まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2017.10.16
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杉浦日向子の漫画「百日紅」を読んでみた。

北斎父娘や渓斎英泉らを描いた作品としては、
それ以前に上村一夫の「狂人関係」などもあったのだけれど、
その後の諸作品にあたえた影響という意味でも、
やはり杉浦漫画が土台になっている部分は大きいようです。

杉浦漫画の印象が強いために、
ここにこそ北斎父娘の実像が描かれていると、
信じてしまう人もいるみたい。

でも、幽霊がたくさん出てくるかどうかにかかわらず、




朝井まかては、

北斎と応為との関係は、
杉浦日向子さんの『百日紅』でも読んではいましたが、
いい具合に記憶が薄れていて、イメージに引っ張られることなく消化できていました。


と述べています。

わたしは、朝井が「眩(くらら)」を書くうえで、
このことが功を奏したと思う。
というのも、杉浦漫画については、
その虚構性が、従来から色々と論じられていたからです。

たとえば文芸評論家の加藤弘一による批判などがあります。
加藤は、まず次のように書いています。

文化十一年(1814)北斎五十五歳のころのはなしと巻頭にあるが、
それならお栄は三十すぎの大年増のはず。
一説によれば、後添えにいった先を出された三十五の出戻り。
それが一回りもサバを読んで善次郎と同じ二十三とはおかしいや。


この加藤の批判にならって、漫画評論家の永山薫も、
杉浦漫画では「年齢設定が虚構」だと述べています。



葛飾応為は、生没年がいまだ不祥なのですが、
一説には「安政4年(1857年)に家を出て、67才で没した」といわれています。
となると、生まれは1790年ごろで、
渓斎英泉(1791-1848)とは、ほぼ同い年。
おそらく杉浦日向子は、そのように理解して年齢設定をしたはずです。


北斎が後妻(応為の母)を娶った時期に鑑みれば、
応為の生まれは、1800年頃だろうとのこと。

だとすれば、
文化十一年(1814)時点での応為の年齢は、
加藤のいう「三十すぎの大年増」どころか、13~14才の少女だったことになり、
杉浦日向子の年齢設定は、むしろ逆の意味で「虚構」だったといえる。

他方、朝井まかての小説では、
応為の生まれを1797年ごろとしており、
渓斎英泉は、応為より7歳年上の兄弟子と設定されています。

おそらく史実に照らすなら、
朝井まかての設定が、いちばん真実に近い。



しかし、もっと重要なのは、加藤弘一のもうひとつの批判のほうです。

お栄のおぼこぶりもひっかかるが、善次郎がまるっきりウブというのもげせねぇ。
後の淫斎英泉、女郎屋までひらいた男だよ。だまかすなといいたいね。


お栄が「おぼこ」で、善次郎が「まるっきりウブ」。
これに対する加藤の批判は、それなりに妥当という気がします。

しかし、
それが杉浦漫画を特徴づけている部分と言ってもいいし、
朝井まかてとの大きな相違も、そこにあります。

なぜ、杉浦日向子は、
お栄を「おぼこ」に、善次郎を「まるっきりウブ」に描いたのか。

これについては、次回以降に書きたいと思います。



※現在、​ 音楽惑星さんのサイト ​にお邪魔して「斉藤由貴」問題を考えています。






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最終更新日  2020.09.27 06:15:30


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