中高年の生涯学習

中高年の生涯学習

2023.08.27
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​​樋口一葉といえば、若くして亡くなり、「たけくらべ」を書いた人ぐらいしか思い浮かばない。しかし、いざ読むとなると、 これは古文 だろうとお手上げになってしまう。ちょっと冒険だが図書館で「全集樋口一葉」の第三巻・日記編を借り出した。小学館版である。樋口一葉の全集は筑摩書房版があるが、こちらは研究者向けで注釈が全然入ってない。 小学館版は注釈が入っている ので、じっくり読めば話の筋がわかる。小さい字でびっしり詰まっている。一葉は二十二編の作品を書いているが、日記の方が分量が多い感じがする。​​
​日記は日付が入った、文字通り日記だが、日をまたいで書いたり、随想だったり、日によって分量はまちまちである。この日記は一葉の文章練習のために書かれているようである。自伝にもなっているし、文学作品としても通用する。 自分が一葉になったような感じ で一葉の日常生活を体験することになる。​
​一葉の簡単なプリフィールを書いておく。本名は夏子、あるいは「なつ」である。明治5年3月25日、現在の東京日比谷シティーのあたりで生まれた。転居が多く、神田周辺を転々としている。地方に旅行したことはない。純粋の東京人である。和歌、文章、書に優れ、いわゆる三舟(さんしゅう)の才と呼ばれる。明治29年11月23日、病で亡くなる。25歳。25歳は数え年で、 満年齢では24歳 である。晩年の「奇跡の14カ月」と言われる期間に文学史上傑作作品が集中的に書かれている。普通の読者はこの期間の「たけくらべ」、「にごりえ」、「大つごもり」などを読んで終わりになってしまう。​
日記を読んで行くと、どうして文学者になっていったか、どんな勉強をしたかがわかってくる。ここが読みどころである。小学館版は住んだ所で日記が区分されている。本郷菊坂町が「よもぎふ」、下谷龍泉寺町が「塵の中」、本郷丸山福山町が「水の上」である。「よもぎふ」の「しのぶぐさ」と題された明治25年8月22日の項に次の歌が書かれている。
なみ風のありもあらずも一葉のふねのうきよ也(なり)けり
​この歌の「一葉」は「ひとは」と読んで、 筆名の由来 が舟のイメージから来ていることがわかる。自分の人生は波にゆらめく、葉っぱのような舟だという和歌である。​
​​​小学館版は、萩の舎(はぎのや)の歌会や半井桃水(なからいとうすい)との出会いから始まるので、この前史が分からないと、何のことかと霧の中に入ってしまう。一葉は明治16年青海小学校を卒業したが、ここで学校歴は切れてしまう。母親の「 女子は裁縫、家事をやればいい。学問は必要ない 」という意見で裁縫を習いに行かせられる。これは母親の特異な意見ではなく、当時の国民は多く、こうした考えを持っていた。一葉の勉強好きを見ていた父親は、 和歌の通信教育 をやっていた人を紹介し、本も買い与えていた。しかし通信教育の先生が亡くなり、行き詰ってしまう。父親も努力して中島歌子の歌塾「萩の舎」を見つける。萩の舎は 上流階級のお嬢さんの通う所 で一葉にとっては苦しい所だった。しかし一葉は平民組の2人の友達を見つけた。歌会はきらびやかな着物を見せる場所になっていたが、一葉は親が作った「 古ごろも 」を着ていかざるを得なかった。しかし歌ではトップの評点をもらうことが出来た。​​​
​萩の舎という歌塾では、どんな学習をしていたか。稽古日には二題の歌題が出され、その場で即興で二首、計四首提出する。それを中島歌子が添削する。その他に古典文学の学習がある。これは古来、和歌を詠むためには必須である。古今和歌集、伊勢物語、源氏物語、枕草子、徒然草、その他の歌集である。大抵、講義ではその一部の解説になるが、自分で読むことが基本である。本を入手することも大変であるが、この当時、父が存命だったので、かつ理解があったのだろう。父が買い与えた。どんなテキストかについては塩田良平「樋口一葉研究」にその一覧が掲載されている。現代の大学国文科の学生でも、こんなに読んではいないだろうという分量である。これらの一葉蔵書は山梨県立文学館に保存されている。現物をご覧になったら圧倒されるだろう。 一読で終わりということはない 。一葉の場合は何度も繰り返し読んでいる。血肉化されているのは、日記や作品を読んでいると、源氏のあの場面の言葉だろう、兼好法師のあの有名な言い回しだろう、というのがわかる。皮肉なことに、これが現代の読者にとって壁になる。古典の知識がないと、言葉の裏側がわからなくなる。解説や注釈が補ってくれるので、面倒でも参照する必要がある。​
