中高年の生涯学習

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2023.04.09
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今年のNHK大河は 「どうする家康」 である。様々な苦難に家康は、どう対処したか、というテーマであることがタイトルからわかる。信長、秀吉が人気があったが、さて徳川家康とは、どんな人だったか。
​小説では山岡荘八の「徳川家康」というのがあったが、これは大長編でとても読み切れない。大河のおかげで書店には、 柳の下のドジョウ本 が多く並んでいる。会社の経営者が組織運営の要を学ぶ目的で読まれているようである。​
まず第一に磯田道史の「徳川家康弱者の戦略」(文春新書)が多くの人が手に取るようである。この本は「家康の歴史の細部を学ぶ本ではなく家康の後姿から、今を生きる人々が何かを得られる本」と書いているように人生教訓本だ。家康の伝記的流れは無視しているので、ある程度家康の戦史を知っている人にとっては面白いかもしれない。
本郷和人の「徳川家康という人」(河出新書)は、帯に「家康はこうした!」と大河の「どうする家康」に応答するような、ドジョウ本である。本郷先生に5~6時間話させて、書き起こしたような内容である。最後のページに編集協力者という影武者の名前が入っている。これも家康の伝記的流れを知ってないと、分からなくなる雑学的内容である。本郷先生の吠えるような口調を味わいたい人には面白いだろう。
もう少しまともに家康史を知りたい人には、二木謙一「徳川家康」(ちくま新書)がある。もう一つ、松本清張が子ども向けに書いた「徳川家康」(講談社火の鳥伝記文庫)が非常にわかりやすい。大人向けの文庫本もあるようだが、入手したのは子供向けだった。といってもこれは清張史観が出ている。二木、清張本は家康の誕生からその死まで描かれている。歴史本で分かりずらいのは、今川義元に人質になるところだ。なぜ竹千代(家康の幼名)は人質になったか。現代では人質は犯罪だが、戦国時代は戦略の一つだった。自分の子供や家族を相手に預け、裏切らないことの保証にするのである。
ここで、二木、清張本を参考に家康の誕生からその死まで略記しておこう。戦記、戦闘場面は他の本を参照のこと。
​名古屋から東海道を東京方面へ15㎞のところに 岡崎市 がある。1542年、家康は岡崎城で生まれた。父は松平広忠、三河の小大名だった。三河は今の愛知県の東半分の領域だった。三河の東は今川義元という大名がおり、西の方には織田信秀という強い大名がいた。信秀の子供が信長だ。松平家は、この今川、織田に挟まれて、いつもびくびくしていた。朝廷は京都にあった。朝廷から位をもらい、日本を統一することが、当時の武将の夢だった。上杉謙信、武田信玄、北条氏康が京都へ上ろうと競っていた。今川義元は京都へ行きたかったが、途中に織田信秀がおり、これを倒さないと京都へ上れない。松平家は義元を頼った。織田が攻めてきたとき、戦闘の加勢を求めたのだ。​
​家康の幼い時の名前は竹千代と言った。母は水野忠政の娘で於大の方(おだいのかた)で竹千代は3歳まで岡崎城で育てられた。於大の方の兄が織田方についた。広忠は今川義元から疑われると思い、妻を離縁した。竹千代の母は水野家に戻った。松平家の家来の中でも織田派と今川派に割れて争いがあった。1547年、織田信秀が三河に攻め込んできた。広忠は驚いて今川義元に使いを出した。「織田が攻めてきたので軍勢を出してください」。この頼みに 義元はずるい笑いが浮かんだ 。「お頼みは伺ったが、ただでは兵は出せない。いつ織田へ寝返るか分からない。ご子息の竹千代を人質に出しなさい。そうしたら加勢にまいろう」と広忠殿に伝えよと使いに言った。​
