まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2026.07.07
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NHK-FMのピーター・バラカンの番組は、


いやいや、
ちょっと前にも同じことやったよね!
てか、この番組いつも同じことばっかよね!

…とは思いましたが、
なんだかんだで面白かったw

77年の『Milton』は、
あまりちゃんと聴いてなかったし、





ミルトンはリオで生まれたけれど、
ミナスジェライスの母方の祖母に引き取られ、
さらに祖母の雇用主の白人家庭に引き取られた。
祖母はそこの家政婦だったわけですね。

ミナスジェライスは、
18世紀のゴールドラッシュのときに、
大量の黒人奴隷を導入したのだけど、

それ以降も、
黒人と白人が雇用関係を結ぶことは多く、
それが代々受け継がれるケースも多いらしい。


そういう関係だった可能性が高いと思います。



その養祖父母の娘が、
ミルトンの養母になるのだけど、
彼女はなんとヴィラ=ロボスの教え子だったと!


つまり、ミルトンはヴィラ=ロボスの孫弟子?
…といえなくもない。

そして、この養母は、
ほかにも白人の養子を受け入れ、
さらに実子も生まれてるので、
ミルトンは白人の兄弟と一緒に育つことになる。



ミルトンの音楽を聞いても、
今回のケペル木村の話を聞いても、
とくに人種問題は出てきません。

バイーアでは、
白人のカエターノ・ヴェローゾと、
黒人のジルベルト・ジルが仲良しだし、

ミナスでは、
黒人のミルトン・ナシメントと、
白人のロー・ボルジェスが仲良しですが、

子供のころから一緒に遊んでた感じがある。


まあ、実際は、
ヴィニシウスが「黒いオルフェ」で描いたように、
リオのファヴェーラの貧困問題とかもあるのだけど、

ジルベルト・フレイレの「人種民主主義」の影響もあり、
ブラジル文化で人種問題が前景化することは少ない、
…ってのもあるとは思う。



ミルトンが「鉄ちゃん」なのは、
なんとなく想像がついてましたね。

76年の『Geraes』のジャケットにも、
本人の下手くそな汽車の絵が描いてある。

Geraes (album).jpg


ブラジルは空運や海運に依存してて、
鉄道網はかなり貧弱なのだけど、
(土地が広大すぎて鉄道のコスパが悪い)

唯一、ミナスだけは例外で、
鉱物資源をリオの港へ運ぶための物流鉄道が、
早い段階で整備されたわけですね。

ミルトンが「鉄ちゃん」なのは、
ミナスに育ったからこそであり、
一般的にブラジルの鉄ちゃんは少ないと思う。



ケペル木村は、
> 70年代の軍事政権が都市間の人的交流を危険視して、
> ミナスの鉄道を閉鎖した

…みたいに言ってましたが、

実際のところは、
鉄道網を高速道路網で代替するために、
赤字の旅客鉄道を閉鎖したという面が大きい。

名曲「Ponta de Areia (砂の岬) 」で歌われてるのは、
ミナス〜バイーア間の旅客鉄道閉鎖のことだけど、

他方で、
ミナス〜リオ間の物流鉄道はむしろ強化してます。
これを閉鎖したら経済が破綻しますから。


Wayne Shorter「Ponta de Areia」



軍事政権の文化弾圧の件でよく出てくるのは、
シコやカエターノやジルの国外亡命の話ですが、

ミルトンやイヴァン・リンスへの弾圧については、
あまり聞いたことがなかったし、

さらにケペル木村は、
「無名のミュージシャンが消された」
…というような不穏な話もしてました。


追記:


映画『ボサノヴァ~撃たれたピアニスト』


70年代のミルトンの曲で、
ハミングで歌ってるものの一部は、
歌詞が検閲された結果なわけですね。

それから、
ポルトガル人の妻子と引き裂かれた話は、
たぶん以下の記事の内容を言ってるのだと思う。
https://www.historiadaditadura.com.br/
その養子の名が「Pablo」だということです。

Milton Nascimento「Pablo Nº 2」



トニーニョ・オルタの話もありました。

ミルトンが『Milton』を録音した際、
スタジオの余った使用時間をトニーニョに譲って、
彼のデビューソロ作『Terra dos Pássaros』を、
ほぼ同一メンバーで録音させたと。

その後、
アース・ウインド&ファイアーがカバーした、
トニーニョ作曲の「Beijo Partido」の印税収入を得て、
高額なストリングス録音も加えてアルバムが完成します。


