まき~♪さん

利益代表という考え方は、日本人の身内意識がその元凶なのかなと感じます。公正さよりも、身内のえこひいきの方が優先するという身内意識から脱しない限り、利益代表という考え方からも脱することが出来ないでしょうね。

養護学校時代に、明らかな教員側のミスによって生徒にけがをさせたときも、今後同じようなミスを繰り返さないようにという厳しい反省よりも、親との間のトラブルを起こさないという身内の利益が優先されたように感じたことがありました。

僕に、利益代表だという風に言ったベテランの教員は、このときも「ただひたすら謝れ」という風にアドバイスしていました。目的は、親に公の場で訴えられないようにするということでした。明らかなミスですから謝るのは当たり前なのですが、そのミスは公にして、今後二度と起こらないように何らかの対応策を講じておかなければならなかったと思います。しかし公に議論されることはありませんでした。議論するということは、ミスを犯した教員を非難するということではなく、何が原因でそのようなミスが起こったのかをはっきりさせないと、忘れた頃にまた同じミスが起こりかねないという懸念をなくすために公にする必要があったと思いました。 (2004.01.08 10:32:38)

*** かたり亭 ***

*** かたり亭 ***

2003.12.29
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カテゴリ: カテゴリ未分類
あれこれと年末はいそがしいです。
ムスメと相変わらずキャッチボールです。
どちらもそれなりなので、続かないですが、
何か一緒に体を動かすことを日課にしたい。
(何日続くかな~、チェックしててね)。

連れ合いが走り回っています。
たよりにならないからなあ、うちのかみさん(笑)。

今、せっせと秀さんとキリスト教談義をしています。
キリスト教に関しては、

やめてしまいました。
結局、キリスト教の教理を信じることができず、
やめたのですが、
それでも、聖書の教えにはいろいろとうつくしいところがあり、
今でも郷愁のようなものがあります。
さまざまな矛盾が包括され、そして織りなしている大きな絵物語のようです。

なんだかこのごろ、
お尻のあおいような感じがして仕方がないのです。
わたしはまだ一回しか生きていない、
それも途中だから、まだまだ何もわかっていないのだなあと。
わかったふりなどしたくない、

それが標準だなどと納得もしたくない、
何にもしていないのに、
何もできないなどと言っても仕方がない、
気持ちだけは、そんなです。

なかなか言葉にならないけれど。





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最終更新日  2003.12.30 00:42:53
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Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
msk222  さん
宗教論議なかなか面白いですね。
秀さんと、似たような経歴なのも何かの因縁かたたりか…。
都立大のこと、よく分からないけれど今はどこの大学も大波に洗われていますね。
でも、存続にかかわることとなれば、大変だ。
来年はまた忙しくなりそうですね。

(2003.12.30 01:36:51)

Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
秀0430  さん
ここで談義をしようとは思わないんですが、ちょっとこの話題で思い出話でも。

僕は聖書をよく読んでいたときは、三浦綾子さんの解説に共感していました。三浦綾子さんの小説は一冊も読んでいないんですが、聖書に関する話は好きでしたね。あとは、解説本や聖書物語という感じの本をいくつか読んでいました。

遠藤周作の「キリストの誕生」では、その奇跡というものに対する解釈が、僕でも受け入れられる合理的なものになっていたので、一時期遠藤周作にはまって読んでいたときがありました。

イエスは、自分の持っているいろいろな性質を越えて、自分の存在そのものを認めて受け入れるという愛を持っていたから、それを信じさせてくれたから人々を救うことが出来たという考え方に共感しました。良い性質を持っているから愛してくれたんじゃなくて、自分がここに存在しているからという理由だけで愛を確信できる、そういうものはイエスの他に与えることの出来ない愛だろうと思いました。このような信頼に支えられていれば、何が起こっても信じられるという感じがします。奇跡とはそういうものではなかったかというのが、当時僕が感じたものでした。

そういえば、あの頃は、「汚れなき悪戯」という古いスペインの映画だったでしょうか、最後にイエスに抱かれて幸福感の中で天国に召されていくマルセリーノの姿を見て、あれが信仰の理想の姿なのかなと思ったものでした。 (2003.12.30 13:23:16)

Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
mika猫  さん
私がキリスト教をお勉強したのは中高の時。学校がプロテスタントだったの。
日本人特有の外国の神秘に触れる楽しさと思春期の学校に対する反抗心との中でうまく勉強できなかったけど、それでもそれから離れて聖書を見るとまた違った解釈が・・・。
面白い読み物ですよね。それに触れる機会があったことは有意義だったと感じています。

宗教談義、面白そうなので見たいのですがそろそろゴハンの時間。猫の視線も痛いので、後でまたそっと見に来ますねっ。 (2003.12.30 18:26:00)

Re:Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
まき~♪  さん
msk222さん
おはようございます。

>宗教論議なかなか面白いですね。
秀さんと、似たような経歴なのも何かの因縁かたたりか…。
都立大のこと、よく分からないけれど今はどこの大学も大波に洗われていますね。
でも、存続にかかわることとなれば、大変だ。
来年はまた忙しくなりそうですね。

-----
来る年は、赤い年なのか黄色い年なのかわかりませんね。
(というのは、野口晴哉先生風。)
いそがしくなりそうなのは、確かに。 (2003.12.31 08:30:00)

Re:Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
まき~♪  さん
秀0430さん
おはようございます。

>遠藤周作の「キリストの誕生」では、その奇跡というものに対する解釈が、僕でも受け入れられる合理的なものになっていたので、一時期遠藤周作にはまって読んでいたときがありました。

>イエスは、自分の持っているいろいろな性質を越えて、自分の存在そのものを認めて受け入れるという愛を持っていたから、それを信じさせてくれたから人々を救うことが出来たという考え方に共感しました。良い性質を持っているから愛してくれたんじゃなくて、自分がここに存在しているからという理由だけで愛を確信できる、そういうものはイエスの他に与えることの出来ない愛だろうと思いました。このような信頼に支えられていれば、何が起こっても信じられるという感じがします。奇跡とはそういうものではなかったかというのが、当時僕が感じたものでした。

なるほど、自分がどういう存在であっても、
愛してくれるということは、大切な感情ですね。
親が子供に与えるような愛情を、
誰か大きな存在が与えてくれているという感じかな。

-----
(2003.12.31 08:33:54)

Re:Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
まき~♪  さん
mika猫にゃん
-----
思春期のときに触れたものを、
落ち着いた年齢になってから発掘するのも、
なかなかおもしろいものだと思います。

うちは、猫の視線じゃなくて、
ダンナの視線と子供の視線が痛いにゃ。
(2003.12.31 08:36:14)

Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
秀0430  さん
まき~♪さん

僕は、河合隼雄さんが好きで、特にその児童文学に関する文章をよく読みました。そこには、子供を丸ごと受け入れるという存在についてよく書かれていました。

それは、多くの場合おじいさんやおばあさんであることが多いんですが、その子を存在として愛するという感じでしょうか。何か属性があって、ここがいいから愛するんだと言うんじゃないんですね。まさに、その子がその子であるから愛しているという愛し方をしてくれるおじいさんやおばあさんが出てきます。

壊れやすく傷付きやすい子供がその愛でどれほど救われるかと言うことが伝わってくる児童文学は名作だと思ったものでした。

このような愛し方は、その子がおじいさんやおばあさんにとって特別な存在だから出来る愛し方だと思います。イエスが神であると感じるのは、イエスは、特別な存在ではなく、誰でもあらゆる人に対して、このような愛を注ぐことが出来るから神なんだと、僕は思ったものです。 (2003.12.31 11:55:12)

Re:Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
まき~♪  さん
秀0430さん,こんばんは。
河合先生、勉強熱心で精力的な方ですね。
だれでも、同じように愛する、ということではなく、
その子なりをわかってくれて、
それで愛してもらえたら救われることでしょうね。

-----
(2003.12.31 23:11:45)

Re:Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
まき~♪  さん
秀0430さん
さっきの続きですが、キリスト教の受け入れる愛というのは、
まず前提として「罪人である自分」を認めて、
その上で、神に救いを願うという愛され方なように
思うのです。
だったらやだなと、思います。
わたしはわたしだもの。

ほめられたり、けなされたりしたことの繰り返しだったこどもには、
なんだかわけがわかんなくなってしまう。

(頭が回っていないので、中途半端ですが。)


-----
(2003.12.31 23:50:15)

Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
秀0430  さん
まき~♪さん
>さっきの続きですが、キリスト教の受け入れる愛というのは、
まず前提として「罪人である自分」を認めて、
その上で、神に救いを願うという愛され方なように
思うのです。
だったらやだなと、思います。
わたしはわたしだもの。

-----
僕は、いわゆる原罪というものをとても抽象的に理解していました。それは、僕個人に固有の罪ではなくて、人間であれば誰でも持っている、人間であるが故の罪というような感じでしょうか。

誰の影響だったか忘れましたが、人間というのは一人で生きていくことは出来ないのだから、存在しているというだけで、他人に影響を与えずにはいられないという認識がまずあります。そして、その影響が、必ずしもいい影響ばかりではないので、不本意ながら悪い影響を与えることもあります。それは、存在する限り避けることができない。そういう意味で原罪という言葉があるのだと理解していました。

だから、僕には原罪というのは、人間の傲慢さを戒める言葉くらいにしか感じませんでした。ただ、いつも自分の罪を告白して、悔い改めることを求められることが、子供の頃から続いていたら、罪というのを抽象的に考えることは難しくなるかもしれませんね。僕は、大人になってからキリスト教の原罪に出会ったので良かったのかもしれません。

原罪は抽象的なものですが、イエスに愛されるときは、具体的な固有な自分自身を愛されているんだと思えるなら、信仰に目覚められたかもしれません。僕は愛される自分まで抽象的な存在にしてしまったのかもしれません。 (2004.01.01 15:21:00)

Re:Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
まき~♪  さん
秀0430さん
人間は、地球をよごすし、戦争はするし、
ろくなものではないのかも知れません。
それは、原罪といって良いのかも知れませんね。
人によって、どこを強調して読んでしまうか、
学んでしまうかは異なるものですし・・・。

しかし、聖歌にあるように「神なく望みなく」とか
「地のちりにひとしかり 何一つとりえなし」なんて
そこまで自己否定したくないです。

小さいころ、結構激しく、折れない子だったので、
「あなたのためにイエス様は死なれたのよ」とか
お説教されたり、
「心理学に進むのは、神のみこころだと思えない」とか、
いうような強烈な牧師婦人がいました。
今思えば、子供心に傷ついた、と言って良いような気がしますね。
キリスト教自体の持っているものというよりは、
わたしとその牧師婦人と等の関係性の問題なのかもしれませんが。
-----
原罪は抽象的なものですが、イエスに愛されるときは、具体的な固有な自分自身を愛されているんだと思えるなら、信仰に目覚められたかもしれません。僕は愛される自分まで抽象的な存在にしてしまったのかもしれません。
-----
具体的な自分自身を愛してくれる、
というような宗教体験をした話もよく聞きますが、
よくわからないです。
基本的には人との関係が大きいような気がするけれど。 (2004.01.01 23:46:36)

Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
秀0430  さん
まき~♪さん
>しかし、聖歌にあるように「神なく望みなく」とか
「地のちりにひとしかり 何一つとりえなし」なんて
そこまで自己否定したくないです。

-----
自分には何もない、とすべてを自己否定するのは、それでもイエスは愛してくれるのだという、神の愛の絶対的価値を高めるためのコントラストの意味を成しているのかもしれませんね。自己否定をするのが目的ではなく、むしろそんな存在でも愛を注ぐのだという神の崇高さを強調するのが目的なのかもしれません。

でも、それがよく分からない子供の時に、説教の道具に使われるのではたまりませんよね。それでも愛される存在なんだよと、励ましの道具に使ってもらいたいと思います。

昨日は何年か前に見た「レ・ミゼラブル」のドラマをまたテレビでやっていました。この中で、銀の燭台を盗むジャンバルジャンに対して、それはあげたものですといってさらにもう一つあげようとする神父の姿に、隣人愛というものの姿を見る思いでした。

すべてを否定するということで思い出すのは、ソクラテスの「無知の知」というものです。ソクラテスは、確かな知識など何もないということを突き詰めて考えて、自分が知っていると思ったことも本当には知っていなかったんだということで、無知ということを強調します。そして、自己の無知を知っているという点で、その自覚のない人よりも自分はその分だけ賢いと考えました。

すべてを否定するような思考というのは、否定してそれで終わりではなく、否定した後に得られる真理の方にこそ重きを置くということが正しい受け取り方なのかなと思いました。 (2004.01.02 13:51:16)

