲けり 結婚すこれは「天高し」と「菊」が秋の季語です。この季重なりが許容される理由について、村上鞆彦の解説をわたしなりに意訳すると…> 季語が主題になってる場合は、> 季重なりによって焦点が分散するけれど、> この句は「結婚」が主題なので、> 2つの季語は脇役の位置づけになる。ってことです。◇わたしも、この考えに同意する。下の記事にも書きましたが、https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202211110000/芭蕉の「古池」のような俳句において、季語は主役ではなく、むしろ脇役でした。すくなくとも近世の俳句ではそれが普通だった。したがって、俳句において、「季語が主役」ということを絶対規範にすべきではない。季重なりかどうかにかかわらず、「季語が脇役」の場合もありうると考えたほうがいい。◇つぎに「韻」について。視聴者の入選句。転校を告げる つゆくさ摘みながらこれは「つ」「つ」「つ」の頭韻になってます。村上鞆彦の解説によれば、> 韻は3つ重ねるのが絶妙。4つになるとクドイ。> 2つだと、たまたまなのかどうかよく分からない。とのことです。本気で言ってるのか冗談で言ってるのか微妙でしたが、実際、そうかもしれないなと思います。◇◇なお、今月の題は「露草」でした。Wikipediaにはこうあります。朝咲いた花が昼しぼむことが朝露を連想させることから「露草」と名付けられたという説がある。英名の Dayflower も「その日のうちにしぼむ花」という意味を持つ。入選9句を見ても、朝露のような可憐さや儚さを描いた作品が多かったです。転校を告げる つゆくさ摘みながら露草や 現世にまた隠世に露草の抜いてしまひし 瑠璃を恋ふつゆくさや 罪人我に露零す呼びかけるまで露草に屈みをりあらくさの中に露草瞳をひらき老いの鉄棒 露草に見つめられうつむいて露草に鳥潤むかな露草を踏んで行く子の消えにけり
2023.09.24
父特製夜食うどんの麺柔し さぁ!夜食ナースコールに落とす箸 秋の夜や一つ二つと増える椀 満月に煎餅重ねて一対七 Gペンにこびりつく黒夜食喰う ショッカーのかたまって摂る夜食かな 仏飯のからすみ茶漬けほぐす夜半プレバト俳句。お題は「夜食」。◇フジモン。ショッカーのかたまって摂る夜食かなフジモンらしい可愛い句。仮面ライダーショーの舞台裏ですね。動詞の「摂る」が、そそくさと味気ない栄養補給のようで面白い。もちろん、本来なら、食べ物の季語は美味しそうに描くべきだけど、この句の場合は、主人公が(表向き)人間ではないし、味気なく食べている感じが、かえって滑稽味になっていると思えます。◇犬山紙子。Gペンにこびりつく黒 夜食喰うこの夜食もけっして美味しそうではなく、むしろネガティブな印象なのだけど、「G」「黒」「夜」のイメージと、「こびりつく」「喰う」の荒っぽさが、すべて響き合って一つの世界を作っています。追記:おそらく「夜食」という季語は、秋の夜長の情景のひとつであり、小腹を満たす程度の食事だから、ことさら美味しそうに描写する必要はないのでしょうね。中七を名詞で切って、下五を動詞で終えるのは、ちょっと変則的な形だけど、意外に効果的。◇川島如恵留。父特製夜食うどんの麺柔し良い句だと思います。強いて難点をいえば、一句一章であるにもかかわらず、上6の「父特製」でリズム的に切れていること。あえて「特製」と言いたい気持ちは分かりますが、父つくる夜食うどんの麺柔しとするほうが、俳句の形としては整うはず。◇清水アナ(Twitter)。台風来 コーヒー三杯 カフ上げてたぶん「カフを上げる」というのは、アナウンサーやラジオDJが音声をONにすることですね。(袖まくりのことではないと思う)つまり、> 台風が来たので、> コーヒーを3杯飲んで、> 深夜の放送をはじめたみたいな意味でしょう。…これは前回よりも出来が悪い。最大の欠点は、長い時間経過の説明になってること。基本的に俳句は《現在》を切り取ることですが、コーヒー3杯ってのは、かなり長い時間です。第2の欠点は、三段切れですね。第3の欠点は、接続助詞「て」の用法。動詞と動詞をつなぐ助詞だけど、「カフを上げて、放送を始めた」という省略にも読めるし、「カフを上げて、コーヒーを飲んだ」という倒置法にも読める。どちらの読みでも成立するとはいえ、せっかくなら明瞭な使い方をするほうがいい。三段切れを回避して、最後の「放送を始めた」の部分を省略して、《現在》を切り取るような描写にすると、8・8・5の字余りですが、深夜の台風 コーヒー片手にカフを上げのようになるかと思います。/9月14日、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥#プレバト #俳句 #MBS #TBS pic.twitter.com/Nq0BSXCNCE— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) September 12, 2023 ◇天才ピアニストますみ。さぁ!夜食 ナースコールに落とす箸ナースコール 夜食の箸をまたも置く(添削後)一般に、不明瞭な接続助詞の「て」で終わらせるよりは、この添削のように終止形にすべきだと思いますが、この句の場合は、「箸を置いた後」の次の動作が明瞭なのだから、それを省略する意味で、ナースコール 夜食の箸をまた置いてとするほうがいいと個人的には思います。◇伊原六花。秋の夜や 一つ二つと増える椀家族五人 夜食の椀の増える卓(添削後)句材は面白いのだけど、いろいろな誤読がありえます。梅沢は「一人で何杯も食べている」という解釈。先生は「椀のコレクションが増えている」という解釈。わたしは、少しずつ人数が増えて、「椀呑みの宴会」になっていく様子と解釈しました。いずれにせよ、なかなか夜食の場面とは見えない。素直に書けば、ひとりふたり家族集ひて夜食せりのようになるのでは?◇菊池桃子。満月に煎餅重ねて一対七満月と煎餅 一対七の○まる(添削後)下6の「一対七」が、比率ではなく試合結果だと誤読されかねません。たとえば中八・下五で、満月に煎餅寄せれば七倍比のようにしたら誤読は少ないと思います。◇梅沢富美男。仏飯のからすみ茶漬けほぐす夜半仏飯を茶漬け 鱲からすみのせる夜半(添削後)句材は良いんだけどねえ。原句は、「からすみ茶漬けを仏飯にしてる」と誤読されるので、まずは「仏飯を茶漬けに」と書かなければ、正確に意味が伝わりません。かたや添削句も、その点でいまいち不明瞭だし、一句一章の内容を句またがりにしているのも難点。たとえば、中八ですが、仏飯を茶に漬け鱲のせる夜半とすれば一句一章にまとまるし、意味も明瞭です。
2023.09.18
小さな手2階ボタンに届く秋 NHKホール迫り上がる良夜 秋涼しハンカチ社員笑み浮かべ 若煙草纏いし君に気もそぞろ この階で降りればいいのか鬼灯め 閉ボタン連打秋夜のエレベータ 白桃や車いす用ボタン押すプレバト俳句。お題は「エレベーター」。◇トレンディエンジェル斎藤。小さな手2階ボタンに届く秋見つけちゃったのね~。思わず何十年かぶりに、ちいさい秋ちいさい秋♪…と歌ってしまったw幸せな小さい秋ですね。◇和田アキ子。NHKホール 迫り上がる良夜秋の季語「良夜」は月の明るい夜のこと。これを屋内の場面に用いたことの是非。先生は好意的に解釈してましたが、おそらく作者は季語の本意を知らずに、一般的な「良い夜」の意味で使ったのでは?…とはいえ、月夜の舞台セットが出現したとも読めるし、スポットライトを月に見立てて、自分が月光に照らされるような幻想を描いた、と読めなくもありません。◇勝村政信。この階で降りればいいのか鬼灯ほおずきめこの階で降りるか 鬼灯を灯して(添削後)これは完全なる幻想句ですね。そういうジャンルがあるのか分かりませんが、戦争が廊下の奥に立つてゐたのような戦争関連句なども思い出させます↓。https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202208140000/鬼灯を擬人化した問い掛けを、添削では自問自答のような形に直してますが、そもそも非現実的な句材なのだから、この場合は擬人化を許容してもいいのでは?それよりも、むしろ難点なのは中八です。この階で降りろと云ふか鬼灯めのようにすれば容易に解消できる。なお、口語によるセリフ形式の句なので、助詞の「で」を使っても問題はないだろうし、最後は「め」のままでも構わないと思いますが、わたしの好みをいえば、この階に降りろと云ふか鬼灯よとするほうがいい。最後を「め」にした場合は、上から恨み節を言ってる感じですが、これを「よ」にすると、すこし怖れをなしてる感じかもしれません。いずれにせよ、泉鏡花っぽい世界ですね。◇皆藤愛子。閉ボタン連打 秋夜のエレベータこれまたホラーっぽい。といっても、幻想ではなく、女性ならだれしも思い当たることですが。難点をいえば、「閉ボタン」と「エレベーター」が、やや情報として重複してる感がある。破調の17音なら、秋夜 閉ボタンを連打する女とも出来ます。◇清水アナ(Twitter)。残暑の夜 エレベーター点検中これも夜のエレベーターの不安感。あるいは、「クソ暑いし疲れてるのに階段かよっ!」という落胆の句でしょうか?(笑)破調の17音にしたことの是非ですね。もし定型に寄せるなら、助詞を入れて「エレベーターは点検中」とするか、写生に徹して「点検中のエレベーター」とすれば、下6にはなるものの、最後が長音だから、さほどの字余り感はありません。でも、あえて破調にしたことで、ある種の字足らず感が生まれていて、そこに孤独な夜の心許なさが表現されてる気もするので、わたしは破調のままでもいいかなと思います。/9月7日、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥#プレバト #俳句 #MBS #TBS pic.twitter.com/KMl01vL4du— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) September 4, 2023◇梅沢富美男。白桃や 車いす用ボタン押す桃抱いて車いす用ボタン押す(添削後)白桃抱いて車いす用ボタン押す(添削後)二句一章にした必然性の是非ですね。これは添削に異論なし。句材はよかったのに残念ですが、やはり梅沢は叙述の構造を理解できていない。◇秋元真夏。若煙草纏いし君に気もそぞろ嗅ぎ慣れぬ秋の大人の煙草の香(添削後)秋の季語に「若煙草」なんてのがあるんですね。残念ながら原句は用法を間違ってましたが…(笑)。かたや添削句のほうは、無理やり季語をねじこんだ結果、「秋の大人」なんぞという、不可解なフレーズが誕生してしまった。作者の意図に沿うならば、ベタな恋の句にはなるけれど、煙草の香 ときめく秋のエレベーターとでもするのが妥当なのでは?あるいは、恋の句とは明示せずとも、新涼のエレベーターに煙草の香ぐらいでいいのかもしれません。◇松倉海斗。秋涼し ハンカチ社員笑み浮かべエレベータに秋のハンカチ使いをり(添削後a)エレベータに秋のハンカチ使わざり(添削後b)おおかた「ハンカチ王子」に倣って、不用意な造語を取り入れたのでしょう。夏のあいだはハンカチを多用していた社員…ってことですよね。しかし、意外なことに「ハンカチ」は夏の季語だそうで、はからずも季重なりになってしまった。そうでなくとも、この場面でハンカチは使われていないので、それを描写の対象にすることは出来ません。原句に沿った(添削後b)では、「使ってないハンカチ」を描写した結果、季語を否定する形になってしまってます。かたや(添削後a)のほうは、原句の意図から外れていますが、「秋のハンカチ」の用途もよく分からない。残暑がひどくて汗を拭いてるのか。潔癖の人がハンカチ越しにボタンを押してるのか。かりに実景だけを描写するなら、束の間を語らう秋のエレベーター同輩とエレベーターの秋涼しみたいな形にしかならないし、作者の意図を活かすのは困難ですね。ハンカチ店を開店。“ハンカチ王子”斎藤佑樹、ハンカチ店開店 店主就任に意気込み | ORICON NEWS https://t.co/8XuBaE4Gwy— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) September 8, 2023
2023.09.11
