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(ルカによる福音書4章31~37節)『それからイエスは、ガリラヤの町カペナウムに下られた。そして安息日ごとに、人々に教えられらた。人々はその教えに驚いた。その言葉には権威があったからである。また、会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいて、大声でわめいた。「ああ、ナザレ人のイエス。いったい私達に何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」イエスは彼をしかって、「黙れ。その人から出ていけ。」と言われた。するとその悪霊は人々の真中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人は別に何の害も受けなかった。人々は皆驚いて、互いに話し合った。「今のお言葉はどうだ。権威と力でお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。」こうしてイエスのうわさは、回りの地方の至るところで広まった。』イエス様は『ナザレ』の町から、ガリラヤ湖のほとりの『カペナウム』という町へ下られた。と書かれています。『ナザレ』は小高い山地で、『カペナウム』は聖地旅行で見ましたが、『ガリラヤ湖』のすぐ傍の小高い丘のような所にあった町で、現在は廃墟となっており、『ペテロの家』『立派なシナゴーグ遺跡』があります。この『カペナウム』は大きな都市とかではなく、『ガリラヤ湖畔』の小さな漁村の中の一つでした。(中心的な町で栄え、中では大きかった)(すいません「大都市」とか書かれている方が居ますが、交通の要所だったので、そこら辺の漁村より大きい町、栄えた町程度だと思われます。(推定人口1000人程度) 何故なら、もっと大きな『ティベリヤ』(ガリラヤ湖畔の待ち、現代大リゾート地、ヘロデ王がローマ皇帝に献呈して造った街があるからです。しかも『イエス様と使徒達』はこの大都市『ティベリヤ』、『ホッセリヤ』などに宣教に行った記事が『聖書』で皆無です。こんな所からも、『イエス様』が身を隠しながら、『ガリラヤ』で宣教を続けていた様子が垣間見えます。)『カペナウム』で発見された『シナゴーグ遺跡』は5世紀のもので、その下に玄武岩で出来た古い『シナゴーグ』土台が見つかっていて、これが『イエス様が教えられたシナゴーグ』ではないか?と言われている。「ペテロの家」 私達は30年前、この『カペナウム』の『シナゴーグ遺跡』に立ちましがた、当時は『ここで!イエス様が教えたかもれない?』程度に言われたのですが、今考えると『何と、イエス様が安息日ごとに教えられた場所に立ったわけで、凄いな~!』と感慨深いものがありますね。(主に感謝します♪)・・結構大きな立派な『シナゴーグ遺跡』です。 その他に『ペテロの家』、これも結構小さい感じだったので、「この小さい5角形みたいな家に本当にペテロが住んでいたのか?嘘だ~」などと思ってました。他、どの時代に使われたのか「石臼、脱穀機?他色々な家財道具が並べられていました。場所は『ガリラヤ湖』を見下ろす高台で、漁師のペテロ「ここから湖の天候など観察し、よい今日は漁に良い日だ」などと言っていたのかもしれません。 『カペナウム』は『イエス様』の宣教の中心地といっても良いくらい、『イエス様』もここに長く滞在され、宣教しました。『カペナウム』という町は、7世紀くらいまで栄え、その後オスマン・トルコに破壊されていまいます。ここは小さな町ですが、交通の要所であり、『ローマ兵』も駐屯していた(いつの時代かは不明)、ローマ時代の遺跡なども見つかっているそうです。また、「徴税所」があり、「徴税人マタイ(使徒)」もここでイエス様に使徒に召されました。 (ローマ兵が居たというのが本当か?と疑うのは、イエス様がそのような危険な場所を宣教の中心とするか?謎だと思った次第です。しかし、ローマの百人隊長の家族の癒しをしている記事から、居たのかもしれない。が?常駐だったのか?どうかなど詳細は不明です。もともと『ガリラヤ』は、ユダヤ祭司達やローマ総督の居る『エルサレム』からかなり遠くなので、ローマや祭司達に見つかりにくいので、長く「宣教」出来たと思う次第です。「バプテスマ・ヨハネ」もすぐに捕まってしまったし~)◎『カペナウム』(たけさんのブログ)~http://israel.bona.jp/wp/archives/1370/しかし、『イエス様』は『カペナウム』を中心地と選ばれたのには、ここは当時では、『ガリラヤ』方面で結構栄えた町でもあったのでしょう。 この『カペナウム』の『シナゴーグ』で『イエス様』は安息日ごとに教えられました。『シナゴーグ』はご存じ地方の「ユダヤ教会堂」です。安息日には住民の皆様が集まり、礼拝をしたり、『律法』のお話を聞いたりする場所です。 『カペナウム』の皆様は『イエス様』の教えに大変感銘され、驚かれました。それは『イエス様の言葉に権威があった』為です。これはどういう意味かというと、『イエス様』は普通の「律法学者」とは違っていたのです。『権威ある者』のようにお話されたのです。 これはですね、偉そうにお話した(笑)のとは違います。イエス様は普通にお話されていても、『神の子』だったので、聞いた人々が神様の権威のようなオーラを感じた。~という感じでしょうか。『言葉の一つ一つに権威を感じたわけです』安息日ごとに「カペナウム」の人達はイエス様のお話に聞き入りました。 ところが、その『シナゴーグ』に『汚れた悪霊につかれた人』が居ました。『汚れた悪霊につかれた人』とは当時どんな人だったか?というと『精神病や病気の人』だったのです。『病気』というのは昔は普通に『悪霊がついた』と思われていました。病原菌などで病気になるのが解ったのは20世紀初頭で、コッホが『病原菌』を見つけた頃です。『汚れた悪霊に憑かれた人』は恐らく『精神的な病気』だったのか、叫びだし、『ああ、ナザレ人のイエス。いったい私達に何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」 と『イエス様』が『神から遣わされてきた聖者で、自分達悪霊を滅ぼしに来た』と叫びだしたのです。実は、ここで他の人々は『イエス様』は素晴しい方だと思っていても、『イエス様が神から遣わされた神の子』である事はまだ知りませんでした。ところが『悪霊』はそれを知っていたので、ばらしてしまった訳です。 「イエス様はそれ以上、「悪霊」がいらない知っている事を話さないように」、『黙れ!その人から出てゆけ!』と悪霊を叱りつけられました。すると、「悪霊」はその人を投げ飛ばして、出てゆきました。しかし獲り憑かれた人は何の害も受けなかったのです。 『カペナウム』の人々は驚き 『何と、権威と力でお命じになると、『悪霊』さへ出て行ってしまう。』この方はどんなお方なのか?と驚き感心しました。 このようにして、『イエス様』は『悪霊に憑かれた人』(精神疾患や病気の人)を癒し、素晴しいお話を安息日ごとにされ、その噂が『ガリラヤ地方』一体に広がって行った訳です。(『悪霊』って本当に居るのか?(え?「エクソシスト」?)と恐ろしい感じを受けたり、『科学的出ない』という感想を持つ方も多いでしょうが、(^^;)映画の「悪魔払い」とは全然ニュアンスが違います。『悪霊』というのは、あのように襲ってくる化け物敵な存在ではなく、(特にプロテスタント)では、『悪霊』は見えない存在で、霊的な世界のサタンの仲間ですが、映画のような存在でなく、我々人間を騙したり、堕ち込ませたりして、『救いから遠ざけたり、不幸な世界に導く、あまり姿かたちの無い存在~と考えています。) え~「信じられない?」という方もおられましょうが、これはもう『聖書』に書いてある通りに信じるしか無い訳ですね。他に『イエス様』が悪霊を追い出したなどという記録は残されていませんから。残されてないのは、2000年も前であり、「イエス様」が『ガリラヤ』という都から遠い周辺地域で「宣教」された為です。大体、当時の「ローマ皇帝」が書いた物でも何も残っていません。銅像があるから、「ティベリウス皇帝」が居たのだ~と解るくらいです。その所をご理解下さいませ。それくらい古い話です。 『イエス様』がやはり『ガリラヤ』を選ばれたのは、『エルサレム』から遠方で、祭司達や「ローマ帝国」の目が届かない場所であったからではないか?と思われます。また、『ガリラヤ地域』の住民はガチガチのユダヤ教に支配された人々と違い、異教徒も住み、農業・漁業者が多く、自由な気風も持ち合わせ、心がやわらかい方々ではなかったか?と想像されます。
January 31, 2017

(第二テモテへの手紙4章2節)『みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。』渡辺和子先生の御本を買い、開いてみました。そこには、本当に素晴しい言葉の数々が並んでおりました。 30代前に修道院に入られ、米国に派遣され学位を取得、35歳で岡山の『ノートルダム清心女子大学』の亡き学長あとを継ぎ、何と『理事長』という責任多き立場に~(´`@)…何と「カソリックのシスター」というのは命令されれば、どこへでも行かなければならない様子で、「ここは嫌、あそこも嫌です~」などとお断りも出来ないらしい。本当に全身全霊、神様に献身していかなければならないのですね~!何と難しい事か? やはり、そのような『献身された方』だけが持つ事が出来る境地『荒野でしか咲く事が出来ない花』のような珠玉の言葉に感動しまくりです。(_ _|||)私などは肥沃の世に住んでいますから、とてもとても彼女のような境地に到達は出来ません。いつか『荒野へ出向き神とまみえる日々』を送りたいものです。 映画『沈黙~サイレンス』でも、二人のポルトガルの神父達は、神の信仰のみを頼り、未知の国『日本』へとやって来たわけです。素晴しい信仰ですね!彼らは行方不明の恩師を探し、彼の後を継いで、江戸幕府の「キリシタン迫害」真ただ中の日本へ『宣教』の為に来る訳です。すでに多くの神父が凄惨な殉教を遂げた場所に、出かける勇気とは、誰が持ちえるでしょうか? 『ロドリゴ神父』は最後は捨教するはめになりますが、誰が彼を責められるでしょうか?彼らは『死=殉教』も覚悟で日本に来た訳ですから。彼らが宣教する日本は、『キリスト教に全く無知の異教徒だった。全く文化も違っていた。』しかし、彼らは来たのです。『時が悪い!弾圧が激しい時だった』しかし、『時が良くても、悪くても、しっかりやりなさい。』~第2テモテへの手紙のこの御言葉のごとくに、彼らは『時が悪くても、宣教した。御言葉を福音を伝えに来た訳です』そして『福音の種を蒔いた。蒔いた所は「泥沼」!だ。(「ここ日本は「泥沼」だ。お前達が「キリスト」を伝えても、全く根ずかない」~代官「井上」は語った。) しかし、『泥沼』にも根をしっかり張った者が残った。そして、現代に花が開いているではないか! 彼らの宣教は無駄死にに終わったわけでは無かったヽ(*´∇`)ノ『時が良いとか?悪いとか?言わずにどんどん『福音の種を蒔かねばならないのです。』時が超悪い時でも、いつか『芽を吹くかもしれません』 『イエス・キリスト』は『ローマ帝国支配』というとても悪い時期に我々の世に来られ、『永遠の神の国の福音』を宣べ伝えられた!時は非常に悪かった。激しい迫害が起きた。そして無実の罪で『十字架の磔刑』に遭い、惨めに見えるほどの死を遂げられた。(チェコ・カレル橋で・・) ・・・その時代の者でこの時誰が彼こそが『メシヤ・キリスト』2000年後まで勝利を獲られ、世界に『大輪の平和と救いの花を咲かせる方』であると信じる事が出来たであろうか? そして『イエス・キリスト』は死を打ち破って”復活”され、後世の万民の『救済』を成し遂げられたのですヽ(*´∇`)ノ だから我々も『時が良くても、悪くても、科学の時代であろうが、ネットの時代であろうが?『福音』を宣教し続けなければならないのではないでしょうか?ヽ(*´∇`)ノ
January 30, 2017