Re:Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
まき~♪  さん
秀0430さん
お返事遅くなりました。
-----
自分には何もない、とすべてを自己否定するのは、それでもイエスは愛してくれるのだという、神の愛の絶対的価値を高めるためのコントラストの意味を成しているのかもしれませんね。(略)むしろそんな存在でも愛を注ぐのだという神の崇高さを強調するのが目的なのかもしれません。

でも、それがよく分からない子供の時に、説教の道具に使われるのではたまりませんよね。それでも愛される存在なんだよと、励ましの道具に使ってもらいたいと思います。

~おっしゃるとおりだと思います。

昨日は何年か前に見た「レ・ミゼラブル」のドラマをまたテレビでやっていました。この中で、銀の燭台を盗むジャンバルジャンに対して、それはあげたものですといってさらにもう一つあげようとする神父の姿に、隣人愛というものの姿を見る思いでした。

~ときにかなった隣人愛と厳しさの使い分けは、
難しいと思います。
「レ・ミゼラブル」も読まなくては・・・。

すべてを否定するということで思い出すのは、ソクラテスの「無知の知」というものです。(略)
すべてを否定するような思考というのは、否定してそれで終わりではなく、否定した後に得られる真理の方にこそ重きを置くということが正しい受け取り方なのかなと思いました。
-----
「バカの壁」もそんな感じですね。
分かり合っていると思い込んでいても、
実は、自分だけの壁の内側のことしかわからない。
でも、逆にキャッチコピーの<「話せばわかる」なんて大うそ>という言葉が、
独り歩きするとこわい感じ。
話してもいないことすら、あきらめてしまいそう。
反戦と言う声が、日本人のもっとたくさんの人の口に上り、
何かの動きになれば、
山もひっくり返るかもしれない。
 今年もよろしくお願いします。 (2004.01.03 15:14:27)

Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
秀0430  さん
まき~♪さん
>「バカの壁」もそんな感じですね。
分かり合っていると思い込んでいても、
実は、自分だけの壁の内側のことしかわからない。
でも、逆にキャッチコピーの<「話せばわかる」なんて大うそ>という言葉が、
独り歩きするとこわい感じ。
-----

「話せば分かる」ということも、条件なしにこの言葉を断定的に使っちゃうと、こんなのは間違いだということになるでしょうね。

実際には、「話せば分かる」時もあるし、「話しても分からない」時もあるということだと思います。問題は、その条件で、どういうときに「話せば分かる」のか、どういうときに「話しても分からない」のかを知るということでしょうね。

「話せば分かる」が常識になっているときは、「話しても分からない」のだと主張することが意味があるんだろうと思います。逆に、「話しても分からない」が常識の時は、「話せば分かる」というのが大切なんだろうと思います。

実際に、今の時代はどっちなんでしょうかね。「話せば分かる」時代なのか、「話しても分からない」時代なのか。「話しても分からない」と感じる人が多いから、あの本が売れるのかな。

「話せば分かる」を実現するには、話し方に工夫をして、相手に耳を傾けさせるということがないとならないかなと思います。 (2004.01.03 21:58:32)

Re:Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
まき~♪  さん
秀0430さん
<バカの壁>
-----
対話の場所は、以前に比べ、確保されるようになってきているとは思います。

問題は、それなのに「なんで話してもわかんないの~!?」とか、
話しても無駄だと言うようなあきらめムードが若者を中心に
蔓延しているような状態なのではないかと思います。
おおざっぱな書き方ですが。

「どうせ言ったってわからないじゃん」
というような意識的でない無力感を意識化し、
その思考停止になっている原因を探った上で、
それを超えるものを探そうとするのが、
この本の目的なのではと思います。
(2004.01.05 06:18:48)

Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
秀0430  さん
まき~♪さん

昔養護学校にいたとき、運営委員というのになったことがあります。これは、小学部・中学部・高等部というそれぞれから代表として、学校運営の計画に当たったりする仕事でした。その時に、「君は利益代表なんだから、中学部の利益を考えてやってくれ」といわれたことがあります。僕は中学部の代表だったんです。