誘蛾灯英語テストは三十点 花火背に夢中で描いた父と母 夏の果明日は来るなと神頼み すぐ後ろママの姿は入道雲 箱庭の四人家族の無表情 日盛りのマック課題図書のあらすじ 一心に日焼けの鱗はぐ子かな プレバト俳句。お題は「夏休みの宿題」。◇勝俣州和。誘蛾灯ゆうがとう 英語テストは三十点学校からの帰路、(作者いわく、夏休み中の「塾の帰路」だそうです)暗い夜の誘蛾灯を見たときの不安な気持ち。この季語は動きようがなく、その意味でも模範的な出来映え。◇森口瑤子。箱庭の四人家族の無表情季語の「箱庭」は、基本的には"人事"を詠むためのものでしょうが、箱の中の"自然"を詠んでこそ夏の季語なのだろうし、そこで《涼しさ》や《楽しさ》を味わうのが本意だと思います。しかし、この句の場合は、ほとんど心理療法的な発想で「箱庭」を描いており、涼しげでもなければ楽しげでもなく、なかば無季の句のようでもあるし、川柳のようでもある。独創的で面白いとは思うけれど、およそ"俳句らしさ"からは遠い作風だし、かなり特殊なので、一般的な俳句観から逸脱したところで評価するしかない。なお、詠み手によっては、助詞を「四人家族 は 無表情」とするでしょうが、やはり写生に徹するためには、わたしも「は」でなく「の」にするのが正解だなと思う。◇キスマイ横尾。日盛りのマック 課題図書のあらすじいつもの「AのB/CのD」の対句です。"マックで宿題"ってのは、若い世代の句材としては凡庸じゃないかしら?梅沢は「オシャレだ」と言ってましたけどね!(笑)とはいえ、温暖化した都市の晩夏と、冷房の効いたファストフード店を対比させ、そこで要領よく宿題を片付ける子供を、シュールにアイロニカルに描いているともいえる。実際、マックもエアコンも温暖化もスマホもなかった時代から見れば、これはほとんどSFのような世界でしょうから、その意味では、すごく現代的な人事詠かもしれません。◇弓木奈於。花火背に夢中で描いた父と母花火観る父母ちちははを描く花火背に(添削後)原句は、「花火を背にしている父母を」描いたのか、「花火を背にしている自分が」描いたのか、位置関係が分かりにくい。しかし、位置関係を説明するためとはいえ、季語の「花火」を2度使う添削も煩雑です。破調の17音なら、花火に照らさるる父母ふぼの顔描けりと出来ます。◇鬼越トマホーク坂井。夏の果 明日は来るなと神頼み夏果の宿題 明日よ来るな嗚呼(添削後)助詞の「は」ってのは厄介で、「象は長い」と書けば「象」が主語になりますが、「象は鼻が長い」と書けば「鼻」が主語になるのよね。それと同じく、この句は「明日」が主語のようにも見えるし、(たとえば「明日は《借金取りが》来るな」のように)別の主語が省略されているようにも読み迷わせる。これを避けるには、「明日が来るな」or「明日よ来るな」と書くしかない。…それはともかく、こういうことを神様に願うってのは、のび太=ドラえもん的な世界観を匂わせるし、コワモテの外見に似合わず純粋(…というか幼稚)なのかな。なお、夏休みの終わりは暦の上では秋なので、そこで「夏の果て」を用いるのも間違いだし、のみならず、この季語の本意は、過ぎ行く夏を惜しむことにあるのだから、添削句を字面だけ見れば、「ああ夏が終わってしまう! 永遠に明日が来ないでほしい! 私はこの宿題をいつまでもやっていたいのだ!」との意味に読めてしまいます。◇尾上右近。すぐ後ろ ママの姿は入道雲入道雲 宿題迫るママみたい(添削後)季語を比喩にしてしまう初心者の過ちですね。こういう俳句に対して、「雲のような母」ではなく、「母のような雲」に逆転すれば解決するってのも、もはや機械的な添削手法なのだろうなぁ…(笑)◇梅沢富美男。一心に日焼けの鱗はぐ子かな宿題は遅々と日焼けの鱗剥ぐ(添削後)最近の梅沢のボツ句に共通するのは、情報量が少なくて、内容が薄いってこと。たとえば、剪定や鋏の音の霏々として(=剪定してるだけ)水筒の囀り満たし一息に(=水筒の水を飲んでるだけ)せせらぎの1/F夕蛍(=川に蛍が飛んでるだけ)…ことごとく内容が薄いのよね(笑)。ごくありきたりな内容を、俳句っぽい調べと言い回しにしたにすぎない。まあ、上の3作にくらべれば、今作には、ゆったりした味わいもあって、だいぶマシな気はするし、一概に情報量が多けりゃいいってもんでもないけど、所詮は、この句も、「子供が日焼けの皮を剥がしてる」だけなので、中身が薄いといわれても仕方がないですね。
2023.09.04
芋煮ゆる紙の器の頼りなく 残暑の夜誰も洗わぬカレー鍋 秋晴や焦げ石に米粒一つ 山雀の高音竹皿のカレー 寸胴に溶かすカレー粉秋の蝉 青空の炊事遠足しゃばカレー 秋涼し銀に口紅底フィルムプレバト俳句。お題は「アウトドアのカレー」。◇梅沢富美男。芋煮ゆる紙の器の頼りなく掲載決定だそうですが、わたしならボツ。おそらく作者は、兼題に沿うべく、カレーとも芋煮とも解釈できるように、動詞を使って「芋煮ゆる」と書いたのだろうけど、そもそも秋の季語「芋」は里芋のことだから、その時点でカレーじゃありません。そして、「芋が煮えている紙の器」ってのは、(間違った描写とまでは言わないものの)まるで紙の器で芋を煮たような言い方で、やや違和感がある。下五の「頼りなく」も、あえて終止形でなく連用形にした必然性が問われる。…そして、何より、描写すべきは器の "頼りなさ" ではなく、あくまで "料理の旨さ" であるはずなのだから、兼題の「カレー」からは離れますが、頼りなき紙の器の芋煮かなとするのが常道でしょう。かりに、あくまでも兼題に沿うなら、カレールーを芋煮に溶かして、頼りなき紙の器に芋煮カレーにしちゃうか、破調の17音で、頼りなき紙皿にじやがいもカレーとでもすべきでしょうね。ちなみに、「玉葱」は夏の季語、「馬鈴薯/じやがいも」は秋の季語、「人参」は冬の季語ですが、カレー自体では季語になりません。◇えなこ。残暑の夜 誰も洗わぬカレー鍋これが才能アリの1位でしたが、わたしなら65点ぐらいの凡人かなあ。たしかに、堅実な作風には好感がもてるし、今後に期待できる気はしますけど。…そもそも、これは屋外のキャンプの場面ではなく、主婦が自宅で愚痴ている場面に見えるのです。中七の「誰も洗わぬ」は、説明的な描写であると同時に、読み手によっては、「誰も洗わないから仕方なく自分が洗う」とネガティブな解釈をされかねません。作者自身は、ネガティブなつもりではなく、「洗ってしまったらキャンプが終わってしまう」「いつまでも楽しい時間が続いてほしい」とポジティブなつもりで書いたらしいけど、その意図はちょっと伝わりにくい。とくに中七の「誰も」の3音は、(人数の多さを想像させる効果がある反面)他人の身勝手さを責めるニュアンスも帯びます。…まずは、屋外であることを明示する必要があります。そのために、たとえば「キャンプ」「テント」などの夏の季語が使える。そして、むしろ「誰も」とは書かずに、テントの夜 洗わぬままのカレー鍋のように書くほうが、「あえて余韻を楽しむために洗わない」という意図は伝わりやすいはずです。◇武田真治。青空の炊事遠足 しゃばカレー北海道の学校行事で作った水っぽいカレー。「炊事遠足」は北海道ならではの学校用語。「しゃばカレー」は作者自身の造語。そういう単語をどこまで容認するかの是非!読み手によっては、出所した人が「娑婆しゃば」で食べるカレーとか、三段切れで「青空の炊事 / 遠足 / しゃばカレー」と読むでしょう。なお、季語は「遠足」で晩春ですが、北海道の炊事遠足は夏や秋にも行われるそうです。才能アリの2位でしたが、わたしなら40~50点台の凡人ですね。北海道の地域色を出すのなら、豊平川の秋 しゃばしゃばのカレーのようにも出来るわけだし、かりに「炊事遠足」を容認するとしても、おかしな造語まで使う必要は感じません。◇エルフ荒川。秋涼し 銀に口紅 底フィルム秋涼し カレーのための銀の匙(添削後)三段切れで意味不明な句。本人いわく、屋外でカレーを食べてたら、写真を撮るのも忘れるほど楽しくて、銀のスプーンにも口紅をつけてしまった、…とかなんとか。そしてカバンの底のケータイを「底フィルム」と書いたらしい。たとえば、キャンプ小屋 カレースプーンに口紅のようにも出来るけど、なんか不倫の証拠をつかんだ場面っぽい?せいぜい破調の17音で、インスタ映えも問わぬキャンプのカレーぐらいにしか出来ません。◇IKKO。寸胴に溶かすカレー粉 秋の蝉秋の蝉 寸胴鍋へカレールー(添削後)梅沢も、先生も、季語は上五に置くべきと言ったけど、わたしは下五に置くほうが印象的だと思うし、上五に置くなら「秋蝉や」と詠嘆するほうがいい。動詞が不要といわれれば、たしかにそうかなとは思いますが、たとえば「溶かす」と他動詞にせず、寸胴に溶けるカレー粉 秋の蝉と自動詞にすれば幾分かは描写的になるし、あるいは、あえて他動詞を使って、寸胴へカレー粉溶けば秋の蝉とする方法もあるかと思います。◇キスマイ北山。秋晴や 焦げ石に米粒一つ先生絶賛の句でした。たしかにね。失礼ながら、「ほんとに北山が書いたのかしら?」と思うほどいぶし銀の渋い出来です…。◇千原ジュニア。山雀やまがらの高音 竹皿のカレー季語は「山雀」で夏。ジュニアには珍しく、まるで横尾みたいな、句またがりで「AのB/CのD」の対句。竹の素材と、甲高い山雀の鳴き声が響き合って爽快です。ただし、山雀の鳴き声を知ってる人には、かえって「高音」の説明が蛇足になりうるし、それを省く代わりに、もうひとつ情報を加えることも可能ではある。かりに場所の情報を加えれば、山雀の渓谷 竹皿のカレーのように出来るかもしれません。
2023.08.28
夕空や助手席に捥ぎたての桃 ソーダ水大人ぶってもまだ飲めず 天の川車窓の寝顔に夢重なる 甲子園寝ぼけ眼で小休憩 空き瓶に草の花ゆれ手を洗う 残暑の敗野球帽の白昏し どんぐり七つ饂飩二杯に箸三膳プレバト俳句。お題は「サービスエリア」。◇高島礼子。夕空や 助手席に捥もぎたての桃今週はこれが1位。桃狩りの帰路の場面。「桃」は初秋の季語です。助手席に人がいないところから察するに、ひとりで桃狩りに来て、その収穫を家族に持ち帰るのかしら?そんな満ち足りた気分と、果実と夕空の熟した色合いがすべて重なり、さらに「mo」の韻が、甘く香ぐわしい印象を引き立てています。かなり完成された出来。◇千原ジュニア。どんぐり七つ 饂飩二杯に箸三膳親子3人でハイキングの場面。団栗どんぐりは子供の収穫、饂飩うどんは大人の食べ物、…という漢字/ひらがなの使い分けでしょうか?なお、季語は「団栗」で晩秋です。◇武田鉄矢。空き瓶に草の花ゆれ手を洗う1ランク昇格だそうですが、わたしならボツ。先生は、「書いてないのにトイレだと分かる」と言ってましたが…はたしてそうでしょうか??季語は「草の花(野の花)」で秋。それを入れてるのは、たぶん円柱形の小瓶なのだと思いますが、上五の「空き瓶」は、ビールやコーラの瓶と誤解されかねないし、子供が野原で採集した植物を、そうした空き瓶に詰めてるようにも読めます。へたに「空き瓶」などと書くよりも、ふつうに「瓶」または「小瓶」と書いたほうが、むしろ誤読が少ないのでは?また、日本語は一人称の主語を省略できますが、同じセンテンスのなかで主語を変える場合には、「草の花が揺れて私は手を洗った。」と、それぞれの主語を明示すべきだし、あくまで主語を省略するのなら、「草の花が揺れた。手を洗った。」のように、いったんセンテンスを変える(切れを入れる)か、もしくは、「手を洗ったら、草の花が揺れた。」のように、主語のあるほうを後ろに置くべきです。…たとえば古語の定型なら、手洗はば小瓶の草の花揺れりともできるし、破調の17音で、手を洗えば瓶に草の花ゆれるともできるし、動詞をひとつ減らして、手洗いの小瓶に草の花ゆれるともできます。そもそも、この内容なら動詞を使わずとも描写できるはず。たとえば、SAのトイレ 小瓶の草の花でもいいんじゃないでしょうか。◇森迫永依。残暑の敗 野球帽の白昏くらし野球帽の白昏く残暑のバスよ(添削後)上五の「敗」は説明。下五の「昏し」はやや主観的な描写。どちらも客観写生に反しますが、先生の添削は、《後者によって前者を補える》という判断で、片方を省いています。それについては異論ありません。…とはいえ、残暑のバス 野球帽の白昏しの語順でいいと思うのだけど、あえて逆にする必要があるかしら?かりに、季語の印象を強めるのなら、バスに残暑 野球帽の白昏しとする方法もあるかと思います。◇ナダル。ソーダ水 大人ぶってもまだ飲めず大人ぶる子よ まだ飲めぬソーダ水(添削後)季語は「ソーダ水」で夏。わたしなら詠嘆せずに、大人ぶる子のまだ飲めぬソーダ水と写生したほうがいいと思いますが。◇佐野岳。天の川 車窓の寝顔に夢重なる夢にまどろめば車窓の天の川(添削後)季語は「天の川」で初秋。本人いわく、車窓に映った自分の寝顔に天の川が重なり、その天の川に自分の夢(希望)を重ねた、とのこと。しかし、明るい車内から天の川が見えるとは思えないし、幽体離脱でもしないかぎり自分の寝顔は描写できません。およそ現実味のない場面なので、添削では、おおむね客観写生になっています。かりに、子供などの寝顔を描写するのなら、一句一章で、銀漢が車窓の寝顔に重なりてでもいいかなと思います。◇糸井嘉男。甲子園 寝ぼけ眼まなこで小休憩バス灼けて寝ぼけ眼の応援団(添削後)本人いわく「甲子園は夏の季語!」とのことですが、春の選抜もあるので、今後も季語にはならないでしょうねw添削では晩夏の季語「灼ける」を使っています。ちなみに「小休憩」ってのはスポーツ界の用語なの?一般的な「一休み」とはニュアンスが違うのかしら?