只今上映中の映画『沈黙~サイレンス』を見てきました~!ちょっと”重い?映画”と思われる方も多いでしょうが、名優揃いで役者の演技も秀逸で、さすが巨匠『マーティン・スコセッシ』監督作品と唸らされる、かなりな見ごたえある映画でした。「クリスチャン」で無い家人も、『いや~結構見ごたえあって良かった~!』と感動していました。原作の著者はクリスチャン小説家の『遠藤周作氏』、調べてみると『カソリック教会の信者』さんで、1996年に他界された有名な小説家です。若い方は知らない方も多いでしょうが、私達アラフィー世代では有名な方です。(^^;)ちなみに文学嫌いな私は著書を読んだ事がありません(すいませ~ん!)◎『遠藤周作』~https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%91%A8%E4%BD%9Cという事で、『遠藤周作氏』の著作『沈黙』を原作とした映画化であります。『アカデミー賞』に有力な力作です。撮影を見ると、九州の雲仙、長崎県五島列島などでされているようです。俳優陣が素晴しく、主演は『アメージング・スパイダーマン』の『アンドリュー・ガーフィールド』結構イケメンでびっくり!「スターウォーズ」で「クワイ・ガン」をやった名優『リーアム・ニーソン』、『アダム・ドライバー』(なな何と、「SWフォースの覚醒」の『カイロ・レン』役!の『ハリウッド映画はお馴染の『浅野忠信』(今回も流暢な英語力で素晴しい演技を披露)、『窪塚洋介』~今回はキーパーソン的重要な役柄で秀逸な演技で素晴らしかったです。『尾形イッセー』~またまた悪代官役が凄かった。他上手い役者揃い、何とEXAILのKIRAまで出ている。*\(^o^)/*うお~!SW役者が勢ぞろいなんちゃって♪さっすが、スコッセッシ監督作品、豪華役者が勢ぞろいなのです~♪好御期待!この作品は、『日本への『宣教師ポルトガルのカソリックのイエズス会神父』と、江戸幕府の激しい凄惨極まる激しい『キリシタン弾圧』の下で悩み苦しみ耐える『日本の隠れキリシタン達』の苦闘を描く、結構珍しい『時代劇作品』だと思います~。【ストーリー】(ちょいネタばれあり)ポルトガルのイエズス会宣教師「ロドリゴ神父」(アンドリュー・がーフィールド)と「ガルペ神父」(アダム・ドライバー)の二人は、先に行方不明になっていて、捨教(キリスト教を捨てた)したと噂される恩師神父「フェレーレ神父」(リーアム・ニーソン)を捜し、宣教や迫害の状況を確認する為、「イエズス会」では二人を止めるのに、勇敢にも激しい弾圧の未知の国『日本』へ乗り込む。すでに多くの神父が日本で凄惨な『殉教』を遂げていた。_(ᅙωᅙ๑_ )_今回の映画では、前回のSWで悪の帝王『カイロ・レン』をやった『アダム・ドライバー』は、神の使徒として殉教する『聖なる騎士』なのだ~。そこで案内役の登場するのが、窪塚洋介扮する『キチジロー』と名乗るドロドロに汚れた日本の漂流漁師。窪塚洋介のこの『キチジロー』はかなりなキーパーソンで、素晴しい演技でした。ズバリ『イスカリオテのユダ』のような役です。マカオで『キチジロー』という何とも薄汚れた信用できない感じの日本漁師と、二人の神父は出会い、不安ながら「彼しか案内役は居ない」と、未知の国日本に、『唯神への信仰を頼り』に上陸するのです。 ここで映画ではしつこくは出てきませんが、二人の神父が多くの宣教師が凄惨極まる「殉教」を遂げた、彼らにとって『野蛮な未知の国、日本』に来る事が出来たのは、唯『神を信じる信仰』によっている事をお忘れなく。彼らは『神への信頼と信仰』によって、日本にやってくる訳です。1600年代にですよ。マカオからボロ船で来る訳なのです。素晴しい『信仰』ではありませんか?(灬´ิω´ิ灬) そこで日本に上陸した彼らを待っていたのは、恐ろしい弾圧に隠れて信仰を続ける、日本のけなげな『隠れキリシタン達』であった。村のキリシタンの人々は、再度「パードレ」(神父さん)が日本に来てくれた事を酷く感激し、皆大歓迎するも、「隠れていなければ、とても危ない。皆殺された。懸賞金が科せられていて、キリシタンだとすぐに密告される。」と二人に隠れる家を提供する。 二人の神父達は、隠れても「信仰」を続ける日本の素朴な農民の「キリシタン」達に心から感動を覚える。そのうちに、実は『キチジロー』がキリシタンであり、家族を惨殺された男だと知る。 そんな時に、長崎奉行の武士たちが乗り込んで来て、農民達が隠れて信仰していないか?取り調べに来、『踏み絵』をさせる。村の敬虔な仲間の数人は『踏み絵』を拒み、神父達の隠れている目の前で、海で磔刑にされてしまう。驚くべき弾圧の現状を自家に目撃し、『恐怖』と『怒り』に震える二人は『何故?神は彼らの窮状に沈黙されているのか?』と深く祈る! 『キチジロー』は『踏み絵』の時、恐ろしさから踏んだ男で、家族は踏まずに惨たらしく彼の目の前で焼き殺しにあった男で、彼は後悔の念から、「ロドリゴ神父」に「どうか私は罪深い者です。赦してください。でも信じています。告解させて下さい」と泣く。「ロドリゴ」は哀れに思い、彼に「赦し」を告げる。彼は感謝し再び「信仰」を誓うのであった。 頼まれて、遠くの『五島列島』にも出かけると、そこにも隠れて信仰を守るキリシタン達が沢山いた。二人は感激し、そこでも礼拝や洗礼や、告解を行い、皆に感謝されます。(五島列島は長崎県の離島ですが、今でも「カソリック教会」が多く、キリスト教徒が多い島で有名です) 二人は戸惑いながらも、彼らと共に礼拝を捧げ告解(懺悔)を聞き、洗礼をほどこし、山里の隠れ家で過ごす。昼間はずっと隠れていなければならない為、二人は段々ストレスが溜まり、焦る心が生じる。「早くフェレーラ神父を探そう」、二人があまりに窮屈さから外で寛いでいる所を、他の村人に発見されてしまう。 しかし、夜中にやってきたのは「敵」だ!と思った人々は、実は他の村の「隠れキリシタン達」で、自分の村へも是非来てくれ!と神父達に願う。しかし村の人達からは「わしらは他の村のキリシタンの者は知らない。信用出来るか保証が無い。行くのは辞めてくれ」とせがまれるが、二人は「どうしてもフェレーラ神父を捜したい為」、行く事を決断する。村人は、「一人は残ってくれ」と頼むので、『ガルペ神父』が一人残る事となり、お互いの安全を祈って二人は不安の中、別々の道を行く。 一人で「フェレーラ神父」の安否を聞きながら旅を続ける『ロドリゴ神父』しかし、行方は解らず、不安と焦りと飢えの中、再度「五島列島」に赴く。しかし、そこで見たのは、前とは違い荒廃した村であった。「キリシタン密告」がされ、奉行に散々に打ち壊された村が横たわり、驚異の失意に堕ち込む『ロドリゴ神父』、そこでまた隠れている『キチジロー』に出会う。不信感を抱く『ロドリゴ』だが、飢えと不安から彼を信用する。 そして湧水にありつき、のどを潤す神父の後ろに不穏な影が動く。奉行所の武士たちであった!「やはり、そうか!」、『ロドリゴ』は『キチジロー』を睨む!二人は長崎へ引き立てられる。 彼を待ちうけていたのは「井上様」(尾形イッセー)と呼ばれる長崎奉行の代官であった。(この方の悪代官役がまたまた素晴らしい)牢に入れられた「ロドリゴ」に、彼らはすぐに捨教(教えを捨てる)しろと迫る。「踏み絵」を踏まぬ村人を、「ロドリゴ」の目の前で斬首したり、次々と犠牲者をあげ、「お前がキリストの教えを捨てないから、彼らは殺されるのだ」と迫る。「悩み苦しむロドリゴ」は「彼らの命は大切だ!しかし主への信仰をどうして捨てられようか?殉教は宣教の礎だ!ああ、しかし彼らを見殺しにする自分は何だ!」と悩み苦しむ。 次々と人が現れ「ロドリゴ」を説得しようとする。通訳(浅野忠信)は、「フェレーラ神父は生きている。彼は「キリストの教えを捨て」日本人となり平和に暮らしている」と告げ、『驚嘆するロドリゴ、そんな筈があるんか?あの信仰深い恩師が?』と混乱する。さらに通訳は『お前が意地を張っていると、彼らは次々に殺され何の得も無い。お前がただ折れれば、お前も彼らも幸福になる』などと脅す。 また、代官の「井上」は、『お前達は日本を解っていない。この国にはこの国の宗教がある。お前達がどんなに頑張っても、「キリスト教」など根ずく国ではない。それが全く解っていない。お前が捨教すれば彼らも助かるのだ。』と今度は『ロドリゴ』を持て成し懐柔しようと苦戦する。通訳は『傲慢なタイプだ!あれは絶対に『転ぶ』(教えを捨ててしまう)』と豪語する。 色々な懐柔策や暴虐に、苦悩し自暴自棄になるほど苦しむ『ロドリゴ』、そこへ『キチジロー』まで来て、「私は裏切り者で、心が弱い者だ、でも赦されるだろうか?頼む告解して赦しをさせてくれ」とせがむ、怒りがこみ上げ「こんな薄汚い訳の解らない奴も主は赦されるのだろうか?」しぶしぶ「キチジロー」の告解を聞く。 それでも折れない『ロドリゴ神父』に、今度は彼の盟友『ガルペ神父』と自分をかくまった村の人々まで連れてこられ、『ロドリゴ』の目の前で、彼らは船から括られたまま落されてゆく!『辞めろ!』絶叫する『ロドリゴ神父』の前に、何と『ガルペ神父』は海に自ら飛び込み彼らを救おうとして溺死する。『ガルペ!やめろ!』と絶叫し半狂乱に泣く『ロドリゴ』であった。 そんなボロボロな牢の中の『ロドリゴ』はある寺に連れていから、そこで何と「フェレーラ神父」の変わり果てた姿と再会する。彼は着物を着て全くの「日本人」と成っていて『捨教』して、仏教に帰依していた。『どうして、あなたが?』驚く『ロドリゴ神父』に、自分が受けた凄惨極まる拷問「逆さ吊り」について語り、「お前も、いずれ捨教する。この国も良い所だ。私は結婚しこの国の者になり、「キリストの教え」を捨てた。悪い事は言わない、捨教しろ。でないと、お前は恐ろしい拷問に会う。」と説得する。 悩む『ロドリゴ!そんな事など出来ない。主を裏切るなど絶対に出来ない。しかし、彼らはどうなる。彼らが苦しむのを、何故主は沈黙して見ているのか?私の為に彼らが次々と殺される。いったいどうしたら良いのか。』その時恐ろしい『うめき声』が響くのを聞く。それは『ロドリゴ』が『捨教』しない為、彼の仲間のキリシタン達が『逆さ吊り』に遭う悲壮な悲鳴であった。『やめろ!もう、やめてくれ!』 『ロドリゴ』は決意した。『踏み絵を踏み、捨教しよう。私がすれば彼らが助かるのだ。』 そして、『イエス・キリスト』の絵を踏もうとした時、彼の心に突然言葉が響いた『主のお声だった』~『ロドリゴよ。踏むが良い。わたしはあながたがの苦しみを分かつ為に苦しんだのだ。わたしは沈黙していたのではない。わたしも同じ苦しみを味わっていたのだ。』・・・「踏み絵」を踏み、泣き崩れ倒れこむ『ロドリゴ』であった。 そして・・・』(^^;)最後までネタバレではね。(≧ω・)感想を申しますと、『踏み絵』これを踏む事に、プロテスタント・キリスト教では何の罪もありません。恐らく当時の「カソリック」でなく現在の「カソリック」では同じように何の罪にもなりません。何故なら、『神様、イエス様』は見えない天におられる、つまり神の国おられる方で、『キリストの絵』にはおられません。これは唯の「絵」なので、踏もうが破こうが、日本の「お守り」より天罰すらありません。この「踏み絵」事件が起きたのは、神父達が言葉と文化の壁で「真の信仰」を伝え難らかったのか?当時のカソリックの体制の問題で、もし「踏み絵事件」はプロテスタント」が来ていたら、「無かったと思われます。『絵』はあくまで『偶像』で『真の神』では無いので踏もとどうしようとどうでも良い。十字架ペンダントも付けていても、お守りでも何でもないから、キリシタンと捜し出されるのに、無理につける必要すらない。(これがプロテスタント的な考えです)当時「プロテスタント」は「宗教改革後」間も無い頃で、まだ赤ん坊状態でした。 この時代、1600年代の『江戸時代』に何故ここまで『キリスト教徒』が弾圧されたのか?それは、別にヾ(。>﹏<。)ノ日本人の『キリスト嫌い』とかでは全然なく、政治的な意味合いの物ではなかったか?と思います。江戸幕府は『鎖国』をしてました。彼らは、外国人との接触の方を実は超危険視してたのです。それは、日本は島国なので、外から外敵が攻めてくる事は少なかったのですが、『元寇』という中国が攻めてきた事件がありました。『江戸幕府』は、『キリスト教』自体よりも、『キリスト教』を通じて日本の入ってっくる外国人により、日本の情報が漏れ、諸外国が日本に攻撃して攻めてくののではないか?・・という事を危惧していたのではないでしょうか?(他にも例があり、コミックで読んだ、北海道の漂流漁師がロシヤにたどり着き、当地でもてなされ貴族の宮廷にも出入りし、西洋文化を体験する。彼は求婚者まで居たのに、自分の国日本に帰ると言い、良い待遇にも関わらず帰還(時は江戸時代)、ところが帰ってきた彼を待ちうけたのは『幽閉生活』だった。彼は死ぬまで閉じ込められ、「海外で見聞きした事を語るのを禁止された」!、また、有名な「三浦按人」などキリシタン少年4名が外国宣教師と共に苦難の旅をして、何とイタリヤ訪問、「ローマ法王」に謁見する。しかし帰還した彼らの多くが、苦難の生涯を送り多くが殉教した。)ヾ(。>﹏<。)ノこのように『江戸幕府』は完璧な『鎖国』を維持。諸外国の事情が国民に伝わるのも、自国の情報が海外に漏れるのも防いでいたのです。だから、貿易も『長崎出島』でのみ、限られた国だけと通商しました。外国人は日本に入れず、『出島』でのみ泊る事が出来、絶対になかなか日本に入れなかったのです。この物語の結末、「フェレーラ神父」などを、どうして閉じ込めて本国に送り返さなかったか?~~~これを見ても、『幕府』が『自国の情報が漏えいしたりする事』を超恐れていた様子が見えませんか?でなければ、そんな外国人の一人や二人、すぐに暗殺でも何でもすれば良い訳です。しかし、幕府は同時に彼らから、諸外国の情報を逆に仕入れいていた可能性もアリなのです。 『キリスト教徒』が信仰が深く団結して反乱を起こす事を危惧~それもあったでしょうが、ここまで農民を弾圧したのは、『キリスト教』でも『何教』でも良かったのです。『諸外国人』が日本に入ってくるのを防ぐ目的が見え隠れします。 『隠れキリシタン達』の多くが農民です。実は『江戸幕府』は『農民』を大切にしていたのです。彼らをこの映画のように『虫毛ら』のように殺したいとは思ってなかたた。「踏み絵」も「踏んだら」すぐに解放されたのです。『士農工商』で、『農民』は武士の次の身分です。これはダテでなく、『農民』は「日本人の食を支える大切な役目があり、この映画の『長崎奉行の代官」も実は『農民一揆』という事も危惧して、「農民」のご機嫌も伺っているのです。彼らを怒らせるままに苛めてはいけない。こんなルールも見え隠れします。 こういう政治的な裏側もバックに考えると、映画ももっと面白深くなります。 この映画には『日本人のキリスト教観』を皮肉った言い回しが、『チクリ』とされており、面白いですよ。 ( `Д´)ノ ε=。 ゚(゚ノ´Д`゚)ノ゚。 例えば、◎「フェレーラ神父」の言葉『この国の者に、『キリスト』を語っても、彼らは正しく理解しない。彼らには元からの宗教観があり、我々とは全く違う。彼らに『天の神』と教えても、彼らは『太陽』の事くらいにし思わない。この国には『キリスト教』は根ずかない!彼らにはその文化が無い!正しく理解していないのだ。』◎代官「井上」の言葉『お前達が、この国に『キリスト教』を植えても、絶対に根ずかない。この国に『キリスト教』を植えると『根』がすぐに腐ってしまうのだ!非常に大上の言葉は超痛い言葉ですね(日本のキリスト教を皮肉った)、つまり日本には元々『キリスト教文化』が無いので、植えても『根』が腐る。『根』というのは切な部分で、これが無いと植物は死にます。つまり『土台』が腐る!・・・『土台』である『キリストの教えが歪んだ教えになり、腐った教えになる』 というのは、昨今の『自由主義神学』の反乱で、もともと「キリスト教」文化が乏しい日本では、『大切なキリスト教の中心教義』が勝手に歪められたり、全く『救い』の無い教えに変わっていたり・・という現状がある。「キリストは居なかった」とか??「十字架などなかった」とか・・「ユダは救われた」とか?? 変な事言っている牧師がたまにおりますね~(笑)これも、もともと「キリスト教文化」に2000年間も浸透した諸外国と、全く仏教思想しかない「日本」の違いは明白でがある事を皮肉った会話ですね~。凄い!『キリストの処女降誕』~これも欧米だは当たり前のように信じられている。日本人が神社で当たり前のように拝むのと変わらない。~、(ノ◇≦。) !!確かに現在でも『キリスト教徒』は日本の超少数派!根ずいたとは言い難い状態です。 というか、もしかした原作には無い言葉で、外国人はそのように日本を見てるのかも~。(ちょっと怖い)◎ 『キチジロー』はまるで、『イスカリオテのユダ』という役回りですね。心が弱く欲望に負け裏切りをする、でも『キリスト』を捨てきれはしない。この人を『ロドリゴ神父』は最後には呆れてしまい、「このような薄汚い人間も主は救われるのであろうか?」などと言っている。しかし、最後には、『実は自分もユダ』であった事を悟り、『いつも一緒に居てくれてありがとう』と言っているのだ。◎ 『通訳』である浅野忠信は『ロドリゴは傲慢なタイプだ。あれは絶対に転ぶ』ご豪語。ここで理解せねばならない事は『傲慢』~『俺は全く偉い神の信仰の人』だと傲慢になる事の危険性ですね。 『ロドリゴ』は信心深い神父だった。『神様一筋、俺様ほど信仰深い者が居るか!』と傲慢になっていたのかもしれません。しかし、『キチジロー』は違う。彼はサイテーな不信仰者だった。だから『俺はダメな人間でダメな信仰者だ』と理解してた訳で、彼は実は『謙虚』だとも思われる。『自分の弱さを理解してる』訳だが、 『ロドリゴ』は『傲慢になって自分の弱さを理解して居なかった。』だから、『通訳』は『あんな奴がすぐ転ぶ!すぐに裏切る』と知っていた訳です。凄い洞察ある部分ですね。『傲慢』とは『金持ち』ばっかでは無い。『信仰の傲慢』もあるのだ。『自分は立派なキリスト者で非の打ちどころが無い』それこそが『傲慢』なのですね。 何故、『イエス・キリスト』が立派な人物でなく、無学の唯人ばかりを『使徒』に選んだのか?の理由がここにあります。『偉い人』はすぐ『傲慢』に成り易いのです。しかし、『しょうもない人は、自分がしょうもない唯人、罪人と知っているから、謙虚』なのです。 何故『ヤクザの人が回心した牧師になれるか?それは最も謙虚だからでしょう、俺はサイテーな人間だと罪人だと理解してる』からなのです。 使徒パウロは『私は人殺しで、罪人の頭ですと言っっています。』彼はクリスチャンの迫害者であったのです。だから使徒に選んだのです。 『イエス様』は『傲慢=俺様こそ!私こそ!』を嫌い、『謙虚=私なんて、俺のようなつまらん者なんて』という方が大好きなのです。『心の貧しい者の幸いです』『キチジロー』は本当にダメダメダイテー人間だった。だが、失敗に失敗、罪に罪を犯しながらも最後まで『キリスト』を捨てない。 『ロドリゴ』は転んだが、彼は転ばなかったのです。ここにも、教訓が隠されています。『心の貧しい者であれ!』~「私は聖書学校で学んだエキスパートだ。あんな平信徒とは格が違う。聖書理解が凄いのだ。歴史的に調べてキリストの史実は少ない。居なかたと考えられる。これが私の偉い見解だ」などという方が本当に、すぐ転びますね(爆笑)私など大した信者ではありませんと謙虚な「平信徒」の方が転びません! 皆様、私のようなダメ人間、意思が弱く欲望に弱く、皆に迷惑ばかりけける人だと思っている方、私はDV人、ひきこもり、脱落者、つまらん男、ヤンキーだった~こんな方は実は「神様から祝福されてます」あなたのような『謙虚な人』を『イエス様』は弟子に選びたいと欲していますから。『イエス様は「偉い人・立派な人」よりも、貧しい、ダメ、つまらん、病人、そんな弱い謙虚な方を愛する方なのです。』◎『映画のように神様は沈黙してるだけなのか?』~『本当に神様は居るのか?』という命題ですが、『沈黙』の命題はここですね。 この『沈黙される神』を命題にするところに、すでに『不信仰』の香りが漂う訳です。『ロドリゴ』も『何故、神はお答えにならないのか?何故彼らを見殺し、沈黙しているのか?』と問い悩みます。恐らく多くの人が『何故神が居るなら災害を野放図にしているのか?何故多くの人が死ぬのを放置するのか?』と問うでしょう。 『神様が沈黙しておられる!』と思った事はありませんね。神様はいつも『聖霊様』により働かれている。困難に際する者に平安を与え、勇気を与え、常に「励ましと力」を与えて下さるのです。「ロドリゴ神父達」が未知の国・日本に来れたのは、神様の支えがあった為で、彼らが勇敢だったからではありません。 ( ಠωಠ)しかし、私達は平和の時代に生まれ、彼らのような迫害にも遭った事が無いので、そんなお気楽な事が言えるのかもしれません。彼らのような極限の迫害を受ける時には、誰でも『何故、神は助けてくれないのだろうか?』と困惑するでしょう。しかし、彼らの働きは全く無駄では無かった訳で、『長崎や長崎五島列島には、沢山の「隠れて信仰を守り続けるクリスチャン達が残っていて、『キリストの信仰』が脈々と血脈のように続いているのです。彼らは苦難の内に『種』を蒔き、それは現在実のっている訳です。『神様の大命令は宣教』です。『すべての人の救い!』なのです。 初代教会時代にも「ローマ帝国」の激しい迫害の中、イエス様の12使徒達、使徒パウロ、バルナバも殉教しています。ノン・クリスチャンの方には、『何でそんな犬死にをする』と驚かれるでしょうが、彼らの『磔刑にされても「信仰」を捨てない』強固な『信仰心』がさらに、多くの人々の感動を呼び、『キリスト教人口』は爆発的に増えて行き、この『殉教者』こそ、現代の『キリスト教の全盛』の『礎』となったのです。 『イエス・キリスト』自らが模範ともなられ、『神の為に己の命を投げ出し、万民の救い!』を達成されました。『殉教者』にならないで良い事は幸いですが、彼らの犠牲なくして『世界宣教』は完成しなかった訳です。迫害にすぐ「キリスト」を捨てるようじゃ、誰も感動して『キリスト教』を選択しません。『沈黙』の命題『何故?神は沈黙しているのか?』『沈黙』などしていない。『イエス様』は彼らと一緒に苦しみ、彼らの涙と苦悩を味わい、それでも黙って『未来のキリスト教の礎の為』に黙しておられたのであります。『イエス様』は『沈黙』していたのではなく、超働かれていた。彼ら『勇敢な宣教師達、けなげな無学のキリシタン達』と共に、涙を分かちあい苦しみ、彼らを天に迎えつつ、働かれていた訳です。 ( ゜Д゜;)!?しかし、神様は見えないので、「仕事されているか?居るのか?居ないのか?解るわけないっしょ」と言われるクリスチャンで無い方も多いでしょうが、『神様は御心のままに世界と人を造り、御心のままに進まれるのです。』 我々「クリスチャン」は聖霊様を通して、いつも「イエス様」が共におり、多くの「祈りの答え」と「平安、励まし、力ずけ、希望」を与えられています。神様はけして『沈黙!』される方ではありません。私達と共に居るのです。でなければ、「キリスト教」など皆とっくに捨てています。 私は『神様が沈黙されているのを、感じた事がありません。(^^;)たまにありますが(笑)」~そんな時にも神様は状況を判断し御心を持って、傍観しているのですが、それは神様が全能であり未来を知っているので、今の苦難が後に祝福となる事を解ってしているのであります。苦難や悩みの後に、あれは『本当に良い人生の学びに成った』と感動する事は多いです。 『神は沈黙されている』と思った時は、「不信仰」になっている時ですね。『神様は状況を見て、私にずっと良い事をして下さろうとしている。』と『神様の御心を信じて待つ!』この事が大切だと思います。 (人◕ω◕)ぁりヵゞ㌧㌧♬きっとより良い『道』が開かれる筈です。この『信頼して待つ』という事に焦り「不信仰」になると、神様の御計画が崩れ、「焦った結果貧乏クジを引いてしまう』というちょっと損な結果になります。大切なのは『神様が絶対に良くして下さる』と信じて待つ事です。 何事にも時があります。聖書記者は『神のなさる事は、時に叶って美しい』と語っています。そして『御心には従います。「神の国」は約束されているので、「死ぬべきなら死ぬ。生きて活躍すべきならする」~「生きるにもキリスト、死ぬにもキリスト」と『使徒パウロ』は言って居ます。 アリガー(*´ω`*)-トォにしても良い映画でした~ありがとう!(原作読んでない私的感想ですので、御了承下さい。また、私は聖書の専門家ではありませんので、他の専門の「牧師様、神父様」にさらに深いお話をお学び下さいませ)◎ちなみにこの映画を見た「ノン・クリスチャン」の反応ですが、・感動したが、神など観念的な存在なので、答えてくれる筈がない。・役者の演技に感動した。「踏み絵」などすぐ踏んでしまえば良い。(クリスチャンで無い家人の意見)・「神父」が殉教する!悲惨だがその為に「キリスト教」が広まったのだから、必要な事ではないか?殉教は自分で選ぶのだから自己責任だ。そんな人も居るのだろう。宗教の為しかたがない。などなど、でやはりこれが映画が言う『この国には、なかなか「キリスト教」が根ずかない。という事でしょうか?もともと、「仏教」自体何となく神が居ない、神社の神は人が造った神、「無神論者=日本人」なので、なかなか『天地創造の神』概念の理解が出来ない。欧米では日本の神社同然に普通に『神の存在』が理解されている。(2000年のキリスト教支配の歴史)この違いは凄まじいですね。すでに、牧師すら職業牧師が結構いる。(自由主義神学が氾濫し、「キリスト」は居なかった。神など人が造った存在だ。などと日本的考えに毒され易い。(まず「処女降誕」「復活」などが普通信じられない人が大量という事です。)
January 29, 2017