萩の舎の先輩である田辺龍子が書いた「藪の鶯(やぶのうぐいす)」という小説を読んで、自分にも書けると思った。そして、これでお金を稼げる。小説執筆の指導を半井桃水にお願いしようと決めた。半井は朝日新聞記者だ。しかしいきなり 新聞記者に指導を仰ぐ とは大胆である。初対面の場面が「若葉かげ」に書いてある。野々宮きく子の紹介とある。きく子は一葉の妹の邦子の友人で裁縫の稽古で知り合った。きく子は桃水の妹の幸子と同級生だった。こうしたつながりが一葉と桃水を結び付けた。桃水の指導は実際的だった。当時の一葉の文章は古典の文章を折り込む和文調だった。「多くの人が読むものなので、もう少し俗調に」ということだった。
新聞記者の文章術を教えた。全体の構成やら謎がだんだん明らかになるというようなテクニックなども伝授された。
​萩の舎の指導とまったく違う。指導を受けるために、一葉は短編を5~6編書いて持って行った。先生に見てもらうという意識は執筆の原動力になる。夜遅くまで書いていて、家族のものに「早く寝なさい」と注意されるほどだ。やっかみ半分だろう。萩の舎からは桃水の指導にクレームがつく。さらに桃水には女がいるという噂を流される。ここで一葉は 萩の舎の組織の問題点に気づく が、桃水との関係を断絶するという判断をするが、萩の舎との縁を切らないほうがいいと考えた。桃水との関係を表面上、断絶したが、心のなかは切れていなかった。桃水は一葉の秀作を載せた雑誌を創刊する。これは残念ながら3号雑誌に終わったが、自分の作品が活字になったということが励みになった。一葉の心に恋が芽生えた。上流階級の夫人の集まりとジャーナリズムで仕事をしている人たちの違いもわかった。桃水は「奇跡の14カ月」に切っ掛けとなる博文館とのつながりを作っている。​
父親が亡くなり、女戸主となった一葉は商売を始めることを考えた。
​​「塵の中」は下谷龍泉寺での生活である。駄菓子や小間物を扱う小さな店を始めた。 悪場所吉原 の近くで、付近の人は、ほとんど吉原に関係する人たちで、貧民街である。萩の舎の上流階級の人たちと全く違う人たちである。ここが一葉の文学を作った。商品の仕入れで商売をしている人とも付き合った。普通の人は吉原の中へ入ることができない。しかしお店にくる客は関係者で、その人たちの会話から吉原の中を窺い知ることが出来る。聖職者と思われる坊さんの生臭い状況も知る。「たけくらべ」は、こうした観察から生まれた。登場人物は子どもばかり。普通は児童文学になってしまうが、 一葉の筆は大人の読み物に転換してしまう。 日記には図書館通いが随分出てくる。上野の東京図書館。女の人はほとんど来ていない。周りは男ばかりである。帰りに「おねいちゃん、こっち向いて」と悪ガキにからかわれる場面もある。家にない「大和物語」など借り出し、読んでいる。店に「文学界」編集部の平田禿木(とくぼく)が訪れる。​​
​「塵の中」の大きな比重を占めているのが天啓顕真術会の 久佐賀義孝との出会い である。占いや人生指南、相場の指導などを行う、怪しい人物との出会いである。ルポルタージュのようになっており、お金を借りるとか人生指南より、一葉は突撃取材のような感じである。新興宗教の祖師のような言動である。これが記録されている。久佐賀は一葉に「俺の妾になれ」とせまって来る。一葉は「こんなバカ男」と軽くいなしてしまう。これは一葉の作品として出てないが、日記に書きつけられている。一つの作品ととらえてもいい。​
こういう人物は結構多い。聖をまとった俗物である。
今年から放送大学の島内裕子教授が「樋口一葉の世界」という講義が始まった。島内教授は「徒然草」の権威である。樋口一葉は「徒然草」の文章を暗記するぐらい読んでいた。授業では一葉の作品に兼好の言葉が反映していることが指摘される。日記をもとに一葉の人生と作品が、どのように結びついているかが明らかにされる。「徒然草」研究から「連続読み」という方法論をつかみ、一葉の作品にも連続読みが有効なことが述べられる。連続読みとは要するに全部読むということである。「徒然草」などは、普通部分的な段落を読んでおしまいになるが、典型は受験参考書のように試験によく出る段落を集中的に読む習慣になっている。それでは兼好の考え方はよくわからない。一葉の場合も同じで、授業では初期に習作段階の作品から紹介される。「奇跡の14カ月」はどのように生み出されたか。「徒然草」も読まなくてはいけない、と感じる授業である。
「樋口一葉全集」筑摩書房
「全集樋口一葉」小学館
新日本古典文学大系明治編「樋口一葉」岩波書店
日本近代文学大系「樋口一葉」角川書店
「樋口一葉研究」塩田良平、中央公論社
「時代と女と樋口一葉」菅聡子、NHK出版
「姉の力樋口一葉」関礼子、筑摩書房
幸田弘子朗読「にごりえ、たけくらべ」新潮カセットブック
放送大学はBS531のラジオ放送で無料で聞ける。放送時間はホームページで。10月第一週から始まる。テキストはネットで購入。
タイトルは「樋口一葉の世界」島内裕子





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最終更新日  2023.08.27 10:24:29コメント(0) | コメントを書く


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