2023.08.21
吊り橋や覚悟を決める鰯雲 夏空の青だけ見てと手を引く君よ 秋麗や五十鈴の緒の手光射す 高秋の吊り橋ややにしがみつき かなかなの遠のいてゆくかずら橋 秋光の跳ね橋ドローン追うチワワ 吊橋に四つの碇鰯雲プレバト俳句。お題は「吊り橋」。◇ぼる塾田辺。吊り橋や 覚悟を決める鰯雲芭蕉の「古池や」と同様に、季語以外のものを主題にしてる気もするし、上五で切って二句一章にする必要があるのか?って問題もあるけど、…その議論をはじめると面倒なのよねw↓くわしくはこちら。https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202211110000/この句の場合は、「吊り橋に覚悟を決める」ではなく、「鰯雲に覚悟を決める」ことの説得力があるので、結果オーライなのかもしれません。でも、本来なら、吊り橋に覚悟を決めて鰯雲ぐらいが常道だと思います。◇オズワルド伊藤。夏空の青だけ見てと手を引く君よ夏空の青だけ見てと手を引く君(添削後)下7の字余り。先生も「写真俳句なら…」と言ってましたが、字面だけだと吊り橋の場面には見えません。どちらかというと、土手の上って感じwジブリのアニメに出てくるような。個人的には、下五を「手を引かれ」に収めるほうがいいかな。◇アインシュタイン河井。秋麗や 五十鈴いすずの緒の手 光射す秋麗や ひかりに揺るる五十鈴の緒(添削後)原句は三段切れ。とくに添削に異論があるわけじゃないけど、村上が「秋麗」と「光」の重複を指摘したので、ためしに、五十鈴の緒ひく手に秋の陽の柔しとしてみました。◇さや香新山。高秋の吊り橋 ややにしがみつき高秋の吊り橋 赤子ぎゅっと抱く(添削後)添削句は、たんに赤子を守ってるようにも見えてしまう。もちろん客観写生としては、それで正解ですが。とはいえ、「しがみつく」という比喩表現はそのままに、「稚児」と書いて「やや」と読ませてもいいのでは?という気がしなくもない。◇馬場典子。かなかなの遠のいてゆくかずら橋オノマトペ的な名詞を使うと、かえって音が "聞こえすぎる" 気がするので、ふつうに、蜩の遠のいてゆくかずら橋と書いたほうが、音が離れていく印象は強まると思います。◇キスマイ横尾。秋光の跳ね橋 ドローン追うチワワいつもどおり「AのB/CのD」という対句なので、4つの名詞が出てくるわけですが、ここでは前段と後段の取り合わせの是非が問われる。取り合わせの基本は"対比"ですが、秋光へと上がっていく「跳ね橋」も、ドローンを追いかける「チワワ」も、同じくベクトルが上を向いているので、対比というより反複のようになってるし、主役もいまいち散漫になってる気がします。そして、「チワワがドローンを追う」という光景にも、あまり現実性を感じません。チワワって、そこまで視線を上げたりします?かりに、高いほうから順に視線を下げていくなら、秋光のドローン 跳ね橋のチワワとするほうがまだマシかなあ。それなら「高い/低い」の対比と言えなくもないし。◇フルポン村上。吊橋に四つの碇 鰯雲わたしは、てっきり、ケーブルを吊るす4つの塔が、碇のように鰯雲の海へ落ちていく様を、上下を逆さまにして詠んだのかと思ったのですが、…そうではなくて、地面でケーブルを押さえているアンカーブロックを、そのまま「碇(anchor)」と呼んだのですね。つまり、海面では鰯の群れが泳いでいて、海底では碇が沈んでいるということ。…ちょっと分かりにくかったです(笑)。
2023.08.13
水貝のさくりと清くまず一献 呼び鈴のはんなり抜けて湯びき鱧 鱧の皮あの娘再婚したらしい 古都眩し夜は酒場の氷店 土用鰻大将すまん小ジョッキ 土地区画整理末伏のタッカンマリ じゃあそれとガツ刺し夕涼の酒場 焼酎やけふは店主に辞儀深う 西日溜める店影だけが呑んでる キープボトル墓碑銘となる夏のBAR 命日を集う紫陽花のレストラン 鰻待つ今日は台本家に置き 風青しカンロ杓子の三拍子 混濁のスープ青山椒の蒼 夏惜しむキープボトルを一人呑むプレバト俳句。夏の炎帝戦。お題は「行きつけのお店」。◇梅沢富美男。水貝みずがいのさくりと清く まず一献これが優勝でしたが、きっと賛否両論あるでしょうね。村上もフジモンもジュニアも、見るからに不満そうだった。…季語の「水貝」は、アワビのお造り。中七の「さくりと清く」は、たんなる食感の形容なので、実質的には「水貝」と「酒を呑む作者」だけを描いた句。この食感の形容は独創性に乏しく、たとえばコーラのことを「スカッと爽やか」と形容するのと同じで、「さくりと清くない水貝があったら持って来い!!」と言っていいと思うけど、なぜか先生いわく、水貝と日本酒のみならず、店の雰囲気まで清らかなのが分かる、…とのこと。でも、そもそも字面だけではどこの場面かも分からないし、家呑みの場面だと解釈できなくもない。…強いて好意的に解釈すれば、ポイントは、下五の副詞「まず」なのかな、とは思う。つまり、このあと次々にいろんな料理が来るけれど、そのはじめが爽やかな水貝であり、まずはそれで一杯呑む、と。そこから「料亭の場面」だと想像させる仕組み。そう考えれば、粋な佳作といえるのかもしれません。とはいえ、これが優勝句でいいのかなという疑念は残ります。◇中田喜子。呼び鈴のはんなり抜けて湯びき鱧はもこれが2位でしたが、じつは梅沢の句と構造が似ています。…実質的には「呼び鈴」と「湯びき鱧」だけの句で、中七の「はんなり抜けて」は、ただのサウンドの形容なのだけど、そこから「京都の料亭」だと想像させる仕組みです。このサウンドの形容は独創的だけれど、「呼び鈴が抜ける」という字面だけを見ると、手や紐や金具から鈴が抜け落ちた…とか、呼び鈴をもった人が通り抜けた…などの誤読もありうるし、さらには、玄関のチャイムが鳴ったら料理が届いたとか、食事の支度の出来たところに誰かが帰ってきたとか、そんな誤読もありえなくはないので、料亭の場面という解釈に到達するのは難しい気もする。ちなみに、湯引きは、さっと湯にくぐらせて、すぐに冷やす調理法。これも水貝と同じく料亭の夏の一品ですね。◇…ってことで、いつもとは毛色の違う作風が1位と2位になった印象。そして「金持ちの年寄り」に有利な兼題なのかも。かたせ梨乃。鱧はもの皮 あの娘再婚したらしいこれは3位の句。この「季語+口語のセリフ」の形は、ひとつの型と言ってもいいでしょうね。ちなみに先生は、「再婚」を「脱皮」ととらえてるらしい…(笑)ゴジラ的にいえば "第二形態" ってこと?◇…以下は順不同です。フルポン村上。じゃあそれとガツ刺し 夕涼の酒場じゃあそれとガツ刺し 夕涼の屋台(添削後)じゃあそれとガツ刺し 夕涼の中洲(添削後)これも「口語のセリフ+季語」の形。ガツは豚の胃袋。ガッツ(胆力)と同じで「guts」が語源です。◇伊集院光。土用鰻 大将すまん小ジョッキこれまた「季語+口語のセリフ」の形。しかし、なぜ謝って「小ジョッキ」を頼むのか分からない…。わたしは、「いつもなら大ジョッキだけど、ちょっと痛風が怖いので…」みたいな解釈をしましたが、本人いわく、「忙しいのに悪いけど…」という程度の意味合いだそうです。かたや先生は、「テイクアウトしに来たけど、あまりに暑いので一杯…」という解釈でした。いずれにしても、解釈の余地がありすぎる気がします。◇千原ジュニア。焼酎や けふは店主に辞儀深うこれも、なぜ深くお辞儀したのかが分からない。伊集院の句と同様に、解釈の余地がありすぎる。酔っぱらって店内で粗相したとか、他の客と喧嘩になって暴れたとか、そんな解釈をする人のほうが多いのでは?でも、先生いわく、「自分のなかで書き留めておく作品」としては、これで良し、とのことでした。◇フジモン。土地区画整理 末伏まっぷくのタッカンマリ地上げの噂 末伏のタッカンマリ(添削後)末伏とは、暑さのきわまる晩夏の凶日。日本では六曜(先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口)ぐらいしか使いませんが、中国や韓国では、ほかにもいろんな暦注を使うのですね。▶ https://jpnculture.net/rekichu/ちなみに、今年は、初伏が7月11日で、中伏が7月21日で、末伏が8月10日…だそうです。タッカンマリは、いわば「具を詰めないサムゲタン」みたいな鶏の煮込み。原句は、(何となく不吉な雰囲気はあるものの)前段と後段の関係性が分かりにくく、やはり解釈の余地がありすぎます。◇キスマイ横尾。古都眩し 夜は酒場の氷店これは昼間の場面で、「夜はBARに変わるかき氷屋」ってことなのだけど、わたしはてっきり夜の場面だと誤読して、「夜は飲み屋街の氷店に来た」と解釈しました。つまり、> 昼間は外で働いて、> 夜間は酒場に氷を提供する店で働いて、> ああ、京都のネオンが眩しいなあ。…みたいな解釈。形式上は、そういう誤読もありうる。◇立川志らく。西日溜める店 影だけが呑んでる西日の店 いつも影だけが呑んでる(添削後)志らくは過去にも、影のような野良犬に桜ながし闇動く幸せが動く梟などを詠んでいますが…実景をぼかし、「影」や「闇」を比喩的な主役にして、安易に詩情を生み出そうという発想が、やや小手先の手法になってる気がする。ちなみに、「西日溜まりの影」のイメージは、「夏至の古色蒼然」にも、どこかしら似ています。なお、以前の村上の句では、「影の少なき無人駅」を、「影のみ増ゆる無人駅」と直してましたが、今回も影の存在感を強める添削になってますね。◇春風亭昇吉。キープボトル 墓碑銘となる夏のBAR晩夏なるBAR 墓碑銘となるボトル(添削後)原句はやや説明的な感じがします。かといって、添削の「墓碑銘となるボトル」で意味が伝わるかどうか、これはこれで勇気がいるかなあ、とも思う。むしろ、この場合は、晩夏のBAR 墓碑銘となりしボトルと過去形にしたほうが分かりやすいのでは?これから亡くなるのではなく、すでに亡くなってるのだから。◇森口瑤子。命日を集う紫陽花のレストラン18音の破調ですが、最後が「ン」なので、さほどの字余り感はない。先生は「レストラン」じゃないほうがよい、…とのことですが、これといった代替案は思い浮かびません。◇キスマイ千賀。鰻待つ 今日は台本家に置き先生いわく、季語の「鰻」は「鱧」にも代わりうる、とのこと。たしかに、鰻にガッツくより、優雅な鱧料理のほうが、「今日は仕事を忘れて…」という気分にふさわしいかも。◇森迫永依。風青し カンロ杓子の三拍子字面だけを見たら何のことか分からないよ…(^^;カンロ杓子は、かき氷のシロップだけでなく、ラーメンのタレを入れるときにも使うし、そもそも、三拍子の「シャカシャカシャカ」ってのは、カンロ杓子の音じゃなくて、氷を削る音でしょ?それとも「イチゴとあずきと練乳の三拍子揃い踏み!」みたいなこと?わたしなりに作者の意図を察すれば、「風青し」は季語として確定してないし、「氷を削る三拍子」と書いたら冬の句になっちゃうから、無理やり「カンロ杓子」で代替させたんでしょうねwたしかに、「氷」は冬の季語だけど、「かき氷」は夏の季語なのだから、風青し 氷搔きたる三拍子とすれば、ちゃんと夏の句になるのでは?◇星野真里。混濁のスープ 青山椒の蒼作者は担々麺のことを詠んだらしいけど、青山椒の入ってるスープは他にもあるし、具材の多いスープのことだと誤読する人もいるはずです。作者の意図を察するに、「濁ったスープ」と「青山椒」が印象的だったから、その2つの取り合わせにしたのか?それとも、ストレートに「担々麺」と書いたら芸がないから、それを連想させる「混濁のスープ」で代替させたのか?でも、どっちにしろ、担々麺のことしか読んでないわけだから、わざわざ取り合わせにする必要がありませんよね。かりに一句一章にまとめるなら、担々麺の青山椒に身の締まるみたいな感じにすべきだろうし、かたや二句一章の取り合わせにするなら、ひとり席 担々麺の青山椒みたいな感じでしょうか?さすがに「行きつけ感」までは出せませんが。◇ニューヨーク嶋佐。夏惜しむ キープボトルを一人呑む全般的に陳腐な内容。夜のBARの場面だとすれば、季語が実景として見えないのも弱い。それとも、鈴木雅之の「ガラス越しに消えた夏」みたいに、明るいうちから海を眺めて飲める店でもあるのかしら??