(ガラテヤ人への手紙2章16節)『しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、という事を知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりも居ないからです。』『ガラテヤ教会』が、どこにあったか?は緒説があり確定されていないようですが、「小アジヤ」(現トルコ北部)にあった教会で、ここら辺は欧州のケルト民族が南下して住んでいたのでは?とも言われています。使徒パウロが『ガラテヤ教会』に書いた手紙であります。『人は律法の行いによっては義と認められず、ただ『イエス・キリスト』を信じる信仰によって義と認められる』とは、「人間は『律法の行い』=『正しい行い』によっては『義』と神様に認められない。『イエス・キリスト』を信じる『信仰』によってのみ『義』と認められ救われる」という『信仰義認』と呼ばれる『キリスト教の中心教義』であります。これは『人間の魂は罪の中にあり、いくら『律法』通りに正しい行いを大量にしても「救われず」、『イエス・キリスト』を信じる『信仰』によってのみ『義』と認められ(正しい人だと認められ)救われる」という事を言っています。『人間が自分は立派な人物だ!と思い、沢山の立派な行いをする~ボランティアしました~、人命救助しました~、寄付も多額にしました~、社会で立派な人と言われている~。このように『立派』な行いをしても『救われない』!『何でですか?立派な人じゃないか?』と怒る方が沢山おるでしょう。しかし、その人は『神を信じて無い』のではないでしょうか?自分は立派だ!と思っている。しかし、『神様』など信じない。これでは、どうして天の神様に救って貰えるのか?であります。『聖書』はまず、『人間が神様に創造された』という事から始まるのです。大体『神様が居なければ、『救い』などある筈もなく、『悪人』だろうと、『善人』だろうと関係なく『死んだら終わり!』という事です。私も親が亡くなった時”人は死んだら終わりや!”と思いました。昨今でもTVでどなたかが、そのように嘆いてました。”大俳優だろうと何だろうと、死んだら終わりや!”と! ~その通りで『神様』が存在しなければ、『死んだら終わり!』なのです。良い事を沢山しようが、超悪人であろうが、皆死んだら終わり。という事なのです。どこに『救い!』があるのでしょうか?じゃあ何やっても一緒ではないか?なのです。『神様=メシヤであるイエス・キリスト』を信じる信仰によってのみ『救い』はあるのです。 何故なら、『初めに神ありき!』ではないでしょうか?『神様』も居ないのに、誰が救ってくれるのでしょうか?その為『神様』は『信じる者のみ救われる』と言われるのです。最初から『罪』とは『神を信じない行為』なのであります。『神様』など認めない。これこそ『罪!』、自分を創造した方など居ない=こう思う事が『罪』なのです。だから、大量に立派だと思う行いをしても、一体『神』を認めない人を誰が救ってくれるのでしょうか? ところが、『ユダヤ人』はモーゼが与えた『律法』を守れば『救い』があると思っていました。 それは後の事で、『ユダヤ人』はもともと『永遠の救い』など想定しておらず、『律法』を守れば『神様に喜ばれ、祝福され良い人生が送れる』というのが本来の『ユダヤの思想』でした。彼らは「死んだら黄泉に下り、最後の審判の日に皆救って貰える」と言う程度の信仰しか持っていませんでした。もともと、『ユダヤ人』が神様に従って大量の『律法』を守り、祭儀を行ったのは、『救い!』より、『祝福された人生』の為でした。 しかし彼らは『メシヤ=救世主キリスト』を待ち望むようになるのですが(預言書により。ローマの圧政に苦しめられた為。)それは、『自己犠牲で罪を贖うメシヤ『イエス・キリスト』でなく、モーゼやエリヤのように、ヒーローのように自分達をローマから救ってくれる「メシヤ」でした。だから、『キリスト』を受け入れなかった訳です。 しかし、『律法』を完璧に守る事がいったい人間に出来るのか?そんな(@_@;)「無理!」な事をやり続けてたら、「精神疾患」か、「ストレス障害」になるのが落ちであります。普通の「人間」に、『聖人』のような行いを一生続けろ!とか言われても、誰が出来るのでしょうか?~絶対悪口は言わない、絶対憎んだりしない、絶対自己中にならない、絶対攻撃しない、絶対暴飲暴食しない、絶対贅沢三昧しない、絶対「愛」だけの人、絶対アンドロイドのように正しい事以外しない~~そんな人が居るでしょうか?『誰が神の基準の”正しさ””聖さ”』を持ちえるのでしょうか? 無理であります!人は完璧な『聖人』になど普通になれません。 だからこそ、『人は行いによっては「神の国」に入れません』、 『イエス・キリストの十字架の罪の贖いによってのみ、『罪』が赦される』訳なのです。 もともと(; ・`д・´)『神などおらん!』という方に『永遠の救い!』などある筈もありません。『死んだら終わり!』です。(キリスト教では最後の審判、ゲヘナ行きがありますが・・) だから 『イエス・キリスト』を信じる『信仰』によてってのみ救われるのですΣ(,,oΔo,,*)「すいません?オシャカ様とか、神社様とか救ってくれないんですか?」 (答え)『シャカは「悟り」を開いた人の総称で、唯の「人間」です。また神社は人が勝手に造った偶像の神で、本体がありません。だから『永遠の救い」などは存在しません。『信じない者でなく、『イエス・キリスト』を信じる者になりましょう!』 『神の子』と呼ばれた方はこの方しかおられません。
January 28, 2017