​​竹千代は3歳で母に分かれ、6歳で父と別れねばならなかった。後に広忠は暗殺され、これが永遠の別れとなった。広忠は、これより前に二度目の妻に 戸田康光の娘 をもらった。戸田康光自身は織田信秀側に与(くみ)していた。このことを広忠はまったく知らない。竹千代は義元の領地の駿府へ護送されるとき、戸田側に拉致され、信秀側に連れていかれる。 戸田は金銭で信秀に売り渡した 。広忠は子供が人質にとられても義元を裏切ることができなかった。まもなく広忠暗殺という事件がおこる。広忠の死の二日前に織田信秀も病で死んだことが伝わる。義元はこれを聞いて軍勢を安祥(あんじょう、現在の安城市)に差し向けた。安祥には織田信弘という信長の兄がいた。たちまち安祥を攻め落とし、信弘を虜にしてしまう。今川は竹千代と交換に信弘を返すという条件を出す。竹千代は岡崎へ帰ることはできず、駿府へ人質の身の上で移送される。駿府は今の静岡市である。ここで竹千代は19歳まで人質生活という青春時代を過ごす。1555年、竹千代は14歳で元服した。義元の名前の一字をもらって元信と名を改めた。ここで故郷の岡崎へ一時帰ることを許された。元信はふたたび駿府へもどった。このとき祖父の清康から一字もらい、元康と名を改めた。西の尾張では織田信秀が死んだあと信長が後を継いだ。信長はバカ殿様という噂がとんでいたが、尾張を平定し三河にも手を出すようになっていた。義元は織田攻めを決意し、元康(後の家康)にその大将をつとめさした。初陣である。信長がたの寺部城をたちまち落としてしまった。​​
​​1560年、信長を攻めるため、今川義元は大軍を率いて西三河から尾張に入った。丸根、鷲津の織田の出城を攻め落とした。義元は元康に 大高城を守っているように と休息を言いつけた。義元は二つの城を落として意気揚々である。「信長の首をとろうぞ」と上機嫌で桶狭間に宿営した。一方の信長は清州城にいた。 信長はバカのふりをしていた が近隣領主を油断させる芝居だった。義元が桶狭間に留まっているのを聞き「しめた。勝ちはこっちのものだ」と心の中で思った。夜が明ける頃、信長は立ち上がって、よく通る声で謡曲の「敦盛」を舞った。「人間五十年。下天(げてん)の内を比べれば、夢まぼろしのごとくなり…」とおわるやいなや「具足をもて。目指すは桶狭間だ」と馬に乗って走りだした。桶狭間を見下ろす山に登って様子を窺った。「ものども、かかれ」と大声をあげ、槍を取って義元の陣に馬で駆け下りた。今川勢は慌てふためいた。義元は防戦したが、その場で殺された。その日の夕方、義元戦死の報は大高城に居た元康の下に届いたが信じられなかった。​​
桶狭間までの略史だ。次に紹介する本は専門書で、少し難しい。研究者向けだ。
柴裕之著「青年家康ー松平元康の実像」(角川選書)
柴はNHK大河の時代考証を努める東洋大学講師。現在の家康の人間像は家康が天下人となるのを必然と捉えた 松平・徳川中心史観 で捉えらていると批判し、戦国大名と国衆の関係をとうして捉えるという提起をしている。前半は安城松平家の内紛が述べられ、竹千代誕生は第2章の中ばになる。歴史の流れは桶狭間までである。
「定本徳川家康」本多隆成(吉川弘文館)
著者は放送大学静岡学習センター所長。大阪大学史学科卒業。静岡大学で講師をしていた。静岡にこだわりがあるようだ。家康研究の拠点にされている。A、B、Cと学説を並べ、自分はCの学説が正しいと述べていくスタイルで家康の行動を書き表していく。東海地域にこだわっている。江戸期については割愛したと「はじめに」で述べている。
「人物叢書 徳川家康」(吉川弘文館)。藤井譲治京都大学名誉教授の本は古文書・古記録によって家康の人物像を描くという本格物。読むのは相当むずかしい。磯田が本冒頭で批判した「木を見て森を見ず」というのは、この本のことだろう。素人は森の中で迷子になってしまう。木と森、両方をバランスよく読むことが肝心。





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最終更新日  2023.04.09 10:26:41コメント(0) | コメントを書く


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