2023.08.07
風薫る初のマニキュアは百円 若夏をラッパ飲みする白帽子 雪濡らすバス待つ我の単語帳 小高の地心に刻む春日傘 手酌酒祖父の背中や年歩む 炎天に映える黒肌まだ足りぬ クマわたし揺れる母観て露寂し 何度目のオセロ薄目のこたつ猫プレバト俳句。今回は、過去句にかんする抜き打ちテスト。このブログで取り上げてなかった句もありました。(2020年よりも前の作品です)◇山之内すず。風薫る 初のマニキュアは百円実体験にもとづく率直な内容で才能アリ。強いて欠点をあげれば、上五の季語に映像がないことかもしれません。◇市川右團次。若夏をラッパ飲みする白帽子制帽は白 はつなつをラッパ飲み(添削後)隠喩で「夏を飲む」と詠んだ句。作者の意図に反して、「若夏」は《沖縄の初夏》を意味する季語なので、添削ではこれを「初夏はつなつ」に置き代えています。同時に、小学生の帽子だと分かるように「制帽」に直している。しかし、「制帽」は軍人や自衛官の帽子にも見えるので、たんに「若夏」を「初夏」に直せば十分でしょう。かりに「沖縄の夏」との誤読も許容するなら、原句のままでも十分に通用する句だと思います。◇向井慧。雪濡らすバス待つ我の単語帳才能アリだったようですが、いろいろと直すべき点の多い句です。まずは「雪が濡らす」か「雪を濡らす」かを読み迷わせる。そして「雪が濡らす」だとしても、「バス」を濡らすのか「単語帳」を濡らすのか分からない。多くの読み手は「雪が濡らすバス」と誤読するでしょうが、そもそも「バス」はまだ来ていないので実景ではありません。なので、「雪が濡らす単語帳」でなければ、季語を実景化できない。さらにいえば、中七の「我の」は省略することが可能です。ためしに、単語帳を雪に濡らしてバスを待つとしてみました。◇キスマイ二階堂。小高おだかの地心に刻む春日傘小高の地 心に春の日傘さす(添削後)春日傘心に小高去る日かな(添削後)感情表現「心に刻む」の是非だと思いますが、添削でも「心」は排除していないのですね。かりに実景だけを詠むなら、春日傘さして小高を去る日かなのようになるでしょうか。◇キスマイ二階堂。手酌酒 祖父の背中や 年歩む酒を酌む祖父の背中や 年歩む(添削後)手酌せる祖父の背中や 年歩む(添削後)添削では三段切れだけを修正していますが、冬の季語「年歩む」はただの時候の説明なので、そこに映像がないのも弱い。むしろ中七で切らずに、手酌せる祖父の背中を年がゆくのような形のほうがいいかもしれません。◇みちょぱ。炎天に映える黒肌 まだ足りぬ美しき日焼けの肌をなおも焼く(添削後)美しき日焼けの肌を焼く焼く焼く(添削後)原句もそこまで悪くないと思うけど、何が「足りない」のかがやや不明瞭かな。炎天下のシーンを撮影してる映画監督が、「ビキニ姿の女性の数がまだ足りない!」「上半身裸の男たちをもっと集めてこい!」…などと言ってるようにも誤読できます。◇市川由紀乃。クマわたし揺れる母観て露寂し嫁ぐ秋 母へ感謝のテディベア(添削後)原句は意味不明なので、おおむね添削が妥当でしょう。◇梅沢富美男。何度目のオセロ 薄目のこたつ猫滑稽味のある取り合わせ。この対句は上出来でした。◇※これ以降の句は、過去の記事で取り上げました。(リンクだけ貼っておきます)早見あかり。春暁の実家 オムツは三枚目春暁のあくび 三回目のオムツ(添削後) https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202104100000/◇村上佳菜子。疲れたなあ 追い込む季節 冬隣練習終えスケートシーズンは間近(添削後)https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202109090000/◇くっきー。葉の隙間溢れ蟲くる歯の隙間木漏れ日や こぼるる飯にたかる虫(添削後)https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202110180000/◇小林幸子。携帯扇風機 扇風機市民ホールの舞台袖開演の舞台袖なる扇風機(添削後)https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202107100000/◇嶋佐和也。夏の雲 ソフトクリームと溶けてゆく溶けてゆくソフトクリーム そして雲(添削後)溶けてゆくソフトクリーム・雲そして(添削後)https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202108120000/◇ 梅沢富美男。ますかけの手にある我の木の葉髪ますかけの手相ぞ 我に木の葉髪(添削後)https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202111300000/◇梅沢富美男。桐の花 いつかは来ない紙袋https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202304090000/◇梅沢富美男。白秋や 漢字ドリルに書く名前漢字ドリルに白秋の我が名記す(添削後)https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202108300000/
2023.07.30
口々に夕立のこと路線バス 驟雨過ぎ海の詩集を買う港 750ccの飛魚の如大夕立プレバト俳句。お題は「夕立」。◇キスマイ千賀。驟雨過ぎ海の詩集を買う港ワンランク昇格だそうですが、わたしならボツ。意味は分かるけど、ゴチャゴチャしすぎてると思う。主語と述語の関係が煩雑だし、内容面では「水」の情報が重なりすぎてます。…日本語は、主語を省略することも、体言止めにして述語を省略することも出来るけど、その結果、書いている本人でさえ、主語と述語の関係を自覚できなくなったりします。この句は、まさにその典型だと思う。これは切れのない一句一章なのですが、文の構造としては、「驟雨が過ぎて、私が海の詩集を買う港がある」「驟雨が過ぎて、私は、私が海の詩集を買う港に来た」…といった意味になります。つまり、ひとつの短い文の中に、主語と述語の組み合わせが3つもあって、無駄に煩雑な構造をしているのです。それにもかかわらず、(主語や述語を省略しているせいで)作者も、評者も、その煩雑な構造に無自覚なのです。…本来、この内容であれば、主語・述語の組み合わせは1つか2つで済みます。たとえば、A「驟雨の後に、私は港で海の詩集を買う」B「驟雨の後に、海の詩集を売る港がある」とすれば主語・述語は1組で済むし、C「驟雨が過ぎ、私は港で海の詩集を買う」D「驟雨が過ぎた港で、私は海の詩集を買う」E「港の驟雨が過ぎ、私は海の詩集を買う」としても主語・述語は2組で済みます。かりにDやEの構造で俳句をつくるなら、驟雨過ぎし港 海の詩集買う港に驟雨過ぐ 海の詩集買う…のような二句一章の17音にできますし、そのほうがはるかにシンプルです。…かたや内容面でいうと、この句の季語は「驟雨」なのですが、それ以外にも「港」「海」と水のことばかりです。せっかく雨が止んだのに、また《水のある場所》で《水の本》を買うってのが、何ともしつこくて湿っぽいと思う。音韻面で「s」を重ねるのは良いとしても、内容面で「水」の話ばかり重ねたら、季語の印象がかえって埋没してしまうのでは?…ちなみに余談ですが、千賀は「オマージュ」と「マリアージュ」の区別がついていない。そういうところも、俳句で見せる語彙とのギャップに疑念を生じさせます!◇森口瑤子。口々に夕立のこと 路線バス口々に乗り来 夕立ゆだちの路線バス(添削後)わたしは原句のほうがいいかなと思う。添削句は、やっぱり主語の省略に無自覚なのでは?一般に、「口に乗る」とか「口々に乗る」という述語を見たら、その主語は《噂》や《話題》だと考えるはずなので、「夕立の路線バスの噂が人々の口に乗って来た」…みたいな誤読になりかねません。しかし、添削者が省略した主語は《人々》です。「人々が口々に(何かを言いながら)乗って来た」ってこと。では、口々に何を言ってるのか? そして何に乗って来たのか?それも明示されてません。目的語も補語も省略されている。そこまでを察してようやく、後段に目的語や補語のヒントを見つけることになりますが、主語も目的語も補語もすべて省略して、読み手にそれを察しろってのは、いささか無謀なのでは?…なお、原句は「夕立が去った後」の場面を描いていますが、添削句は「今まさに夕立が降っている」という場面なので、原句と添削句では情景も違っています。すなわち、原句では季語が「過去の話題」になってるので、添削句ではそれを「現在の実景」に変えたということ。そこにこそ添削の意図があるのかもしれません。とはいえ、千賀の描いた「驟雨の後」にしろ、森口の描いた「夕立の後」にしろ、それ自体を子季語と見なすことは出来るだろうし、かならずしも季語の鮮度が低いとは思いません。◇千原ジュニア。750ccななはんの飛魚の如ごと 大夕立おおゆだち750ccは飛魚 夕立の湾岸線(添削後)原句は直喩ですが、添削句では隠喩に直しています。斬新な比喩の場合は、直喩にしないと読み手に伝わらないかもしれませんが、「雨の中を走るバイクは飛び魚のようだ」という程度の比喩なら、隠喩でも十分に伝わるってことでしょうね。(悪くいえば「直喩にするには凡庸すぎる」ってこと)
2023.07.24
結い髪の従姉はパルフェ風涼し 夏帽子Wi-Fiのある町屋カフェ 白雨くるパフェのはしごの初デート 兄とパフェ桜桃懸けた匙の殺陣 パフェ二塔はさむ二人の夏終わる 桃のパフェに溺れ死海の謎解き パフェグラス底まで至る匙盛夏プレバト俳句。お題は「パフェ」。◇結城モエ。結い髪の従姉はパルフェ 風涼しふつうなら「従姉のパルフェ」と書くところですが、あえて助詞の「は」を用いて、「従姉だけがパフェを食べていた」…ってことを強調する必要があったのかどうか。そこが評価の分かれ目。わたしが思うに、おそらく「結い髪」と「パフェ」の高貴な様子が、とてもよく似合っていたのでしょうね。フランス語で「パルフェ」と書いた理由もそこにあって、「美しいパルフェに似合うのは結い髪の従姉だけだわっ!」…って感じに思えたのだろうな、きっと。◇かたせ梨乃。夏帽子 Wi-Fiのある町屋カフェ夏帽子ぬぎWi-Fiの町屋カフェ(添削後)さっそく出ましたね。季語&「○○のある○○」の取り合わせ(笑)。昇吉の「蹲のある美術館」はいまいち詩情が共感しにくかったけど、今作の「Wi-Fiのある町屋カフェ」の詩情は分かりやすい。古風な建物に、先端技術が完備されてることの面白い味わい。ただ、先生は、やはり「ある」を不要な動詞として嫌ったのか、これを「Wi-Fiの町屋カフェ」に添削してしまいました。でも、この句の場合は、「町屋カフェにもWi-Fiがある」ってのが味噌なのだから、むしろ「ある」は消さないほうがいいと思います。というか、端的に考えて、「Wi-Fiの町屋カフェ」って言い方はちょっと変なのよね。ふつうなら、そんな言い方をしない。たとえば、「雑誌のある喫茶店」を「雑誌の喫茶店」とは言わないし、「インターネットのある図書館」を「インターネットの図書館」とは言わない。どういう意味か分かりにくいからです。なので、機械的に「ある」を消せばいいというものでもない。◇本上まなみ。パフェ二塔はさむ二人の夏終わる先生の解釈によれば、あえて大袈裟に「二塔」と書いて、別れる二人の隔たりを表現してる…とのこと。ん-、なるほどねえ。でも、わたしの解釈はちょっと違う。実際に、肘をもちあげないと食べられないような、異様な高さのパフェグラスに困惑するときがあるし、そんな困惑気味のカップルの、ぎこちなさや滑稽味を表現すべく、あえて「二塔」という語を用いたのでは?つまり、オシャレで甘い青春になるはずが、ちょっと滑稽で苦い青春に終わった…って感じかと思う。◇フジモン。パフェグラス底まで至る匙 盛夏中七「至る」の是非ですね。わたしは、やはり大袈裟に感じるので、軽やかに「届く」と書きますね。そのほうが涼しげだし。しかし、先生は、底に匙が到達するまでの動きを、大きなクローズアップとスローモーションで、あえて暑苦しく描写してると解釈したのでしょうね。…盛夏だけに。まあ、そこは好みの問題かなあ。◇立川志らく。桃のパフェに溺れ死海の謎解き先生は《句またがりの対句》だと言いましたが、それはちょっと特殊な解釈だろうと思う。かりに、総数18音で、桃のパフェに溺れ 死海の謎を解きと書いてあるのなら、あきらかな《句またがりの対句》になりますが、この場合の「謎解き」は一単語の名詞だろうし、普通なら《一句一章》と解釈すべきでしょう。わたしは、むしろ、桃のパフェに溺れ 死海の謎を解くと書くのが、いちばん明快だと思います。◇辰巳琢郎。白雨くる パフェのはしごの初デート白雨くる来る 二店目の恋のパフェ(添削後)先生いわく、「初デート」はオッサンの凡人ワードだとw…まあ、たしかにね。ただ、添削も添削で、やや婆くさい気がするのよね。なんだか昭和30年代の安い歌謡曲っぽいです。若き日の自分を描くのではなく、白雨きてパフェをはしごする二人と、三人称的に詠む方法もあるかもしれません。◇コットン西村。兄とパフェ 桜桃懸けた匙の殺陣兄の匙と戦うパフェのさくらんぼ(添削後)句材は悪くないと思うんだけど、「桜桃」という子供らしからぬ漢語と、「殺陣」の比喩が、かえって逆効果でしたね。17音に収めるには情報量が多いし、いっそ「兄」と言わずに、さくらんぼ賭けパフェスプーンの決闘のようにしてもいいかもしれません。
2023.07.16
冷やし中華明日も朝練あるってよ 夏風やふるさと恋し甘酢の香 玉の汗金糸玉子を刻む子や 冷やし中華残りし胡瓜母にらむ 遠き日の銀座冷麵待つもよし 炎天の列や限定二十食 町中華日傘を開く最後尾プレバト俳句。お題は「冷やし中華」。◇水野真紀。冷やし中華 明日も朝練あるってよ学食ならともかく、中高の下校時に冷やし中華を食べたことがないので、てっきり友人との会話じゃなく、母との会話かと思いました。でも、これは友人との「部活やめるってよ」的な言い回しなのかな?勢いのある「a」「a」「a」の頭韻にもなっています。なお、古語の「あした」と「あさ」は同義語だし、しかも「あした」と読めば中八になるのだけど、ここはセリフなので、やはり「あした」と読むべきですね。(くだけた口語で「あす」と言う人はあまりいない)最後が「ん」で終わってることもあり、中八で読んでも、さほどリズムの違和感はありません。◇弓木奈於。夏風や ふるさと恋し 甘酢の香ふるさとの夏風恋し 甘酢の香(添削後)中七を「故郷こきょう恋しき」と連体形にすれば、すぐにでも三段切れは解消できます。とはいえ、かりに、夏風や 故郷恋しき冷やし中華だったら、ほとんどキング・オブ・ザ・凡人ですwそれを「甘酢の香」と対象を絞っただけで、だいぶ詩情とオリジナリティが増すってことでしょうか。追記:なお、原句は「都会にいて故郷を懐かしんでいる」と解釈できますが添削句は「帰郷して、その夏風を浴びている」との描写に変わっています。その意味で、これは添削というよりも改作になっています。形容詞の「恋し」は、本来は《無いものへの憧れ》を表す形容詞ですが、場合によって《目の前のものと離れたくない》という意味で使われることもある。この添削句も、季語を現物として解釈するならば、後者のように「この故郷の夏風と離れたくない」という意味になるはずです。そもそも、一般論をいえば、俳句の客観写生において「恋し」はNGワードですよね。無いものに対する感情語ですから。◇八嶋智人。玉の汗 錦糸玉子を刻む子や錦糸玉子きざむ子の指 汗の額ぬか(添削後)もしや「玉×2」「子×2」の言葉遊び?セオリーに反して下五に「や」を置きましたが、切れ字を用いずに「刻む吾子」とすれば解決します。ただし、やはり語順としては、季語の「汗」をクローズアップにして終えるべきですね。言葉遊びの要素を残す意味でも、下五は「玉の汗」のままでもいいと思うけど。◇椿鬼奴。冷やし中華 残りし胡瓜 母にらむ冷やし中華 胡瓜残せばにらむ母(添削後)下五の「母にらむ」ってのは、俳句としてはとても悪い用例だと思うのだけど、「私が母を」「母が私を」「母が胡瓜を」という3通りの読みが可能になってしまいます。そして、作者によれば「母が私をにらむ」なので、リズムのみならず、意味のうえでも三段切れですね。(「胡瓜をにらむ」なら三段切れではない)なおかつ、季重なりですが、「胡瓜」が「冷やし中華」の付属物と考えれば、主たる季語は「冷やし中華」になるのでしょうか?◇中田喜子。遠き日の銀座 冷麵ひやめん待つもよしあくまで《現在を詠む》という原則からすれば、「遠き日の銀座(を想いながら)冷麵を待つのもよし」との解釈になりますね。…というよりも、「遠き日の銀座(を想えるので)冷麵を待つのもよし」との因果関係を感じさせるところに、かえって面白さと味わいがあります。◇キスマイ横尾。炎天の列や 限定二十食句またがりですが、横尾にしては、切れ字も入って定型感のある仕上がり。たんに描写的なだけで、いまいち詩情がない?…って気もしますが、逆にいうと、私情を排したリアリズムで、臨場感があるってことですね。◇千原ジュニア。町中華 日傘を開く最後尾庶民的な「町中華」と、エレガントな「日傘」の取り合わせ。弱音の「hi」の頭韻もエレガントな印象です。女性の姿を詠んだとのことで、ジュニアにしては珍しく洒落た作風でした。
2023.07.12
居残りの数学補習晩夏光 木洩れ日に晒され空蝉のしずか 木漏れ日を動かして鳴るラムネ玉プレバト俳句。お題は「木漏れ日」。◇フルポン村上。木漏れ日を動かして鳴るラムネ玉「ラムネ玉が木漏れ日を動かす」(もしくは「わたしがラムネ玉で木漏れ日を動かす」)…という詩的な幻想です。ガラス瓶やラムネ玉の光の屈折が、あるいは飲んでいた炭酸水の揺れが、いつしか木漏れ日の屈折や揺れに変化する。そして、木の葉にそよいだ風や陽光の爽やかさが、ラムネの味覚やビー玉の音の爽やかさに重なる。さすがです。◇森迫永依。居残りの数学補習 晩夏光数学の補習 晩夏光の机(添削後)数学の補習 晩夏光の廊下(添削後)上五の「居残り」が不要情報とみなされて、ボツでした。一方では「居残り」の寂しさと「晩夏」の寂しさが響き合うので、この上五は捨てがたい気もするのだけど、他方では「居残り」と「補習」の情報が重ねられてしまうので、(同意語の反復とまではいえないものの)説明じみる感じはある。なお、作者は、兼題の「木漏れ日」から「晩夏光」へと発想を飛ばしてますが、その是非も問題になっていました。意外にも「木漏れ日」は季語ではないので、夏の新緑にも秋の紅葉にも「木漏れ日」はあるかもしれないし、むろん晩夏にも「木漏れ日」があって不思議ではない。しかし、先生は、晩夏の「木漏れ日」を認めなかったようです。あるいは、木の葉によって和らげられた陽光は、季節の陰りによって和らげられた陽光とは異なる、…と先生は主張したかったのかもしれません。平場なら十分に「才能アリ」だったでしょうけれど、特待生なので厳しめの査定でした。◇森口瑤子。木洩れ日に晒され空蝉のしずか木洩れ日の「動」と空蝉の「静」の対比。揺れる木洩れ日に対して、空蝉は動かないってこと。評価の分かれ目は、木洩れ日には不似合いな動詞「晒す」の是非と、空蝉には当たり前すぎる形容動詞「しずか」の是非。本来なら、「しずかじゃない空蝉があったら持って来い!」というべきところだけど、このときの作者にとっては、木洩れ日に晒されてもなお、空蝉が「しずか」である…ってことが、ひとつの発見だったのですね。夫婦で1ランク昇格!