(♡´ω`♡)寒い冬にお勧め♪『渡辺和子さん』の心温まる”深イイ著書”です。AMAZONでどうぞ~♪本当にお話からも素晴しい方でしたね。★『置かれたところで咲きなさい』~140万部を超えるベストセラー!https://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%92%8C%E5%AD%90&rh=n%3A465392%2Ck%3A%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%92%8C%E5%AD%90★『幸せはあなたがきめる』~渡辺和子著https://www.amazon.co.jp/%E5%B9%B8%E3%81%9B%E3%81%AF%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AE%E5%BF%83%E3%81%8C%E6%B1%BA%E3%82%81%E3%82%8B-%E6%B8%A1%E8%BE%BA-%E5%92%8C%E5%AD%90/dp/4569784992/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1485618881&sr=1-2&keywords=%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%92%8C%E5%AD%90★『人として大切なこと』~渡辺和子著https://www.amazon.co.jp/%E3%81%B2%E3%81%A8-%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E5%A4%A7%E5%88%87%E3%81%AA%E3%81%93%E3%81%A8-PHP%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B8%A1%E8%BE%BA-%E5%92%8C%E5%AD%90/dp/4569664288/ref=sr_1_4?s=books&ie=UTF8&qid=1485618881&sr=1-4&keywords=%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%92%8C%E5%AD%90★『スミレのように踏まれて香る』~渡辺和子著https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%83%AC%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E8%B8%8F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%A6%E9%A6%99%E3%82%8B-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%92%8C%E5%AD%90/dp/402261739X/ref=sr_1_6?s=books&ie=UTF8&qid=1485618881&sr=1-6&keywords=%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%92%8C%E5%AD%90★『美しいひとに~愛はほほえみから』~渡辺和子著https://www.amazon.co.jp/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E4%BA%BA%E3%81%AB-%E6%96%B0%E8%A3%85%E7%89%88_%E6%84%9B%E3%81%AF%E3%81%BB%E3%81%BB%E3%81%88%E3%81%BF%E3%81%8B%E3%82%89-%E6%B8%A1%E8%BE%BA-%E5%92%8C%E5%AD%90/dp/4569698522/ref=sr_1_14?s=books&ie=UTF8&qid=1485618881&sr=1-14&keywords=%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%92%8C%E5%AD%90その他の先生の本はこちらです~!(AMAZON)https://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%92%8C%E5%AD%90
January 28, 2017