これにはとまどいました。僕は、運営委員というのは、それぞれの小さい学部の枠にとらわれずに、学校全体の観点から見て最善の方向を検討するのが仕事だと思ったからです。

でも、ベテランの教員でも、利益代表という見方をしているんですね。いや、ベテランだからそんな見方をするのかな。利害が対立する問題は必ずありますから、そこで自分の利益を主張するというエゴを出していたら、結局は客観的に正しい方向なんか探れなくなってしまいます。

話が通じないことの一番大きな原因は、自分の利益を主張するというエゴなのではないかと感じます。しかも、このエゴを主張するということが、判断を狂わしているという自覚がなく、エゴを主張することこそが正しいと思っているのですから何ともしがたいという感じです。日本人の身内意識というものでしょうか。これが一番の「バカの壁」かもしれませんね。 (2004.01.05 21:18:18)

Re:Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
まき~♪  さん
秀0430さん

>まき~♪さん

昔養護学校にいたとき、運営委員というのになったことがあります。これは、小学部・中学部・高等部というそれぞれから代表として、学校運営の計画に当たったりする仕事でした。その時に、「君は利益代表なんだから、中学部の利益を考えてやってくれ」といわれたことがあります。僕は中学部の代表だったんです。

-----
利益代表っていったい何なんでしょうね。
予算の余った分は返したら来年はくれないから確保する
と言うのが役所の体制。
わたしも幼い子を抱えて当直が苦しくて退職する3月に、
よその施設に泊つき出張(しかも単なる見学)を命じられたことがあり、
腹が立って断りました。
誰の利益にもならない予算消化っていったい・・・?
エゴというか、なんなんだろう、この連班制無責任は・・・。
(2004.01.06 22:58:40)

Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
秀0430  さん

Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
明けましておめでとうございます!
今年もよろしくお願いいたします。
(にこにこ)

「まだ一回しか生きていないし、それも途中だから 」

この言葉って、なんでもないのに、なんだか凄いと感じてしまった。
(2004.01.08 22:28:01)

Re:Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
まき~♪  さん
秀0430さん
-----
学生たちに研修中のトラブルをどうするか、
というディスカッションをさせたら、
「はぁ?」という顔をする、または、
「その場は、あやまりとおす」というのがあって、
まあ、自分もそんな風だったのかなあと思いつつも、
ちょっとさびしい。
ミスをして、それを突っ込まれると、おしまいだ、とか、
傷ついてしまう、ということではなくて、
そこをどう乗り越えて、どう成長するかが大切なんですよね。
傷つきやすさを克服して、最善を目指せるようにする、
そういうことが大切ですよね~。
ちょっとずれちゃったかな。 (2004.01.09 23:32:23)

Re:Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
まき~♪  さん
小林とむぼ こと 唯乃葉羽さん
>明けましておめでとうございます!
今年もよろしくお願いいたします。
(にこにこ)

「まだ一回しか生きていないし、それも途中だから 」

この言葉って、なんでもないのに、なんだか凄いと感じてしまった。

-----
あんがと。
今年もどこかでとむぼさんの素敵なニコニコ顔を拝見したいものです。
よろしくです。

(2004.01.09 23:34:08)

Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
秀0430  さん
まき~♪さん

ミスをした場合、それが避けられないどうしようもないというケースだった場合は、徹底的な反省も受け入れられやすいですよね。それによって、ミスを犯した人だけの責任じゃなくて、もっと大きなシステムの責任を追及することも出来ますから。

しかし、明らかに本人の雑なミスである場合は、その雑な点に注意点を求めるということでも、なかなか厳しい反省に耐えるというのが難しくなります。

でも、小さいミスのうちに雑な点が分かれば、それに注意することで取り返しのつかないミスを避けられるんですけれどね。小さな雑なミスを見逃していることが、取り返しのつかないミスが発覚してどうにもミスを隠せなくなるという事態につながっているような気がします。

ミスは道徳的なものではなく、認識の限界から必然的に生まれるものだと考えれば、小さいミスほど大事にできるのかなとも思うんですけれどね。 (2004.01.10 12:03:42)

Re:Re:まだ一回しか生きていないし、それも途中だ(12/29)  
まき~♪  さん
秀0430さん
雑なミス、よくやるのですが、なんだか落ち込んでいるよりも、
やってやろう、と大きな人間を目指すしかないんだろうな、
と開き直っています。

確かに、反省とシステムの見直しが大事なんでしょうね。

-----
(2004.01.11 21:01:25)

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