2023.07.03
暮れなずむ愛猫色の夏の空 玄関に恐れ入りますががんぼです 夕暮れて公園ベンチも涼しげだ 八十路夏蛍照らせし初デート 夕焼やつくばいのある美術館 夏至の古色蒼然行商老婆 せせらぎの1/F夕蛍プレバト俳句。お題は「夏の夕」。◇梅沢富美男。せせらぎの1/F 夕蛍1/F せせらぎも蛍も(添削後)古い日本語ではなく、新しい用語に挑んでいるのだけど、これも一種の《綺麗な言葉詐欺》には変わりない。要は、たんに「1/F」って言ってみたかっただけの句。※表記としては小文字で「1/f」が正解のようです。そもそも、「1/fゆらぎでない川のせせらぎがあったら持ってこい!」とも言えるわけで、内容的に凡庸きわまりないのですね。◇立川志らく。夏至の古色蒼然 行商老婆行商の老婆は夏至の逆光に(添削後)形容動詞の「古色蒼然」という熟語を、描写ではなく抽象概念のように用いてるので、前段はまったく具体的な映像になっていません。わたしも読んだ瞬間にボツだと思ったし、先生がこれをボツにしたのも妥当だろうし、客観写生の原則に徹するなら添削が正解でしょう。…ただ、選者によっては、これを型破りな表現として評価するかもしれない。実際、目の前の夏至の光景が、何かのフラッシュバックのように、あるいは古いフィルムのデジャヴのように見えて、現実感を失った瞬間の心象を詠むのなら、こういう記述になる必然性はある気もします。◇春風亭昇吉。夕焼や つくばいのある美術館作品名「つくばい」 夕焼美術館(添削後)中七の「蹲踞つくばい」は茶庭の添景物。たとえば西洋画のタイトルには、「果物のある部屋」とか、「糸杉のある風景」みたいなのがあるし、旅行雑誌のタイトルなんかにも、「庭園のある美術館」とか、「カフェのある神社」みたいなのはよくあるし、そこに一定の詩情や映像喚起力もあるとは思う。なので、ひとつの俳句の作り方として、「○○のある○○」というフレーズを、季語に取り合わせる手法もありえる気はします。ただ、そこに詩情を感じるかどうかは読み手しだいでもあって、たぶん作者は「美術館に蹲踞がある」というだけで、なにかしら固有の詩情が喚起されると思ったのだろうけど、志らくにいわせれば、そういうキザな感性が「嫌味だ」ってことにもなるし、わたしも「蹲踞があるから何なのよ」って気はしました。◇中川翔子。暮れなずむ愛猫色の夏の空暮れなずむ夏や 愛猫色の雲(添削後)しょこたん、結婚したら急にしっとりとして綺麗になったよねぇ。今までに見たことのないような色気を感じました(笑)。そして、「結婚する飼い主を見送るように猫ちゃんが亡くなった」…という話を知るにつけ、けっこうスピリチュアルな人だなあ、とも思う。(たんに沢山飼ってるからかもしれませんが)これは、そんな猫ちゃんへの鎮魂の句。海援隊的な「暮れなずむ」も、松本隆=松田聖子的な「○○色」も、いつもの歌謡曲的なフレーズではあるけれど、かろうじて俗っぽさを免れてる気はする。目に見えて綺麗になったしょこたん。◇レイザーラモンRG。玄関に恐れ入ります ががんぼです玄関の隅にががんぼ 夕間暮れ(添削後)夏の季語「蚊蜻蛉ががんぼ」を擬人化したセリフの句。"恐れ入ります"という風情は、けっこう面白いとも思うのだけれど、面白いと思うかどうかは、読み手しだいってところもあるでしょう。ネタを組み込むのがお約束になってしまうと、必要以上に作句のハードルが上がるから、次回からはふつうに詠めばいいんじゃないでしょうか?(笑)◇山口もえ。夕暮れて公園ベンチも涼しげだ夕涼や 公園ベンチ一人きり(添削後)夕涼や 公園ベンチ一人じめ(添削後)凡人らしさが素直に出てしまった感じ?率直な客観写生ではあるものの、いまいち詩情に乏しいかな。◇徳光和夫。八十路夏 蛍照らせし初デート君とゐて椿山荘の初蛍(添削後)昇吉が指摘したように、時制の分かりにくさが最大の難点。本人が意図したのは、「若いころの初デートを思い出した」ってことだったようですが、字面からは「80才の初デート」のように誤読してしまう。過去の助動詞「し(きの連体形)」の一語で、前段と後段の時制を変えるってことなのだろうけど、そういう手法をプレバトで見たのは初めてです。手法としてはけっこう斬新だし、うまくいけば「夏」と「蛍」の季重なりも、時制の変化で強弱をつけられることにはなります。とはいえ、さすがに17音のなかで時制を変化させるのは難しい。添削では、過去の場面を《現在》とみなして作り直しています。実際、原句の前段の部分は、たんに「80才の夏です」という説明にすぎないので、いっそ現在の説明は切り落として、過去の描写に徹するほうがいいってことでしょうね。
2023.06.20
熱帯魚アクリル越しのオーディション 夏空や石鯛掲ぐ父の遺影 夏日影水槽の下掻い潜る 夏の昼ペンギンの様に手を引かれ 鯱戯け尾ひれかみかみ南風 ゴンドウ鳴く水族館を出て白夜 夏のほかペンギンの飛ぶ大水槽プレバト俳句。お題は「水族館」。フジモンにパクリ疑惑が浮上しています(笑)。◇まずは梅沢富美男。夏のほか ペンギンの飛ぶ大水槽季語の「夏の外ほか」は、《そこだけ涼しげで夏じゃないみたいだ》という述語ですから、通常ならば中七や下五に置いて「○○は夏の外」という形を取るべき。この季語を単独で用いたところで、映像でもなければ、時候ですらもなく、それ自体としては何の具体性もない述語にすぎないし、上五にいきなり「夏のほか」と置いたところで、読み手の側は「何が??」となるのがオチです。しかも、上五で切って二句一章の形式を取っているため、意味も映像もないカットだけ浮いてるように見える。まあ、理屈としては、「ペンギンの飛ぶ大水槽は夏の外である。」という散文を、「夏の外である、ペンギンの飛ぶ大水槽は。」と倒置することも可能ではあるけれど、日本語として妙な印象は拭えません。たんに珍しい季語に挑んだというだけの理由で、番組ではやたらと称賛されていましたが、けっしてこの季語の模範的な用法とはいえません。◇フジモン。ゴンドウ鳴く水族館を出て白夜季語は「白夜」で夏。一読して気になるのは、なぜ「海豚イルカ」や「鯨クジラ」ではなく、わざわざ字余りで「巨頭ゴンドウ(鯨)」を選んだかという点です。もともと「海豚」や「鯨」は冬の季語ですが、むろん「巨頭鯨」も小季語になるだろうから、どれを選んでも季重なりは回避できないはずですよね。それでもあえて「ゴンドウ」を選んだ理由は何なのか。そこに実景としての必然性があるのかどうか。…じつは、対馬康子の先行句に、鯨鳴く水族館を出て小雪という作品があるそうです。フジモンの句は、2つの単語を入れ替えただけなので、たんに「類想」の範疇を超えて「剽窃」の疑いがあります。過去には東国原のパクリ疑惑もありました。この句の場合は、入れ替えた単語も似かよっています。「巨頭鯨」は「鯨」の一種だし、「白夜」の寒々とした光景も「小雪」の情景に通じます。よく似た内容を、語彙だけをすこし変えて、まったく同じ形で詠んだようにも見えます。冒頭に「ゴンドウ」を選んだのは、先行句との僅かな差別化を図るためだったのでしょうか??…とはいえ、結果的に「白夜」を選んだことで、季節が冬から夏に変わっただけでなく、舞台が大きく北極圏へと移っているので、先行句よりも地域色が強まってる感じはあります。巨頭鯨は、北極圏だけに生息しているわけではないのですが、なぜか「ゴンドウ」までもが「白夜」に相まって、ある種の地域性を体現しているようにも錯覚させる。はたして「白夜の巨頭鯨」という素材に、どれほどのリアリティがあるのか分からないし、現実の光景か幻想かも判別しがたいのですが、なにかしら独創的な詩情が生まれてる気がしなくもない?!(笑)…事実上、個別の俳句や短歌をどんなに引用しても、著作権侵害に問われることはありませんし、寺山修司の剽窃騒動を挙げるまでもなく、もともと盗用もパロディも本歌取りも"込み"の文化という面はあるし、あとは「読み手がそれを面白がるか侮蔑するか」の問題ですね。かりにフジモンが意図的に借用したのなら、先行句を上回る独創性があるのかどうかを問われるところだし、上6の字余りの必然性も評価の分かれ目になるかと思います。…なお、YouTubeでは、「巨頭鯨の鳴き声」が聞けますが、まるでウミネコみたいなけたたましい鳴き声です。ちょっと悲しげにも感じられます。それが白夜に聞こえているわけですね。◇中田喜子。鯱しゃち戯おどけ尾ひれかみかみ 南風みなみかぜ南風なんぷうや シャチの尾ひれを噛むシャチも(添削後)そもそも「鯱が鯱の尾を噛む」なんて場面を見たことがないし、そんなことがあるとも知らなかったので、どんな状況を詠んでるのか、まったく理解できませんでした。「鯱」を「シャチホコ」と読む可能性や、「戯ける」という擬人化も、さらに理解を困難にしています。たとえば、「犬や猫のように自分の尾に戯れてる?」とか、「ウロボロスみたいに自分の尾を噛むシャチホコ?」とか、「獅子舞ならぬ鯱舞みたいなものがあるのかしら?」とか、そんな誤読にもなりかねません。中田喜子は、ひそと待つ花街のひと 花衣のときにも「ha」「hi」「mat」の韻を連ねていましたが、ここでも「o」「ka」「mi」の韻を連ねています。音韻の技巧にとらわれすぎて、かえって内容の描写に失敗している感じもある。…なお、歳時記によっては、「海豚」や「鯨」と同様に、「鯱」も冬の季語にしているかもしれませんが、水族館の鑑賞動物なので、季語としての力は弱いし、先に挙げた対馬康子の俳句でも、主たる季語は「小雪」であって「鯨」ではないはずです。むろんフジモンの句も主たる季語は「白夜」です。先日のプレバトでは、「季語の動植物は漢字で書く」との原則が示されましたが、逆にいうと、それをあえてカタカナで書けば、季語としての力を弱められるのかもしれません。◇山西惇。熱帯魚 アクリル越しのオーディション作者が意図したのは、アクリル製の水槽のなかで、「熱帯魚がオーディションされている」という擬人化です。しかし、作者の意図とは裏腹に、感染防止のアクリル板とも解釈できるので、「コロナ禍のオーディション会場で水槽の熱帯魚が泳いでる」と誤読できてしまう。実際、そう誤読したうえでの高評価になりました。(ほんとうならば凡人以下にすべきですが)◇紺野まひる。夏空や 石鯛掲ぐ父の遺影石鯛を掲げる遺影 夏の空(添削後)内容的には二句一章ですが、本来なら「掲ぐ」の連体形は「掲ぐる」なので、形式的に三段切れになってしまっている。下6の字余りも添削で修正されています。◇橋本良亮。夏日影 水槽の下掻かい潜くぐる巨大水槽潜れば夏のひかり降る(添削後)原句は意味不明。本来なら「掻い潜る」という動詞は、「障害物をよける」というニュアンスを含むし、吊り下げられた沢山の金魚玉を避けているのかしら?みたいな解釈をするのが精一杯です。なお、季語の「夏日影」は、夏の「日陰」ではなく、夏の「陽光」のことだそうです。◇蛙亭イワクラ。夏の昼 ペンギンの様に手を引かれペンギンのごと手を引かれ吾子の夏(添削後)おそらく「昼」の一語が最大の敗因。季語を映像化する観点からいって、上五の「夏の昼」では具体性がなさすぎるし、たんに時間の説明の意味しかもっていません。
2023.06.12