(ルカによる福音書4章16~30節)『それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読をしようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてあるところを見つけられた。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれる事を告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵の年を告げ知らせるために。』 イエスは書を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいる皆の眼がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょ う、聖書のみことばが、あなたがたが聞いた通りに実現しました。」みな、イエスを褒め、その口から出る恵の言葉に驚いた。そしてまた、「この人はヨセフの子ではないか。」と彼らは言った。イエスは言われた。「きっとあなたがたは、、『医者よ。自分を治せ。』という喩えを引いて、カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。」また、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。預言者は誰でも、自分の郷里では歓迎されません。わたしが言うのは真実の事です。エリヤの時代に、3年6カ月の間天が閉じて、全国に大飢饉が起こったとき、イスラエルにはやもめが多く居たが、エリヤは誰のところにも遣わされず、シドンのサレプタに居たや もめの所だけに遣わされたのです。また、預言者エリシャの時に、イスラエルには、らい病人がたくさん居たが、そのうち誰も清められないで、シリヤ人ナアマンだけが清められました。」これらの事を聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ちあがってイエスを町が立っていた丘のがけのふちまで連れてゆき、そこから投げ落そうとした。しかし、イエスは、彼らの真ん中を通り抜けて、行ってしまわれた。』え~『イエス様』の素晴しさ「神の預言者」「奇跡を行う偉大な預言者」であるという噂はすでに、イエス様の古郷『ガリラヤ』では広がっていました。当然、イエス様が育ちになった『ナザレ』の町?村?にも伝わっておりました。すでに御存じのように『イエス様』は『大工のヨセフ』の長男であり、御兄弟も6名ほどおられ、『ナザレ』でお育ちになられた訳です。当時の慣習から、長男である『イエス様』は父親の職業と家を継ぎ、おそらく『大工』をされていたと思われます。★『大工』~_(ᅙωᅙ๑_ )_妙な本に「大工=テクトーン」は物ごい以下な職業などと、超いいかげんな記述がありましたが、『テクトーン』とは『木工細工』をする仕事で、当時の生活用品(テーブル、椅子、棚、食卓の物、家のさまざまな部品)を作る方々で、所謂『匠(たくみ)』であり、必要不可欠な人々であります。『イエス様』『匠(たくみ)』な方だったんですね~かっこいい!*\(^o^)/*ランクとしては農業者、漁業者と同じ程度のランクで、超身分が高くも低くもありません。某講解書では、「ナザレ」の近隣に『セフォリス』など大都市があり、そこにはローマ帝国の意向で「図書館、浴場、他施設」などの都市の施設が建設されたそうで、もしかすると「ヨセフやイエス様」もそのような都市での仕事が沢山あって、『木工細工人』の仕事に励んでいたのかもしれません。お子様も7名、大家族、収入もそれなりにあったのではないでしょうか?しかし、父「ヨセフ」は早くに他界したという予測がされてますので、後継ぎの「イエス様」もこの家業に勤しみ、家族を支えたていたのではないでしょうか?◎『セフォリス』(チッポリ)以下のブログの写真の下の方に「セフォリス(チッポり)」の広大な遺跡が載せられています。~http://www.sinsei.org/israel05/galilaia02.htm★『ナザレ』~ガリラヤ湖の周辺には数多くの町村が存在し『ガリラヤ』の人口は推定15万人で、多くが「カペナウム」(ペトロの出身地)のような小さな漁村、村落が多く、中に大都市『テイベリア』『セフォリス(チッポリ)』などがあり、『ティベリア』は当時の皇帝『ティベリウス』の名前にちなんでつけられた、ヘロデがローマ皇帝に献呈した『大都市』であります。現在は豪華ホテルが立ち並ぶ『ガリラヤ湖畔』の温泉リゾートとなっています。(下はティベリヤ、温泉が出ます)『ナザレ』はそんな中の農村の一つと考えられます。イエス様はそこでお育ちになりました。現在は何といっても『ナザレのイエス様』の有名な聖地で発展して大きな街になっています。(下はナザレ)ここで、ちょっと『ガリラヤ』地方をクローズアップしてお話しましょう。『ガリラヤ』は当時『辺境のガリラヤ』などと呼ばれ、「エルサレム」の人々からは蔑まれていたと言われます。それはこの地が多くの多民族に支配された歴史があったからです。★『ガリラヤ地方』~BC1000年頃のダビデ・ソロモン王の後、「イスラエル」は南北に分裂、『ガリラヤ』は実は北部イスラエルの一部でありました。この「北イスラエル」は後に「アッシリヤ」滅ぼされて滅亡します。(これが「イスラエルの失われた10部族」、この為「北部イスラエル」の住民は連行され歴史から消えました。その後は「南部イスラエル」がユダヤの中心で当然『エルサレム』もここにあります。 ところが、『ガリラヤ地方』は「アッシリヤ」の属州とされながらも、『ユダヤ教』を守る地域として存続してゆくのです。(当時は「サマリヤ」などは「アッシリヤ」の居住民政策で5種の多民族の融合させられたのですが、『ガリラヤ』は融合政策の跡が無いらしく、従来の「ユダヤ人集落」として存続していました。~とされてます。(古い歴史については推測の域が多い事を御理解下さいね)何かどこでもガッツ!(笑)٩(ˊᗜˋ*)がある『ガリラヤ人』でありますね!(イエス様時代は反骨精神に溢れ、革命軍の巣窟でしたし)その後有名な「アレクサンダー大王」がやってきたり、「ペルシャ」に支配されたり、次々に支配者が変わり、ギリシャの「ヘレニズム文化」にも浸食されます。その為強固なユダヤ文化を守る『南部イスラエル』(エルサレム中心)と違い、多くの文化、文明にさらされた地域であった訳です。『エルサレム首都の南部イスラエル』は『ハスモン王朝」に支配され、後に『ガリラヤ』も『ハスモン王朝』の支配下に入り、イエス様時代の『ガリラヤ』にと続く訳であります。(『ハスモン王朝』とは、ユダヤのマタテヤ、ユダ、ヨナタンが始祖で、ユダヤの王朝、イエス様時代の『ヘロデ王』もこの流れだが、『ヘロデ王』はアラブ系の人であり、純潔ユダヤ人ではなかった(ローマの傀儡政権となっていた))◎「ハスモン王朝」~https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%B9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%9C%9Dこのような歴史から、「エルサレム」の純潔ユダヤ人達から、『辺境の地・異教徒の地ガリラヤ』と侮蔑的に見られ、「純粋でないユダヤ人」であるかのように見られていた『ガリラヤ地方』であったのです。異教徒のサマリヤ人も「ガリラヤ地方」の人々で、多くの異教徒や、異邦人も住んでいた訳です。その為『ガリラヤからはメシヤは出ない!』という偏見を「エルサレム祭司」達に強固に持たれていました。つまり『ガリラヤの者』など異邦人と混じった純潔でない「ユダヤ人」(笑)(まるでハリポタの「汚れた血」であります(´;ω;`)ウゥ…)ところが、『イエス・キリスト』がお育ちになり、宣教の中心とされたのが、この辺境の『ガリラヤ』地方!『イエス様』が美しい『ガリラ湖』のまわりの農村、漁村で宣教を開始された。そして、小さな頃から、南部「エルサレム」と違って、自由でヘレニズム文化や異教文化に触れる、*\(^o^)/*実はグローバルな(色々な人種がそろう)地方の自由で闊達な気風の中で、お育ちになった事は特記すべき事であろう。その為か、この『ガリラヤ地方』は確かに反骨精神に溢れ、「ローマ帝国」に反乱を企む分子の巣窟でもありました。それが『熱心党(ゼロータイ)』で、後にその反乱によりユダヤは滅亡します。ここら辺から、またまた「イエス・キリスト」は革命家ではなかったか?という珍説が登場する訳ですが、反骨精神と言っても、「バプテスマのヨハネ」「クムランのエッセネ派」のように、「宗教の熱心」から改革を試み新たな道を開こうとしたここら人も居ましたから。武装革命とばかりも言えません。また、『イエス様の御両親ヨセフ』はもともと「ナザレ」に住んで居ますが、『南部イスラエル』から『ガリラヤ』への移民政策が行われた事があるので、『ヨセフ』の親は元は『ベツレヘム』の出身で、『ガリラヤ』へ移民したのではないか?とも言われています。今日の聖書の箇所はこの古郷『ナザレ』の『シナゴーグ』で、イエス様が説教をされた時の事であります。当時は『ユダヤ教』の地方の中心はこの『シナゴーグ』という『ユダヤ教会堂』で行われていました。重要な祭儀には『エルサレム』へ出向く「ユダヤ人達」も、普通は安息日に『シナゴーグ』という地方会堂があり、そこで礼拝や、律法学者の説教を聞き、お祈りをしました。また、地方のこの『シナゴーグ』には、「会堂長」などが取り仕切っており、『説教』は実は誰でもする事が可能でした。例えよそから来た人でも自由にお話出来たのです。その為、『イエス様』の宣教はこのような『ガリラヤ』の『シナゴーグ』を中心にされました。もちろん野外でも宣教をされています。『シナゴーグ』に居たのは、(『祭司』これは「エルサレム神殿」にした居ませんので、)『律法学者』や『パリサイ派』であります。『サドカイ派』というのは『富裕層や祭司』が多く、『パリサイ派』は民衆に指示され地方の『シナゴーグ』に多かったそうです。また、あの『クムラン教団のエッセネ派』これも「クムラン」以外の街にも住んでいたそうです。( ಠωಠ)後に『イエス様』はこの『律法学者』や『パリサイ派』と激しき対立し「律法学者・パリサイ人=白く塗った墓」などに厳しく喩えておりますね。また、『シナゴーグ』は礼拝のみでなく、『子供達の学校』としても機能しており、ここで読み書きや『律法』を、『律法学者』に教えてもらいました。当然、『イエス様』も子供の頃はこの『ナザレのシナゴーグ』の学校で読み書きを習い、『律法』など教えてもらった筈です。地方『シナゴーグ』は、自治会の組織のような役目もあり、11歳頃になると男の子は『シナゴーグ』の正式メンバーになり、地方の自治や正しい行いを守らせ、過ちを犯した者に懲罰を与える権限も有して居たのが『シナゴーグ』でした。乁(˙ω˙乁)ウちょっとした自治会ですね!(下はカペナウムのシナゴーグ遺跡)という事はですよ、『イエス様』を会堂の皆さまが御存じだった筈なのです。(*´꒳`*)あれは「大工のヨセフ」んちのお子様ね!という訳で、小さい頃から皆が知っていた訳です。その古郷の『シナゴーグ』で『大工のヨセフんちの御長男、イエス』がお話をなさる~「何でも立派なお話をされ、奇跡も起しているそうな~?」と興味深々に皆が集まった事でありましょう。当然イエス様の御兄弟達もメンバーでしょう。(ू•ᴗ•ू❁)「どんな立派な話をするのか?」「何か奇跡でも面白いもの見せてもらえるのか?」そんな物見遊山なナザレ人が沢山つめかけていました。そこで、『イザヤ書』が手渡され、『イザヤ章61章1~2節』の預言が読まれ、イエス様は巻き物を巻いてお返しになり、着席され、『今日、『聖書の御言葉』があなたがたが聞いた通りに実現した』と宣言されました!この「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれる事を告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵の年を告げ知らせるために。』と御言葉は、特に『メシヤの到来の預言』と言われる所でありました。それを『イエス様御自身』が『今実現した!』と宣言されたのは、『私こそここに言われている、メシヤ、救世主である!』と宣言されたという事なのです。皆は驚き『イエス様の恵溢れる御言葉』に驚嘆しました。しかし、『あれはヨセフの子じゃないかッ?』と訝る人々も居たという事です。当然幼少期から知っいる御近所の人々は、「何だヨセフの息子のイエスじゃないか?メシヤなんて何を言うとるんじゃ( ゜Д゜;)!? となった人もいて当然な状況でしょう。あなたの御近所の知ってる方が「私は救世主である」などと言ったら、「はあ?頭おかしくネ?」となりますよね。・・・・そのように、当時の『ナザレ』の村の人々は素晴しいが『疑心暗鬼』な心情でした。『イエス様』はその物見遊山で疑心暗鬼な地元人達に、お話され『きっとあなたがたは、『医者よ自分を治せ』という言葉を借りて、「お前がメシヤなら、メシヤらしい事をやってみろ」と言うでしょう。カペナウムで成された奇跡でも見せてくれ」と言うのでしょう。』とおっしゃられ、多くのそのよううな気持ちの会衆の様子を察して言われました。『ナザレの人々』はやはり、良く知ってる『イエス様』がまさかの『メシヤ』となかなか信じられなかった訳であります。そこで『イエス様』は、『預言者エリヤの時代に3年6カ月も雨が降らない大飢饉があった時も、エリヤはイスラエルの多くの「やもめ」には遣わされず、「シドンのサレプタのやもめ」(シドンは地中海ぞい現レバノン方面の町)にだけ遣わされ、預言者エリシャの時代には「らい病人」はイスラエルには沢山いたが、シリヤ人ナアマンだけが癒されました』という事を喩え、『預言者は自分の郷里では歓迎されません』とぴしゃりと語られたのです。「エリヤ」「エリシャ」は有名な預言者ですが、「シドンのサレプタのやもめ」はシドンとは現在のレバノンで「イスラエル」でない地域であり、「シリヤ人ナアマン」この人も(笑)「シリヤ人」で「ユダヤ人」では無い訳です。つまり、『預言者は郷里では歓迎されない。だから『私、イエス・キリスト』は『異邦人』(ユダヤ人で無い人々)に遣わされるのです。』と、『イエス様』が異邦人にも宣教される事、異邦人が『救い!』にあずかる事を実は、暗にお話になったのです。この『予言者は郷里では歓迎されない!』という言葉は、すなわち『メシヤであるわたしは、イスラエルでは歓迎されず、迫害され十字架に付けられる!』という事を暗に語った言葉でもあるのでは、ないでしょうか?だから、『わたしは、あなたがたイスラエルの家より、異邦人に遣わされる』という意味でもある気がします。これを聞いた人々が怒り狂ったように、『ルカ伝』では書かれていますが、他の「マタイ福音書」では『皆があれはヨセフの子だ』と不審がったので、そこでは奇跡の業を行われなかった。・・と記されています。ところが『ルカ福音書』では、人々が怒り、『イエス様』を町の外へ追い出し、崖のふちから落そうとした!(@o@ !!~と過激な表現で記されています。しかし、まさかの郷土人である同胞の『イエス様」を「殺すそう!」とまでするか?ちょっと疑問な記述ではあります。ユダヤ人は同胞意識、同胞愛が強い民族なので、幼い頃から顔見知りで家族、兄弟も古くから見知っている『イエス様』を、怒ったからといってそこまではしない気もしますね。もちろん『イエス様は皆の真中を通りぬけて行ってしまった』訳でありますが。(すごい高い崖ですね。マジですか~)この表現も面白ですね。怒って崖から落そうとする人々の真中を通って行くとは、どのように通り抜けたのか?(素知らぬふりで涼しそうに通りぬけたのか?イエス様らしく不思議な業で何故か通り抜けたのか?(笑)(☆☆)!!ちょっと解りませんね。これは、『マルコ福音書』(最初に成立した聖書)より、後のBC100年頃に書かれた『ルカ福音書』なので、史実を書いたというより、『預言者、メシヤとしての『イエス様』が郷里(イスラエル)では受け入れられず、やがて人々から『死の淵』へ追いやられる(十字架に付けられる)事』の暗示としてのドラマだと言う方も居ます。この「ナザレ」に事件は実は我々の『キリスト』に対する態度と酷似しております。『ナザレのイエス?!それって普通に人間でしょ。神の子、メシヤ?そんな訳ないでしょ!』多くの人々が信じない人々が多いのではないでしょうか?『あれは大工のヨセフのセガレだ。普通の人じゃないか?』と「ナザレ」の人々も信じませんでした。しかも、『メシヤ』を待ち焦がれている「ユダヤ人」も、『ガリラヤからはメシヤは出る筈がない。ナザレのイエス?唯の人だろう。メシヤなら自分を救ってみるが良い』と同じように、『イエス・キリスト』を信じませんでした。しかし、彼らは後に出てくる「星の子!(宇宙人かよ( ಠωಠ))バル・コクバ」は何故か信じて、反乱を起こすのです。)は信じたので、『何でやねん?!』となりませんかッ!この『ナザレ』の記事はですね。『イエス・キリスト』を信じない人を描写しているのではないでしょうか?『キリスト』は唯の人だ。『神の子を自称した宗教家だ』こうして信じない方々は、『イエス様』は巣通りして行ってしまうのです。『信じない方の前では奇跡も起さないし、何もされません』!『イエス様に出会う為には『信仰!』これしか無いのです。』『信じた人』だけに『イエス様』は留まって、現れて下さいます。『奇跡』を起して下さいます。『イエス様』は良く言われています。『あなたの信仰があなたを救ったのだ!』と!・・・ヽ(。◕‿◕。)ノ”『信じない人でなく、信じる人』になりましょう!
January 26, 2017

すみませ~ん。ちょっとペット・トラブルで、寒さでペットぺが急病で看病に追われてました皆さまもお気をつけ下さい。(ガラテヤ人への手紙1章4節)『キリストは、今の悪の世界から私達を救い出そうとして、私達の罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり、父である方のみこころによったのです。』え~ペットちゃんの一人が急病で、数日看護に追われています。冬場そのような方、また御自身がお風邪などお召の方もおられますでしょう。必至に助かって欲しいと小さな(小鳥ちゃんです)命の為に奮闘していると、たとえペットとはいえ、涙が出てきます。この、小さな、小さな『命』でさへ愛おしいものではないでしょうか?そのような時、『イエス・キリスト』が本当に取るに足らない私の『救い』の為に『命を投げ出して下さった御愛』を思う事が出来ます。『キリストの救いは万民の為』であると言われますが、『万民』(^^;)、、「まあ私もその他大勢の一人ですから~」と考えがちですが、『イエス様』は、『この私の為に、この歴史に名前すら残らない平凡な私、人類100万年、何人居ただろうか?その中の唯一人の私の為に死んで下さった』この事を覚えなければいけないな!と感じさせられます。ペットはその他大量の小鳥の中の一羽です。それでも自分にとってかけがえの無い命です。あなたのお家の「わんこ、ねこちゃん」は、その他大勢の犬ねこの一匹でしょうが、あなたにとっては、唯一人唯一の「わんこ、ネコちゃん」ではないでしょうか?そのように、『イエス様、そして神様にとっては、どこの何兵ともしらない「あなた」ではなく、私を御自身が、かけがえの無い『命』を思って『十字架に命を投げ出して救って下さった。実は「キリストの救い」ではこれが大事ですね。『私の為に死んで下さったキリスト』なのです。この事を覚え感謝しましょう。『トランプさん(笑)の為や他の人、私もその他大勢の一人として、死んで下さったのではない。』!『私の為に死んで下さった。私をかけがえのない「命」として愛して死んで下さった』こう思う時に、『イエス様の愛の深さ』を身にしみて感じられるでしょう。『十字架の救いは私の為』なのであります。これはとても大切な「キリスト教の救いの教義」なのです。感謝しましょう。
January 24, 2017

(士師記7章1~8節)よりそれで、エルバアル、すなわちギデオンと、彼といっしょにいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミデヤン人の陣営は、彼の北に当たり、モレの山沿いの谷にあった。そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。 今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。すると、主はギデオンに仰せられた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行かなければならない。』と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行ってはならない。』と言う者はだれも、行ってはならない。」そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、主はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。 そこで主はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」そこで彼らは民の糧食と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引き止めた。ミデヤン人の陣営は、彼から見て下の谷にあった。◎「ギデオン」~旧約聖書の士師~https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%87%E3%82%AA%E3%83%B3
January 20, 2017