アース・ウインド&ファイアーの『ALL 'N ALL(太陽神)』では、
A面の「Brazilian Rhyme」(原曲はトニーニョの「Beijo Partido」)と、
B面の「Brazilian Rhyme」(原曲はミルトンの「Ponta De Areia」)が、
同一の間奏楽曲(Interlude)と扱われてトニーニョに印税が支払われなかった。


Earth Wind & Fire「Beijo (Interlude)」





一方、ミルトンとは無関係ですが…

ケペル木村は、
> クインシー・ジョーンズが、
> 58〜59年にブラジルでボサノバに出会い、
> 子分のクリード・テイラーに教えた

…みたいなことを言ってました。

しかし、
クリード・テイラーのほうがすこし年上だし、
すくなくとも50年代においては、
彼がクインシーの編曲作やリーダー作を制作する立場。
ふつうに考えれば親分・子分の関係が逆です。

それから58〜59年ごろのクインシーは、
渡仏してナディア・ブーランジェに学んでたので、
直接ブラジル音楽に触れたのはボサノバ以前でしょう。



まず事実としては、
クインシーがディジー・ガレスピーらと一緒に、
1956年に南米を回ったツアーがあります。

ガレスピーは1940年代から、
ラテンキューバ音楽を積極的に導入してましたが、
50年代になると、
冷戦時代の国務省の文化政策にかかわり、
いわゆる「ジャズアンバサダー」の中心的存在になる。

そして56年の最初のツアーのときに、
若き日のクインシーが音楽監督を務めたのですね。
当時のクインシーは若干23才!

このときクインシーは、
ブラジルでヴィラ=ロボスに出会い、
アルゼンチンで同世代のラロ・シフリンに出会う。

ラロ・シフリンは、
ピアソラよりすこし早くパリ音楽院に入ってて、
メシアンやナディア・ブーランジェに学んでおり、
ピアソラとも共演してました。


ただ、この時点では、
まだジョアン・ジルベルトのボサノバは誕生してない。
強いていえば、ジョアン・ドナートが、
ボサノバを予兆する作品を出してたかもしれませんが。

ジョアン・ジルベルトは、
58年にボサノバ曲「Chega de Saudade」を発表し、
59年に同名のアルバムを発表。
同年には映画『黒いオルフェ』が世界的に大ヒット。



61年の国務省ツアーで、
チャーリー・バードが南米を回り、
ブラジルから持ち帰ったボサノバのテープを
クリード・テイラーに聴かせることになる。

そして1962年以降に、
バードが北欧帰りのスタン・ゲッツと『‎Jazz Samba』を作り、
クインシーが『Big Band Bossa Nova』を作り、
ラロ・シフリンが『Strings and Bossa Nova』を作り、
カル・ジェイダーが『Contemporary Music of Mexico and Brazil』を作り、
カーネギーホールではボサノバフェスが開かれ、
ゲッツがジョアン&アストラッドを招いて『Getz/Gilberto』を作る。



これらのジャズレコードの多くは、
クリード・テイラーの制作によるものですが、

ChatGPTに訊いてみると、
クリード・テイラーはブラジル音楽にかんして、
「Quincy had told me all about the music there」

と語ってるらしいのよね。

つまり、
チャーリー・バードからボサノバを聴かされるより先に、
クインシーからブラジル音楽についてすべて教えてもらった、
…ってこと。

実際、クリード・テイラーは、
バード以外にも複数のボサノバ作品を手掛けてるし、
もとはといえばクインシーが仕掛け人になって、
クリードらにジャズとボサノバの融合を促した、
…という可能性もなくはない。



さらにケペル木村は、
スティーヴィー・ワンダーも
イヴァン・リンスも、ジャヴァンも、
みんなクインシーの子分だと言ってましたがw

たしかにクインシーは、
80年にジョージ・ベンソンの『Give Me the Night」で、
イヴァン・リンスの曲をカバーさせてるし、
自分でも「Velas」や「Setembro」をカバーしてます。

スティーヴィーとは、
81年の「Betcha’ Wouldn’t Hurt Me」を共作し、
さらにジャヴァンの版権を獲得すると、
ジャヴァンは82年に米国進出して『Luz』を作り、
そこでスティーヴィーと「Samurai」を共演しますね。







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最終更新日  2026.07.10 17:53:25


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