パパと子は留守番夕虹のテラス 夕立や計算ドリル3回目 夕立を妬む期日の充電席 止まぬならケーキセットじゃ梅雨の陣 梅雨寒のカフェ腿に愛犬の熱 珈琲は冷めて怯者の梅雨の闇 濁りゆくソーダフロート減らぬままプレバト俳句。お題は「雨の日のカフェ」。◇早見あかり。パパと子は留守番 夕虹のテラスママのプチ贅沢を詠んでいます。書きたいことが過不足なく読み手に伝わる。兼題を知らなければ、友人宅のテラスとか、ガーデンテラスとか、カフェテラス以外の解釈もありえます。厳密には「夕虹」と「テラス」の季重なりですが、そもそも「露台/テラス」が季語になってること自体、わたしはちょっと無理があると思わずにいられない。(春にも秋にもテラスはあるわけだから)むしろ「夕虹」を補うことで、この「テラス」の季節感が確定してる感じがします。あくまで季重なりを避けるなら、パパと子は留守番 夕虹の茶房とも出来るし、パパと子は留守番 風のテラス席のようにも出来ます。◇村山輝星ちゃん。夕立や 計算ドリル3回目夕立や 計算ドリル三回目(添削後)とても素直に場面を詠んでるけれど、切れ字を用いた取り合わせの形式が、あまりにも出来すぎているので驚きます。ほんとうに自分でここまで仕上げたのかしら?親御さんが添削してくれたのかなあ。◇Aマッソ加納。夕立を妬む期日の充電席夕立ゆだち妬む〆切の日の充電席(添削後)期日とは、「期限日」「予定日」「約束日」のことなので、原句のままでも十分に意味は通ると思います。むしろ問題なのは「妬む」という動詞ですね。夕立を擬人化したうえでの心情表現です。わたしは、てっきり、「期日まで間に合わせねばならないのに、 夕立で店を出られなくなって困っている」という内容だと解釈したので、なぜ「憎む」じゃなくて「妬む」なのかしら?と疑問に思ったのだけど、本人の話によれば、「夕立のようにはアイディアが降り注がない」ということを妬んだのらしい。さすがに字面からはそこまで読み取れません。強いてそれを17音にするのなら、夕立のやうにアイディア降らんかなみたいなことだろうけど、そもそも俳句には適さない主観的な内容だし、やはり、まずは客観写生の原則に立つべきでしょう。◇伊集院光。止まぬならケーキセットじゃ 梅雨の陣梅雨の雨宿り ケーキもたのんじゃえ(添削後)体が大きいので、ただでさえ喫茶店で居座ることに罪悪感があるのかしら?(笑)席を占拠することへの開き直りが、戦国武将っぽい「陣取る」という比喩になったのかも。そのついでにホトトギス的な言い回しも加えたわけですね。ただし、俳句としては、やはり「クサい比喩」だと一蹴されてしまう。◇皆藤愛子。梅雨寒のカフェ 腿に愛犬の熱梅雨寒のカフェ愛犬の熱腿に(添削後)たとえば、梅雨のカフェ 腿に愛犬あたたかしとも出来るけれど、「暖か」は春の季語なので、季重なりを避けるために「熱」を用いたのかもしれません。しかし、そもそも、「体温のない犬がいたら持ってこい!」とも言えるわけで、たんに「腿に愛犬」「膝に愛犬」とさえ書けば、その温かさは十分に読み手に伝わるだろうと思います。ためしに、梅雨のカフェ 膝の愛犬丸くなるとしてみました。◇千原ジュニア。珈琲は冷めて怯者の梅雨の闇季語は「梅雨闇」です。そこに助詞「の」が入っており、「怯者の梅雨」と解釈することも、「怯者の闇」と解釈することも可能になっている。後者の解釈をすれば、実景でなく心理描写の印象が強まる。そうも読めるところに不穏な面白さがあるのでしょう。とはいえ、実景として読むには、やや大袈裟で主観的にすぎるし、ちょっとこれは評価に迷いました。◇梅沢富美男。濁りゆくソーダフロート減らぬまま飲み物を美味しそうに描くのではなく、2つの動詞「濁る」「減らぬ」で憂鬱を表現しています。形としては、「減らぬまま濁りゆくソーダフロート」「減らぬままソーダフロート濁りゆく」の倒置法ですが、この2つの動詞は、意味のうえで重複してる気がしないではない。「減らぬまま濁らないソーダフロートがあったら持って来い!」ってことですね。
2023.06.06
鯖喰ふや係船柱の錆硬し 汗水漬く大工かきこむ鯖弁当 焼き鯖の香り漂う夕涼み 鯖食いて青葉感じる箱の中 肴手土産に来る父の日の父 薄暑のシンク鯖缶の蓋の反り 朝まだき半夏生鯖匂ふ市プレバト俳句。お題は「鯖さばの弁当」。今回は、ほとんどが季重なりでした。兼題の「鯖」は夏の季語ですが、いまやスーパーにいつでも売ってますし、季節感が乏しいのも季重なりになる理由かとは思います。◇梅沢富美男。朝まだき 半夏生鯖はんげしょうさば匂ふ市朝まだき 半夏生鯖はげっしょさばの匂ふ市(添削後)今回も形式的な問題はありません。やはり梅沢にはシンプルな文法が合っている。梅沢の過去句のなかでも屈指の出来じゃないでしょうか。なお、「半夏生」も「鯖」も単独で季語ですが、この場合は「半夏生鯖」で一単語なのですね。語源を調べてみたら、なかなかに面倒くさいです↓。季語の「半夏」は、サトイモ科の烏柄杓カラスビシャクのこと。さらに、七十二候で夏至の末候の5日間(太陽暦で7月2日~6日ごろ)を「半夏生ず」、雑節で「半夏生」と呼び、田植えの終期を烏柄杓の生える頃までとした。地方によっては「ハゲ」「ハンデ」「ハゲン」「ハゲッショウ」などと呼ぶ。福井県大野市の「半夏生鯖」は、半夏生の初日に家族全員が鯖の丸焼きを一人一本ずつ食べる風習。ドクダミ科の「半夏生」(半化粧/片白草カタシログサ)も、この時期に白い葉をつけることから名がついた。◇武井壮。鯖喰ふや 係船柱の錆硬し荒波や潮風の厳しさを想像させますが、「過疎で寂れた港町」というよりは、「なおも逞しい漁師町」といった印象です。前段のバイタリティと後段の力強さが呼応する。いかにもNHK俳句仕込みの硬派な作風って感じ?武井荘が加わることで、プレバト全体のレベルが一段上がるかもしれません。◇フルポン村上。薄暑のシンク 鯖缶の蓋の反りいつもの村上節で、「ペンの減り」「目の潤み」的な作風。そこまで傑出した作品とは思わないけど、まあ掲載決定でも異論はありません。季語は「薄暑」と「鯖」で重なってます。とはいえ、缶詰には季節感がありませんし、ここでは美味しそうな食べ物としてではなく、食後の廃棄物として描写されていますから、主たる季語は「薄暑」のほうですね。その薄暑と相まって、粗末なシンクに置かれた空き缶の魚臭さや、油っぽさや、金属臭が、やや鬱陶しいのかもしれません。缶の蓋の「反り」に目が行くのは、それを開けた自分の手の動きが、まだ記憶に残ってるからでしょうか。一人暮らしの侘しさを読みとることもできますが、わたしとしては、ビールのつまみに缶詰をひとつ開けた後の、ちょっとした贅沢を感じても構わない気がします。◇小籔千豊。汗水漬みずく 大工かきこむ鯖弁当汗みずく 大工掻っ込む鯖弁当(添削後)これも季重なり。先生は、「汗」が主で「鯖」が従だと評したけれど、それはやはり「鯖」の季節感を過小評価するが故であって、本来ならば避けるべき季重なりだと思います。◇YOU。焼き鯖の香り漂う夕涼み焼き鯖の香や 休日の夕涼み(添削後)これも季重なり。先生は、「夕涼み」が主で「鯖」が従だと評したけれど、いくらなんでも「鯖」の季節感を過小評価しすぎでしょう。本来なら「焼き鯖の香や」とまで書いて、それが脇役ってことはないだろうと思います。◇新内眞衣。鯖食いて青葉感じる箱の中弁当の鯖よ青葉よふるさとよ(添削後)これも季重なり。添削は、あえて優劣をつけず、さながら「目には青葉/山ほととぎす/初鰹」のように、季語を並置してしまうアクロバットな手法。なお、原句は、旧仮名なら「食ひて」or「食うて」、現仮名なら「食って」だと思います。◇森口瑤子。肴手土産に来る父の日の父父の日の父来 肴を手土産に季語は「父の日」で夏。原句は「父の日の父」の滑稽さをオチにしてますが、この語順について、梅沢と村上で意見が割れました。添削句のほうは倒置法で、父の具体的な姿をオチにしていますが、オチとしての効果は原句より薄れたように思う。リズムの面でいえば、破調にする必然性が乏しいので、句またがりに収めた添削句のほうが有利でしょうか。追記:あらためて原句を読むと、10・7というリズムの頭でっかちな不安定感が、父の「マヌケさ」に合致しているような気もします。
2023.05.29
旗楊枝忍ばす半ズボンのポッケ 武術一位薫風のお子様ランチ 惜春のメニューに憶う母の影 添えられる家族の笑顔とさくらんぼ 溽暑のファミレス机上の通知表 矯正箸はちりめんじゃこを摘まみけり 日の丸とグリンピースの残る皿プレバト俳句。お題は「お子様ランチ」。◇梅沢富美男。日の丸とグリンピースの残る皿梅沢の俳句は文法的な瑕疵も多いけど、こういう一句一章・一物仕立てのシンプルな形式なら、散文と変わらないので、文法を誤る恐れも少ないし、梅沢には合ってるんじゃないでしょうか。この句の型破りな点は、初夏の季語「グリーンピース」が除け者にされて、けっして美味しそうな主役として描かれたのじゃない、ってこと。しかし、大人の食べ残しは不味そうに見えるけど、子供の食べ残しなら、むしろ微笑ましくも見えるわけで、それは梅沢の「ピクルス」の句と同じ発想でしょう。考えようによっては、グリーンピースの向こう側にいる可愛い子供にこそ、爽やかな初夏を感じる、ともいえます。◇千原ジュニア。矯正箸はちりめんじゃこを摘まみけり矯正箸の先にちりめんじゃこ笑う(添削後)季語は「しらすぼし/ちりめんじゃこ」で春。一読して、しみじみとした詠嘆の「けり」が、子供の微笑ましさや明るい気分を損なってる感じもする。この「けり」の捉え方は読み手によって違うかもしれません。先生の添削は、梅沢の句と同様に、擬人化されて笑う「ちりめんじゃこ」の向こう側に、子供の春らしさを見る、という構造に思えます。◇森迫永依。溽暑のファミレス 机上の通知表講評では破調であることが強調されましたが、8・9の句またがりならプレバトでも珍しくないし、とくに韻律上の不穏さを感じるほどでもありません。なんなら8・7・5にして、後段のリズムを「机の上の通知表」と整えることもできる。それでも、テーブルに通知表が置かれているだけで、重苦しい雰囲気なのは読み手に伝わるし、冷房の効いたファミレスで、屋外の溽暑が、じわりとした冷や汗に変わる感じも分かる。 なお、作者自身は、親と対面してる状況を詠んだようですが、一人の場面として読むことも出来ると思います。◇ビスケットブラザーズきん。旗楊枝忍ばす半ズボンのポッケ旗楊枝こっそり 半ズボンのポッケ(添削後)夏の季語「半ズボン」だけでも小学生に見えますが、ポケットでなく「ポッケ」と書いたことで、小学生描写を確定的にダメ押ししています。それだけに、「忍ばす」という大人びた動詞を選択したのは惜しい。◇山本千尋。武術一位 薫風のお子様ランチ(武術大会一位)演武服のまま薫風のエビフライ(添削後)添削では、音数が多くなるのを避けて、「お子様ランチ」を「エビフライ」に変えています。しかし、その結果として、子供ではなく、青年ががっついてるようにも見えるし、老師が不釣り合いなものを食べてるようにも見える。やはり、この句の面白さは、あくまでも「武術家が子供だ」という点にあるわけだから、音数が多くなっても「お子様ランチ」のままにすべきです。どうしても音数を抑えるのならば、たとえば8+10で、演武服のまま初夏のお子様ランチとでもするしかありません。◇筧利夫。惜春のメニューに憶う母の影惜春のお子様ランチ 母よ母よ(添削後)原句の「メニュー」は、"メニュー表"とも"料理そのもの"とも解釈可能です。後者であれば、コース料理のようにも思えるし、母のレシピどおりに自分で作った料理とも思える。後半の「憶う母の影」はまるごと凡人フレーズでした。◇西山茉希。添えられる家族の笑顔とさくらんぼお子様ランチ 笑顔とさくらんぼ添えて(添削後)季語は「さくらんぼ」で夏。兼題写真を見なければ何のことか分からない。もしかしたら、上五に修飾語の受け身動詞を持ってくるのは、俳句としては斬新なのかもしれないけれど、最後まで読んでも、結局「何に添えられているか」が分からないのよね。そもそも俳句の取り合わせは、何かに何かを「添える」ことなのだから、お子様ランチ 父母の笑顔とさくらんぼと書けば、その動詞は必要ありません。どう直しても、凡句にしかなりませんが(笑)。
2023.05.22