『イエス・キリスト』が宣教を開始する前に、荒野で40日40夜の、悪魔の試みに会われたお話を全回しましたが、『イエス様』はつどつと荒野に一人退き『祈りの時』を持たれていた様子が『福音書』に描かれています。旧約聖書でも、イスラエルの太祖「アブラハム」は、裕福な遊牧民で、荒野で神様から「カナンの地へ行け」とい御命令を頂きます。また、モーゼは荒野の燃える柴の中から「神様の召命」を聞き、イスラエルの民をエイジプトから導き出し、また荒野の「シナイ山」で神とま見え、『十戒』を頂き、イスラエルの民はその後荒野を彷徨い旅しながら、『神様』に導かれ、約束の地『カナン』(現イスラエル国)に辿りつきます。このように、『神様と真に出会うのは「荒野」』であったという事は、とても『象徴的』な事だと思います。『イエス様は荒野でサタンの試みに会い』『バプテスマのヨハネは荒野で修行していた』『荒野』とは何であるか?『荒野』とは「荒涼として何も無い場所」、「生きるのに困難が伴う場所」であります。そこでこそ『神と出会う事が出来る』のであります。『荒野』が「象徴する事」とは「死と隣り合わせな場所」と言えるでしょう。『荒野』には「豊かな食物」も、「贅沢な品々」も、「安心や安全」もありません。そこには『危険と死の匂い!渇きと飢え!』があるのです。何故、そのような所でしか『神と出会えないのか?』何故なら、人間は満ち足りた環境の中では、『神を必要としたり、呼び求めたりしない』からでは無いでしょうか?『究極の荒野で死と隣会わせな生活を過ぎなくされた時、人間は初めて『神様』を呼び求め、助けを求めるのです。『荒野』でこそ、人間は実は自分がちっぽけで弱い存在である、「最後は死ぬべき存在」である事を知る事が出来るのではないでしょうか?そんな時、初めて「おお、神よ!助けたまえ!」と人は祈るのです。天才科学者の「ホーキング博士」は無神論者で、「人は死が怖いから神を作りだしたのだ」と言っておられますが、その通りで、「あなたの余命は1カ月です」と宣告されたら、誰でも「おお!神よ助けたまえ!」と祈らずにはおられないでしょう。これこそ『荒野』に直面した人間の真実の姿であります。それまでは、普通に楽しく暮らしている時には、「神様など必要はない。」と豪語する傲慢な人間です。ホーキング博士はいつも「死」に直面されていましたが、「おお!神よ!」と言われ無かった。(^^;)とても強い方でありますね~(笑)良いのか悪いのか?『荒野』はイスラエルやサハラにだけあるのではありません。私達の人生には『荒野』があるのです。『天災、病苦、経済難、戦争、鬱、悩み、喪失感、死の恐怖』様様な『荒野』が存在します。それがあるから、『人生は楽しいばかりじゃない!人生には困難がつきもの!』だと誰でも理解しています。その困難な人生からより豊かな人生を送る為に、人類は最大限の努力をしている訳です。「新薬の開発で疫病で死ぬ事を防ぎ、長寿を実現。天変地異から身を守る技術の開発。冷暖房器具の発達で生命の危機の回避。大量食糧生産方法で大量の人々の食を補う。科学技術の発展でより豊かで安全な生活が出来るようになる。』このように、人類は「生命を維持する発明発見で、現在は古代から見ると信じがたいほど豊かになった。』~という事は(^^;)『荒野』が減少してきたとも言えるでしょう。しかし、相変わらず『荒野』は我々の前に広がっている。それはどれほど豊かな生活をしようと、常に天変地異による災害、次々と押し寄せるエマージング・ウィルスの驚異、まだまだ解決不可能な精神疾患、もっと先になる最後の敵『癌』の撲滅、そして最終の敵『死』との対決~!「仏教」でも言われますが、「この世界は不完全」なのです。つまり『永遠性』が無い。すべての物質が常に変化していき、永遠に残る物が皆無であります。『それを仏教的に言うと『空の空』』と表現します。あるいは『所業無情』といいます。『すべては生々流転し定まる事が無い世界=不完全な世界』なのです。『イエス・キリスト』のいう所の『永遠の神の国』はこの世に存在しません。だから、永久に人間はこの世界では『不安=不完全な世』から解放される事が無いのです。最後に人間はこの『荒野』と対峙せねばならない時が人生で必ず来るのです。その時、初めて人は『神に祈り求めます~おお!神よ、我を助けたまえ』と!『荒野でこそ、神様と真に出会える!』という真実です。世の太平楽や虚飾の中では、『神様』と出会う事は難しいのです。また、多くの文学者、哲学者などが、『精神の危機的な状態の中』で、『人間の真実の姿』を見ます。裕福で何の不安もない楽しい限りの時に、誰が『人間の本性や、人生の真実』を見る事が出来るでしょうか?だからこそ、多くの『思想家』『宗教家』(ブッタなど)が、断食や清貧の中で、人間真実を見出すのではないでしょうか?「仏教」を例にとると、断食や清貧な暮らしの中で厳しい修行を行い『悟り』を開く。『悟り』を開いた者を『シャカ』と言います。彼らは鱈腹食べて、安心安全な太平楽な暮らしの中で『悟り』など開けはしません。極限の状態に自分を追い込み、そこで『悟り』を開く訳です。(^^)『キリスト教』は「仏教」とは関係が無いのですが、やはり『人』は『極限の状態の中』(荒野)で『神の存在』を見出す事が出来るという所はちょっと近いです。だから、多くの「クリスチャンになった方」も、何か人生の危機的な状況の中で『神様』と真に出会った方は多いです。『極道』の道に堕ち、自堕落な人生に堕ちて自分にさへ嫌気がさした方々が、真に『神様』と出会って回心して熱心な『クリスチャン』になった話は多いです。しかし、運良く全く落ち度の無い人生を享受している者が、『神に出会えない』事も多いのです。彼らは『荒野』を知らないからです。この『荒野』について追加すると、多くの優秀なアスリート、優秀な学者が『精神と肉体の危機に追い込んで』そこから、素晴しい業を作りだし、大発明を見出している事も、『荒野』が実は人間にとって大切な場所である事の現れではないでしょうか?多くのオリンピック選手が極限状態の訓練を積んでおります。昼寝をして、サボリをして、でも「金メダル」を獲った方には、出会う事は無いでしょう。『イエス・キリスト』も同じように、『荒野』という極限の状況の中で40日40夜の断食をして、超極限に自信を追い込み、そこでサタンの誘惑と戦われるという修行をされたのでは無いでしょうか?それゆれ、『肉の誘惑(サタンの誘惑)を退け、『御霊』により満たされた力ある『神の子』として宣教を始める事が出来たと言えましょう。
January 20, 2017

(ルカによる福音書4章1~14節)『さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何を食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」イエスは答えられた。『人はパンだけで生きるものではない。』と書いてある。また、悪魔はイエスを連れて行き、またたく間に世界の国々を全部見せて、こう言った。「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」イエスは答えて言われた。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂きに立たせ、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。『神は、御使いたちに命じて、あなたを守らせる。』とも、『あなたの足が石に打ち当ることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。』とも書いてあるからです。」すると、イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を試みては成らない。』と言われている。」誘惑の手を尽くした後で、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。イエスは御霊の力を帯び、ガリラヤの帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。』ここは、『イエス様』が『メシヤ・キリスト』として歩む前に、あらゆる『悪魔』の誘惑を受け、それに対応出来るか試練を受けた、言わば『修行』のような場面と言えるでしょう。ヨルダン川でバプテスマを受けた『イエス様』は、その時『聖霊様』が鳩のような形で下ってきて、『あなたは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ』(ルカ3:22)という場面で、それまで普通のユダヤ人とした歩んでいた『イエス様』に神様からの『召命!』(救世主として教えを宣べ伝え、十字架にて万民の贖罪をする召命!)、天の神様から与えられた。~と理解されております。最初から「神の子」なのだから、『悪魔の試み』のような修行が必要なの?と思われる方も居る事でしょうが、『イエス・キリスト』は『神の子』でありながら、100%人間の肉体の弱さも持っておられたのです。『最後のアダム』なのです。つまり『肉としての最後の罪を背負ったアダム』=それゆえ『肉体を持つ者としての弱さを持っておられた』という事です。その為に、『万民の救世主』を何とかして失敗させようとしる、『悪魔』(サタン)の誘惑は強烈であったのです。(´⊙ω⊙`)、サタンにとって最後の宿敵のような者が『イエス・キリスト』です。神様であられるのに、弱さ(欲望に弱い肉体を持っている)と、言う事で、ここでこの『救世主』を『失敗させてやろう!』とする『サタン』の攻撃は凄まじいものがあったでしょう。『イエス様』が聖霊に満たされ、『救世主として活動を始めよ!』という『天の神様からの召命』を受けた後に、恐らく『聖霊様』が『イエス様』を『荒野という厳しい環境の場所』に導き、そこで、『サタンの誘惑をすべて撥ね退ける為の修行』をされたのではないでしょうか?まず、最も根源的な『試練』=『空腹』です。人は動物なので、『食べられない』=『死』という定めです。その為『空腹』の為には、実は人は『悪魔』にもなれるのではないでしょうか?日ごろ善人だった者も、『食べられない』となると『盗人、強盗、暴力』で他人の食物を奪って食べる事を選びます。私は善人なので、他人を傷つけて食物を奪うくらいなら、甘んじて死のうではないか?(´⊙ω⊙`)なとどという方には普通にお目にかかれません。『飢餓状態』になれば、『大嫌いな虫でも何でも食らうし、他人の食物を奪ってでも食らう』~これが人間です。この究極の試練(40日40夜断食)に、挑み『イエス・キリスト』はサタンの『お前は神の子ではないか?この石をパンの変えてみるが良い』という挑戦に、『人はパンにみで生きるのでは無い。』と慄然と拒みます。この続きは『人はパンのみで生きるのではなく、神の口から出る言葉により生きる・・』(旧約聖書 申命記8章1~10)ここで大切なのは『人は・・』と言う事です。つまり『人で無い動物はパンだけで生きている』という事も語られているのではないでしょうか?しかし、『人間は知性が高く、「食」だけで生きているのではありませんね。「食」が足りても、精神が枯渇して「自殺」などを選ぶ方々も居る事からも解ります。『人は「食」だけでなく、精神を満たしてくれる物』も必要なのではないでしょうか。旧約聖書では、『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る言葉によって生きる』と明言されています。つまり、『神様の言葉によって心が満たされ、生きる事が出来る』という事です。(笑)ε=ε=(ノ≧∇≦)ノ・・「ご飯」があればOKという方も居るでしょうが、やはり人は「愛、友情、正義、倫理」色々なものが無いと、パンだけでは「空の空~」と空しくなるのではないでしょうか?また、『悪魔』は今度は『権力や金銭欲』の試練を与えます。世界の全ての国々の栄華を見せて『これらは私に任されているので、私を拝むなら、あなたにこれらすべての栄華と栄誉、権力を与えましょう。』( ಠωಠ)これまた究極の『誘惑』ですね。10億円の金塊を積まれて、「私を拝めば、これをさしあげます。いかがですか?」と言われて、「退け!サタン!そんなものはいらんは!」と拒める人は超少ないでしょう。殆どの方が「10億円下さい!何でもやります」とサタンの軍門に下る『欲望』への誘惑です。ちなみに、ここを誤解して「悪魔崇拝」すれば、「金持ちになれる」と超間違いを犯している方が、ごくたまに(笑)居ますが、「サタン」にはそんな権利や権力は与えられていません。もともと「御使い」(神様のパシリ)ですから、結構な力(アベンジャーズみたいない)は持ってますが(それも現世では封じられている)、勝手に誰かに権威や権力を与える力はマジでありません。~のでサタンは『嘘』を言っている訳です。もし『世の権威、権力を与えられた』ら、それは『神様から許可されて与えられたもので、悪魔がくれた物ではありません。』『サタン』=『元パシリ程度』だとしっかり理解しましょう。と言う事で、「悪魔崇拝」しても「金持ち」には成らず、「地獄」が待っている程度であります。もちろん「欲望にまかせて働けば、金、権力」は手に入るかもしれませんが、それも「神が許可した範囲」であります。サタンがくれたのではありません。『金持ち』が全部『悪』でもありません。何の為に『金持ち』になれたか?~『世界の人々に恵を与える役目を与えられたからです。』だから、『金持ち』は『貧しい人々を助け、世の医学・科学など発展の為に寄付、投資をする義務』がある訳で、それをしてこそ、神様に喜ばれる人となり、自分だけがめつくガメているのは、『裁き』を受けるはめになります。『イエス様』はこの『欲望の誘惑』にも、『あなたの神だけを拝み、主だけに仕えなさい』と書いてある。と見事に「サタン」の罠を退けますね。普通の人間なら、普通に騙される所であります。多くの人が『富の誘惑』に騙され、大金を奪われる事は世の常ですね。『ギャンブル、投資、FX、その他インチキ商法』などなど・・・そして、最後の誘惑は『エルサレムの高い神殿の屋根から飛び降りてみよ!あなたは神の子なのだから、父なる神が御使いにあなたを支えさせるでしょう』などと誘惑します。\(◎o◎)/別の方の「ルカ伝講解」の中で、何と、当時「メシヤ待望!」が過熱しており、自分が「メシヤ」だと本当に飛び降りて死んだ人( ಠωಠ)も居たらしいです。(何じゃ?そりゃ?)何故「メシヤ待望が高まっていたのか?それはやはりローマ帝国の圧政に苦しむユダヤの人々の日常があったのでしょう。重税で貧しい人々が溢れ、自分達の命である「ユダヤ教」にまで色々拘束をかけられ、彼らは怒っていたのでしょう。彼らは彼らを救い出してくれるヒーローのようなメシヤを待ち望んでいたのです。◎参照『ルカ書講解』ルカ4章を御参照下さませ。http://www.tenryo.net/old/Luke01.htmこういう時代背景を考えても、『メシヤ』を待望しまくっていた『ユダヤ人』という姿が浮かんできます。ちょうどその時『イエス・キリスト』が本物の『メシヤ・救世主』として登場するのは、まことに時にかなった事でありました。(さらにつけ加えると、ローマへの革命行為に燃える人々「過激派」なども増えていました。イエス様の代わりに釈放された「バラバ」などもその一人であります。)当然、『ローマ帝国』もこの不穏な「ユダヤ人」の動きを察知し、すかさず抵抗者を抹殺しており、多くの『祭司』までが磔刑で処刑され、『バプテスマのヨハネ』など民衆を扇動しただけで『処刑』される御時勢だった訳ですよ~!サタンの最後の誘惑は『あなたがメシヤなら、それを証明する為に、このエルサレム神殿から飛び降りて見たらどうだ。天使達があなたを支えるので、皆があなたを信じるのではないか?」そのような誘惑であったようです。しかし、『イエス様』の宣教はそのような『お馬鹿!(笑)』なものではありませんでした。『イエス・キリスト』は、(☆☆)!!「アベンジャーズ」などのような超軽い「超人伝説(爆笑)」などでは、全く無かった。だから『イエス様』はそのような軽業などする筈も無く、(帰ってそれらの意味不明な軽業で死を招く人を注意したのでは?)『あなたの神を試してては成らない』と書いてある。と明言し、忠告をしたのではないでしょうか?『天の父なる神様』は主権を持っておられるのです。だから『あなたの神を試してはならない』のであります。我々人間のパシリなどではけしてありません。「神様がおられますから、私はここかれ飛び降りてみます。どうぞ助けて下さい。神様なら出来る筈です」などと傲慢な、神様をまるで自分のパシリに勝手に使うような者には、絶対に叶えてては下さらないのではないでしょうか?それは『偶像の神』であり、自分で勝手に造って、自分の良いように動かす神』でしかありません。『イエス・キリスト』は荒野で悪魔の沢山の試みに会われ、これに打ち勝ち、ますます『聖霊の力』に満たされて『メシヤ』としての素晴しい『力』を持つ者となられました。このように『聖書』では『試練』に会う事を「不運」だとは考えず「神の試練で鍛えられる」と考えるのであります。『イエス様』が30歳で「メシヤとして宣教」を開始するまでの生涯は『聖書』に全く描かれていませんが、この『荒野の試練』などを見るに、『敬虔なユダヤ教徒』として『聖書の御言葉の学びと祈り、荒れ野での修行』などをされていた方ではなかったか?と少し思う次第です。このようにして、『イエス・キリスト』は『御霊の力』に満ちて、ガリラヤに帰られて、緒会堂で教えられ、その素晴らしい御言葉に皆が称賛し、その噂が遠くに広がって行った。と書かかれています。この『荒野でのサタンの試練』はより、『イエス・キリスト』をメシヤとして強め、『サタンの誘惑』を打ち砕き、『霊的に高められていった所』ではないでしょうか?その『御霊の力』に満ちて、ガリラヤの緒会堂で『宣教』を始められたのです。そしてその素晴らしい教えに皆が驚嘆し、その噂が広がってゆきます。(付け加えると、このように『修行』し徳を高め、霊的な力を高めるには、『荒野』でないといけない。という事です。断食であり、清貧であり、何も無い所であるのです。けして、鱈腹食べて、裕福なリッチな生活の場で、豪華絢爛な暮らしをしながら、『徳など高められません』かえって「下品」に成り下がるのが関の山でしょう。『荒野で神と向き合う生活』これこそが、神様に近ずき、神の声を聞く方法でありましょう。それゆえ、『イエス・キリスト』も『バプテスマのヨハネ』も清貧を愛し、荒野で修行をしました。)
January 18, 2017