夏シャツのコロッケ百個下げて来る 扇風機衣装脱ぎつつ出前表 夏期講座の帰路「WOW WAR TONAGHT」聴く 嗚呼幾度目のピンマイク還暦の初夏 猛る友抱くや白雨のアスファルト ほんたうは優しいくせに青山椒 青梅雨やビンタを愛に昇格す 66穿くレジェンド薫風の温泉へ タイトルコール飛び立つ初夏の鳩よ 短夜や秒でやり取りするLINE 浜ちゃんの笑い声慈雨の風鈴 還暦の朝大幟投げ上げよ 辞表書きダウンタウンを見る五月 МCのちゃん付け憎しアイスティー お前しかおらん改札若葉風 摘まるるな棘あればこそ野薔薇ぞ 伝説がどかんどかんと夏に入る 不屈の漫才師客知らぬ背汗 汗光る結果発表の声の鞭 風死す初ライブツッコミただ痛しプレバト俳句。お題は、還暦の「浜田雅功」。くわしい説明はありませんでしたが、いつもとは評価基準が違っていたようです。通常なら、兼題を知らずとも内容が伝わるかどうかを問われるけど、今回は、あらかじめ「浜田宛て」という前提で鑑賞するルールっぽい。さらに、以下の3つの評価基準も示されました。◇勝村政信。青梅雨や ビンタを愛に昇格す青梅雨は豊か ビンタは愛である(添削後)これは7位の句。この先生の添削は、もし兼題を知らなければ、たんなる「パワハラの正当化」と解釈されかねませんが、今回は「浜田宛て」という前提なので、そういう反社会的な内容でも許されるようです。◇犬山紙子。辞表書きダウンタウンを見る五月ダウンタウンに笑う 五月の辞表書く(添削後)これは13位の句。兼題を知らなければ、固有名詞ではなく一般名詞の「繁華街」と解釈されるはずだし、添削しても、そういう誤読の余地は消えていません。でも、今回は「浜田宛て」という前提なので、はじめから誤読の可能性は排除されているようです。◇こがけん。伝説がどかんどかんと夏に入るこれは17位の句。かりに「浜田宛て」という前提がなければ、まったくもって意味不明な内容ですが、今回は、その点を問わないのだろうと思います。中七の「どかんどかん」は、いまや観客の爆笑の擬態語として定着している。上五は、ダウンタウン自体を「レジェンド」と見なしたとも読めるし、そのライブが現在進行形で「伝説」になっているとも読める。問題は、下五の「夏に入る」ですね。これは立夏を意味する季語なので、通常なら「○○が夏に入る」という言い方はしません。なので、この表現を独創的と見るか、ただのおかしな日本語と見るかで判断が分かれます。Tverでの解説によると、先生は、この表現を肯定的に評価していたようです。それでも順位が低いのは、全体が比喩的な語彙で構成されていて、具体的な実景を見せる力が弱いからでしょうね。◇森口瑤子。ほんたうは優しいくせに 青山椒これは6位の句。いわゆる「挨拶句」の模範とされました。上五・中七で相手への言葉を述べ、下五に季語を添えて差し出す形ですね。兼題を知らずに読めば、「青山椒」の一物仕立てのようにも見えてしまうけど、そうじゃないってことですね。今回の評価基準を考える上でも、この句がひとつの模範になる気はするし、たしかに、こういう様式で俳句を詠むのも、お洒落な文化だなと思いました。森口俳句として見ると、「だってば」的な作風も出ており、上五の「ほんたう」という文語表記には、なんとなく照れ隠しっぽい可愛らしさも感じます。◇…ってなわけで、評価基準やルールを明確に説明できないところに、あらためて夏井俳句講座と番組の「曖昧さ」を感じますが、これはいまに始まったことじゃないし、Youtubeチャンネルを見ていても同様の「曖昧さ」は見受けられます。もともと近代俳句界は世襲制の結社文化だから、「曖昧なルール」を呑み込めない人間は排除する形で続いてきたのだし、みずから疑問を抱くことを禁じた信者・弟子・親族しか残らなくなる理由も、そういうところにあるわけですよね。ともあれ、ここからは順位どおりに見ていくことにします。梅沢富美男。夏シャツのコロッケ百個下げて来るこれが1位。たしかに、「夏シャツ」「コロッケ百個」「下げて来る」の要素に、すべて"浜田っぽさ"が感じられますし、今回のテーマからすれば、これが文句なしの出来だったかなという気がします。なお、コロッケ1個100円とすれば、100個買っても1万円なので、それほどの金額でもありませんが、高級なコロッケなら1個500円くらいするんでしょうね…。◇フルポン村上。扇風機 衣装脱ぎつつ出前表ここで詠まれてるのは、吉本劇場「なんばグランド花月」の一場面とのこと。TVの浜田しか知らない視聴者には、ちょっと分かりにくい。個人的には、浜田よりも、むしろ楽屋の梅沢の姿をイメージしてしまいました。◇皆藤愛子。夏期講座の帰路「WOW WAR TONAGHT」聴く8+10=18の句またがり。これも浜田宛ての句材として申し分ないし、記憶のなかの夏の光景にも実感がこもっています。◇的場浩司。猛る友抱くや 白雨のアスファルトいかにも的場らしく血の気の多い作風。激しい感情と、激しい雨の音。白雨と灰色のアスファルトの色彩のコントラスト。格好良すぎるくらいにドラマティックだけど、たしかに「80年代=ヤンキー=浜田」のイメージに違わない。◇キスマイ千賀。嗚呼幾度目のピンマイク 還暦の初夏幾度目のピンマイク 還暦の初夏(添削後)浜田の40年余りの芸歴で、かりに1日1回ピンマイクをつけるとしても、およそ15000回ぐらいになりますよね。この「幾度目」という言い方では、数千・数万という回数を思い浮かべるのは難しいし、もし兼題を知らなければ、わずか数回という解釈もありえるだろうと思う。もしかすると、わざわざ「嗚呼」を加えて19音にしたのは、その膨大な回数を言い表す意図かもしれませんが、あまり効果的とも思えません。◇キスマイ横尾。(浜田雅功さん還暦)66穿くレジェンド 薫風の温泉へ(浜田雅功さん還暦)温泉へ行こう 薫風のリーバイス(添削後)梅沢に「詰め込みすぎ」と言われてましたが、対句形式で「AのB/CのD」と詠む横尾の句またがりは、A、B、C、Dの4つの要素を組み込むことになるので、もともと、そうなりがちではあるのよね…。しかも、「66」「レジェンド」などの言葉の経済効率の良さが、余計にギチギチした感じを強めてしまったかもしれず、そのへんの匙加減は、なかなか難しいところです。◇千原ジュニア。タイトルコール 飛び立つ初夏の鳩よ作者の話によると、「鳩が大声に驚いて逃げ飛んだ」ってことなのだけど、その場面を希望を込めて爽やかに美化した結果、かえって浜田っぽさが薄れてしまった …というオチ。◇フジモン。短夜や 秒でやり取りするLINEこれは「浜田宛て」という前提で読むにしても、ちょっと状況が分かりにくいし、前段と後段が因果関係になってるようにも見える。たぶん作者としては、「夜までも浜田みたいにせっかちで短い」という意図だったのでしょうね。◇立川志らく。浜ちゃんの笑い声 慈雨の風鈴浜ちゃんの呵々 慈雨に鳴る風鈴よ(添削後)原句も、添削句も、17音の句またがり。調べとしては添削句のほうが安定しています。問題は、「鳴る」を加えるべきかどうかだと思うけど、(鳴らない風鈴があったら持って来い!)たしかに原句は、笑い声と雨音だけがしていて、いまいち風鈴が鳴ってないようにも感じます。かりに作者自身が、「浜田の笑い声」を「慈雨の風鈴」に比喩する意図だったとしても、それを実景と見なす読み手は、たんに「笑い声」「雨音」「風鈴」の聴覚情報が重なってるだけ…と解釈してしまうのですよね。◇中田喜子。還暦の朝 大幟おおのぼり投げ上げよ還暦の朝を掲げん大幟(添削後)原句の「幟を投げ上げる」は、(描こうとしてるイメージは分かるけど)平仮名にすると「のぼり、なげ、あげ」でもあり、重複した意味の動詞を連ねるようなクドさも感じる。◇馬場典子。МCのちゃん付け憎し アイスティー(MC浜田さんへ)ちゃん付けで初めて呼ばれアイスティー(添削後)作者は「憎し」をポジティブな意味で詠んだらしいけど、その意図が読み手には伝わらないですね。◇春風亭昇吉。お前しかおらん 改札若葉風お前しかおらん 若葉風の改札(添削後)原句は句またがりの17音。添削は助詞を加えて18音。個人的には、「改札若葉風」と名詞だけを点描するのも、なかなか新鮮味のある書き方だと思ったし、あえて添削する必要もない気がしました。追記:原句も添削句も、前段が《セリフ》で後段が《場面描写》の二句一章ですが、原句は、「お前しかおらん改札 / 若葉風」の二句一章とも誤読できるし、「お前しかおらん / 改札 / 若葉風」の三段切れとも誤読できる。添削句も、「改札」だけを詠んだ一物仕立てと誤読できてしまう。たとえば、「お前しかおらん」改札に若葉風お前しかおらん!改札に若葉風のように、前段が《セリフ》であることを明示すれば誤読の余地はなくなります。◇武田鉄矢。摘まるるな 棘あればこそ野薔薇のいばらぞクサい比喩によるクサい教訓でした(笑)。◇森迫永依。不屈の漫才師 客知らぬ背汗はいかんTverの先生の解説によれば、どんな漫才師にも当てはまる内容なので、浜田らしさという面が弱い、とのこと。まあ、森迫永依は、浜田との付き合いがまだ短いし、今回はちょっと不利な兼題でしたね。なお、後段のフレーズは、「客が知らぬ背汗」なのか「客を知らぬ背汗」なのか、ちょっと読み迷います。◇キスマイ北山。汗光る 結果発表の声の鞭もし「浜田宛て」という前提がなければ、下五の「鞭」という比喩によって、厳しい試験や競技などの場面だと分かりますし、中八は「結果を告げる」とすれば解消できます。しかし、おそらく「浜田宛て」だからこそ、あえて中八で「結果発表」と書いたのでしょう。その反面、下五はかえって凡庸な比喩に思えます。季語も「冷や汗」の意味だとすれば、季節感に乏しい。◇パックン。風死す初ライブ ツッコミただ痛しTverの本人解説によれば、浜田のツッコミを真似たマックンのことを詠んだらしい。おそらく「痛し」はダブルミーニングなのでしょうね。通常の俳句としてなら成立している気がします。
2023.05.15
青き踏む影の少なき無人駅 まくなぎのただ中にあり無人駅プレバト俳句。お題は「無人駅」。◇梅沢富美男。まくなぎのただ中にあり 無人駅夏の季語「蠛蠓まくなぎ」は知らない言葉でした。蚊柱をなして人にまとわりつく揺蚊ユスリカや糠蚊ヌカカのこと。人を刺さないのは揺蚊で、人を刺すのは糠蚊だそうです。これを二句一章と読めば、「私は蚊柱の只中にいる。そして無人駅が見える」の意味になりますが、かりに一句一章と読めば、「無人駅が蚊柱の只中にある」の倒置法になります。悪くいうと、そこに誤読の余地もある。明確に二句一章にするなら、先生が言ったように「おり」と書けばいいし、反対に一句一章にするなら、終止形ではなく、連体形で「ある」と書けばいい。まくなぎのただ中におり 無人駅(二句一章)まくなぎのただ中にある無人駅(一句一章)しかし、それをあえて曖昧にして、どちらとも読める形にしたところに、この句の面白さが生まれているのも事実。(梅沢が意図してやったとは思えないけど!!)常識的に考えれば、「駅そのものが蚊柱の中にある」なんてことは、すくなくとも日本じゃあ考えられない光景です。しかし、そう誤読させてこその面白さがあるのよね。つまり、人間存在を駆逐するように、自然の力が押し寄せてくるような無人駅の姿。そこに不快なほどの迫力を感じさせます。なお、一句一章と読む場合、中七の終止形は倒置法と考えることも出来ますが、たとえば松尾芭蕉が最上川を詠んだときに、「はやき」と連体形でつながず、「はやし」と終止形で切ったのと同じ手法ともいえます。五月雨を集めてはやき最上川(連体形)五月雨を集めてはやし 最上川(終止形)つまり、場面転換を伴う明治以降の切れではなく、場面転換を伴わない江戸的な切れの用法ともいえる。(→くわしくはこちら)追記:梅沢自身がどちらの意図で詠んだかを考えると、おそらく一句一章のつもりで詠んだとは思うのですね。とはいえ、実際に「駅が蚊柱の只中にある」なんてことはありえないので、おそらくは蚊柱の多い駅の様子を大袈裟に描写しただけ。もしくは、自分の周囲の"蚊柱越し"に見た駅の姿が、まるで「蚊柱の只中にある」ように見えたのかもしれません。◇フルポン村上。青き踏む 影の少なき無人駅青き踏む 影のみ増ゆる無人駅(添削後)そもそも無人駅はいろんなものが「少ない」のだから、影が少ないのも当然で、なんらの驚きもないのだけど、わざわざそれを書いたのは、季語の「青」(=草)の多さと対比する意図だったのでしょう。その意味では、自然が支配している様子を描写した梅沢の句と共通しています。しかし、そうはいっても「影が少ない」という情報自体は蛇足ですね。
2023.05.08
色褪せし無人の木馬春しぐれ ジャズ流し桜湯啜るラジオブース 銀の風船の中にも遊園地 カメラごし君の横顔さくらんぼ 春嵐継父と見上ぐ観覧車 春愁や廻る木馬の目の潤み ポップコーンまじり遊園地の落花プレバト俳句。お題は「遊園地」。◇梅沢富美男。ポップコーンまじり遊園地の落花9+9=18の破調。「まじる」と連体形にせず連用形で繋いでいる。いつもの梅沢なら「まじりて」とするはずですが、さすがに字数が多いと思ったのか、接続助詞の「て」は省いてしまったのでしょう。意味としては、「ポップコーンがまじって遊園地の落花がある」で、末尾の「あり」が省略された形だといえます。しかし、助詞の「て」を省いたことによって、「○○まじり」という名詞止めにも見えるのは難点だし、わたしは(助詞も入れて19音に増えますが)、ポップコーンのまじる遊園地の落花と連体形で繋ぐほうが安定的だと思います。追記:もしかしたら「ポップコーンまじり」は名詞止めなのかもしれません。その場合は「遊園地の落花はポップコーンまじり」の倒置法ってことですね。ただ、梅沢がそういうことを厳密に考えてるとも思えないので、たんに「あやふやな形式で作った」と見るのが妥当じゃないでしょうか。◇安藤和津。色褪せし無人の木馬 春しぐれわたしは、てっきり、廃園になったメリーゴーランドかと思いましたが、たまたま雨天で乗客がいなかっただけのようです。形は整っていて過不足もありませんが、さほど意外性のある句材ではないし、1位の句にしては、やや類想感がある気もします。◇千原ジュニア。春嵐 継父と見上ぐ 観覧車継父と見上ぐ 春の嵐の観覧車(添削後)現代語なら終止形と連体形の区別は不要ですが、古語なので「見上ぐる」でなければ繋がらないのよね。なので、はからずも三段切れになってしまった。これは、わたしもウッカリやってしまいそう。ありがちな技術ミスなので、気をつけなきゃなりません。古語の「見上ぐ」を使わずに、現代語の「仰ぐ」や「見遣る」を使う手もありますが、すこしニュアンスは違ってしまうかもしれません。◇フルポン村上。春愁や 廻る木馬の目の潤み春愁の木馬よ 青く潤む目よ(添削後a)春愁の木馬よ 雨に潤む目よ(添削後b)先生が問題にしたのは、木馬が「廻る」ことのほうに詩情があるのか、目の「潤み」のほうに詩情があるのか、両方を欲張った結果、かえって散漫になってるってこと。用言の「廻る」に余計な詩情をあたえず、名詞の「回転木馬」で代替させる方法もありますが、それだと1音増えるので、中八になりますね。木馬が「廻る」という情報を除去して、目の「潤み」だけに焦点を当てるなら、(添削後a)のように「青」の映像を加えて、春愁や 木馬の青き目の潤みとする案もあるけれど、「自宅の置物(玩具)」のことなのか、「遊園地のメリーゴーランド」のことなのか、判別できない句になってしまいます。その意味では、(添削後b)のように「雨」の映像を加えて、春愁や 雨の木馬の目の潤みとすれば、屋外だと明示されるぶん、誤読は少ない。(自宅の庭に木馬を置いてる人もいるかもしれないけど…)もうひとつの問題としては、季語との取り合わせが近すぎることと、「春愁」は映像をもたない季語なので、季語だけを独立させるのは弱い、ってことがある。そもそも、この句は一物仕立ての内容なのだから、わざわざカットを割って季語を独立させる必要がありません。先生の添削でも、二句一章の形をとらず、季語を映像化したうえで一句一章にまとめています。(リズム上の切れはありますが内容的には一句一章)季語を独立させずに一句一章にまとめるなら、春愁を廻る木馬の目は潤むのようにする方法もありますが、それでも「廻る」と「潤む」に詩情が分散されるかしら?◇キスマイ宮田。ジャズ流し桜湯啜すするラジオブース桜湯や ラジオブースに流すジャズ(添削後)句材がよかったと思います。村上の句とは反対に、こういう映像をもった季語なら、それだけを独立させても成立するのですね。◇ジャンポケ斉藤。銀の風船の中にも遊園地風船のメタルに映り込む木馬(添削後)風船のメタルに映り込むパレード(添削後)これも句材はいいと思います。一方、添削の「風船のメタル」は意味が通じるのかしら?特殊な金属製の風船とか、巨大な飛行船とか、風船の紐になにかの金属がついてるとか、いろんな誤読を生みかねない気もします。たとえば、シンプルに、銀色の風船が映せし木馬と17音にまとめることも出来ます。最後に字足らず感が生まれるので、すこし寂しげな印象になるかもしれませんが。◇寺田心。カメラごし 君の横顔 さくらんぼファインダに君の横顔 風光る(添削後)作者の解説によれば、「カメラごしの君の横顔がさくらんぼのようだ」ってことらしいけれど、三段切れになってしまったのと、比喩の意図が読者に伝わらないのが欠点。まあ、初心者が素朴に俳句を作ると、三段切れでイメージを繋ぐ形になりがちだし、ある意味では、それが普通だなという気もしますが。
2023.05.01
俗語に「ガタイが良い」という表現がありますが、この「ガタイ」という言葉の語源を調べてみました。※一昨日の記事の最後にこの言葉を使ったからですw「ガッシリしている」「ガテン系」「ガツンと行く」「ガッツがある」…など、最初に「ガ」がくる言葉には共通の語感がありますよね。しかし、結論をいうと「ガタイ」の語源は不詳だそうです。◇比較的あたらしい言葉だと思ったので、「ガテン系」に関係があるのかな?と思いましたが、「ガタイ」のほうはすでに1970年代に用例があって、90年代に使われはじめた「ガテン系」よりもだいぶ古い。がたい〘名〙 (「がかい」と「図体」とが混同してできた語か) 外見の大きさ。図体。がかい。※唐獅子惑星戦争(1978)〈小林信彦〉唐獅子探偵群像「死体(ほとけ)の図体(ガタイ)は大きおますか」https://kotobank.jp/word/%E3%81%8C%E3%81%9F%E3%81%84-463264ガテンは、リクルートから出版されていた求人情報誌の名称。1991年9月創刊。誌名は「合点がいく」と「がってん(OKの意)」を合わせて決定。肉体労働の職種を指す俗語「ガテン系」は、この雑誌名が語源である。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%86%E3%83%B3もともと「合点」と「がってん」は同じですけどね…(^^;◇上に引用したとおり、小林信彦は「図体」と書いて「ガタイ」と読ませてますが、じつは「図体」の同義語に「がかい」という言葉もあるのですね。とはいえ、「図体」も「がかい」もやはり語源が不明です。「がかい」のほうは、東北などの方言で「外観」や「外見」の意味らしい。発音的には、むしろ「外界」に近い気もしますし、考えようによっては「囲い」とか「格好」に似てなくもない。「図体」のほうは、「胴体」が訛ったとの説がありますが、「dotai」と「zutai」ではだいぶ違いますね。かりに「dutai(ドゥータイ)」と発音する日本人がいれば、「dotai」→「dutai」→「zutai」と転じるのかしら?いずれにせよ、「zutai」に「図体」と漢字を当てたわけでしょう。◇わたしの想像ですけど、「図体」の漢字を置き代えて、「画体」という言葉があったとしても不思議じゃない、…という気もします。たとえば画家が、モデルの身体を、「図体がいい」と言わずに「画体がいい」と言ったのかも。まあ、語源俗解の域を出ませんが。◇余談ですが、「ガッツがある」の「ガッツ」は日本語ではなく、「gut」という英語の複数形です。英語の「gut」は、物理的には「内臓」、精神的には「胆力」の意味。ラケットの弦(ガット)と同じ語源です。
2023.04.28
駆ける子と背で鳴る氷夏囃す わかめ狩り水筒ころがす親父の船 春暁や陣痛室で握る水 背後より歳時記覗く椿あり 水筒の底にゐる春愁の澱 花冷の砂かぶり席売り子駆く 水筒の囀り満たし一息にプレバト俳句。お題は「水筒」。◇キスマイ横尾。花冷の砂かぶり席 売り子駆く売り子駆く 花冷の砂かぶり席(添削後)原句の「砂かぶり」と「売り子」は名詞ですが、字面的には「砂かぶり、席売り、子駆く」と、動詞が3つ並んでるように見えてしまう。いわば、{名詞+動詞+名詞+動詞+名詞+動詞}の形なので、動詞が述語なのか修飾語なのかを読み迷わせる。ちなみに、わたしは、「砂かぶり席」という単語自体を知らなかったので、相撲の場面と誤読することはありませんでしたが。◇梅沢富美男。水筒の囀さえずり満たし一息に水筒はさへづる 囀りの真下(添削後)原句の「囀り」は名詞だけれど、「囀り、満たし」と動詞が2つに見えるし、末尾には「飲む」も省略されているので、これまた、ややこしくて読み迷わせる。そのうえ、何が何を「満たす」のかも不明瞭で、一見すると、ほとんど日本語としての体をなしていません。まあ、「水筒のさえずりをコップに満たして一息に飲んだ」と解説されれば、それなりに詩情も理解はできますが、あまりにも技術的に覚束ないので、結果的には、季語の「囀り」をクサい比喩にしただけの句でした。◇コットン西村。駆ける子と背で鳴る氷夏囃はやす駆ける子と背で鳴る氷 夏の空(添削後)これが今週の1位。詩情の面で評価されたとは思いますが、技術的にいろいろと問題が多い。ちょっと身の丈以上のことをやりすぎてる感じです。最大の問題は、やはり動詞が多いこと。「駆ける」「鳴る」「囃す」の3つですね。世間には「氷夏」なんて造語があったりもするし、どれが主語で、どこで切れるのか、かなり分かりにくい。わたしは「夏囃す」という季語があるのかしら?…などと勘違いしましたが、そういうわけでもありません。結論をいうと、原句には切れがなく、一句一章です。構造的には、主語A:駆ける子と主語B:背で鳴る氷が述語 :夏を囃している※正確には「主語」でなく「主部」、「述語」でなく「 述部」です。というワンセンテンスの句ですね。そのなかで、主語Aの「駆ける子が夏を囃す」という比喩と、主語Bの「氷の音が夏を囃す」という擬人化を、いっぺんにやってる形です。しかし、とくに主語Bの「鳴る氷が囃す」は、修飾語の動詞と、述語の動詞が、どちらも音の情報になって紛らわしい。そのうえ2つの主語の関係は、主語B「リヤカーを引く氷売りの主人公」と、主語A「その横を走ってる子供」というようにも誤読できます。子供自身の背中で氷が鳴っているのなら、「駆ける子と」ではなく「駆ける子の」にすべきです。他方、場所の助詞「で」は、許容範囲内と判断されたのかもしれないけど、わたしなら、やはり「駆ける子の背に鳴る氷」とします。◇村上弘明。わかめ狩り 水筒ころがす親父の船水筒をころがし父の若布わかめ船(添削後)季語の「わかめ狩り(若布刈)」は名詞ですが、字面のうえでは「狩り、ころがす」と動詞が2つ見えるし、とくに「水筒ころがす親父」のように、2つの名詞で動詞を挟んだ場合は、動詞が述語なのか修飾語なのかが分かりにくい。たとえば「犬食べる鳥」と書いたときに、切れの位置によって、「犬が食べている」とも読めるし、「鳥が食べている」とも読める、ってことです。作者自身は、「船が水筒を転がす」という擬人化を意図したらしい。でも、読んだだけでは主語が「親父」か「船」かは分からない。添削でも「父」が主語になっているように見えますね。◇篠原ゆき子。背後より歳時記覗く椿あり歳時記を覗くか 目のような椿(添削後)動詞は「覗く」「あり」の2つ。このぐらいなら許容範囲内だろうと思います。季語の「椿」を擬人化した句ですが、あまりに主観に傾きすぎて無内容に見えるから、まずはやはり客観写生の原則に立つべし、ってことですね。◇春香クリスティーン。春暁や 陣痛室で握る水水筒を握る陣痛 春の暁あけ(添削後)動詞は「握る」のひとつだけ。動詞が少ないと、じつにスッキリして見えます(笑)。原句の「水を握る」というのは、ペットボトル時代ならではの言い方ではあるものの、俳句の表現としては、やや無理があったのかな。(わたし自身は、さほど違和感ありませんが)ちなみに、添削は「水筒」に直してますが、映像でもペットボトルだったし、作者が意図したのもペットボトルだと思います。場所の助詞「で」はちょっと説明的でしたね。◇森口瑤子。水筒の底にゐる春愁の澱おりこれも動詞は「ゐる」のひとつだけ。この場合の「澱」の不気味な擬人化は効果的でした。梅沢も言ってましたが、(「ぴこんぴこん」とか「だってば」とかじゃなく)こっちこそが「森口節」だろうと思います。それにしても、遠足のリュックの底にチョコの染み花疲れ リュックの底の底に鍵春愁をエスカレーター地下へ地下へ…と、なぜ森口瑤子は「底」が好きなのかしらねえ。夫婦ともども、底を覗かずにはいられない性分なのでしょうか。
2023.04.24
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