今日の御言葉です!
January 17, 2017

今日の御言葉♪
January 15, 2017

(ローマ人への手紙12章3~8説)『私は自分に与えられた恵によって、あなたがたひとりひとりに言います。思うべき限度を超えて思いあがってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに与えて下さった信仰の量りに応じて、慎み深い考えをしなさい。一つの身体には多くの器官があって、同じ働きをしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つの身体であり、ひとりひとり互いに器官なのです。私達は与えられた恵に従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、預言しなさい。奉仕であれば、奉仕し、教える人であれば、教えなさい。勧めをする人であれば、勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。』使徒パウロによる『ローマ人への手紙』です。この聖句では、パウロは、『それぞれが思い上がらず、慎み深い考えをしなさい。』と勧めています。そして、私達が『キリストの身体であり、それぞれが『器官』であり、皆がそれぞれ異なった『賜物』(神様から頂いた「賜物」や『才能』と持っているのです。』と言われいます。『才能』の事を英語で『タレント』と言いますが、それは『タラント』、『イエス・キリスト』が喩えに使われた当時の硬貨で『タラント』という硬貨です。これは、「主人から、1タラント貰った者、5タラント貰った者、10タラント貰った者が、それをどのように使ったかで、イエス様の教えがありました。「1タラント貰った者」は使わずに「土に埋めていた。それは主人から無くしたら怒られる。」という理由、そして「5タラント、10タラント」貰った者は、それで商売をし、2倍、数倍に増やしていました。つまり、頂いた「タラント」を活用したのです。しかし「1タラントしか貰わなかった人は、それを活用せず無くさないように埋めていた。」、主人が帰ってくると、この「僕」を叱り「どうして、私が蒔かない所から刈り取り、刈り取らない所から刈り取る者だと思っていたのか?お前は怠け者だったので、その「1タラント」も取り上げて、他の人に上げよう。他の「5タラント、10タラント」を数倍に増やした僕は、良い働き者で賢い僕だ。お前達にはもっと沢山の「お金」を任せよう。とお褒めになった」という喩えです。つまり、この「主人」とは『神様』の事で、『タラント』とは『タレント=才能(神様からそれぞれに頂いた才能)』という事です。『イエス様』も、それぞれ『神様に頂いたおのおのの才能を生かし、働きなさい。(神の為に仕事をしなさい)、そうすれば、わたしはあなたがたを祝福し、もっと沢山の「タレント」を任せよう。しかし、怠け者の僕「自分に与えられた才能を、何と土中に埋めて全く活用しなかった」~このような「僕」には「神様から「怠け者で愚かな僕だ」私は、あなたからその「才能」と取り上げ、他の勤勉な人にあげよう」と言われるのです。このように、それぞれが神様から色々な「タレント」才能の賜物を頂いているのです。だから、使徒パウロが勧めるように、慎み深く働き、教える人は教え、預言する人は預言し、施しをする人はおしまず施しなさい、奉仕する人は一生賢明奉仕しなさい。~と勧めているのです。『才能』は色々です。フィギュアの羽生選手のような優れた「スケートの才能」~華々しくてかっこいい!「アインシュタイン」、「ホーキング博士」~んん!「天才だ!凄い!」、凄い人は沢山居る、あの人は頭が良い、あの人は凄い運動選手だ、あの人は仕事がめちゃめちゃ出来る、しかし私は普通の主婦でオバンだ。今まで大した才能もない。料理が少し上手いくらいしか、普通の人だ。こんな私の才能などどうでも良いんじゃないか?無能に近い。~などと思われる方、パウロは言っております『キリストの身体の器官なのだ。それぞれが大切な『器官』である。『普通なんだけど~』というような方も『大切な器官・神様から賜物「タレント」を頂いているのだ。それなのに、「私のようなつまんない人は何も出来はしないし、世の中の役に対して立たない」と思うのは、「まるで1タラント貰ったけど、土中に埋めていた人」であります。同じように優れた頭脳を持ちながら「引きこもり!」~社会へ出てくそしんどい仕事などしたくない!超楽でどこが悪い!」このような方も『神様から頂いた「タラント(才能)」を土中に埋めている方で、神様の祝福はありません。「そのような怠け者で愚かな物からは、持っているものまで取り上げよう!」と神様はおっしゃられています。(イエス様の御言葉により)『神様は分に応じ、どんな大したことない~という方にも『才能(タレント)を、社会の中で、『教会の中でも』生かすように、求めておられるのです。『あなたが必要だから、才能を下さったのです』~それを『土中に埋めて怠けている』~そのような方からは『祝福』が逃げて行き、持っている物まで去っていきます。『自分なんて~つまんね!』などと自虐せず、あなたの『才能』は神様から必要があるから、与えられたのです。それを生かす時に『祝福』があります。新年の新聞に小さく『渡辺和子先生』が90歳で亡くなられた事が方知られていました。この「YOU-TUBE」でも、カソリックのシスターとして、本当に素晴しいお話を語って下さり、本当に『神の人』だな~と感じさせる素晴しいお話を沢山語って下さっています。凄い「有名な方」なんですね~!先生は岡山の『ノートルダム女子大』というカソリック系大学の「理事長」をされてた方で、晩年まで教壇に立たれていた素晴しい方です。先生の書かれた本に『置かれたところで咲く!』という素晴しい本がありますので、御紹介します。「それぞれが、それぞれの置かれた所で、慎み深く感謝して咲きなさい」という素晴しい「聖書」のメッセージです。興味がある方はどうぞこの素晴しい本をお手に取ってみられて下さいませ!◎『渡辺和子』~https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%92%8C%E5%AD%90◎「AMAZON」本『置かれた場所で咲きなさい』~https://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&url=search-alias%3Daps&field-keywords=%E7%BD%AE%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%A7%E5%92%B2%E3%81%8F
January 13, 2017

(旧約聖書 エレミヤ書31章33節)『彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれだ。--わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らが皆、身分の低い者から、高い者まで、わたしを知るからだ。--主の御告げーーわたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない。』こちらの『旧約聖書の箇所』も『イエス・キリストによる永遠の救い』の預言であります。主である天の父なる神様は、「イスラエルの家」(これはユダヤ人だけを指すのでなく、救われるすべての人を指す)と結ぶ『新契約』であります。その後、今まで、『律法を守れ!』と言われていた事が、『律法自体を我々の心に書きしるす』と神様は言われています。それは、どういう事かと言うと、もう『あれしてはいけない!これしてはいけない!」という『律法』を守る事が無くなり、我々の心の中にそれが、神様によって書きしるされる。つまり『我々は罪から解放され、もう『律法』を守らなくても救われるようになる』という事であります。『イエス・キリスト十字架の贖い』により、『人類は救われ、『律法』はもう思い出されない。そして、神様は言われました。『私は彼らの咎を赦し、二度とその罪を思い出さない。』~『アダム以来、すさまじい『罪』を犯し続けた人類の『原罪』を、神様はすべて赦し、もうその『罪』を二度と思い出さない訳であります。つまり、『罪』のゆえに『永遠の死と罰』の宣告を二度と受けない=『永遠の救い』の預言であります。「エレミヤ」は、BC6~7世紀に活躍したイスラエルの『預言者』で、『救世主の降臨』の預言が沢山あります。◎『エレミヤ』~https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%83%9F%E3%83%A4
January 9, 2017

(マタイによる福音書6章24節)『だれでも、二人の主人に仕える事はできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、富みにも仕えるという事は出来ません。』 こちらは『イエス・キリスト』の御言葉ですが、皆さん、『徳の高い人』とはどんな人でしょうか?『徳の高い人』というのは、『普通の人が出来ない事が出来る方』でもあります。『普通の人』を定義してみましょう!◎自分だけ得をしたい。◎自分だけは、お金持ちであれば良いと思う。◎自分さへ良ければ良い。他の人が困っていてもしかたがない。◎自分だけ楽をしたい。◎他人より自分が当然可愛い。自分だけ助かれば良い。これが『普通の人』であり、仏教では『煩悩に限りなし』(笑)と言いますね。『イエス・キリスト』も、あるいは『ブッタ』さんも、『お金持ちのリッチ・マン』では全然ありませんでした。(「ブッダさんはお金持ちの息子だったという伝説がありますが、当然全生活を捨てて、修行しているうちに『悟り!』を開いてのであります)(。-ω-)zzz『イエス・キリスト』は『神の子』であられた訳ですが、どうして、『金持ちで裕福なのに『悟りを開いた人』は居ないのか?(バプテスマのヨハネも荒野で野宿して修行していた人です)また、『キリスト』のように荒野で断食して祈っていた人が、『素晴しい人徳を持った人となって、素晴しい教えをする』のか?~と言う事です。大体『金持ちである』という事自体が、『自分だけ金持ちなら他人など知るか!』という事です。(笑)、そうでなければ、『何故自分のお金を他人に恵んでやらないのか?すでに、そのところから、『他人などどうでも良い。自分さへ良ければいいのだ。』という『普通の人』(煩悩まみれで、徳など無い人)なのです。このような人に『立派な人徳の高い教えが語れるとは、到底思えません。』だから『リッチマン』に『高徳の賢人』など普通に居ない訳であり、優れた『宗教家』が清貧(謙虚に貧しい)を重んじた人であるのは当然です。『イエス・キリスト』も言われております。『あなたがたは神にも仕え、富みにも仕える事は出来ません。』と!『お金を沢山持っているのに、誰にもあげたくない。自分だけ贅沢三昧したい』という方は、残念ながら『徳の高い人』などになる事は不可能であるという事です。何故、『イエス・キリスト』が『徳の高いお教が語れたのか?』それは、『荒野で何も持たずに修行し、『金持ち』など愛さず、『貧しい人を憐れみ』、常に『富・権力』などを求めない『清貧』に甘んじた人であったからです。もちろん『人』とは言いません。クリスチャンは『イエスこと神の子・キリスト』であると信じているのですから。『清貧』を愛するとは、自分はお金、欲望とは縁を切り、そのような世の煩悩から離れ、『神様だけを愛する』という生活をする事であり、そのような『普通の人が出来ない、嫌う事が出来る』それが『徳の高い人』である訳であります。使徒パウロも『徳の高い人』を目指しなさい!と言ってますが、『世の中や、金銭欲を愛している』これでは、煩悩まみれです。((^^;)すいません解り易く仏教用語を使わせて頂いてます。)こんな人が『徳など高くなる筈が無い』のであります。だから、『イエス様』は『金持ちの青年』に『あなたには一つだけ欠けたところがあります、すべての財産を売り貧しい人にほどこし、その上でわたしについてきなさい!』と言われたのです。『富みを捨て、神にのみ仕えなさい』その時、あなたは『徳の高い人』への道を歩みだすのだ。と言われている訳であります。その思想は『私だけ金持ちで得をしたい。』という欲望を捨てる事で、『他の人にも豊かな物を差し上げよう』という、『普通の煩悩まみれの凡人』には出来ない『高峰!』を歩み、『金銭より「神様だけに仕える」、「神様が言われるなら財産をいくらでも貧しい人にさしあげよう」という『徳の高い』道へ進む事が出来るからですね。(灬´ิω´ิ灬)こんな『キリスト』の高徳な教えを聞く時に、『貧しい』=『惨めで馬鹿だ!』という考えは去ります。帰って、『私は何と、徳の高い方々の道を歩めるチャンス』を与えられている。・・・と考えると嬉しいではないですか。あえて、『財産を捨てて』、隣人にほどこし、自分は『清貧』の暮らしを愛する人々も居ます。(カソリック修道僧、シスター、プロテスタントの牧師など)。:.゚ヽ(´∀`。)ノ゚.:。 ゜素晴しい事ですね。『徳の高い方々』であります。だから『マザー・テレサさん』靴の紐をとく値打ちも無いくらいに近寄りがたく素晴しい。もうすぐ私も「年金生活」が到来します(爆笑)、そんな時に『貧しくなって惨めだ!』と思わず、『何と、自分だけわがままリッチをする生活から、煩悩まみれの生活から離脱でき、自分さへ良ければ良い。ではなく、他の方の幸福を考えようではないか?』という『徳の高い人』への道が開けるやもしれません。( ಠωಠ)大体『お金を腐るほど持っている人』が『賢人』になれるでしょうか?『キリスト』のような『徳の高い教えを出来るでしょうか?』『自分だけリッチなら他人などどうでも良いと思う、お金持ちが』大体、『腐るほどのお金・地位・権力』を捨てる事が出来るからこそ、『超人』以上な訳なのです。『イエス・キリスト』が、『神の子』であられるのに、『超身分の低い所に生まれ』、『金銭を愛さず』、『清貧を好み』、『世の権力・称賛』をすべて捨て、『十字架上で最も惨めに処刑され、人類の贖罪をされる』、彼は立派な近寄れないくらいの方であるのに、『身分』も『権威』も『神の子としての栄光』さへ捨てた!~~これほど『徳の高い方』は居ません。『イエス・キリスト』が、リッチなアラブの王子だったなら、彼はサイテーの守銭奴と言われ、2000年間、すべての人類に慕われる事は無かったのです。彼は単なる自分勝手な『お金持ち』に過ぎない。そんな人に『素晴しい言葉など語れる筈が無い』、しかし、『キリスト』は宇宙一素晴しい身分『神の子』である事を『捨てた!』だからこそ、『イエス様』は『王の王』であられる訳なのです。『イエス様の十字架上には、これはユダヤの王』と書かれていました。まさに、彼こそ『王の王』であられました。
January 7, 2017

(ヨハネによる福音書14章26~27節)『しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる『聖霊』は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべての事を思い起させて下さいます。わたしはあなたがたに平安を残します。わたしが、あなたがたに与えるものは、世が与えるものとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』 昨今の世の中、世界の様相は『不安材料が一杯』です。TVのニュースを見ていると、「これから日本はどうなるのだろうか?テロが大丈夫だろうか?生活は良くなるのか?年金がどんどん減るんじゃ?失業者がまだまだ増えたり、格差が拡大しとても不安だ」というような、あまり面白くない様相であります。『心が騒いで不安だ!』そんな感じではないでしょうか?しかし、『イエス・キリスト』は言われました。『わたしはあなたがたに『平安』を残します。それは世が与えるものとは違います。あなたがたは心を騒がせてはなりません。恐れては成りません。』と!『イエス様』の与える『平安』は、『世があたえるものとは違う』という事です。『世の中が与える平安』とはどんなものでしょうか?『お金による安泰、享楽的な楽しみ、あるいは~自然やペットでほのぼの~♪』というようなものでしょうか?『イエス様』が与えて下さる『平安』は、そのようなものとは違う『不思議な平安』なのです。それは『聖霊様に満たされる、聖霊様に与えられる神様の平安』です。一人静かに部屋で祈る時に、心に『平安』が訪れます。それは、この世的には『不思議な聖霊様による平安であり、神様が、イエス様が共に居て下さるという『平安』なのです。心が意気消沈する時、イライラ落ち着かない時、不安が押し寄せる時、そんな時は一人静かに祈りましょう。きっと『神様の平安』が訪れることでしょう。『イエス・キリスト』のお名前によって祈りましょう。『イエス様』はいつも私達と共に居て下さいます。『あなたがたは心を騒がせてはなりません、恐れてはなりません!』とイエス様は言われます。『神様を信じ、神様が共におられるならば、恐れるものは何もありません』「嘘でしょう~」という方、それは何故かというと『救われているからです!』これが大切です。「何故不安なのか?何故心配で心が騒ぐのか?」それは『根本的な『死への恐怖』』であります。テロが怖い。破産が怖い。お金が無いのが怖い。疫病が怖い。・・・全ていきつくところ『死』への恐怖であります。『キリストの永遠の救い』を信じるならば、心に『平安』が訪れます。『死』への恐怖がなくなるからです。全く死ぬのが怖くない~わ~こんな敬虔な信徒になりたいですが、全く怖くない事は無いです、しかし、少なくとも『神の国・永遠の命』が与えられる!と信じるなら、私達は心が『平安』になり落ち着きます。永遠の『死』とは絶望ですから。何故「ローマ帝国中」に「キリストの教えが広まったのか?」それは、それまでの『宗教』(ユダヤ教にも)、『永遠の救い』が無かったからです。皆さん「仏教」でも「極楽往生」があり、皆「南無阿弥陀仏」と唱えれば「極楽往生が出来る」と信じました。それは「信じたいから信じたのです。」、人間は皆『死』が恐ろしい!だから『信じたい!天国へ行ける。永遠の命がある』と・・・。しかし、本来の『仏教』にはそんな教えはありません。『仏教は修行で悟りを開く事が目的な宗教』で、最初は『極楽往生』などなかったし、『ブッダ』さんは人間です。神ではありません。しかし、『極楽』にも行けない宗教はどうだ?何の役に立つのか?という事で、後で付加されたのが、『極楽往生』なのです。このように『永遠の救い』という事も『平安』を与えられる一つであります。しかし、イエス様はここではさらに「聖霊様による平安を残す」事を言われています。『聖霊様』とは『神様の霊』です。神様が共に居て下さる証明であります。もし、「助け主=『聖霊様』」が居なかったとすれば、唯『イエス・キリスト』を盲目的に信じなさい!信じなさい!とにかく何でも良いから信じなさい!という宗教になります。こういう類の宗教は沢山あります。「神社」とか「XXの科学」とか、その他もろもろ~しかし2000年も続いているものは何もありません。これで2000年間も、『信仰』が続くでしょうか?難しいと思います。『聖霊様』の御臨在を感じる、導きを感じる、祈ると心が平安に満たされる~このような体験があるからこそ、『イエス・キリスト』は真の真実の神であると信じる事が可能なのです。『イエス様』も『聖霊は、あなたがたにわたしが話したすべての事を思い起させてくれる』と言われておりますね。という事は『聖霊様』が祈りの中で私達を導いて下さり、信仰が無くならないように守り、イエス様の平安を与え、またイエス様の御言葉を思い出させて下さるのです。アーメン!と言う事で、昨年は「不安ニュースの多い一年でしたが、今年は『平安=HAPPY』に行きたいなと思います。『心を無駄に騒がすのではなく、信仰により『平安』な気持ちで歩む一年でありますように、「HAPPY」なブログとしたいな~♪と思いますので、どうぞよろしくお願い申し上げます(^^)v
January 6, 2017

。(ルカによる福音書3章23~38節)『教えを初められた時、イエスはおよそ30歳で、人々からヨセフの子と思われていた。このヨセフは、ヘリの子、順次遡って、マタテの子、レビの子、メルキの子、ヤンナイの子、ヨセフの子、マタテヤの子、アモスの子、ナホムの子、エスリの子、ナンガイの子、マハテの子、マタテヤの子、シメイの子、ヨセクの子、ヨダの子、ヨハナンの子、レサの子、ゾロバベルの子、サラテルの子、ネリの子、メルキの子、アデイの子、コサムの子、エルマダムの子、エルの子、ヨシュヤの子、エリエゼルの子、ヨリムの子、マタテの子、レビの子、シメオンの子、ユダの子、ヨセフの子、ヨナムの子、エリヤキムの子、メレヤの子、メナの子、マタタの子、ナタンの子、ダビデの子、エッサイの子、オベデの子、ボアズの子、サラの子、ナアソンの子、アミナダブの子、アデミンの子、アルニの子、エスロンの子、パレスの子、ユダの子、ヤコブの子、イサクの子、アブラハムの子、テラの子、ナホルの子、セルグの子、レウの子、ベレグの子、エベルの子、サラの子、カイナンの子、アルパサデの子、セムの子、ノアの子、ラメクの子、メトセラの子、エノクの子、ヤレデの子、マハラエルの子、カイナンの子、エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子である。』この『イエス・キリストの系図』は、実は『マタイ福音書』には冒頭にあって、「ぎょぎょぎょ~」とここから読むと、まずクリスチャンで無い方は「な、何だこの意味わかんない名前の羅列は、ポケモン覚えられるかなだろうか?(爆笑)、超意味わかんね!」と殆どの方が、「聖書」って良い事書いてあると読んでみたら、訳わからん名前ばっかで、とてもついていけそうもない~と断念されます。ちなみに自分もそうでした(笑)また、マタイ福音書と名前が違ってる方、加わった方、除かれた方など居ます。『ソロモン王』は何故なのか?「ルカでは入ってないのです。超有名な栄光を極めた王様でダビデ王の子」なのにね??この系図は、実は「『イエス・キリスト』はダビデの子として生まれる」という預言を証明する為に書かれ、系図重視の「ユダヤ人」に理解させる為に重要だったと言います。途中で黄色マークしてある方は「聖書」でも有名な重要な方です。『エッサイの子がダビデ王』で、ここでは出て来ませんが『ダビデ王の後継ぎ息子が「ソロモン王」』であります。『アブラハム』さんはご存じ「イスラエル民族の太祖」ですね。(ちなみにイスラ~ム教徒も彼が自分の祖先で、自分達はラハブというエジプト女奴隷の子だと主張してます)『アブラハム』の神様の約束の子が『イサク』で彼の息子が『ヤコブ』(イスラエルという民族名を貰った人)です。また、『ノアの方舟』のノアさん。その子供「セム・ハム・ヤペテ」は、人類の先祖であるとされ、「セム系民族、ハム系民族、ヤペテ系民族(黄色人種系、黒人系、白人系)」で使用されてます。最後の方は『アダム』で、神様に最初に創造された人であり、神の子である。と結ばれています。しかし、この『アダム』は最初に『罪』を犯し、エデンを追放され、人類に『原罪』を齎した方です。ここで、何でこのような『系図』が出てくるのか?というと、『イエス様』が『バプテスマのヨハネ』の後から、登場されたので、『イエス様』の素性を説明する為、家系を証明する為に書かれたのでしょう。「イスラエル人」は誰かを紹介する時、「XXの子」と紹介され父親の名前で紹介されます。『イエス様はヨセフの子』という事になります。この系図では、イスラエル人が好んで使う数字7が用いられ、77人が紹介されています。「マタイ福音書」の冒頭の系図とメンバーが言ったように少し違っており、「ルカ福音書」では最後が、『神様』まで行きつく訳で、何だそれ?「日本の皇室の系図かよ?」と思われる方もいますが、ここでは最初の人『アダム』は神様によって作られた『最初の人』という事で、イエス様が『最後のアダム』(神様によって作られ、罪の中にある人類の最後の人という意味)が強調されています。つまり、『イエス・キリスト』は『アブラハム』の子孫であり、『ダビデの子』であり、『最後のアダム』(十字架でその「原罪を贖罪する最後の方」であると言う意味)で、『イエス・キリスト』を信じる者が、もう『アダム(罪の中にある人、救われてない人)』ではない。という事、『キリストがメシヤ(救世主)』である事が強調されております。使徒パウロも『イエス様を最後のアダムである』と言い、『イエス様が最後のアダムとして十字架上で罪の為に死に、イエス様を信じる者に永遠の救い、神の国への道を開いた』という事であります。え~系図を見て「何らこれ?」となる方が多いでしょうが、系図好きな「ユダヤ人」には「系図」が無いと、「イエスというのは、どこの馬の骨かよ?」と思われた(笑)訳でありますね。とこの当たりからも、「ユダヤ人」が同族結婚が多く、家柄や血筋を重視いていた様子が良く解ります。「ユダヤ人」というのは「アブラハムの子孫」でないといけない訳で、それが「神様から選ばれた祝福された民」という『選民思想』になる訳で、『イエス・キリスト』もこのように、生粋の「ユダヤ人で、アブラハムの子であり、しかもダビデ家の出である」と証明されないと納得しない「ユダヤ人」でありました。ちなみに「系図」で「嘘~?」人類がこれだけの人しか系図に並んでないから、嘘っぽ「系図じゃ?」と疑い、「聖書」は嘘じゃん?と失望して信仰から脱落される方が居るらしいですが、『イエス様』が『ユダヤ人』であったのは間違いなく、どれほど『ユダヤ教の律法をマスターしていたか?』理解すれば納得ですね。また、『ダビデの子』だという証拠が無いなどと言う方もおりますが、『ダビデさんには大量の妻がおり、その子供「ソロモン王」は700人の妻と側室が居たので、(ダビデ王、ソロモン王は1000年も前の人)、大抵のユダヤ人はダビデ王の血を引いていても不思議は無いので、殆ど「ダビデの子」で間違いな無いと私は思います。それすら、『証拠が欲しい方』はもう、事実が消滅した2000年前の方ですから、『科学的・理論的』にも『証明は不可能』と申し上げたいです。『聖書』を信じるしか方法がもう存在しない訳です。証拠を求める「非科学的な方」はどうしょうもないですね。今日は「系図」でした~(^^;)
January 5, 2017
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